エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-IV-20

2020-11-11 09:03:51 | 地獄の生活

「それは不可能です」

「フェライユール氏のため、ではなく、お母様のために、とお願いしてもですか。あのお気の毒な未亡人の……」

「パスカルは身を隠さなくてはならないでしょう」

「どうしてそこまで仰るの! それほどまでに彼を憎んでいると? 彼が一体あなたに何をしたと言うんです?」

「僕個人にですか? 何も。僕は彼に心から同情しているくらいですよ……」

マダム・ダルジュレは凍り付いたようになった。

「何ですって!」彼女は口ごもりながら言った。「そ、それじゃ……貴方があんなことをしたのは、自分の利益のためではなかったと言うの?」

「ああ、もちろん違いますよ!」

彼女はムッとし、姿勢を立て直すと、軽蔑と憤りで声を震わせながら言った。

「ああ、それでは更にもっと破廉恥なことね。更にもっと卑劣極まりない……」

彼女は途中で言い止めた。ド・コラルト氏の目に威嚇の光が宿ったのを見て驚愕したのであった。

「不快な真実の暴露はもうおしまいにしましょう」彼は冷たい口調で言った。「僕たちがお互いに思っていることをぶつけ合ったら、たちまち大変醜い争いになる……。貴女は僕が面白半分にあんなことをしたと思っているんですか!予め用意されたカードの山に別のカードを滑り込ませる瞬間はまぁ素晴らしいもんでしたよ。誰かに見られたら、一巻の終わりでしたからね……」

「で、あなたは誰にも見られなかったと思っているわけね?」

「ええ、誰にも……だって僕は百ルイ以上負けてたんですよ……もしパスカルが上流階級の人間だったら、ちょっと心配なことになるでしょうが、明日になれば彼は忘れ去られますよ……」

「でも彼の方は、何も怪しんではいないかしら?」

「彼は、いずれにせよ、なんらの証拠も出せません……」

マダム・ダルジュレはこの事件についての決心を固めたようだった。

「少なくともこれだけは言って欲しいものね」彼女は言った。「貴方が誰に唆されたのか、その名前を」

「それは、言えません」とド・コラルト氏は答えた。そして時計を見て叫んだ。「あ、忘れてた!あのロシュコットの馬鹿が剣を交えようと待っているんでした。それじゃ、マダム、おやすみなさい。さよなら」

彼女は踊り場まで彼を見送った。

「これからフェライユールの敵に会いに行くことは間違いないわ」と彼女は思い、腹心の召使を読んだ。

「急いで、ジョバン」と彼女は言った。「ド・コラルト氏の後をつけて。どこへ行くか知りたいのよ。くれぐれも彼に見られないように気をつけてね」11.11

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1-IV-19

2020-11-10 09:15:04 | 地獄の生活

彼女は泣いていた。大きな涙の粒が音もなく彼女の無表情な顔を伝って流れ落ち、頬に塗った白粉に幅広い畝を作っていた。

「この男はすべてを知ってる」彼女は呟いていた。「なにもかも知ってるんだわ!」

「ああ、それも思わぬ事の成り行きなのですよ、誓って申しますが……。僕の性格からして、他人が自分のことに鼻を突っ込むのを好まないので、自分も他人の詮索をしたりは決してしないのです……。すべては偶然のなせる業でしてね。四月のある昼食後のことです。僕は森の散歩に貴女をお誘いしようとやって来ました。今いるこの閨房に通されたところ、貴女は手紙を書いておられる最中でした。僕は座って貴女が書き終えるのを待っていました。ところが何か急を要する用のため貴女は呼ばれ、急いで部屋を出て行きました。貴女のテーブルに近づこうと何故僕が思ったか、それは自分でも分かりません。いずれにせよ僕は近づいて、中断された貴女の手紙を読んだのです。誓って申しますが、それは僕の心を打ちました。その証拠に、今でもその文言を殆ど文字通りに思い出すことができるほどです。ご自分で判断ください。

『拝啓』、と貴女はロンドンの相手に向かって呼びかけていました。『この四半期分の五千フランに加えて補足の三千フランを送ります。遅くならないうちに、あの子の手もとに届くようにしてください。あの可哀想な子は債権者たちに追いかけ回され、苦しめられています……昨日私は幸運にもエルダー通りであの子を垣間見ることが出来ました。冴えない顔色で悲しそうでした。そのとき以来、私は生きた心地がしません。それはそうとして、このお金を渡す際、あの子に保護者らしい戒めの言葉を一緒に与えてやってください。あの子はちゃんと勉強をして、名誉ある地位につくことを考えねばなりません。この腐敗したパリという街の中で支えてくれる人も家族もなく、一人で生きていくということは如何なる危険を伴うことでしょう……』

そこで、親愛なるマダム、貴女の手紙は中断されていました。しかし、宛名と住所は書かれてありました。それだけで十分事足りました。が、それ以上に僕の好奇心はかき立てられたのです。貴女が戻られたときの僕たちの態度を覚えておられますか? 書きかけの手紙のことを忘れていたことに貴女は気がついた。そのとき貴女は真っ青になり、僕の方を見ました。『あなた、読んだの? 理解したの?』と貴女の目は尋ねていました。僕の目はこう答えました。『ええ、読みましたよ。でも僕は口外しません……』と」

「私も口外はしませんわ」とマダム・ダルジュレが言った。

ド・コラルト氏は彼女の手を取り、唇に持っていった。

「僕たちはお互いに分かり合えると思っておりました」彼は重々しい口調で言った。「僕は邪悪な人間じゃないんですよ、本当はね。信じてください。もし僕にあんな年利収入があれば。それか、貴女のような母親がいてくれたら……」

マダム・ダルジュレは顔を背けた。もしド・コラルト氏が彼女の目を見れば、彼女が彼をどう考えているか、知られてしまうと怖れたのかもしれない。しばらく間を置いたのち、懇願の口調で彼女は言った。

「こうして私は貴方の共犯者になったわけですから、どうかお願いです、貴方のお力で今夜起こったことが世間に広まらないよう出来る限りのことをしてくださいませんか……」11.10

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1-IV-18

2020-11-09 09:52:17 | 地獄の生活

彼は無意味な質問に答えることを強要されたときのように、じれったそうな身振りをし、やがて同情的な様子を装いながら答えた。

「そう仰るなら、仕方ありませんね。これはパリの社交界筋から聞いたことですがね、ある好青年が、正確に言うとエルダー通りに住んでいるんですが、僕は彼の身の上をよく羨ましく思っていたんです。生まれたときから何不自由ない生活---ルイ十四世ばりの、日々のちょっとした楽しみのためにどんな金持ちの子供より三倍も多く金が使えるというような---をしていました。学校を卒業すると、付き添いの家庭教師が雇われ、彼をイタリアやエジプトやギリシャへの贅沢な旅行に連れて行きました。現在彼は法律関係に従事しています。そして三カ月ごとに必ずロンドンから一通の手紙が届いて彼に五千フランが転がり込んでくる。この青年は父の顔も母の顔も知らないというから更に一層驚くじゃありませんか。彼はこの世に独りぼっちで暮らしています。七万リーブルの年利収入と共にね。彼が笑いながら、自分は親切な妖精が守ってくれているのだと言うのを聞いたことがあります。しかし本当のところ、彼は自分がイギリスのさる高貴な身分の人の子供なのだと信じているようです。ときどき仲間内で酒を飲んだときなんかに自分の父親を探しに行く、なんて話をすることがあるぐらいですから……」

この話を聞かせたときの相手の反応はド・コラルト氏を満足させたに違いない。マダム・ダルジュレは最初の数語を聞いただけで、まるで棍棒で殴られたように長椅子の上に倒れ込んでいたからだ。

「というわけで、親愛なるマダム、もし貴女が僕を痛めつけようなどという考えを起こした暁には、今話したこの青年に会いに行きますよ。『あのね、君』と僕は言ってやります。『君はすっかり思い違いをしているよ。君に送られてくるお金というのは、イギリスのやんごとなき御夫妻の金庫ではなく、とある『賭け金入れ箱』からなのさ。僕はよく知っている。というのは僕もときどき二十スーを入れて貢献しているからね』 と。で、もし彼が腹を立て、どこかの貴族の落とし胤という幻想にまだ執着していたら、こう言ってやりますね。『君は間違っている。もし君の立派な御父上が逝去なさったら、残るのは親切な妖精だけ、つまり君の尊敬すべき母上だ。彼女にとって君の教育と年利収入は悩みの種になるだろうねぇ』とね。それでもまだ疑うなら、僕は彼を親愛なるママのところへ連れて行きます。バカラの夜に。ファルグイユ(19世紀のフランスの女優。もとオペラ歌手だったが後に商業演劇に転身した)も顔負けの名場面になることでしょうよ」

ド・コラルト氏以外の男であったらマダム・ダルジュレを哀れに思ったであろう。彼女は苦悩のために喘いでいた。

「このことを怖れていたのよ!」彼女は殆ど聞き取れないような声で呻いていた。が、彼は聞きつけた。

「え、何ですって!」と彼はひどく驚いた調子で叫んだ。「あなたは疑っていたのですか、本当に?……いや、まさか、そんなことはないでしょう。それでは貴女の長年に亘る経験に対する侮辱になる……。僕たちのような人間は、互いの言い分を聞いて理解し合うことが必要なのではないですか? 僕が貴女の母親としての愛情や献身や心遣いに関する秘密を知ることがなかったら、ここでしたようなことは決してしなかったでしょう……」11.9

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1-IV-17

2020-11-08 08:26:53 | 地獄の生活

しかしそれは一瞬のことだった。彼はすぐに平然とした表情に戻り、ちゃかすような口調で言った。

「それで? 世間はもうとっくに今マダムが暴露してやるぞと言われたことに気づいているとは思いませんか? 僕は他の方面でもいろいろと非難されてますよ。あなたが屋根の上から大声で、僕がいかがわしい山師だと叫んだとしても、鼻先で笑われるだけですよ。それでもって僕の評判が今以上に悪くなることも、良くなることもないでしょうね。パスカル・フェライユールのような正直者ならぺしゃんこにされるような事件が僕に起きても、僕は痛くも痒くもない。僕はね、そのときどきの潮流に乗って生きてるんですよ。僕には贅沢や享楽や金持ちの暮らし、高級で華やかなものが必要なんです。そういうものを手に入れるためなら、何だってやりますよ。そりゃ確かに、ブリーの農場から収入を得ているわけではない。でも僕はお金を持っている。それが大事なことでね!今の時代は、いわば告解の後の無罪放免の時代じゃないですか? 誰もが隣人の持っているものを得ようと躍起になっている。生きていくのは厳しいのに、欲望は膨らみ、明日は何をするのか、というより明日は何ができないのか、分からない有様だ。軽蔑すべき人間が多すぎて、軽蔑が意味をなさなくなっている。あるパリっ子が非の打ちどころのない人間としか握手をしない、という馬鹿げた考えを持って大通りを散歩したら、何日間もポケットから手を出さずに歩くことになりかねない」

しかし、これはド・コラルト氏の空威張りにすぎなかった。彼の上っ面だけの贅沢な生活の基盤がいかに脆く、今にも崩れそうかということは誰よりも彼自身がよく知っていた。確かに、世間にはいかがわしい生き方をする人間を大目に見るという嘆かわしい風潮がある。知りたくないものには目を瞑るのである。であるがゆえに、一旦峻厳な事実が虚構を突き崩すと、それは一層容赦ないものになる。

かくのごとく強気の虚勢を張ってはいたが、ド・コラルト氏は目に不安の色を湛えながらマダム・ダルジュレの態度をじっと観察していた。彼の臆面のない言葉に彼女が呆気に取られているのを見て取ると、彼は続けた。

「それに、男爵の言ったように、僕たち無駄な時間を遣ってますよ。確かでもない事や、あり得ないことまで気にしたりして……。僕は貴女がどういう人かよく知っていますから、親愛なるマダム、貴女が一言だって洩らさないと確信しています……」

「私が何も洩らさない理由は?」

「この僕ですよ。つまり、貴女の唇の上で真実が凍り付いて喋れなくなった理由はこの僕ってことです。パスカルが、無実のパスカルが、貴女に助けを求めて懇願したときにね。僕を許さなくちゃいけない大きな理由が貴女にはあるんです、親愛なるマダム……。僕の母は、不幸にも正直な女で、僕に年利収入が入るようにはしてくれませんでした……」

マダム・ダルジュレは、まるで目の前で蛇が鎌首をもたげたかのように、後ずさりした。

「な、何のことを言ってるの?」彼女はもごもごと呟いた。

「そんな! よくご存じのくせに!」

「私は何も知らないわ。どういうことか、言って頂戴」11.8

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1-IV-16

2020-11-07 09:03:40 | 地獄の生活

「社会的地位ですか!……さあ、知りませんね……。パスカルは非常にきちんとした堅気の青年に見えます……賢者という評判ですよ。住まいはパンテオンの裏のあまり人の行かないところで、母親と一緒に暮らしています。母親というのは未亡人で、いつも黒い服を着ているきちんとした人です。僕が初めて訪ねた際にドアを開けてくれたとき、家族の肖像画から抜け出してきて僕を迎えてくれたのかと思いましたよ。暮らし向きは、あまり裕福ではない様子で……パスカルは将来有望な男とされてましてね、法曹界で大物になると言われています……」

「ところが今となっては、それもおしまいね。出世の道は断たれてしまった……」

「たしかに! 夜になる前にパリ中の人が、今夜ここで起きたことを知るでしょうからね……」

彼は言葉を止め、いかにもびっくり仰天したという風を装ってマダム・ダルジュレを見た。彼女は目つきで人が殺せるものならそう出来そうな迫力で、彼に向かって突進してきた。

「あなたは極悪人ね、ド・コラルトさん!」彼女はぴしゃりと言った。

「え、僕が! 一体なんでですか?」

「何故なら、カードをこっそり滑り込ませたのは貴方だからよ。フェライユール氏に勝たせるために。私はちゃんと見たのよ!私が懇願したとき、あの気の毒な人は立ち去ろうとしていたのよ。それなのに貴方はうわべは不器用さを装いながら、その実、周到に計算して、彼を救おうとした私の邪魔をした。ああ、否定しても無駄ですよ」

彼は立ち上がった。完璧な冷静さを保っていた。

「僕は否定などいたしません、奥様」と彼は答えた。「何も否定はいたしません。もちろん、ここだけの話ですが」

この臆面もないずうずうしさにたじたじとなって、マダム・ダルジュレはしばらく言葉を失っていた。

「貴方は白状するのね」とついに彼女は言った。「ぬけぬけと白状するのね!それでは私が見たことを大きな声で皆に言っても、構わないと貴方は言うのね!」

彼は肩をすくめた。

「誰も信じないでしょう」と彼は答えた。

「信じますとも、ド・コラルトさん。だって私は証拠を挙げられますもの。私が貴方の過去を知っているってこと、お忘れのようね。私は貴方が誰だか知っています。貴方がその借り物の爵位と名前の下にどんな恥ずべき名前を隠しているか。貴方がどのように結婚したか、卑劣にも妻と子供を捨てた後、貧苦と飢えの中で彼らを見殺しにした顛末を私は知っている。貴方が一年で遣ってしまう三万フランか四万フランをどこで手に入れているか、知っている。ローズが私に全部話してくれたのよ。もう忘れたと言うの、え、ポール?」

今回は、彼女は痛いところを突いた。ズバリと突かれ、ド・コラルト氏は真っ青になり、いまにも彼女に跳びかかるような怒りの素振りを見せた。

「ああ、気をつけてものを言えよ!」彼は叫んだ。「用心しろ!」11.7

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