エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XVIII-4

2022-01-31 10:20:33 | 地獄の生活

ところが彼の見立ては間違っていた。マダム・ダルジュレは家に帰るのではなかった。彼女の御者は指示を受けるとシャンゼリゼー通りを下り、コンコルド広場を横切り、グランブールヴァールまで行くとダンタン通りに交差する角で馬車を停めた。

マダム・ダルジュレはすぐに分厚いヴェールを顔に掛けると地面に降り立ち、遠ざかって行った。

これはあまりに素早く行われたので、シュパンは自分の御者に二フランを投げ渡し馬車を降りるのがやっとだった。すでに彼の言う『お客さん』はエルダー通りの角を曲がり、その通りをかなりの早足で上って行くところだった。時刻は五時を少し過ぎており、日が暮れようとしていた。

 「じりじりするなぁ、もう」とシュパンは呟いた。「一体何なんだ」

そうこうするうち、マダム・ダルジュレは奇数番号の番地側の歩道を歩き始めた。四十三番地はオンブールの館のある場所だったが、彼女はそこまで来ると歩調を緩め、傍目にもありありと分かるほど注意を集中させて向かいに立ち並ぶ家の一軒、四十八番地の家の門をじっと注視していた。しかし彼女の観察はほんの一分足らずで終わった。どうやら安心したらしい。彼女はそこでくるりと回れ右をし、先ほどと同じように早足で元来た道を戻り大通りまで来た。が、そこで通りを横切り、また新たに元の道を辿り始めたが、今度は非常にゆっくり店という店の前で立ち止まりながらであった。

シュパンは目的に近づいていると確信を持ったので、自分も通りを横切り、マダム・ダルジュレのすぐ後ろをついて行った。まもなく彼女が身震いをしたかと思うと、歩を速めるのが見えた。一人の若い男が逆の方向から姿を現したかと思うと、非常な早足で歩いてきたので彼女は避け損ね、危うく正面衝突しそうになった。その若い男は罵り言葉を口にした。面と向かって卑劣な侮辱を浴びせ、立ち去っていった。シュパンは背筋が寒くなった。

 「もしあの野郎が彼女の息子だとしたら……」と彼は思っていた。そしてショーウィンドウをうっとり眺める振りをしながら可哀想な婦人を観察していた。彼女は立ち止っていたのでシュパンは殆ど彼女に触れそうな位置まで近づいていた。彼女はベールを持ち上げ、たった今彼女を侮辱した相手を目で追っていた。その目は見紛う余地のないほど明らかなものであった。

 「あぁ!」とシュパンは恐ろしさに捉われながら思った。「彼女に侮辱を浴びせたのは息子だったんだ……」1.31

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1-XVIII-3

2022-01-29 11:38:36 | 地獄の生活

事は逐一彼の考えていたとおりに運んだ。ほどなくヴィクトリアはビールを売っている小屋を通り過ぎ、左の道を取り、従者を伴った一行がゆっくりと周回している列の中に入っていった。湖の周りには歩行者のための小道があり、そこに辿り着いたシュパンは何の苦労もなく、ポケットに両手を突っ込みながら歩き始めた。頭の中では約束された報酬の他に、馬車に乗らずに歩いて浮かせた費用のことを考えて大喜びだった。

 「それにしても」と彼は口の中で呟いた。「湖の周りを一列になってぞろぞろ周回するだけなんて何が面白いんだか。まるで手回しオルガンの上でくるくる回ってる人形じゃないか……俺が金持ちになったら、もっと他の事をして楽しむんだ」

 シュパンは可哀想に分かっていなかった。人がブーローニュの森に来るのは楽しむためではなく、他人を苦しめるためだということを。この広いコースは世にも愚かな虚栄心の見本市に過ぎなかった。青空の下で行われる贅沢の見せびらかし、恥知らずの陳列であった。見、そして見られること……そこに人が集まるのであった。

 いや実はそれだけではない。この湖の周回は別の魅力も持っていた。ここは言わば中立の場であり、他の場合ならば深淵によって隔てられている女たちが互いに出会い、袖擦り合わせ、じろじろ観察し、ねたみ合う場所だったのである。あのジェニー・ファンシー(『オルシバルの殺人事件』他参照)やニネット・シンプロンといった、堅気の女性が『あの手の人たち』と呼ぶ別の世界の女たちに車輪と車輪が触れ合わんばかりの距離まで近づくことが出来るのは何物にも代えがたい快感であった。堅気の女性は彼女たちのことを常に恐れてはいるが、絶えず話題にし、彼女たちの化粧、磊落な態度、隠語を真似し、要するに彼女たちに似せた外見を作り上げることに腐心することでその実態を身に着けて行く。そのこと自体は不品行ではないが、それに近く、徐々に染まって行く。いつもそんなものなのだ。

 しかしシュパンの頭に浮かんでいたのは、そんなことでは全然なかった。マダム・ダルジュレはしきりに何かを気にしており、シュパンはそれをじっと観察していた。彼女は四方を見回し、ときには馬車から身を半分乗り出し、ギャロップで馬を走らせてくる蹄の音を聞くたびに振り返っていた。明らかに彼女は誰かを探しているか、待っている様子であった。しかしその誰かは現れず、三度周回した後はさすがに疲れたのであろう、彼女は御者にある合図をした。すると馬車は列を離れ、側道に入っていった。

「そうか、よし!」とシュパンは思った。「お客さんはお帰りだ。これ以上金を遣うことはないな……それでもやっぱり辻馬車を見つけたいもんだ……」

幸いにも彼は一台見つけることができた。しかもヴィクトリアを追うだけの力のある馬だった。

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1-XVIII-2

2022-01-27 12:14:13 | 地獄の生活

すでにシュパンは遥か向こうに行っていた。マダム・ダルジュレの馬は速足で遠ざかっていったが、フォルチュナ氏の部下も負けてはいない。彼は鹿のような脚と長く続く息の持ち主だったので、楽々と後をつけていった。それだけではない。彼の言葉を借りると『コンパスをぶん回し』ながらも、彼は頭の中で思案を巡らしていた。

「もし馬車を使わなかったら、つまりあの御婦人を俺の自慢の脚でつけて行くことが出来たら、一時間四十五スー、チップを入れて五十スーの馬車賃を正当にポケットに入れられる……」

しかしシャンゼリゼーに着くと、残念ながらこの目論見はご破算になることを認めないわけに行かなかった。というのは、アンペラトリス大通りの側道に沿って走る姿は目立ちすぎて人目を引いてしまうからだ。彼は無念の溜息を吐くと、馬車乗り場に行き、例のパリ万博(1867年、日本も初参加して浮世絵や磁器を展示したという、あのパリ万博のことと思われる)の忘れ形見、みっともなくて不便な黄色い辻馬車の一台に乗り込んだ。

「どこまで行きますか、旦那?」と御者が番号札を渡しながら尋ねた。

「ああ君、頼むよ。あの青い馬車を追いかけて欲しいんだ。ほらあれだ、すばらしい麗人が乗っているやつだよ」

この指示は御者にとって別に驚くようなものではなかった。しかし彼が『旦那』と呼びかけた相手は一張羅のフロックコートを着ていたとは言え、こんな冒険をやらかす男のようには見えなかったようだ。

 「えーあの、失礼なんすけど」と彼は皮肉な口調で言った。

 「今言ったとおりだ!」とシュパンは反撃した。プライドを傷つけられていた。「理屈こねている場合じゃないぞ。さっさと行かなきゃ見失っちまう」

 これは正しい所見だった。もしもマダム・ダルジュレの御者が凱旋門にさしかかるところで速度を緩めなかったら、この日の追跡はここまで、となるところだった。しかしこのおかげで黄色の辻馬車は追いつく時間を与えられ、大通り沿いにそこそこの距離を保持したままついて行くことができた。が、ブーローニュの森の入口でシュパンは辻馬車を停めさせた。

 「停まってくれ!」と彼は言った。「俺は降りるから……森の料金を払うなんてこと、金輪際ごめんだね……逆立ちして歩いた方がましだ……さぁ四十スー払うよ。それじゃこれで……」

 この間も青のヴィクトリア(四輪無蓋馬車)は進んでいたので、シュパンは追いつこうと弾みをつけて走り出した。この術策はここに来るまでの道で考えついたものだ。

 「あの綺麗なご婦人は森で何をするんだろうな?」と彼は思っていた。「彼女の馬車は列に加わって湖の周りをゆっくりと回り始めることだろう……俺の方はこの脚で同じことをやるんだ、人目につかないようにして……健康にも良いだろうさ」1.27

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1-XVIII-1

2022-01-25 11:37:30 | 地獄の生活

XVIII

 

確かにマダム・リア・ダルジュレその人であった。彼女はまさに流行の最先端を行くすばらしくシックな装いをしていた。それを身に着ける女性はすべて一様に怪しげで挑発的な魅力をふりまくので、一家の主婦もいかがわしい職業の女も皆同じように見え、いかなグラン・ブールヴァール(パリの目抜き通りに立ち並ぶ通俗劇専門の劇場)の常連といえども両者の区別がつかないのである。

もとはロッテルダムで仕立て屋をやっていたファン・クロペンという男がこの名誉ある進歩に寄与しているのだが、それも理由がないわけではなかった。『女王陛下の仕立て屋』を自認するこの男がどのようにしてパリのファッションを支配するようになり得たのか? それを知ることは彼の店で身を破滅させる女性たちの良識を疑うことと同義である。確かなことは、彼が主体性のない女たちをうまく手玉に取っているということだ。彼が例えば丈の短い色とりどりの布を幾重にも重ねたスカートや胴の形を損ねるような切れ込み、レースの縁飾り、ルーシュ(プリーツやギャザーを施した襞飾り)や、背中の真ん中に滑稽なふくらみを拵える結び目のついたドレスを発表すると、女性たちはこぞってそれに従うのである。彼女たちは皆、遠くから見ると天蓋が歩いているように見える。

マダム・ダルジュレは絨毯製造業者の手から生まれたような衣装に身を包んでいた。おそらく彼女としては絹の飾りがこれほどゴテゴテしていない方が好みだったのかもしれないが、彼女の立場としては最新の流行であることが必要だった。彼女は更にピラミッド型の髷の上にあるかなきかの小さな平たい帽子を乗せており、その下から解けた豊かな髪が肩に掛かっていた。

「うわぁ!綺麗なひとだ!」とシュパンは驚嘆の声を上げた。

事実、この距離からだと彼女は三十五歳を過ぎているようには見えなかった。秋に芳醇な果実が放つ魅力を持った美しさだった。彼女は遊歩道に行くよう御者に命じ、ボタン穴に薔薇の花を挿した彼女の御者ははやる馬を抑えながら指示を聞いていた。

「天気は上々だし」シュパンは付け加えて言った。「マダムは湖の周りを一周なさるんでしょうかね……」

「ああ、彼女出発するぞ!」とフォルチュナ氏がその言葉を遮った。「走れ、ヴィクトール、走るんだ……馬車代をケチケチするんじゃないぞ。掛かった費用はちゃあんと後で払い戻してやるからな」1.25

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1-XVII-12

2022-01-07 09:52:50 | 地獄の生活

彼は辛抱強さを口で説く以上に有効なことをした。それを実行して見せたのだ。時間がどんどん経っていったが、彼は動かなかった。しかも彼にとってワイン商の店の入り口すぐのところに、まるでショーウィンドーに飾られているような格好でじっと座っていることほど彼の意に染まぬことはなかったにも拘わらず。

しかしついに三時少し前、ダルジュレ邸の門が蝶番の音と共に開き、青い四輪無蓋馬車が姿を現し、中には一人の婦人がゆったりくつろいで座っていた。

「来たぞ!」とフォルチュナ氏が言った。「彼女だ!」1.7

 

 

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