エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-II-15

2022-08-31 08:37:16 | 地獄の生活

彼は自分が我慢の限界に来ていると感じたのか、自制するのをやめ、嗄れ声で言った。

「いいか、これ以上私に刃向かうのはよせ。出て行け、でないと、何があっても責任は持たんぞ」

パスカルは椅子の動かされる音を聞いた。そして殆どその直後、一人の婦人が喫煙室を走るように突っ切って行くのが見えた。

何故彼女はパスカルに気がつかなかったのか? それは彼が居た場所が原因かもしれない。また、あの勇ましい態度にも拘わらず、彼女が酷く気を動転させていた所為とも考えられた。

しかしパスカルの方では彼女を見た。彼は目がんだようになっていた。

「なんてよく似ているんだ……」と彼は呟いた。8.31

 

 

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2-II-14

2022-08-30 10:44:29 | 地獄の生活

一昨日のことだ、よく聞け。婿が私に会いに来て、十万エキュ出せと言うんだ。私が断ると、もし金を渡さなければ娘がどこかの大根役者に宛てて書いた手紙を公表するといって脅したのだ!私は恐ろしくなって金を渡した。そしたらその晩のうちに、これは彼ら二人の仕組んだ狂言だと知ったんだ。動かぬ証拠もある。婿はここを出てすぐうちへは帰らずに、その良い知らせを妻に伝えようと電報を打ったのだ。ところが喜びのあまり、住所を間違え、電報が届けられたのはここだった。私が電報を開封してみるとこう書いてあった。『愛する君、やったよ!パパはまんまと引っかかった。金を出してくれたよ!』 とな。奴はあつかましくもそんな文面を書き、署名までして係の者に渡したんだ。妻宛てのつもりで……」

パスカルは呆気に取られていた……。自分は何かとんでもない白昼夢を見ているのか、それともこれは本当のことか、判じかねていた。というのも彼は、人が羨むような豪勢な外観を持つ屋敷の奥で繰り広げられる愛憎劇というものがあることを知らなかったからだ。

少なくとも、と彼は思った。男爵夫人は打ちのめされ、今にも夫の前に跪く物音が聞こえるだろうと……。全くそうではなかった! この『手ごわい女性』は屈服するどころか、敢然と反撃に出た。

「あなたのやっていることとどこが違うっていうの?」と彼女は叫んだ。「あなたはそうやっていい気になって彼を非難するけれど、そのあなたは何、ヨーロッパ中の賭博場に名前を轟かせてい……」

「黙れ、あばずれ、黙れ!」男と爵は遮った。が、すぐに自制心を取り戻し、続けた。

「確かにそのとおりだ」それから悲痛な皮肉を込めて繰り返した。「私は……賭け事をする。人からは、あのでぶの男爵、カードを手から離すことがない、へんてこな奴と言われている。しかしお前には分かるだろう。私は賭け事なんか大嫌いで虫唾が走るほどだということを。ただ、ゲームをしていると、忘れさせてくれるときがあるんだ。俺には忘れたいことがある、ということは分かるな? 最初は酒で紛らせようと思った。しかし酒を飲んでも心が冷え冷えとするばかり、酔う代わりに胸がむかつくだけだった。というわけでカードに捌け口を求めた。賭け金は馬鹿にならぬし、自分の財産には有害な傾向を持つが、自分の不幸を忘れられるんでな!」

男爵夫人は、鋼鉄のバネが弛むときのような乾いたせせら笑いをし、わざとらしく同情するような口調で言った。

「それはお気の毒に! もう一つ忘れるためにしていることがおありでしょ。ゲームをしていないときは必ずリア・ダルジュレとかいう女の方のところにいるってこと。とても綺麗な方ね。ときどきブーローニュでお見掛けしましたわよ……」

「滅多なことを言うな!」と男爵は叫んだ。「お気の毒なご婦人を侮辱するな。お前なんかよりずっと立派な人だ……」8.30

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2-II-13

2022-08-28 09:35:13 | 地獄の生活

私はこう思っていた。いつの日か、お前が何としてでもお前の子供に会い、その子を抱きしめ、その将来を保証してやりたいと思う日が来るだろうと! は、馬鹿だ!お前はその子供のことなど、既に忘れてしまっていた。私の帰還の知らせを聞き、その子を救済院か、どこかのお屋敷の馬車の出入りできる門のところに置いてきた、というところだろう。……その子のことをお前はたまにでも考えることはあるのか? その子がどうなったか、何をしているのか、お前は一度も調べてみたことはないのだな。自分は贅沢の限りを尽くしていながら、その子はパンにも困る暮らしをしているかもしれず、どんな掃きだめに転落したかもしれないのに……」

「相も変わらずその馬鹿げた話をいつまでも続けているのね」男爵夫人が叫んだ。

「ああ、そうとも、いつまでもだ」

「その子供の話というのは馬鹿げた中傷にすぎないってこと、もういい加減に分かってもいい筈なのに。あなたがその話をしたとき、私そう言ったでしょう。それから十二年経った今まで私は千回は繰り返したわ……」

男爵はため息を吐いたが、それはまるで嗚咽のように聞こえた。そして夫人の言葉を意に介さず続けた。

「お前を同じ屋根の下に住まわせていたのは、私たちの娘のためだった。私たちが別れたりすれば、スキャンダルがあの娘の上に降りかかるのではないかと恐れたからだ。不必要な煩悶だった。あの娘はもうお前に負けぬほど堕落しているからだ。お前の所為でそうなったのだ!」

「何ですって! 私の責任だと仰るのね!」

「では他に誰がいるというんだ? あの娘を、やれ舞踏会だ、劇場だ、競馬だ、ブーローニュの森だのと若い娘が行くべきではないところに連れ回したのは誰だというんだ。お前の言うところの『上流社交界』にデビューさせたのはお前だ。しかも自ら安心して秘密を守れる付添人にまでなって。それに、自分の持つ称号にも値せぬくだらん男と結婚させざるを得なくなったのもお前が原因だ。そんな男に夢中になり、お前流の退廃の極致を極めたのだからな……。

お前のおかげで何たる娘になってしまったことか! その常軌を逸した行動で彼女はご立派な貴婦人を自任する放蕩女の中でもすっかり有名人だ。まだ二十二歳にもならぬのに、もう一とおりの浮名は立ててしまった。

その夫というのがまた、女優や浮気女と遊びまくることが自己顕示だと思っている。妻も同じことをしているのだが。二年も経たないうちに、私が与えた百万フランの持参金は遣い果たし、底をつき、消えてしまった。もう何も残っていない。そこで我が娘と婿殿は私から金を巻き上げようと相談した。二人の間ではそれを『パパを誑し込む』とか、『義理の父上からおこぼれを頂戴する』などと称しているのだ。8.28

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2-II-12

2022-08-27 08:06:31 | 地獄の生活

夫の方はしばらく妻に好きなだけ言わせていたが、突然ギクシャクした口調で遮った。

「も、もう……よせ!偽善は、いい加減にしてくれ……何のために言い抜けするのだ、何の役にも立たないのに! お前は恥知らずなことなど何とも思わぬではないか。更に罪が一つ加わったところで何だと言うのだ!私は出鱈目を言っているのではない。証拠を出せというなら、一時間以内に両手に余る証拠を出して見せよう。私はもう盲目ではないぞ、二十年も前から! あの呪われた日以来、お前のことはすべて知っている。お前の悪辣さ、おぞましさがどれほどのものかを知らされたあの忌まわしい夜以来だ。お前が平然と私の死を企てているのを聞いたのだからな!

お前は勝手気儘に生きることに慣れきっていた。一方この私は、カリフォルニアに金を求め出発した最初の一団と共に幾多の危険を冒した。お前に一刻も早く富と安楽な暮らしを与えるために。ああ、なんたる愚か者だったか、この私は……。お前のことを思えばどんな労働も嫌だとか辛いとか思ったことはなかった……そして常にお前のことを考えていた。心は穏やかだった。お前を信じていたから……。私たちには娘が一人いた。私に不安な思いが兆したとき、お前がもしも悪い考えを持ったとしても揺りかごの娘を見ればたちまちそんな考えは頭から追い出される筈、と自分に言い聞かせていた。子供のない妻の不貞はあり得ても、母となればそれはない、と!

間抜けで愚かでどうしようもない夫、それが私だった。上首尾に心躍らせ、十八カ月ぶりに帰還した私は持ち帰った財産を見せた! 二十一万八千フランあった。お前を抱きしめながら私は言った。『愛するお前、これだけの富を得ることが出来たのはお前がいたからだよ』と。……しかしお前には迷惑だったのだ。お前は別の男を愛していた!私に偽りの優しさを振りまきながら、お前は悪魔のような狡猾さで陰謀を図っていた。成功すれば、私を自殺へと追いやる筈だった……。いいか、私に何か月も続いた苦しみをお前にたった一晩でも味わわせることができたら、それで復讐はなったと思うだろう。ところが、それだけではなかった! たった一度の抗えぬ情熱の故であったとしても、それは許しがたいことだったが。幻滅した私は何もかも知りたいと思った。そして知ったのだ。私の不在の間に、お前が妊娠したことを!

何故あのときお前を殺さなかったのだろう! 自分が知っているということをお前に隠し、何も言わないでいるというぞっとする勇気を持てたのは何故なんだろう! ああ、それは多分、お前を監視していれば、その私生児やお前の共犯者に行き着くことができるだろうと希望を持っていたからだろう。その裏切りと同じぐらい恐ろしい復讐を果たすことを夢見ていたからだろう。8.27

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2-II-11

2022-08-24 10:14:44 | 地獄の生活

夫人が黙っていたので、彼は続けた。

「返事がないのは何故だ? そうか、私が言ってやろう。もうとっくの昔にお前のダイヤモンドは売られて、まがい物に取り替えられているからだ。お前はすでに借金まみれで、身の回りの世話をしてくれる小間使いにまで金を借りる始末。うちの御者の一人から三千フランを借りているし、司厨長はお前に三割だか四割だかの利子で金を貸している。そんな有様だからだ……。

「そ、そんなことはなくてよ……」

男爵は口笛を吹いたが、それは夫人には不気味に響いたに違いない。

「全くのところ」と彼は言った。「私が実際よりも余程バカだとお前は思っているようだ。私があまり家にいないのは事実だ……お前の顔を見ると絶望的な気分になるんでな……だが、ここで起きていることを私は知っている。どこまでも私を騙し続けられるとお前は思っているな。だが、それは間違いだ。私にはちゃんと分かっている。ファン・クロペン氏への負債額は二万七千なんちゃらフランなどではなく、五万か六万フランだ。だが、あのこすからい男はお前にそれを請求するのを控えている。あの男が今朝あの請求書を読み上げたのは、お前がそう頼んだからだ。私があの男に渡す金は後でお前に返す、という取り決めがなされている……。お前にどうしても二万八千フランが必要だというわけは、フェルナン・ド・コラルト氏がお前にその金を要求し、お前はそれを渡すと約束したからだ!」

喫煙室の仕切り壁に寄りかかり、じっと動かず息をひそめ、食堂へ続くドアの方に首を伸ばしていたパスカル・フェライユールは両手を胸の上に置いた。早鐘を打つ心臓を抑えようとするかのように。彼はもうこの場から逃げようとは思わなかったし、自分の軽はずみを後悔したりもしなかった。名前を偽ってここにいるということも忘れていた。

激しい諍いの場面でこのように突然ド・コラルト子爵の名前が発せられたとき、それは彼にとって一つの啓示のように思われた。男爵の行動の意味がはっきりと分かったのだ。彼がユルム街まで訪ねて来てくれた理由、彼の励ましや力添えの約束が何故だったのか、も……。三日前から彼の精神を覆っていた深い闇を貫く一条の希望の光が投げかけられたのを、彼は初めて感じた。

 「お母さんの言ったとおりだ」と彼は思った。「男爵はあのコラルトを死ぬほど憎んでいる。だから全力で僕を助けると言ってくれたんだ……」

その間、男爵夫人は懸命に夫からの非難を否定しようとしていた。妻にとって最悪の烙印である非難を。一体何のことを言っているのか分からない、と彼女は誓っていた。このこととフェルナン・ド・コラルト氏の間に一体何の関係があるのか! その忌まわしい仄めかしをはっきり説明せよ、と彼女は夫に激しく詰め寄っていた。8.24

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