エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XIII-12

2025-01-03 10:21:51 | 地獄の生活
「彼があのような人間だということは幸運だと感謝しよう」と彼はきっぱりと言った。「頭脳と情を持った若者なら、私の書く筋書きをそのまま演じたりはしないだろうから。そしてあの誇り高いマルグリット嬢と彼女の財産を私に譲ったりなどしないだろう……。私が心配なのは、彼が果たしてマダム・ダルジュレに会いに行くだろうか、ということだ。彼の憤慨ぶりを見ただろう」
「ああ、その点なら心配は要りませんよ。安心していてください。彼は行きます。高貴なド・ヴァロルセイ侯爵に行けと命じられたら、どこへなりとも彼は行きますよ」
フェルナン・ド・コラルト氏はウィルキー氏のことならお見通しだった。
ド・ヴァロルセイ侯爵のような貴族から『勇気がない』と思われるのではないかという心配が、彼の躊躇をすべて吹き払い、常軌を逸した無鉄砲な行為さえ辞さないところまで彼を高揚させていた。なんなら、更にもっと先までも……。
彼にとってド・コラルト氏が神の言葉を伝える預言者であるなら、ド・ヴァロルセイ侯爵は『上流階級』の更に一番高いところから世の中を俯瞰している神のごとき存在と言ってもよかった。マダム・ダルジュレ邸への道を元気よく辿りながら、彼は考えていた。
「へん、だ。彼女の屋敷に行けない筈がないじゃないか。俺はなにも彼女に危害を加えたわけじゃなし。彼女だって俺を取って食おうとはしないさ……」
それから彼はこの会見について報告せねばならないことを思い、自分自身を卓越した存在のように見せ、同時に冷静で嘲笑的であらねばならぬ、と心の準備をした。ド・コラルト氏がそのようにするのを何度となく見てきたので……。
「何と言っても、彼には洗練された雰囲気があるよな」 と、ちょっぴり嫉妬を感じながら彼は思っていた。「ああ!洗練されてる。それに何という品格!」
しかし、ダルジュレ邸が見慣れない様相を見せていたので、彼は驚き、理解に苦しむこととなった。門の前に途方もなく大きな引っ越し用の馬車が三台停まっており、はち切れるほどの荷が積まれていたのだ。
屋敷の中庭にも同じような馬車があり、十数人の引っ越し人夫が袖をまくりあげて作業をしている最中であった。
 「えっ、これは!」とウィルキー氏は呟いた。「ちょうど良い時に来たもんだ! これって本当についてる。彼女、逃げ出すつもりなんだ、現金持ち逃げした会計係みたいに」
 彼はすぐに召使いたちが玄関の石段の上に集まって何やら相談をし合っているところに近づいて行き、出来る限り尊大な調子で言った。
 「マダム・ダルジュレは?」
召使いたちはまず驚いた視線を交し合った。この訪問者が誰か、彼らはすぐに分かったのだ。彼らは彼が昨夜ここにやって来たことを知っていて、そのとき起きたおぞましい事件の後で再びのこのこと姿を現すずうずうしさと羞恥心のなさが理解出来なかった。
 「マダムはおられる」と、ようやく一人がとても丁寧とは言えない口調で答えた。「面会なさるかどうか聞いてくる……ここで待て……」
 その召使いはその場を離れ、ウィルキー氏は石段の下で、取りつけ襟の中で首をまっすぐ伸ばし、自慢そうに細い口髭を捻り上げながら待っていた。が、実際は自分がどういう態度を取ればいいか分からず当惑しきっていた。1.3
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2-XIII-11

2024-12-30 11:00:08 | 地獄の生活
「しかし、こう考えてよろしいのですね、貴方がこの青年を助けてくださる、と?」
ド・ヴァロルセイ侯爵はしばらく瞑想にふけっていたが、その後ウィルキー氏に向かって言った。
「ええ、よろしいでしょう、貴方のお力になろうと思います……まず第一に、貴方の言い分に理があると思うからです。第二に、貴方がド・コラルト氏の友人だからです……ですが、私が協力するに当たっては一つ条件があります。それは、私の忠告に絶対的に従っていただくということで……」
若いウィルキー氏は片手を差し出し、努力をしてなんとかこう答えた。
「ど、どんなことであろうと貴方の仰ることに従います! 誓って! このとおりです……」
「お分かりのことと思いますがね」と侯爵は言葉を続けた。「私が介入するからには、事は成功させねばなりません。世間の目は私に注がれていますし、私には守るべき威信というものがある。私が貴方に与えようとしているのは大きな信頼の印です。いいですか、私が自分の社会的影響力を利用して貴方の後ろ盾になれば、私は言わば貴方の代父になるということです。そういった大きな責任を引き受けるわけですから、私が全面的な指揮権を持っているのでなければお引き受けすることは出来ません……」
「もちろん、その……」
「ということであれば、我々は今すぐ本日にも戦いを起こさねばなりません。大事なのは、貴方の父上の機先を制することです。貴方の母上が警告なさったという、その恐るべき男の」
「ああ、その通りですとも!」
「それでは私は早速正装をしてド・シャルース伯爵邸に赴くことにしましょう。あちらではどういう状況になっているか、知るためです。貴方はマダム・ダルジュレのもとへと急いでください。そして丁重に、だが断固たる態度で、貴方の権利を請求するのに必要な書類を渡して下さるよう、マダムにお願いするのです。もし彼女が同意してくれれば、万々歳! もし彼女が拒否すれば、法律の専門家に取るべき処置を尋ねに行くのです。いずれにせよ、ここで四時に落ち合いましょう」
しかし、ウィルキー氏にとってマダム・ダルジュレに再び会いに行くという考えは嬉しいものではなかった。
「そうですね……僕は手を渡しても全然構わないんですけど……。誰か他の者を代理に行かせることは出来ないもんでしょうか?」
ド・コラルト氏は幸いにもハッパの掛け方を知っていた。
「それじゃ君は怖いのかい?」
怖い? サイコロの角のようにきちっとして動じない自分のような男が怖いだと!
「まさか!そんなことはあり得ません!」
ウィルキー氏が帽子を目深にぐいっと被り、ドアをバタンと閉めて出て行く様子に彼の態度がよく表れていた。
「なんたるバカ!」とド・コラルト氏は呟いた。「しかもパリにはあれにそっくりな馬鹿が一万人はいるんですからね!」
ド・ヴァロルセイ侯爵は重々しく首を振った。12.30
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2-XIII-10

2024-12-25 10:40:41 | 地獄の生活
玄関の広間に整列している召使たちの数を数えたとき、執達吏のような黒い制服を着て、まるで公証人のようにしかつめらしい顔をした下男の後に従って階段を上っていったとき、名画、武器、彫像、及び侯爵の名馬たちがレースで獲得した数々の賞品で一杯のサロンを横切っていったとき、ウィルキー氏は自分が大貴族の暮らしぶりについて何も知らなかったことを認めないわけに行かなかった。自分が今まで贅沢と考えていたものは影に過ぎず、自分がちっぽけな存在に貶められ、自分を恥ずかしくさえ感じた。
この劣等感は非常に強いものだったので、黒の制服を着た下男がドアを開け、よく響く声でこう告げたとき、彼は逃げ出したくなる衝動を感じたほどだった。
「ド・コラルト子爵様、ウィルキー様のご来訪でございます!」
この上なく寛いだ気品ある態度で---ド・ヴァロルセイ侯爵が祖先から受け継ぎ、いまだに持っているものといえば、まさにこれだけだったのだが---彼は立ち上がり、ド・コラルト氏に片手を差し出した。
「ようこそ、子爵」と彼は言った。「こちらの方が、今朝私にくれた手紙にあったお若い紳士ですな?」
「そのとおりです。単刀直入に申しまして、この青年は貴方のお力添えを願っておりまして……実は現在非常にデリケートな立場におられるのですが、誰も援助してくれる人がいないという状況で……」
「それはそれは……よろしい、貴殿のお友達のこととなれば、喜んでお力になりましょう。ですが、まずはどのような事情なのかを把握せねばなりません。どうか、お二人ともお掛けになってください。お話を伺いましょう」
前もって、ウィルキー氏は自分の語るべき内容について準備をしていた。彼の能力の許す限り、機知に富み、心動かされる物語を組み立てていた。それなのに、いざ話し始める段になると、それが出て来なかった……。勢いよく口を開けたものの、一言の音声も発することができず、彼はぽかんと口を開けたまま、当惑した愚鈍な表情を浮かべるばかりであった……。
というわけで事情を説明したのはド・コラルト氏だった。そしてそれは上手く行った。彼は簡潔かつ正確に事の経緯を述べたので、ウィルキー氏でさえ彼の『高貴な友人』が、一連の出来事を耳障りの良いように語り、ウィルキー氏のおぞましい行為もさほど酷く聞こえないようにする術を知っている、と認めない訳にはいかなかった。
彼はまた、ド・ヴァロルセイ侯爵が話をじっと身を入れて聞いてくれていることに幸先の良さを感じていた。さすが立派な貴族だ!彼自身の利害が関わっていたとしても、これほど熱心な態度で聴いてはくれないであろうに……。
ド・コラルト氏が話し終えるや、彼はすぐに口を開いた。
「なるほど、それは相当にややこしい状況ですね。こちらのお若い方が誰の助けも借りずにご自分だけでおやりになれば、大きな損をしてしまうことになると私は思いますね」12.25
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2-XIII-9

2024-12-20 11:46:49 | 地獄の生活
というわけで、あくる朝彼がいかに念入りに身だしなみを整えたかは言うまでもあるまい。これはそんじょそこらの会見とは違うのだ。自分の全身を一目見ただけで侯爵を驚かせ、魅了するのでなければならない、と彼は決心していた。非常に凝っていながらも無造作に見え、この上なくエレガントでありながらも至極シンプルであるためには、つまり一言で言うと上品かつ息をのむほどお洒落であるにはどうすれば良いか? この難題と格闘することで彼はすっかり時間を忘れてしまっていた。あまりに夢中になっていため、彼を迎えに来たド・コラルト氏の姿が見えた時、彼は思わず叫んだ。
「もうそんな時間か!」
鏡の前で身のこなしや姿勢、目新しいエレガントな挨拶の仕方や座り方をあれこれと試していた時間は、ほんの五分ぐらいに彼には思えていたからだ。まるで観客から拍手喝采を浴びようとする役者がリハーサルを重ねるように……。
「もう、とはどういう意味だ」と子爵は答えた。「私は十五分も遅れて来たのに……。支度が出来ていないのか?」
「出来てるよ、ばっちり」
「なら出発だ。急ごう。下に馬車を待たせてある」
道中は静かに過ぎた。フェルナン・ド・コラルト氏の白い滑らかな肌は通常なら若い娘を羨ましがらせるほどなのだが、今日は顔がむくみ、赤いブツブツが出来ていたし、蒼い隈が目の周りに広がっていた。それに非常に機嫌が悪そうに見えた……。
「きっと昨夜よく眠れなかった所為だろう」とウィルキー氏は考えた。彼の鋭い観察眼は的を外したことがないのだ……。「俺みたいに鋼鉄のメンタルを持っているわけじゃないからな」
実際のところ、ウィルキー氏は昨夜一睡もしなかったにも拘わらず全く疲れを感じていなかった。ただ、何か新しいことを始める際に必ず訪れる不安、そして理由の分からない喉の渇きを感じているだけだった。生まれて初めて、そしておそらくこれが最後であろうが、彼は自分の能力に疑問を覚え、自分が『やり抜く』ことが出来るかどうか、不安になった。
さて、ド・ヴァロルセイ侯爵邸が目前に見えてきたが、それは彼にいつもの自信を取り戻させるような種類のものではなかった。中庭に入ると、主人のフェートン(前に御者席、後ろに二人用客席のある無蓋四輪馬車)が馬に繫がれ待機しており、厩舎と車置場の門が開かれていたので、一頭ごとに仕切られた区画の中でグランプリ級の馬が足踏みしているのと、立派な屋根の下に並んでいる馬車の列が見えた。12.20
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2-XIII-8

2024-12-15 15:11:20 | 地獄の生活
「そりゃそうかもしれないけど、そんな人がどこにいるのさ?」
ド・コラルト子爵の口調はますます重みを増した。
「いいか、よく聞くんだ。こんなことは他の誰にもしないのだが、君のためだけにしてあげようと思うことがある……。君の立場に興味を持ってくれそうな友人がいるんだ。彼に話してみてあげよう。財産もあり、人脈も豊富な名前の通った一流の人物だ……ド・ヴァロルセイ侯爵という……」
「競走馬の馬主の人?」
「そのとおり」
「で、君が僕を彼に紹介してくれるの?」
「そうだ。明日十一時、準備しておけ。君を迎えに来るから、一緒に侯爵邸に行こう。もし侯爵が興味を持ってくれたら、成功したも同然だ……」
ウィルキー氏が夢中になって礼を述べていると、子爵は立ち上がって言った。
「私はもう帰らなくては。いいか、また新たに馬鹿なことをやらかすんじゃないぞ……それじゃ明日!」
もう既にウィルキー氏は、彼の最も目立つ特徴である驚くべき変わり身の早さで、自分の犯した『ヘマ』から殆ど立ち直った気でいた。ド・コラルト氏を迎えたときは、敵に対するように身構え、挑戦的な態度だったのに、彼を送り出す際には、どこまでも卑屈でおもねる態度になっていた。まるで救世主に対するように……。ド・コラルト子爵が何気なく漏らした一言が、この態度の急変をもたらすのに貢献したことは間違いないだろう。
「分かってるだろうな」と彼は言った。「もしド・ヴァロルセイ侯爵が君の話を聞いて味方になってくれれば、大船に乗ったも同然だ。訴訟ということになったとしても、そのために必要な資金を快く前貸ししてくれるだろう……」
そんな言葉を聞いた後ではウィルキー氏が安心するのも無理なかろう! この夜は暗い予感に満ちて始まったのに、その後に目も眩むような希望をもたらす新事実が舞い込むとは……。ド・ヴァロルセイ侯爵のような名士に紹介して貰えると考えただけで、先ほどまで彼を悩ませていた苦い失望を忘れ去ってしまうのに十分だった。数々の浮名を流し、優れた競走馬を所有する財産家である、かの有名な貴族に……。このような華々しい人物の友達になれるとは、夢のような話ではないか! 光り輝く星の周りにいれば、彼もその光のおこぼれに与るのではないだろうか? そうなれば、彼も世間から一目置かれる存在になるだろう。彼は自分が五十センチほども大きくなったように感じていた。もしここにコスタールとセルピオンが尋ねてきたとしたら、如何ほど尊大な態度で彼らを迎えたことやら。12.15
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