エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-VI-23

2023-03-28 09:48:09 | 地獄の生活

 この名前こそウィルキー氏の記憶に刻み込まれていたものだった。彼がごく幼い頃耳にした名前……。ジャック! そうだ、彼にお菓子や玩具を持って来てくれた男の名前がそれだった。その綺麗なアパルトマンに彼はほんの数日だけ滞在したのであった。というわけで彼は理解した。少なくとも理解したと思った。

 「あ~あ、ああ、そういうことか!」 彼はゲラゲラと、呆けたようなそれでいて獰猛な笑い声を上げた。「こりゃいいや! こちらさんは愛人てわけか。これは言っておかねば、是非とも言っておか……」

 彼は最後まで言うことが出来なかった。男爵が彼の胸ぐらを掴み、強靭な腕一本で服の上から彼を持ち上げるとマダム・ダルジュレの膝の前の床に投げつけるように彼を下ろし、怒鳴った。

 「謝れ、悪ガキ! 許してくださいとお願いするんだ! さもないと……」

 さもないと、の後に来るのは男爵の鉄拳らしかった。男爵は屠殺者のハンマーのような巨大な拳固をウィルキー氏の頭の上にかざしていた。

 さすがのウィルキー氏も怖くなった。恐怖のあまり歯がカチカチと音を立てた。

 「ゆ、許してください……」彼はもごもごと言った。

 「もっとはっきり言え……もっと大きな声で……御母上が返答できるようにだ!」

 母親の方は、可哀想に、何も耳に入らない様子だった。もう一時間も前から彼女の精神力は尋常ならざる試練を受け続け、今や限界に達していた。ついに肉体が先に降参し、彼女は消耗して肘掛け椅子に倒れ込み、何やらぶつぶつと呟いていた。おそらく息子を不憫がる言葉であろう……。男爵はしばらく待ったが、マダム・ダルジュレの目が固く閉じられたままなのを見て、ウィルキー氏に言った。

 「これがお前のしでかしたことだ。よく見ろ」

 そして先ほどと同じく、易々と彼の胸ぐらを掴んで立たせると、有無を言わさぬ調子ながらさっきよりは穏やかに言った。

 「服の乱れを直すんだ。さっさと」

 これは言われるまでもないことだった。トリゴー男爵が腕力に訴えるときは半端ではない。ウィルキー氏は男爵に締めつけられた際、服が滅茶苦茶になっていた。ネクタイはどこかに飛んで行き、シャツは皺だらけになり破れていた。ベルトのところまで開いている流行のチョッキは、今やボタン一つだけで惨めにぶら下がっていた。彼は一言も発さず、言われた通り身なりを整えようとしたが、手がブルブル震えていたためなかなか上手く行かなかった。やっと終えると、男爵が命令した。

 「さぁ、行け! この家に二度と足を踏み入れるんじゃないぞ。分かったな。もう二度と!」3.28

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2-VI-22

2023-03-25 11:14:20 | 地獄の生活

 負けようのないほど良い手のときわざと負け、あの馬鹿げた出来事のためにツキが変わってしまった、とぶつくさ言いながら彼は立ち上がった。そして隣のサロンに入って行き、誰にも気づかれぬように外に出た。

 「マダムはどこにおられる?」と彼は最初に捕まえた使用人に尋ねた。

 「夏の小部屋におられます」

 「一人で?」

 「いえ、若い男の方とご一緒です」

男爵は自分の推測が正しかったことをもはや疑わなかった。が、不安は二倍になった。勝手知ったる家だったので、彼は急いでその小部屋に走っていった。ちょうどそのとき、ウィルキー氏は自分の欲望が打ち砕かれたことに逆上し、恐ろしい剣幕で怒鳴っていた。男爵は恐怖を感じ、屈んで鍵穴から中を覗くと、ウィルキー氏が片手を振り上げるのが見えた。男爵はドアを開けるというより押し破り、あわやという瞬間ウィルキー氏を投げ飛ばし、息子に殴られるというこの上ない侮辱からマダム・ダルジュレを救ったのだった。

 「この、ろくでなし!」と義憤にかられた男爵は叫んだ。「悪党! 一文の値打ちもないへなちょこ野郎! お前のためにすべてを犠牲にしてきた可哀想な御婦人に対する仕打ちがこれなのか! お前の母親だぞ! お前はこの人の歩いた道に口づけをするべきなのに、こともあろうに殴ろうとするとは!」

 ウィルキー氏はまるで身体中の血が胆汁に変わってしまったかのように、顔色は鉛色になり、唇は渇き震え、目は飛び出さんばかりになっていた。彼はもがきながら立ち上がり、右手で左の肘をさすっていた。倒れた際に椅子の角にぶつけたのだ。

 「このどん百姓めが!」と彼は荒々しく呻った。「乱暴者! 馬鹿!」

 それから一歩下がりながら、言った。

 「誰がここに入っていいと言った? あんた、誰なんだ? 一体どんな権利があって、人のことに口出しをするんだ?」

 「まともな人間なら誰でも、卑劣な根性の若造をこらしめる権利があるのだ!」

 ウィルキー氏は両手で握り拳を作った。

 「卑劣なのはあんたじゃないか、この無礼者が!」と彼は言い返した。「誰に向かって話してると思ってるんだ! 少し態度を改めた方がいいぞ、あんたみたいな老いぼれの……」

 彼が発した言葉はひどく汚く下品なもので、心優しき人間には侮辱でしかない言葉の一つだった。「何だと!」 男爵は鞭打ちに使われる細い革紐で強く引っ叩かれたかのようになった。彼の大きな顔は脳卒中でも起こしたかのように紫色になった。目は稲妻のような怒りの光を放ち、その形相は物凄かったので、それまで半ば意識を失っているようにぐったりしていたマダム・ダルジュレがハッと身を起こした。恐怖に打ちひしがれている息子の姿を見、彼女は両手を広げて息子を護ろうとした。

 「ジャック!」彼女はたどたどしく口ごもりながら哀願した。「ジャック、お願い!」 3.25

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2-VI-21

2023-03-21 10:20:50 | 地獄の生活

 「ああ、僕にはあなたの腹が読めましたよ、お母上」と彼は歯ぎしりしながら叫んだ。「もしあなたが自分の権利をおとなしく行使していたなら、すべては何の支障もなく進んだでしょうに。そして僕は、僕の父がそれを知る前に相続財産を安全なところに移しておくことが出来たでしょうに……。ところがあなたは、そうはしなかった。僕が裁判に訴えざるを得ないようにして、僕の父の知るところとなるようにしたんだ。僕を憎んでいるからだ。そして父がすべてをかっさらって行く……。でも、そうはさせませんよ。あなたは今すぐ紙に書くんだ。あなたの兄の相続財産を受け取る、という」

 「そんなことしない!」

 「ああそうですか! そんなことしない、ですか……断るんですね!」

 威嚇しながら彼はマダム・ダルジュレに近づいて行った。そして彼女の腕を掴むと骨が砕けんばかりに締めつけた。

 「書くんだ!」と彼は耳を劈くような声で怒鳴った。「用心しろよ!……俺を怒らせるとどうなるか分かっているか!」

 マダム・ダルジュレは大理石よりも冷たく、暴力に屈しない殉教者の諦念を表していた。

 「お前は私からは何も奪えない」 と彼女は言い切った。「何も、何も、何も!……」

 怒りに我を忘れたウィルキー氏は腕を振り上げた……。

 しかしそのときドアが乱暴に押し開けられ、一人の男が表れて彼に飛びかかった。その力強い手がウィルキー氏の肩を襲い、殴ろうとしていた彼を投げ飛ばした。

トリゴー男爵であった。彼もまた他の客たちと同様、マダム・ダルジュレが一枚の名刺を受け取った途端、恐ろしい形相に打ちひしがれるのを見ていた。しかし彼は他の者たちが知り得ない彼女の突然の動転の理由が推測できた。

「誰かが裏切ったんだ。ああ可哀想に、あの様子を見ればわかる」 と彼は考えていた。「息子が訪ねてきたんだ」

 しかし、他の常連客たちが彼女のそばに走り寄っても、彼だけはゲーム・テーブルから離れなかった。彼はド・コラルト氏の真向かいに位置する場所に座っていたので、この美男の子爵が身体を震わせ、蒼ざめるのを見たように思った。彼の心に生じた疑念を彼は確かめたいと思った。そこで彼は常よりも更にゲームに熱中しているような態度を取り、他のプレーヤーたちが気を逸らしていることを厳しい口調でたしなめた。

 「さぁゲームに戻って! 皆さん方!」と彼は大声で言った。「さぁさぁ、大事な時間を無駄にしてしまいますぞ……あなた方がそこで油を売っている間に百ルイが動きますぞ」

 しかし内心では、彼は非常に心配していた。マダム・ダルジュレがなかなか戻ってこない間彼の不安は一分ごとに増大していった。一時間経っても彼女は戻ってこなかったので、ついに彼はこれ以上我慢できなくなった……。3.21

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2-VI-20

2023-03-18 10:13:45 | 地獄の生活

 ウィルキー氏は真っ青になった。

「そ、そんなの嘘だ」と彼は口ごもりながら言った。

「明日、私の結婚契約書を見せるわ」

「何故今夜じゃないんです?」

「今は部屋に人が一杯いるから」

「僕の父は何て名前なんです?」

「アーサー・ゴードンよ。アメリカ人なの」

「それじゃ僕は、ウィルキー・ゴードンという名前なんですね」

「そうよ」

すっかり動転した息子の顔をこっそり見てしまったマダム・ダルジュレは身を切られる思いだった。考え込んでしまった息子の口からどのような決意が洩れるのであろうか? しかし彼は何も言わなかった。ウィルキー氏は手の届かないところに逃げてしまったものを思って悔しがっていたのだ。自分が名乗る筈であったド・シャルースの名前、そして自分の馬車に描かせようと思っていた伯爵の冠を。

 「それで……僕の父という人は金持ちなんですか?」とやがて彼は尋ねた。

 「いいえ」

 「何をしている人なんです?」

 「贅沢が大好きで働くことが大嫌いな人間のすることは何でも」

 この答えは実に簡潔であり、かつ手厳しい非難を表していたので、ウィルキー氏は茫然とした。

 「くそっ!」と彼は叫んだ。「で、どこに住んでるんです?」

 「夏はバードかホンブルク、冬はパリかモナコよ」

そう聞いてウィルキー氏の脳裏にはすぐさま、緑のフエルト張りのカードテーブルに陣取っている怪しげな紳士たちの姿が浮かんだ。表面上は人当たりの良さそうな仮面を被っているが、その下には底知れぬ非道さ、冷笑、無頼、悪辣さ、そして堕落した人間性を隠している男たちの姿である……。

 「あ~あ、ああ、ああ、なるほどね」と彼は答えた。

 このような父親ならばどんなことをしそうか、彼は理解した。最初は茫然としたが、次には怒りが湧いてきた。カっと身体が熱くなるような怒りではなく、憤懣に満ちた苦い怒りである。抱いていた希望を嘲弄されたように思い、野望が潰えるのを感じた。贅沢、馬、黄色い髪の女たち、煌めき、スキャンダル……すべておじゃんになった。自分はわずかな小遣いをあてがわれ、いいようにあしらわれ、言いなりになる。あの『遊び人』の父のために。

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2-VI-19

2023-03-15 12:54:14 | 地獄の生活

僕にはその財産が必要だし、手に入れて見せますよ。だから、僕の言うことを聞いて、一番手っ取り早いのは貴女が自発的に僕を認知してくれることなんです。というわけで、さぁ、そうしますか? しない?……一度、二度、三度、どうです? やはり駄目! はい落札! 明日には印紙を貼った書類を受け取ることになりますよ……では、これで、失礼します」

 彼は実際別れのお辞儀をし、昂然と立ち去ろうとした。しかしドアノブに手を掛けたとき、マダム・ダルジュレが身振りで彼を押し留めた。

 「最後にもう一言だけ、いいこと?」彼女は喉を締めつけられたような声で言った。

 息子の方は振り返ることすらせず、苛立ちを隠そうともしなかった。

 「何ですか一体?」

 「最後に一言、警告しておくわ。おそらく裁判所はあなたの主張を認める判決をくだすでしょう。私は兄からの相続権を与えられるでしょうが……このことをよく覚えておきなさい。あなたも私もその財産を遣うことは出来ないということを」

 「ほほう! どうしてそうなるんです?」

 「遺産は私のものかもしれないけれど、その管理はあなたの父親がすることになるからよ」

 ウィルキー氏は飛び上った。

 「僕の父親!」と彼は言った。「そんな、あり得ない!」

 「でも、そうなのよ。あなたも疑うことはできなかったでしょうに。あなたがお金欲しさに心を奪われて私に尋ねることを忘れたりしなければ。あなたは自分が私生児だと思っていたかもしれないけれど、ウィルキー、それは間違いよ。あなたは嫡出子なの。私は結婚していたのよ……」

 「まさか!」

 「そして私の夫、あなたの父親は死んではいません。夫が、あなたと同じように恫喝するためにここに来ていないのは、私が居所を知られないようにしていたからよ。この十八年間、私たちがどうなったか知らないでいるわ。でもどこかで彼は見張っている。それは間違いないわ。ド・シャルースの財産を巡る裁判の噂を聞いた途端、彼は馳せ参じるでしょう。自分の権利を主張するために。彼が一家の共同財産を掌握する家長よ。私じゃない。あなたでもない。ああ、それを聞いて不安になったわね。彼がどれほど激しい金銭欲の持ち主か見れば分かるわ。二十年間貧乏の中で待たされたために欲望が更に拍車を掛けられていることでしょう。運を天にまかせることね……貪欲さにかけては彼はあなたの敵じゃない……いつの日か、母親からのしみったれた二万フランが有難かったと思う日が来るかもしれないわよ……」3.15

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