エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XIV-5

2025-02-09 10:47:18 | 地獄の生活
『貴女の兄上が床の上に倒れたのを見て、私は恐ろしさに動転し、自分が何をしているかも分からないまま貴女を腕に抱え、ここに連れてきたのです……。でも怖がらないで。貴女が私の家にいるのは貴女の自由意志ではないことは重々承知しています……。馬車が下で待っています。貴女の御命令ひとつでご両親の待つド・シャルースの舘に連れていってくれるでしょう。今夜起きた恐ろしい出来事については、なんらかの言い逃れがなされるでしょう……。陰口は叩かれても、貴女ほどの名門の令嬢の名誉を傷つけることは出来ない筈です……』
彼の声は氷のようで、有罪判決を受けた者のような口調でした。死刑執行人に運命を握られ、最後の望みを述べるときのような。
私は頭が変になりそうでした。
『で、貴方は?』と私は叫びました。『貴方は一体どうなるの?』
彼は首を振り、人を寄せ付けないような悲しみの表情を浮かべていました。
『私ですか! 私などはどうでもいいのです。私はもう終わりです。それでいいのです。貴女なしで生きて行く人生に何の意味があるでしょう!』
ああ、あの男は私の心をよく知っていました。彼にとって娘を誘惑することは財産を手に入れる手段に過ぎなかった。どういう声を出せば私の心を震わせることができるか、よく知っていたのです。
私は眩暈に襲われました。それは狂気の一種でもあり、英雄的精神でもあったでしょう。私は彼に身を投げかけ、両腕で抱きしめました。
「それなら私も一緒に死にます!」と私は叫びました。「運命が私たちを結び付けたのですもの。この世では死以外のなにものも私たちを分かつことはできません……貴方を愛しています! 私も共犯者です! 兄の血は貴方だけでなく私たち二人の上に降りかかっています!」
このとき彼の顔を見た人がいたとすれば、そこに悪魔的な微笑が浮かぶのを見たことでしょう……。
でも彼は否定しました……。
彼は私を道づれにすることに、見せかけの拒否をしました。自分のような危険で破滅的な男の運命に私を結び付けることはできない、と。今までに降りかかったどんな不幸よりも恐ろしい今回の不幸が、自分は運命に呪われた男であることを証明している。それによって私には死ぬほどの悲しみが与えられ、自分には永遠の悔恨が続くのだ、と。
でも彼が私を遠ざけようとすればするほど、私はますます頑なに彼について行く決心を固めていました。犠牲がどれほど恐ろしいものかを彼は分からせようとしましたが、却って私はそれを貫くことが尊い行為なのだと思い込んでしまったのです……。2.9
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2-XIV-4

2025-02-04 11:47:08 | 地獄の生活
私は何か喋ろうとしました。何かを言わなくては、二人の間に割って入らなくては、と。でも身体が言うことを聞かないのです。私は一言も発することが出来ませんでした……凍り付いたようになって……。
二人はもとより一言も言葉を交わそうとしませんでした。兄は壁に掛けられていた武具一式の中から剣を二本外し、そのうちの一本をアルチュールの足元に投げ、こう言いました。
『貴様を殺したいわけではない……命を懸けて戦うのだ、出来るものなら!』
アルチュール・ゴルドンは交渉しようとし始めました。足元の武器を拾う代わりに時間稼ぎをしていると見て取ったか、兄は自分の剣でアルチュールの顔を叩いてこう叫んだのです。
『御託はいい、戦うんだ、卑怯者!』
その後は一瞬の出来事でした。アルチュールは自分の剣を拾い上げ、兄の方へ突進していくと、兄の胸に剣を鍔元まで突き刺したのです。
私は見ていました……アルチュールの指の間から血が噴き出るのを……兄がよろめき、空気を掴むような仕草をしたかと思うと力尽きて倒れるのを……。
私自身は、そこで気を失い、倒れてしまった……」
マダム・ダルジュレは立ったまま、前屈みになった。顔を引き攣らせ、瞳孔が異様に拡大しているその様子は、まるで彼女が意志の力で長い時の帳を切り裂き、今語っているその場面を現にその目で見ているかのようであった。
彼女は二十年間ずっとその苦しみに耐え、そこから恐怖を汲み尽くしてきたに違いなかった。そのため彼女の口から語られる内容は痛切な響きを持ち、ウィルキー氏でさえ、心を打たれたとまでは行かなくとも、彼の後の言葉によると『かなりエモかった』と評したほどであった。
彼はスーツケースの上に座って優雅に身体を揺らしていたのだが、それをやめ、ぶらんと垂らした脚で拍子を取り始めた。
しかしマダム・ダルジュレは彼の存在を忘れたかのようだった。唇から血の筋の付いた泡を拭い取り、それまでと同じ陰気な声で先を続けた。
「私が意識を取り戻したときは、もう昼間になっていました。私は服を着たまま、見知らぬ部屋のベッドの上に寝かされていました。アルチュール・ゴルドンは枕元に立ち、私をじっと不安そうな目で窺っていました。彼は私にものを尋ねる間を与えませんでした……。
『ここは私の家です』と彼ははっきりとした口調で言いました。『お兄様は亡くなられました!』
ああ、神様、私も死ぬのだ、とそのとき思いました。死を望んでいました。死にたかった……。でもアルチュールはむせび泣く私を前に、無慈悲に言葉を続けていました。
『恐ろしい不幸な出来事が起きた。私はどうしても自分が許せない……。それでも、それを望んだのが向こうであることは、貴女がその証人です……私の頬にまだ傷跡が残っているでしょう。貴女の兄上が剣の平らな部分で私を突いたときに出来たものです。私は自分を防御するしかなかった……。貴女と私を護るために……』
このとき私は正式な決闘のルールを知らなかったのです。アルチュールは兄が防御の体勢を取る前に不意打ちしたのでした。これは紛うことなき殺人でした……。
アルチュールは私の無知を当てにしていました。彼の陰険な芝居をまんまと成功させるために。だって、それは芝居だったのです……。2.4
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2-XIV-3

2025-01-30 11:54:59 | 地獄の生活
そのときこそ、私が許されぬ罪を犯したときでした……。このような秘密の手紙のやり取りをすることは過ち以上のものだと分かっていたから。貴族でない男に私を嫁がせるなんてこと、私の家族が許す筈がないということはよく分かっていたし、このような関係を続けていれば絶望的な結果に繋がることは間違いのないことでした。自分の純潔や、これまで汚点のなかった一族の名誉、私の幸福と人生が危機に瀕していた。一言で言うなら、私は自分を見失いつつあったのです。
でも、どんなことがあっても私は頑として決心を変えなかった。説明できないようなある種の酩酊状態に捉われ、全てを犠牲にしても、鋭い破滅的な喜びを味わうのだ、という……。
とにかく彼は私にものを考える暇も、息を吐く間も与えなかった。どこにいようと、絶え間なく自分の存在を私に感じさせ続けた……。超人的な巧みさと大胆さ、そして誘惑のテクニックで、彼は私の生活の中に入り込んでくる術を持っていた。父の邸の中にさえ……。朝目が覚めると、自分の部屋のマントルピースの上に珍しい花で一杯の花瓶が置いてある、ということが何度も何度もあった。誰がいつ、どのようにしてそこに置いたのか、私はどうしても分からなかった。だって前の晩寝る前に私は自分の部屋のドアに二重に鍵をかけておいたのに。
ああ、自分の周囲に絶え間なくある情熱が息づいているのを感じずに済む方法なんてあるかしら。自分の呼吸しているその空気の中にさえ入り込んでくる、そんな情熱を!それに身を任せずにどうしていられるでしょう……。
アルチュール・ゴルドンの目的を知ったときはもう遅かったのです……。
彼がパリにやって来たのは、どこかの裕福な女相続人を誘惑するという固い決意を持っていたからでした。そしてたっぷりの持参金と共に彼と結婚することを家族に無理やり同意させる。そのためにはその家の名誉を汚すようなスキャンダルを惹き起こし、どうしても結婚させることが必要なようにする……。
世の中には、そうやって一山当てようとする以外の方法を知らない、という男たちがいるものです。
彼は、私以外にもう二人、非常に裕福な家の令嬢に言い寄っていました。三人のうち一人は攻略できるだろうと目論んだのです。
で、最初に降伏したのが私でした。天によって定められたとしか思えない、予期せざる偶然の出来事が私の運命を決めたのです……。
うちの庭園の真ん中にはあずまやがあり、そこには玉突き室とフェンシングの練習に使える大きな部屋があって、私の兄は先生や友人たちと練習する場所として使っていました。私はアルチュールにどうしてもと哀願され、夜、そこで既に数回彼と会っていました。
そこでは私たち二人だけだと信じ込んでいたので、私は自由に振る舞える嬉しさで大胆になり、蝋燭を灯すことさえしていたのです……。
ある夜、アルチュールとそこで落ち合ったとき、何か背後で荒々しい息遣いが聞こえたように思ったのです。驚いて振り向くと……入口のところに兄が立っていました。
ああ、そのとき私は自分がいかに罪深いかを悟りました。私の兄と私の恋人、二人のうちどちらかは、ここから生きて出ることは出来ないだろうと……。1.30
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2-XIV-2

2025-01-25 16:08:23 | 地獄の生活
それだけでなく、私の周りで話されているのは、いかにして全ての財産を兄に継がせ、誉ある家名を維持するか、それに、いかにして持参金なしで私との結婚を受け入れてくれるどこかの老貴族を見つけるか、あるいは、修道院に入りたいと私の口から言わせるか、ということばかりだった。そういう修道院は哀れな貴族の娘にとっての避難場所でもあり、牢獄でもありました……。
私は自分の許されざる過ちを弁解しようとしているのではありません。ただ経緯を述べているのです……。
私は自分が世の中で一番惨めな存在だと思っていました。実際、そうだったと思います、自分でもそう信じていたのですから。そんなとき私はアルチュール・ゴルドンに出会ったのです。あなたの父の……。
彼を初めて見かけたのは、ド・コマラン伯爵家で催された宴でのことでした。一介の遊び人である彼がどのようにして、あのような特権に固執する閉鎖的な集まりに入り込むことができたのか、私には今もって分かりません……。
ただ一つあまりにもはっきりしているのは、私たちの目が合ったその瞬間、私の心は底の底まで掻き乱され、私はもう自分が自分でなくなったように感じてしまったのです。
ああ、神様はどうして人間の顔にその魂が映し出されるようにお作りにならなかったのでしょう!
心の底まで腐りきっていて、どうしようもない偽善者だった彼の顔からは高貴さと正直さしか感じられなかった。悲しげな重々しさがあり、運命を甘んじて受け入れることをしない人間の魅力があった。それにどこか謎めいて悲劇的な雰囲気が全身から漂っていた。
それというのも、そのとき既に彼は荒れ狂う嵐のような経験を経て人間が変わってしまっていたからだった……。彼はまだ二十六歳にもなっていなかったけれど、奴隷船の船長をして、メキシコで戦い、政治の名のもとに略奪や殺人を犯すならず者集団の頭だったのです。
彼を一目見て私がどんな強い印象を受けたか、彼はすべてお見通しだった。それから二度、社交界の集まりで彼を見かけたけれど、彼は私と話そうとはしなかった。私を避けるような素振りも見せたけれど、離れたところに立って燃えるような目で私をじっと観察し、彼の欲望と意志の力で私の心の中に入り込もうとしているかのようだった……やがて彼は私に手紙を寄こしたのよ。ある日召使から見慣れぬ筆跡の手紙をこっそり手渡されたとき、それが彼からのものだと私はすぐに分かったわ。私は怖くなって、最初に浮かんだ考えは、それを誰かに見て貰うことだった。けれど、母のことは敵だと思っていたから、母ではなく父のところへ持っていった。でも父はいなかった。それで私はその手紙を取っておくことにしたけれど、それを読んでしまい、返事を書いた……そして彼は更に返事をくれた……。1.25
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2-XIV-1

2025-01-19 13:06:23 | 地獄の生活
XIV

不意を突かれ、頭の中は混乱しきっていたが、ド・コラルト氏とド・ヴァロルセイ侯爵のことはずっとウィルキー氏の頭を離れなかった。彼らが自分の立場だったらどうするだろう? 『上流階級』のお手本のようなあの二人なら取るであろう態度を真似るには、どういう風な物腰で行けば良い? そうだ、あの物に動じない冷ややかな表情、そしていかにも退屈だというような横柄な態度、あれこそが洗練された最高のものではないか。
 この考えで頭が一杯になり、彼らに負けてなるものかという競争心に燃え、彼はスーツケースの一つに腰を下ろし、脚を組み、あくびをかみ殺している風を装い、密かに呟いていた。
「はいはい、そうですか!またぞろ長台詞とメロドラマか……面白くもないことになりそうだ」
 マダム・ダルジュレの方はこれから思い起こそうとする記憶にすっかり気を取られていたので、ウィルキー氏の無礼な態度に気がつかなかった。
 「そう、あなたに言っておかねば」 と彼女は喘ぎながら再び口を開いた。「あなたにというより私自身のために。私は自分が何者であるか、そしてどんな苦しみを経て現在の状況に辿り着いたか話しましょう。現在のこの状況……私にとってすべての終わり……。
 私の家系を知っていますか……教えてあげましょう、あなたは知らない筈だから。私たちの家系はフランスで最もよく知られた名門の一つです。その家柄の古さにおいても、姻戚関係の煌びやかさにおいても、財産においても……。
私がまだ少女だった頃、両親はフォブール・サン・ジェルマンに住んでいました。ド・シャルースの古い館は本物の立派なお城で、今のパリではもう見られなくなった広大な庭に周囲を囲まれていました。数世紀を経た自然な木々が影を作っている本物の庭園……。
確かに、お金で買えるものは全て手に入ったし、我儘のしたい放題だったけれど、私の青春は惨めなものだった……。
私の父は私にとって殆ど見知らぬ人同然だった。というのは、父は政治的野心に執りつかれ、目まぐるしい政争の渦の中に巻き込まれていたから……。母はと言えば、私を愛していなかったからか、愛情を見せるのは地位にふさわしくないことだと思っていたからなのか分からないけれど、自分と私の間にガラスの壁のようなものを築いていた……。兄は自分の楽しみにあまりに夢中になっていて、取るに足りぬ妹のことなど眼中になかった……。
というわけで私は一人ぼっちで放っておかれ、孤独が生み出す危険な空想に浸るしかなかった。あまりにもプライドが高くて、地位の下の者たちから親切にされても受け付けなかった。慰めといえば本だけで、それも母の相談役によって厳しく選別されたものばかり。でもそれらは私の精神を妄想の世界に導き、あり得ない人物たちのことを思い描くよう計画されていたかのようだった。1.19

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