エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-VI-13

2023-02-28 09:42:10 | 地獄の生活

パターソンさんは現在大きな工場を経営しているのよ。だから喜んで私たちの力になってくれるわ。大丈夫、私たちは誰かの世話になるわけじゃない。あなたが働くという決心をしてくれたら……」

 この言葉に、ウィルキーは激昂して立ち上がった。

 「ちょっと!」と彼は遮った。「どういうことですか。全く意味が分かりません。この僕にパターソン氏の工場で働けとお母さんは言っているのですか? ……そんな! はっきり言いますが、それは悪い考えですよ……」

 ウィルキーの言葉、その口調、そのときの身振りにはもはや疑念を挟んだり幻想を抱く余地はなかった。彼はいわば、彼という人間を余すところなく赤裸々に暴露して見せたのだった。マダム・ダルジュレは自分がどんなに酷い思い違いをしていたかを悟った。目から覆いがはらりと落ちた。彼女は自分の夢想と現実とを取り違えていたのだ。自分自身の心の願いの声がそのまま息子のそれだと思っていた。

 最初は打ちのめされたが、彼女は身をまっすぐに立て直すと、苦痛と怒りのため全身をわなわなと震わせながら叫んだ。

 「ウィルキー! このならず者! お前は一体何を臆面もなく期待していたの?」

 そして彼に答える時間を与えず先を続けた。

 「さしづめ、愚かな好奇心ね。それに背中を押されてやって来たんだわ。お前が湯水のように遣って来たお金がどこから来るのか、どうしても知りたくなったのね。なら教えてあげる。お前が生きるためにどんな代償を払っていたか、お前の惨めな母親がどんな犠牲を払ってきたかを。ああ、それを一目見たかったのね。いいわ、見ればいい。ここは賭博の溜り場よ。身分の高い人々が集う悪所だから、警察も禁止できず無視している。聞こえてくるざわめきは博打打ち達のものよ。私の家で人は破産するの。ここから帰ると脳天をぶち抜く惨めな人たちがいる。礼節もなにもかなぐり捨てていく人たちもいる。でもそうやって私は儲けているの。百ルイのバンコが成立する度に私の金庫に一ルイ入る仕組なの。お前の懐を潤しているのはそういうお金なのよ……」

 あれほど心弱ってぐったりしていたその後に続くこの怒りの爆発、あれほどの卑屈さの後に続いたこの威丈高な態度はウィルキー氏を多少驚かせた。

 「ああ、どうか、あの、聞いてください……」と彼は繰り返し言い続けていた。しかしいくら彼女に聞いて貰おうとしても無駄だった。

 「考えなし!」彼女はなおも続けた。「お前はここに来ることしか頭になかったのね。そんなことをすればお前の財源が干上がってしまうことになるのに。すべてが終わってしまうってこと、考えつかなかったのね。この私、マダム・ダルジュレに『ああそのとおり、お前は私の息子』と認めさせた途端に」2.28

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2-VI-12

2023-02-26 09:59:41 | 地獄の生活

あなたは僕のお母さんなんでしょ? お母さんが何をしてきたか、そんなこと僕には関係ありません。僕はね、人の意見なんて気にしないんです。僕はまず自分の好きなようにやる。その後で他の人に相談するんです。それじゃ気に入らないっていう人にはこう言うんです。いいから黙っててくれないか、ってね」

 マダム・ダルジュレは喜びにうっとりしながら息子の言葉を聴いていた。彼の言葉遣いの奇妙さに違和感を覚え、なにか気がついてもよさそうなものだったが、残念ながらそうはならなかった。彼女の目は何も見ず、ただ一つのことしか頭になかった。息子が自分を撥ねつけたりせず、立派に自分を受け入れてくれたということ、自分のために身を捧げてくれるのだということしか……。

 「ああ神様!」と彼女は呟いていた。「これは本当に現実のことでしょうか? ……私はこれからあなたと一緒に生きていっていいの? ああ、急いで答えなくていいのよ。そのためにどんな犠牲を払わなくてはいけないか、よくよく考えてからでいいのよ……」

 「すべて考えた上でのことです、お母さん!」

 彼女は感激と希望で身体を震わせながら立ち上がった。

 「それなら私たちは救われたのね!」と彼女は叫んだ。「あなたに私の秘密を教えた人に幸あれと祈るわ! それなのに私ったらあなたの勇気を疑っていたのよ、ウィルキー! これで私の地獄が終わるわ! 早速今夜にでも私たち二人でこの舘を出ましょう。そして二度と振り返らないのよ。私はもう二度とこの自分のサロンには足を踏み入れないわ。あの嫌な賭け事師たちはもう私を見ることはない。リア・ダルジュレは死んだのよ」

 ウィルキー氏は甘い夢から突然現実に突き戻されたような顔になった。

 「え、なん、何ですって、ここを出るって!」彼はどもりながら言った。「で、どこへ行くっていうんです?」

 「誰も私たちのことを知らない国に行くのよ、ウィルキー、私のことであなたが恥ずかしい思いをすることのない場所へ……」

 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……僕が言ったのは……」

 「私にお任せなさい、息子よ……ロンドンの郊外にとても気持ちの良い村があるのを知っているの。そこに住む家を見つけましょう。私にはイギリスにたくさん知り合いがいるから、よそ者には冷たいと言われるイギリスでも何も心配することはないわ。2.26

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2-VI-11

2023-02-23 09:13:29 | 地獄の生活

彼は自惚れの強さと同じぐらい、情にほだされない強かさを持った男だった。母親から炎のような接吻を受けつつ、その下では氷のように冷静だった。実際、内心ではぶつくさ不平を言いながらも表面上は不承不承されるがままになっていたが、それはぎりぎりの我慢をしていたのであり、どのようにこの場面にけりを着ければよいか分からなかったためである。

 「いつまで続くんだよ」と彼は思っていた。「これは人気のある証拠だな。俺って人に好かれるタイプなんだ。コスタールとセルピヨンが見たら大笑いするこったろうて!」

 コスタールとセルピヨンとは彼の友人で、かの『ナントの火消し』の共同所有者である。しかしマダム・ダルジュレはこの突然の出来事で動転していたのと、気の毒なことに、喜びに舞い上がっていたため、息子の表情が控え目に言っても奇妙なものであることに気がつかなかった。息子を自分の目の前の椅子に座らせると、どうにも止まらない能弁さで言葉を続けていた。

 「ねぇウィルキー、あなたをこうやって抱きしめる幸せが許されるとしたら、それは私の方からあなたを探し出したんじゃないからだわ。二度とあなたには会わないという誓いを自分から破ったわけではないもの……。私、この部屋に入ってきたときには全てを否定するつもりだったのよ。何を言われようと、あなたは誰かに騙されているのだということを納得させよう、と固く決心していたの。ああ私がその意志を押し通せなかったのは私の罪ではないわ。そのことは神様が御存知よ! そんなこと、人間業では到底出来っこないことですもの……。

 ウィルキーは仕方なく笑ってみせた。

 「ああ、もちろん、お母さんの葛藤はよく分かっていましたよ」と彼は訳知り顔に答えた。「でもこの情報は確かな筋からのものでした。それに、僕は易々と一杯かつがれるような人間じゃありませんよ……」

 マダム・ダルジュレは聞いていなかった。

 「こうなったのは運命なのよ」彼女は喋り散らしていた。「新しい人生を始めるべきだというお告げだわ。あなたが居てくれたら、ウィルキー、私はまだ幸福になることができるんだわ。もう随分昔から、私にはこの世に希望なんてないと思っていたの。でも……あなたには忘れる勇気が持てて?」

 「え、何をですか?」

 彼女は顔を伏せ、殆ど聞き取れないような声で答えた。

 「過去をよ、ウィルキー……」

 しかし彼の方では、この上なく鷹揚な態度で指をぱちんと鳴らすと大声で言った。

 「そんな! 過ぎた事は過ぎた事ですよ! 過去のことなんか覚えてる人はいませんって。パリにはそういう人は一杯いるんですから!2.23

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2-VI-10

2023-02-20 10:11:05 | 地獄の生活

 「マダム!」

 彼女は深く溜め息を吐くと、押し殺したような声で言った。

 「マダムだなんて! お母さんとは呼んでくれないの?」

 「僕がですか!そ、それはもちろん! でもですね、そういうのは習慣の問題で……時間が掛かるんですよ……でもそのうち慣れます」

 「そのとおりね! ……本当にそうだわ!……でもそう言ってくれたのは同情からだけじゃないわね。あなたは私を憎んでいるでしょ。呪ってもいるに違いないわ。ああ地獄の責め苦だわ! 女は物心つくや否や、いつもいつも『身を慎め!』と言われるでしょう。……『お前の息子もいつか二十歳になる。そしてお前はその目に射すくめられることになるのだ……彼はお前の恥を自分の恥とせねばならないその釈明を求めるだろう!』 ああ神様! こんな風に考えていたら、女は罪を犯すことなどないでしょうに……このような恥ずかしい惨めさの極致に貶められて、自分の息子の前で顔を上げることもできないなんて! ああ私はなんと不幸な女! あなたが私を軽蔑せずにいられないことは分かりすぎるほど分かっているのよ……」

 「そんな、そんなことは決してありませんよ! ……考えすぎです」

 「私を許すと誓ってくれる……」

 「神かけて誓います!」

 哀れな女の顔はパッと輝いた。そう信じたいと彼女は願っていたのだ……。過去が恐ろしい姿で立ち上がっていたこの瞬間には、彼女に安堵を与えるにはそれで十分だった。しかし今、彼女の息子はすぐそばに立っているではないか。彼女の髪に掛かる彼の息を感じるほどに……。それは確かに彼女の息子であった。今まで本当に離れ離れだったなどということがあり得るのか? 彼女にはそれが疑わしいとさえ思えた。それほどまでに、意識の中では彼女は息子のそばで生きてきたのだ。そのことを思うと、彼女は頭が変になるほどの恍惚感に捕らわれた。彼女の眼は優しさを求めて彼に哀願していた。彼女は震えながら唇を差し出した……が彼の方では見ていなかった……。長い間彼女は拒否されるのではないかと恐れながら躊躇していた。が、ついに何ものにも勝る強い力に身を委ね、彼女はウィルキー氏の首の周りに両腕を投げかけ、彼を引き寄せると、引き攣ったように胸にしっかり抱きしめた。

 「わたしの坊や!」と彼女は繰り返していた。「あなたをこうやって抱きしめることができるなんて……こんなに長い時間が経った後で!」

 ところが残念ながら、ウィルキー氏が我を忘れるほどの激情というものは世の中に存在しなかった。そもそも初手から彼としては感情の最高潮に達していたので、彼の精神は高揚するどころか、今や冷ややかさを取り戻していた。2.20

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2-VI-9

2023-02-18 10:17:43 | 地獄の生活

しかし彼はその異様さに耐えていた。混乱したわけではなく、彼が感じていたのは一種の本能的な恐怖と同情が入り混じったものだった。自分が出現したためにこの哀れな女はかくも深い絶望の叫びを上げたのだ。その叫びがどのような意味を持つか、彼はさして深く理解したわけではなかったが、心を揺さぶられるものではあった。

 こういった錯綜する感情は何とも言えぬ居心地の悪さとなり、それが自分の弱さに起因するものであるかのように彼は苛立った。

 「また困ったことになったもんだ!」と彼は思っていた。「涙とか、メロドラマとか……女というのはどうしようもないな! 穏やかにおとなしく話し合えばしごく簡単なことなのに……」

 しかし、どうしたものか決心がつきかねて彼はぼんやりしていた。が、ドアに近い踊り場から足音が聞こえて来たとき彼は現実に引き戻された。誰かが入って来て見咎められる、と思った途端彼はぞっとした。物笑いの種になるかもしれないではないか。

 できる限り断固とした態度を取り、彼はマダム・ダルジュレの方に屈みこみ、両腕で抱え上げた。

 「そんなに泣かないでください」と彼は言った。「僕は困ってしまいますよ、本当に! さぁ、立ってください! 誰か来ますよ……聞こえますか?……人に見られますよ」

 彼はべらべら喋りながら彼女を立ち上がらせた。彼女は抵抗することもなく、すっかり弱り切った様子でぐったりと身を任せ、されるがままに肘掛け椅子まで誘導されると、どさっと座り込んだ。

 「ドタッときたか……今度は失神するんじゃないかな」とウィルキー氏は思った。「ああ、そいつは駄目だ……それはいけない……しかし、どうすれば?……誰か呼ぶ?」まさか。

いざとなれば何とかなるだろう。彼はマダム・ダルジュレの足元に跪き、彼女をそっと揺すぶった。

 「さぁさぁ、いいですか、気をしっかり持ってくださいよ」と彼は言い始めた。「どうしてあんなに興奮したりなすったんです? 僕はあなたを非難したりしていませんよ」

 マダム・ダルジュレはおどおどと卑屈な態度ながら、どこかに恨めしさを秘めた様子でゆっくりと覆っていた顔から両手を離した。そして涙に濡れた目を上げ、初めて息子と目を合わせようとした。

 「ウィルキー!」と彼女は呟いた。2.18

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