エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-IX-14

2021-04-21 09:02:16 | 地獄の生活

私はこのような不当な排斥に勇敢に立ち向かおうとし、打ち負かそうとしました。でも無駄な努力でした……。私は他の少女たちに比べあまりにも違っていたのです。その上、私は不注意にもある大失敗を犯してしまいました。ド・シャルース伯爵がふんだんに私にくださった素晴らしい宝石類をうっかり見せてしまったのです。それに二度に亘って私が他の女の子たち全員の分を合わせたより多くのお小遣いを貰っていることを知られてしまいました。もし貧乏だったら、彼女たちも偽善的な同情心を持って情けを掛けてくれたかもしれません。ところが金持ちだと分かったので、私は敵になりました。それで戦争になったのです。修道院の奥で時折繰り広げられる情け容赦のない戦いです……。田舎貴族の娘たちが自分たちの胸に巣食った憎悪を満足させるため、いかに高度に残酷な方法を考えだすか、お知りになったら驚かれると思います、判事様。告発することも出来ましたが、そんなことをするのは私のプライドが許しませんでした。かつてしていたように私は自分の苦しみは秘密として心の中に閉じ込めておき、プライドにかけて、落ち着いた微笑んでいる顔しか見せないようにしました。そうすることで、私の心は彼女たちとは違って高いところにあり、彼女たちの手の届くところには決していないのだと知らしめるためでした。勉強は私にとって避難場所であり、慰めでした。私は絶望から来る貪欲さで勉強に身を打ちこみました。それでも、あるつまらない出来事がなかったなら、私は聖マルト修道院で死んだも同然の状態で今も生きていたでしょう。ある日の作文の時間、私は一人と論争になりました。相手は私の最も強硬な敵でアナイス・ド・ロッシュコートという名前でした。私の方が何倍も正しかったので、私は譲るつもりはありませんでした。先生も私が間違っているとは言えないでいました。アナイスは烈火のごとく怒って母親に嘘八百を並べ立てる手紙を書いたのです。ド・ロッシュコート夫人は他の五、六人の母親たちに自分の娘の論争のことを知らせ注意を向けさせました。そしてある晩、これらの夫人たちが修道院に押しかけてきたのです。彼女たちは堂々と貴族らしく、『私生児』である私を修道院から追放せよと、勇ましく要求したのです。自分たちの娘の教育施設に、私のごとき名前もなければ、どこで生まれたかも分からぬ娘を入学させるなどとは前代未聞の恥ずべき邪悪なやり口で到底認めることは出来ないと主張しました。更に、怪しげな方法で儲けた金を見せびらかすことは他の娘たちを侮辱するものだとまで言いました。修道院長は私の弁護をしようとしましたが、これらの御婦人たちは、もし私を放校処分にしないなら、自分たちの娘をここから引き揚げると言い、どちらかを選択しなければならない、と迫りました。

私を犠牲にするしか道はなかったのです……。

電報で知らせを受け、ド・シャルース伯爵は飛んで来ました。そしてその翌日、私は聖マルト修道院を後にしたのです。罵声を浴びながら……。4.21

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1-IX-13

2021-04-20 09:31:33 | 地獄の生活

私は全く教育を受けてこなかったから、この別離の期間を利用して今の私の社会的地位にふさわしいところまで教養を高めることを期待している、と。それで、高名な教育施設パリのオワゾー修道院がローヌ県に持っている聖マルト女子修道院に私を寄宿生として入れることにした、と。彼はまた、用心のため私に会いに行くことはしないと言い、彼の名前を決して口にしないことを私に誓わせました。指定の住所に彼宛ての手紙を書くこと、そして彼も私宛の手紙には偽名を使う、と。それから聖マルト女子修道院の修道院長には彼の秘密を教えてあるから、彼女には何でも打ち明けても構わない、と……。

この重大な決定をした日の彼は非常に不安そうで、見るからに動揺し、絶望しきった様子でしたので、私は心底思いました……この人の精神状態は正常ではないと。

そんなことはおくびにも出さず、私はお言いつけ通りにします、と答えました。そして実際、私は全然悲しくはなかったのです。ド・シャルース伯爵のそばで暮らすことは死ぬほど陰気なものでした。私は退屈のため元気をなくしていました。それまでの私は労働と騒音に慣れ、いつも動いていましたから。なので、同じ年ごろの少女たちの中に入っていけるかと思うと心は興奮と喜びで一杯でした。そこで友達を見つけ、友情を育むことができるだろうと思ったのです。

不幸なことに、先の事は何でも見通すことの出来たド・シャルース伯爵でも、聖マルト修道院での二年間が私にとっては緩慢な拷問になり得るということに思いが至らなかったのです。

最初は仲間の寄宿生たちに愛想よく迎えられました。『新入り』というのは単調な日常性を断ち切ってくれるものなのでいつも歓迎されます。でも、その後すぐに名前を聞かれ、私がマルグリット以外の名前を持たないと分かると、皆驚き、私の両親はどういう人だったのかと聞きました。私は嘘が吐けなかったので、正直に父も母も知らないのだと答えました……。そのときから私には『私生児』というあだ名が付けられ、身分の卑しい者として疎んじられました。休み時間には誰も私の近くに来ませんでした。勉強のときは私の隣に誰が座るか、の押し付け合いがありました。ピアノのレッスンのときは、私の後で弾く者は鍵盤を丁寧に拭く恰好をわざとして見せたものです。4.20

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1-IX-12

2021-04-19 10:53:04 | 地獄の生活

伯爵が所望したものとは、すぐに出航できる船でした。まもなく下男が雇ってきた船が波止場に横づけになりました。私たちの乗ってきたベルリン馬車の箱部分がデッキに引き上げられ、出帆のため帆が広げられ、そうこうするうちに夜が明けてきました。翌々日私たちはジェノヴァに着き、偽名を使って貧相なホテルに身を隠しました。

足が地上を離れ海上に出た瞬間から、伯爵は少し落ち着きを取り戻したように見えましたが、それでも平静とはとても言えない状態で、追跡され追いつかれる怖れに身を震わせていました。彼が身の回りに敷いた警戒態勢の数々がそのことを物語っていました。警察に追われる犯罪者でもあれ以上周到に手がかりを消すことは出来なかったでしょう。はっきりしていたことは、ド・シャルース伯爵に絶え間ない不安を掻き立てている原因、唯一の原因は私であったということです。一度、彼が下男と話しているのを耳にしたのですが、私を男装させようかと考えている、というのです。そのための衣装を手に入れるのが困難だという理由でこの計画は実現しませんでした。客観的な状況をお伝えするために申しますが、下男の方は伯爵の不安を感じてはいなかったということです。何度か私は彼がこう言うのを聞きました。

『伯爵はご心配が過ぎるようでございますよ……彼女が私たちを捕まえる気づかいなどございません……彼女が私どもの後を追ってきましたか?……彼女が何かを知っていると?……最悪の場合を考えたとしても、彼女に何が出来ましょう?』と。

彼女って誰なのでしょう? 私にはどう頭を捻っても分からないことでした。それに、判事様、はっきり申し上げておきたいのですが、私は現実的な人間です。現実離れした空想に影響を受けることはありません。私の結論は、その危険というのは伯爵の頭の中だけにしか存在していなくて、それがもし空想でなくとも、伯爵はそれをひどく誇張している、ということでした。しかし彼は不安を持ち続けました。その証拠に、その後の一カ月、私たちは息つく暇もなくイタリアの端から端へと移動し続けたのです。

五月になってようやく伯爵はフランスに帰っても大丈夫と思ったようです。私たちはモン・スニ経由で休みなしにリヨンまで行きました。そこで四十八時間滞在した後、伯爵は私に私たちはしばらく離れて暮らさないといけない、辛いことだがそうする方が安心だから、と言ったのです。そして私に一言も差し挟むことを許さず、この決定の利点を並べて私を説得しようとしました。4.19

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1-IX-11

2021-04-18 10:00:54 | 地獄の生活

それでも私は新しい生活にも慣れ、精神的にも落ち着いてきた頃のある夕方、伯爵は私が孤児院から出発したあの日よりもっと、そんなことがもし可能ならばですけれど、動転した様子で帰宅しました。彼はすぐに下男を呼び、有無を言わさぬ態度でこう命じました。

『すぐ出発する。一時間以内だ。即刻、宿駅の馬を手配するのだ』と。私が言葉ではなく目で尋ねているのに気づき、彼は続けて言いました。『そうしなくてはならんのだ。愚図愚図するのは愚かなことだ。一分遅れれば、それだけ危険が増すと言える』

私はとても若く、未経験で世の中のことを何も知りませんでした。でも苦しみ、孤独、自分しか頼るものがないという状況、そういったものが私を早熟にしていました。貧しく生まれた子供の財産ともいえるものです。ド・シャルース伯爵に引き取られるや否や、彼が私に何かを隠しているということを感じていましたので、私は子供の持つ辛抱強さで彼をじっと観察していました。大人は子供に観察されているなどと疑ったりしないので、子供の観察力は侮れないものです。伯爵は常に何かを怖れているというのが私の結論でした。名前も影響力も財産もある名士である彼が恐れているのは、自分自身のためでしょうか?いいえ、違います。では私のため? そうです、間違いなく! でも何故?

すぐに分かったのは、彼が私の存在を隠そうとしていたことです。少なくとも可能な限り、私が彼と一緒に暮らしているということはごく内密にして、ごく限られた人にしか知られないようにしていました。

突然カンヌを立ち去らねばならないことは、私の推測を裏付けるものでした。それははっきり言って逃亡のようなものでした。私たちは夜の十一時、捕まえられた最初の馬車に飛び乗り、激しい雨の中を出発しました。同行したのは唯一人、下男だけ。つい先ほど私を非難したあのカジミールではありません。老齢の謹厳な召使でした。残念なことにその後亡くなりましたが、伯爵が全幅の信頼を寄せていた者でした。その他の召使たちは次の日、たっぷりと報酬を貰って暇を貰い解散することになっていました。

私たちはパリに戻ったのではありませんでした。イタリアとの国境方面に向かったのです。私たちがニースに着いたときはまだ真っ暗闇でした。ニースは少し前からフランスの町になっていました(地中海に面した港町ニースはサルデーニャ王国領であったが、フランス革命軍により占領され、ナポレオンの失脚後1815年サルデーニャ領に戻された。イタリアの統一を目論むサルデーニャの首相カブールは、中部イタリアの併合をフランスに了承させるのと引き換えにニースを、住民の多数がフランスに帰属するのを望んだとして、1860年フランスへ割譲することを決めた)。私たちの乗った馬車は港に面した場所で停まり、御者が馬たちを車から外している間、私たちは中に留まっていました。下男が急いでどこかへ走り去り、たっぷり二時間後まで戻って来ませんでした。彼は、伯爵のお望みどおりのものを手に入れるのに随分苦労したが、ついに大金を投じてなんとか調達することが出来た、と報告しました。4.18

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1-IX-10

2021-04-17 09:53:13 | 地獄の生活

地中海の青い海に面した最も美しい町のひとつであるこの町に、伯爵は本物の宮殿を持っていました。それはオレンジの木々に囲まれ、海のすぐ傍で、ギンバイカと西洋夾竹桃が茂る二つの円形花壇のように見える島が正面に見えていました。サント・マルグリット島と呼ばれている島です。伯爵はここで数カ月を過ごすがよかろうと言いました。私が贅沢な生活に慣れるのにそれぐらいは掛かるだろうと。それというのも、この新しい環境で私は信じられないほど不器用で粗野だったのです。今までとはあまりに異なる環境に置かれたため極端におどおどし、極端な話、自分の手の使い方、どう歩けばいいのか、姿勢をどう保てばいいのか、そんなことまで分からなくなりました。そして自尊心のため更に緊張が高まったのです。私はすっかりまごつき、怯えていました。更に悪い事には、私は自分が浮いていることを自意で識過し、自分の不器用さが分かり、礼儀作法を知らないことや周囲の人々と同じ言葉を話してさえいないことも自覚していました。

それでも、カンヌのあの小さな町の思い出は私には愛おしいものです。私がこの世で心を許す唯一人の人と初めて会ったのがあそこだったからです。彼は私に話しかけはしませんでしたが、私達の目が合う度に胸に感じるざわめきで、彼が私の人生に大きな影響を与えることになると私は分かっていました。それからある出来事で、私は自分が間違っていなかったことを知ったのです。でもそのとき、私は彼のことは何も知りませんでした。尋ねてみようなどと夢にも思いませんでした。彼がパリに住んでいて、弁護士で、パスカルという名前だということは全くの偶然で知ったのです。南に来たのは、彼の病気の友人に付き添ってきたのだと……。

この頃ド・シャルース伯爵は私と彼の幸福をたった一言で確実なものに出来たでしょう……でもこの一言を伯爵は言いませんでした。でも、あれ以上に理想的で、あれ以上に何でも言うことを聞いてくれる父親はいなかったでしょう。彼にしか思いつけない優しさに私は何度も感動して涙を流したものです。でも、私の気まぐれなお願いはどんなことでも叶えてくれるのに、彼は私を信頼して心を開くということはありませんでした。まるで氷の壁のようなものが、伯爵と私の間にはありました。4.17

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