個人的なことですが、急ぐ理由がありまして、「ポルトン言行録・第一部」を出版することにしました。ポルトンがソーンダイク博士に出会うまでの最後の二章を加えてあります。
翻訳しながら、振り子時計の構造を習う面白さ!思い出に残る作品です。
お求めは、こちらから。
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馬丁たちによってなされた敷き藁作業を監督していたカジミール氏は、家の中に入ろうとしていた。そのとき若い男が足早に彼に近づいてきた。彼は一時間以上も前から家の前をうろついていたのだった。
彼はまだ髭も生えていないような少年だったが、まるで長年ブランデーを飲み続けた老人のような鉛色の肌で皺が寄っていた。賢そうな表情をしていたが、それ以上にずうずうしかった。人を不安にさせるような大胆さが彼の目の中で躍動していた。彼のしわがれた声には抑揚がなく、何か言い淀んだときには間延びした語調になった。彼のぼろぼろの服は、年に五万フラン稼ぐパリの差し押さえ執達吏が、最も吐き気を催させる仕事をさせるのと引き換えに、気前良くも月五十フランで雇っている憐れな男たちが着るような服であった。
「何用かな?」とカジミール氏は尋ねた。
相手はへりくだった会釈をしながら言った。
「おや、旦那、あっしがお分かりにならねんで? ……トト……いや失礼、ヴィクトール・シュパンでやすよ。イジドール・フォルチュナ氏のところで働いておりやす」
「ああ!そうだったな!」
「主人の名代で参りやした。お宅様が手に入るだろうと言っておられた情報をもう入手なすったか、聞いてこい、てことで。けど、何やらお宅でお取込みの様子なので、入るのを遠慮しておりやした。お宅様が出て来られるのを窺っている方が良いかと……」
「それは良い判断だったな。で、その情報なのだが、まだ手に入っていないのだ……ああ、いや、ある!ド・ヴァロルセイ侯爵が昨日、伯爵と一緒に二時間、部屋にこもっておられた……しかし、今となっては、そんなことどうでも良いことだ。伯爵は発作を起こされて、明日まで持たないようなのだ」
ヴィクトール・シュパンはびくっと身体を大きく震わせた。
「え、まさか!」彼は叫んだ。「じゃ、道にびっしり藁を敷いてあるのは伯爵のためなんで?」
「そうなのだ」
「ああ、運の良いお人だ! 俺なんかにゃ、誰もこんな手間掛けちゃくれませんやね。俺がそんなことうちのボスに言ったりしたら、腹を抱えて大笑いのあまりズボン吊りを弾き飛ばしちまいますぜ。ま、とにかく、有難うございました。そいじゃ、いずれまた……」
彼は一旦遠ざかったが、突然何かを思いついたのか、戻ってきた。
「ああ、ちょっと失礼」彼は名うてのお喋りぶりを発揮した。「あんまりびっくりしたんで、自分の商売を忘れっちまうところだった……。ねえ、どうです、旦那、伯爵が亡くなったら、葬式を仕切るのは旦那っすよね。それでですね、一つ忠告させておくんなさい。葬儀屋なんかに行っちゃあいけません。あっしどものところへいらっしゃい、さあ、これが住所です---彼は名刺を差し出した---あたしどもは大いにあなたのためになる葬儀屋と交渉いたしまして、すべての手配を行います。料金にちょいと工夫を凝らして、最高に豪華で、お値段は一番安く……。何もかも、一番ちっちゃな房飾りに至るまで勘定書にはきちんと記載され、式の間に確認して頂けます。で、お支払いはお引き渡しがすべて完了した後、ということになっております。と、いうことで、お分かりいただけましたか?」
しかしカジミール氏は肩をすくめた。
「ふーん!」と彼はぞんざいに答えた。「私にはどうでもいいことさ」
「何と仰る!さては、ご存じありませんな。極上をご注文頂けば、おそらく二百フランの手数料を我々の間で折半することになるんですよ」
「なんと!……それは一考の価値があるな。どれ、その名刺を貰おう。私に任せておけ。フォルチュナさんによろしく伝えておいてくれよ……」
そう言って彼は入っていった。一人残されたヴィクトール・シュパンはポケットから大きな銀製の懐中時計を取り出し、時間を見た。
「八時五分前か」彼は呟いた。「ボスは八時に俺が帰るのを待っている……脚を使うしかなさそうだな」5.26
このようなことがまた起こるのか、と思いはしたが、彼はいまいましさを押し隠した。
「お嬢様の立場でしたら、私も同じようにすることでしょう」と彼は答えた。「もしも、私が来ることはもう必要ないと言われるのでしたら……」
「ああ、とんでもございません。あなた様のお力を当てにしております」
「ということでしたら、大変結構……」
彼は挨拶して出て行った。マルグリット嬢は踊り場まで送っていった。
「ご存じのように」彼女は低い声で非常に早口で言った。「私はシャルース伯爵の娘ではございません……ですから本当のことを聞かせて下さっても大丈夫です。彼は望みがないのでしょうか?」
「危険な状態ではあります。が望みがないことはありません」
「でも、あの恐ろしい意識不明が……」
「あのような突発的な……発作の後ではよくあることです。もし分かっている事例が当てはまるならば、麻痺は少しずつ消え、運動能力が徐々に回復してくるでしょう」
マルグリット嬢は蒼白な顔で、動揺し困惑した様子で聞いていた。大層聞くのが辛い質問が口から出かかっているのは明らかだった。ついに勇気を出して彼女は口を開いた。
「もし、シャルース伯爵が助からないのあれば」彼女は呟くように言った。「意識を回復しないまま……一言も喋らないまま、死んでいくのでしょうか?」
「はっきりしたことは申し上げられません……シャルース伯爵の病状は医学的推測の裏をかくものでして」
彼女は悲し気に感謝の言葉を述べ、マダム・レオンを呼びにやり、伯爵の寝室に戻った。
ジョドン医師の方は、階段を降りながら考えていた。
「おかしなことを言う娘だ。彼女は伯爵が意識を回復することを怖れているのか? それとも逆に、彼が口をきけるようになるのを願っているのか? となると、遺言の問題以外ないではないか。それとも他に何か? ふむ、これは訳の分からん問題だ……」
彼はあまりに深く物思いに耽っていたので、自分が今どこにいるのか忘れてしまい、殆ど一歩ごとに立ち止まった。現実に立ち戻るには、中庭のひんやりした空気に触れることが必要だった。それと共に、彼のいかさま医者としての本性がたちまちにして呼び覚まされた。
「おい君、わが友よ」 彼は、夜道を照らしてくれているカジミール氏に命じた。「今すぐ道に藁を撒いて馬車の通る音を弱めるようにしなさい……明日になったら、警察に届けるのだ」
十分後には、車道に一ピエ(32cm)もの藁が敷き詰められ、道行く人は知らず知らずのうちに歩く速度を緩めた。パリでは誰でも、家の前の陰気な敷き藁が何を意味するか知っていたからだ。5.25
「しかしですね、お嬢さん」と医師は譲らなかった。「あなたのお父様は……」
「シャルース伯爵は私の父ではありません!」
マルグリット嬢の突然の激しさにジョドン医師ほど面喰った人間はいなかったであろう。
「あ…あ…ああ!」と彼は三段階のトーンで答えた。一瞬のうちに、彼の頭の中でたくさんの奇妙な矛盾する考えが交差した。シャルース伯爵令嬢でないなら、この娘は一体誰なのか? どのような資格でこの館に住んでいるのか? ここで女主人のように振る舞っているのは何故なのか? それにもまして、この突然の感情の爆発の原因は一体何なのか? ごく当然の要求に関するものであり、大して重要なものとも思えないのに……?
しかし、彼女はもう冷静さを取り戻していた。彼女の態度から、この一瞬垣間見えた危険を払いのける方策を探しているらしいことが容易に見て取れた。どうやら見つけたらしかった。
「カジミール」彼女は命令した。「シャルース伯爵のポケットから書き物机の鍵をお探しなさい」
カジミール氏はまた新たな気まぐれだと判断し唖然としたものの、命令に従った。絨毯の上に散らばっていた主人の服を拾い集め、彼はチョッキのポケットから鍵を取り出した。それはごく小さな鍵で、貴重品の保管用の鍵が皆そうであるように、精巧な細工がしてあった。マルグリット嬢は鍵を受け取り、短く命令した。
「金槌を」
金槌が持って来られると、呆気に取られている医者を前に、彼女は暖炉の前に跪き、錬鉄の薪のせ台の上に座りは悪いながらも鍵を乗せ、金槌で躊躇いなく打つと鍵は粉々に飛び散った。
「これで」と彼女は立ち上がりながら言った。「安心できますわ」
皆が彼女を見ていた。彼女はある程度自分の行動を正当化せねばならないと思った。
「きっと」と彼女は皆に言った。「シャルース伯爵は、私のしたことは良かったと仰るでしょう。回復されたら、別の鍵を作らせれば良いことですもの」
この釈明は不必要なものであった。彼女の意図を理解しない召使は一人もいなかった。誰しも心の中でこう言っていたからである。
『お嬢様の言うとおりだ。死にかけている人の机の中をいじくり回すもんじゃない。百万フランが入っているかもしれないじゃないか? もし何かがなくなってでもいれば、皆が疑われる。鍵が壊されれば、疑われる心配はなくなる』
しかし、医者だけは全く別の想像をしていた。
「あれほど人に見せたくないとは、あの机の中には一体何が入っているんだ?」と彼は考えていた。
しかしこうなると、これ以上長居をする理由も見当たらなかった。もう一度病人の様子を調べたが、状態は変わらずであった。それから自分が不在の間なすべきことを説明した後、緊急の患者が大勢いるからもう帰ると宣言したが、真夜中頃また来るからと付け加えた。
「レオン夫人と私とで伯爵を寝ずに看病いたします」とマルグリット嬢が答えた。「ですから、先生の処方はきちんと守ります。ただ……お気を悪くなさらないで頂きたいのですが、伯爵のかかりつけ医に来て頂いて、協力をお願いしたいと……」
ジョドン医師は大変気を悪くした。特に、貴族の多く住むこの界隈ではこのような不運に遭遇したことがこれまで十回はあっただけに猶更であった。なにか突発的な事故が起こると彼が呼ばれる。手近なところに彼がいるからだ。彼が駆けつけ応急処置を施し、患者を一人獲得したとほくそ笑んでいると、二度目に訪問したときにはどこかの高名な医者が遠くから馬車で乗り付けて来ている……。5.24
たったこれだけの情報でも、御者の口から聞き出すのは一苦労だった。彼はまず、その客が乗り込んだのは正午だったので五時間分の料金が貰いたい、と切り出した。それにこの客ならたっぷりチップを上乗せしてくれたであろうから、それでかなりの儲けになる。それは、まっとうな稼ぎというものだ、と臆面もなく主張した。物価は高い、出来るところで稼がなくては、と。
二ルイを手に握らせても、まだぶつくさ不平を言いながら、この男が帰った後、ジョドン医師は再び病人の前に戻ってきた。腕を組み、陰気な様子で、考えごとのため眉間に皺を寄せていた。今は師匠の真似を演じてはいなかった。与えられた詳細な情報にも拘わらず、というよりむしろその故に、彼はこの件に何か不審で不安なものを感じていた。漠然とした疑念が彼の頭に次々と浮かんだ。自分は何らかの犯罪に行き当たったのだろうか? いや、それは明らかに違う。では一体何か? 彼を取り囲むこの謎の雰囲気と躊躇いは何だ? なにか痛ましい家族の秘密に関係しているのだろうか? 長い間隠されてきた恐るべきスキャンダルが突然明るみに出る、というような事態に立ち会おうとしているのか? 謎に包まれた不可解な事件に自分が関わることになるかもしれない、と考えると、彼は笑いがこみあげてくるのを抑えられなかった。これは大騒ぎになる。彼の名前が出る。新聞に彼のことが載る。そうすれば大金持ちの患者たちがわんさか押しかけてくる。しかし、そのための行動計画をどのように立てればいいものか? どうやって自分を売り込み、自分に頼るようにもって行けるか?
考えた挙句、ある考えが浮かんだ。良い考えだと自分でも思った。彼はマルグリット嬢に向かって歩いていった。彼女は肘掛け椅子にぐったりと座り、泣いていた。彼女を指の先でつつくと、彼女は身を起こした。
「もう一つ質問があります」 彼は自分の声に可能な限りの仰々しさを込めた。「シャルース伯爵が今朝飲まれた水薬は何であったか、ご存じですか?」
「ああ、存じませんわ!」
「それを知ることは、私の診断の正確さのために非常に重要なことでしてね。その小壜はどうなりましたか?」
「伯爵が書き物机の中にしまったと思います」
医師は暖炉の左にある家具を指さした。
「あれですか?」
「ええ、そうです」
彼は躊躇したが、それを振り切って言った。
「その壜を取り出していただく訳にはいきませんか?」
マルグリット嬢の顔が赤くなった。
「わ、私、鍵を持っておりませんので」と彼女は見るからに当惑して口ごもった。
カジミール氏が進み出た。
「鍵は伯爵のポケットの中にあると思われます。もしお嬢様のお許しがあれば……」
しかし彼女は後ずさりしながら、書き物机を守ろうとするかのように両腕を広げた。
「いいえ、駄目です」彼女は叫んだ。「この机に触れてはなりません。私が禁じます……」5.23