私はこのような不当な排斥に勇敢に立ち向かおうとし、打ち負かそうとしました。でも無駄な努力でした……。私は他の少女たちに比べあまりにも違っていたのです。その上、私は不注意にもある大失敗を犯してしまいました。ド・シャルース伯爵がふんだんに私にくださった素晴らしい宝石類をうっかり見せてしまったのです。それに二度に亘って私が他の女の子たち全員の分を合わせたより多くのお小遣いを貰っていることを知られてしまいました。もし貧乏だったら、彼女たちも偽善的な同情心を持って情けを掛けてくれたかもしれません。ところが金持ちだと分かったので、私は敵になりました。それで戦争になったのです。修道院の奥で時折繰り広げられる情け容赦のない戦いです……。田舎貴族の娘たちが自分たちの胸に巣食った憎悪を満足させるため、いかに高度に残酷な方法を考えだすか、お知りになったら驚かれると思います、判事様。告発することも出来ましたが、そんなことをするのは私のプライドが許しませんでした。かつてしていたように私は自分の苦しみは秘密として心の中に閉じ込めておき、プライドにかけて、落ち着いた微笑んでいる顔しか見せないようにしました。そうすることで、私の心は彼女たちとは違って高いところにあり、彼女たちの手の届くところには決していないのだと知らしめるためでした。勉強は私にとって避難場所であり、慰めでした。私は絶望から来る貪欲さで勉強に身を打ちこみました。それでも、あるつまらない出来事がなかったなら、私は聖マルト修道院で死んだも同然の状態で今も生きていたでしょう。ある日の作文の時間、私は一人と論争になりました。相手は私の最も強硬な敵でアナイス・ド・ロッシュコートという名前でした。私の方が何倍も正しかったので、私は譲るつもりはありませんでした。先生も私が間違っているとは言えないでいました。アナイスは烈火のごとく怒って母親に嘘八百を並べ立てる手紙を書いたのです。ド・ロッシュコート夫人は他の五、六人の母親たちに自分の娘の論争のことを知らせ注意を向けさせました。そしてある晩、これらの夫人たちが修道院に押しかけてきたのです。彼女たちは堂々と貴族らしく、『私生児』である私を修道院から追放せよと、勇ましく要求したのです。自分たちの娘の教育施設に、私のごとき名前もなければ、どこで生まれたかも分からぬ娘を入学させるなどとは前代未聞の恥ずべき邪悪なやり口で到底認めることは出来ないと主張しました。更に、怪しげな方法で儲けた金を見せびらかすことは他の娘たちを侮辱するものだとまで言いました。修道院長は私の弁護をしようとしましたが、これらの御婦人たちは、もし私を放校処分にしないなら、自分たちの娘をここから引き揚げると言い、どちらかを選択しなければならない、と迫りました。
私を犠牲にするしか道はなかったのです……。
電報で知らせを受け、ド・シャルース伯爵は飛んで来ました。そしてその翌日、私は聖マルト修道院を後にしたのです。罵声を浴びながら……。4.21