エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

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2020-07-31 09:46:38 | 地獄の生活

夫は重い足取りで出て行き、フォルチュナ氏はほっと一息吐いた。確かに、彼は今の場面で十分に冷静さを見せていたが、内心ではヴァントラッソンが自分に飛び掛かり、羊の肩肉のような大きな両手で打ち据え、小切手を奪い取り、燃やし、車道に投げ捨て、自分自身は殆ど死んだも同然の状態でぐったり横たわる図が頭に浮かんでいた。

今やその危険は去り、マダム・ヴァントラッソンまでもが、彼が待たされることにじりじりしないよう、慌てて彼の機嫌を取り始めた。このみすぼらしい店の中で一番まともな椅子を彼に勧め、是非何か飲んでいただかなくては、せめて甘口のワインでも、と主張した。彼女は酒瓶を引っかき回して探しながら、彼に礼を述べるのと愚痴をこぼすのを交互に繰り返していた。曰く、自分には泣き言をいう権利がある、自分にも良い時代はあった、が、結婚してからというもの呪いのようなものが掛けられてしまった、このような惨めな境遇に陥ることになろうとは夢にも思わなかった、あのシャルース伯爵のもとで働いていた幸福な時代には……。

フォルチュナ氏は、いかにも同情を持って聞いているという態度の下に、深い満足を隠していた。十分な計画もなしにやって来たというのに、この事態は彼が期待し得たより千倍も好都合に進んでいるではないか。彼はヴァントラッソン夫妻に対し訴訟に持ち込む権利を保留することで彼らの信頼を得、巧みに夫人と二人きりで話しをする機会を得たのだ。それどころか、この夫人は、彼が尋ねようと目論んでいた質問をする前に、自ら進んでごく自然に話し出してくれたのだ。

「ああ!今でもシャルース伯爵のところで奉公をしていればねえ!」と彼女は言っていた。「給金は六百フラン、それと同額の贈り物、だから実質その二倍だったですよ! ……ああ良い時代だった! それが、こんなことになって!人は自分の運命に満足しないもんなんですね。それに、始末の悪いことに、人には心てもんがある……」

彼女は、客にお出しすると言った『甘口のワイン』を探し出すことが出来なかったので、カシス(クロフサスグリの実のリキュール)をブランデーで割ったもので代用することにし、カウンターに置いた大きなグラス二つに半分まで注ぎ入れた。

「ある夜のことですよ、不幸が始まったのは」と彼女は言葉を続けた。「ルドゥットのダンスホールでヴァントラッソンに出会ったんです。十三日のことでした。だから用心しなくちゃいけなかったのに!そんなこと、出来なかったんですよ。ああ、あのときのあの人の姿を見たら! 素敵な軍服姿でね。パリ共和国衛兵隊に入ってたんですよ、あの人は。女たちはもう皆夢中でね……あたしもすっかり目が眩んじまった……」

彼女の口調、身振り、傷を負った唇をすぼめる仕草などすべてが、苦い失望と取り返しのつかない後悔を物語っていた。

「ああ!見てくれの良い男たち!」彼女は言い継いだ。「何も仰らなくて結構……こいつはね、あたしの金に目をつけたんです。あたしは一万九千フランを貯めてましてね。結婚してくれないか、とあたしに言ったんですよ。あたしは愚かにも承知しました……ええ、愚かですとも。だってあたしは四十歳だったのに、彼は三十歳。あいつが欲しかったのは、あたしじゃなくて、あたしの金だってことに気がつくべきでしたよ……。結局、あたしは勤めを辞め、彼をずっとあたしの傍に置いておくために、あいつに兵役代理人まで買ってやったんですよ。(革命直後の1792年、軍隊補強の必要に迫られた立法議会は志願兵を募ったが、戦役は毎年12月1日に終わる、とされていたため、軍隊は人員の不足に悩まされ、義務的な兵役制度を作る必要に迫られた。選考には従来の抽選・指名の方法が用いられたが、一方で代理人制度が明記された。これは金持ちに革命への資金貢献を求める意図であったが、実際には富裕層を兵役から免除する結果となった。)

彼女は過去の自分の信じやすさを思い出し、次第に興奮し、悲劇的な身振りで、これらのあまりに残酷な記憶と決別しようとでもするかのように、グラスを掴み、一息に飲み干した。但し、客に次の一言は忘れなかった。

「あなた様の健康に!」7.31

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2020-07-28 08:55:48 | 地獄の生活

「それがどうした? 俺が今までに告訴されたことがないとでも思うか? 何にもないところからは、たとえ王様だって何も取り立てることは出来ねんだよ。ここの貸し間の家具は古物商のものだ。俺の店は百エキュの値打ちもない。あんたの上司が、俺にはその手間を掛けるだけの値打ちがないってことが分かったら、俺を放っておいてくれるだろうよ。俺みたいな男からは何も取れねえよ」

「そう思いますか?」

「ああ、思うとも」

「残念ながら、またあんたは間違っている。あんた宛ての小切手を持っている人は金を取り戻すことに固執しているわけではない。そんなことではなく、自分の取り分など構わないから、あんたに苦痛を与えてやりたいと思っている……」

ここでフォルチュナ氏は、憐れな債務者が裕福な債権者によって告訴され、追い詰められ、執拗に悩まされ、どこまでも追跡され、着替えの服までも差し押さえられるという悲惨な図を描いて見せた。ヴァントラッソンは恐ろしいまでに目をぎょろつかせ、威嚇的な握り拳を振り回したが、彼の妻は明らかに恐怖に度を失っていた。彼女はもはや耐えられなくなり、突然立ち上がると、夫を店の奥の方まで引っ張って行きながら言った。

「こっちへ来な。話があるんだよ」

彼は従い、二人は二、三分の間激しい身振りを交えまがら低い声で話し合っていた。彼らが戻ってきた時、口をきいたのは妻の方だった。

「お願いしますよ、旦那。あたしたちゃ今一文無しなんですよ。商売はうまく行かないし、告訴なぞされた日にゃ、あたしたちゃおしまいですよ……。どうすりゃいいんです? 見たところ、あんたは良さそうな方だし、どうすりゃ良いか、言ってくさいまし」

フォルチュナ氏は黙っていた。考え込んでいるような様子をしていたが、やがて突然言った。

「むろん、そうです! 気の毒に! 不幸な者同士は助け合わなくちゃいけません。あなた方に本当のことを言いましょう。私の上司は悪い人間ではないのです。復讐してやろうなんて思っちゃいません。だから私にこう言ったのです。『ヴァントラッソン夫妻に会いに行ってこい。実直な人たちだという印象を受けたら、彼らに和解案を提示しなさい。もし彼らがそれを受け入れたら、債権者も満足するだろうから』と」

「その和解案というのは?」

「こういう内容です。一枚五十サンチームの証紙に、この金額を承認し、毎月一定の額を払い込む旨を明記してくだされば、引き換えにこの小切手をお渡しする、という」

夫婦は目で相談し合った。それから妻の方が言った。

「受け入れます」

しかし、印紙を貼った用紙が必要だったが、自称執達吏の見習いはそれを所持していなかった。この状況は彼の熱意を冷ましてしまい、和解案を示したことを後悔しているかに見えた。彼がその提案を引っ込めたとしたら?と考えると、マダム・ヴァントラッソンは震え上がった。彼女は荒々しく夫の方に向き直った。

「レヴィ通りまでひとっ走りしてきな」彼女は言った。「タバコ屋なら、必要なものを置いてるだろうよ」7.28

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2020-07-27 07:01:40 | 地獄の生活

カウンターでは五十代の女が座り、煙にまみれたランプの光で、汚れたペチコートの繕いをしていた。彼女は太っていて背が低く、不健康な脂肪を貯め込みすぎてむくんでいるといった様子で、おまけに血管に血の代わりに胆汁が流れているかのように顔色が青白かった。彼女の平たい顔、突き出た頬骨、そして後方に反り返った額が、人を不安にさせるような意地悪と悪巧みの表情を与えていた。

店の奥の方の薄暗がりの中には男のシルエットを見ることが出来た。彼は背もたれのない腰かけに座り、両腕を丸くしてテーブルに乗せ、頭をその上で支えながら眠っていた。

「こりゃ、ついてますぜ!」とシュパンはフォルチュナ氏の耳に囁いた。「店にゃ客が一人もいない。ヴァントラッソンとかみさんの二人だけだ」

彼には、この状況がボスの気に入らない筈がない、と確信があった。

「てわけで、旦那」とシュパンは続けた。「ご心配にゃ及びませんや。あっしはここにいて、ちゃんと見張ってますぜ。どうぞ、お入んなすって」

彼は入っていった。ドアが音を立てたので、太ったおかみさんは繕い仕事の手を止めた。

「いらっしゃいまし。何にいたしましょうか?」とおかみさんは猫なで声で尋ねた。

フォルチュナ氏はすぐには答えなかった。彼はポケットから持ってきた小切手を引っ張り出し、それを見せながら言った。

「私は執達吏の見習いだ。この小切手に書かれてある金を受け取りに来た。五百八十三フラン、商品と引き換えに振り出されたものだ。ヴァントラッソンの署名がある。裏書はバリュータン……」

「小切手だって!」とおかみさんは叫んだ。その声は突然鋭いものに変わった。「あんまりじゃないか!ちょっと、ヴァントラッソン、起きなよ。ここに来て見てみな」

この叫びは無用だった。『小切手』という言葉で、亭主は頭を持ち上げていた。バリュータンという名前を聞くと、彼は立ち上がり、重いふらつく足取りで近づいてきた。まるで酔いの残りが脚に残っているかのように。彼は妻より若く、背が高く、体格のよい、典型的な運動選手タイプだった。顔立ちはそれなりだったが、酒盛りやあらゆる種類の下劣な習慣の過多により、すっかり崩れ、彼の人相は御しがたい愚鈍さしか現していなかった。

「あんた、何を言ってるんだ?」と彼はしわがれた声でフォルチュナ氏に尋ねた。「これは何かの冗談か。支払い期日の十月十五日に金を取り立てにやって来るってのは? 女管理人が鞄を持って帰った後は、金なんか残ってるわけないだろ?それに、なんだ、その小切手は? よこしてみろ。調べてみるから」

フォルチュナ氏は軽率なことはしなかった。彼はちょっと離れたところから小切手を見せ、その後読んで聞かせた。彼が読み終えると、相手は言った。

「その小切手は十八カ月も前に期限切れになってる」とヴァントラッソンは冷たく言い放った。「何の価値もありゃしねえ」

「それは違う! 約束手形というものは、拒絶証書作成の日から五年間が有効です」

「それはそうかもしれない。しかしバリュータンは倒産して、とんずらをかまし、誰も行方を知らねえってわけだから、俺は放免なんじゃないのか……」

「それも間違いだ! あんたは、バリュータンがこの小切手を売却した相手に五百八十三フランを支払う義務がある。その相手は私の上司に告訴を命じた……」

ヴァントラッソンの両耳に血が上り真っ赤になり始めた。7.27

 

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2020-07-25 08:55:33 | 地獄の生活

実際、この暗い夜、がらんとした広い道路、しかもこの天候でこの時間となれば、誰しも不安を覚えるのは当然であろう。雨はやんでいたが、突風は激しさを増し、木々を捻じ曲げ、屋根のスレートを引き剥がし、街灯を激しく揺さぶったためガス灯は消えていた。どこを歩いたらいいか分からぬぐらい、道はくるぶしの高さまで泥で覆われていた。人っ子一人見えず、生命を感じさせるものとてなく、時たま通る馬車も早や駆けで去って行った。

「どうなんだ」フォルチュナ氏は十歩歩くごとに尋ねた。「まだか?」

「もうすぐですよ」

シュパンはそう答えたが、実際のところ彼は分からなかったのだ。方向を見定めようとして、上手く行かないでいた。家はまばらになり、空き地はますます多くなって、ところどころに見えていた灯りも殆ど見えなくなっていた。十五分ほど難儀な行進を続けた後、ついにシュパンは喜びの声を上げた。

「分かりやしたよ!ここだ、ここだ。ほら!」

暗闇に六階建ての巨大な建物が、荒廃し、陰気な様子で、ぽつんと立っているのが見えた。それは崩れかかっており、壁には縦横に亀裂が走っていたが、それでもまだ完全に廃墟と化しているわけではなかった。ここで事業を始めようとした投機家が、完成まで漕ぎつけることが出来なかったのは明らかだった。建物の正面に夥しい数の窓が互いに近接しているのを一目見れば、どういう目的でこれが建てられたか、誰でも推測出来た。が、それでも間違いなく分かるよう、四階と五階の間にそれぞれ一メートルもあるような大きな文字でデカデカと『高級家具付き貸間』と書かれてあった。

高級家具付き貸間!誰でもすぐ分かる。たくさんある部屋、皆小さく、不便で、途方もない家賃が付けられているやつだ。ただヴィクトール・シュパンの記憶は間違っていたようだ。この建物は道路の右ではなく左側にあった。フォルチュナ氏と彼は泥の河と化した車道を渡らねばならなかった。目が暗闇に慣れてきたので、彼らが近づくにつれ、細かいところまで見えてきた。この建物の一階は二つの店舗に分けられていたが、そのうちの一つは閉まっていた。もう一つはまだ開いていて、不潔な赤いカーテン越しに光が漏れていた。この二番目の店の上に看板が出ており、店主の名前が書いてあった。ヴァントラッソン、と。そして名前の両脇にはもっと小さい字で、『乾物及び食料品、高級及び舶来ワイン』と書かれてあった。こんなところで飲み食いをしようとやって来るのはどのような客層だろうか。そして一体何が供せられるのであろうか? こう考えるとシュパンでさえ震え上がった。このみすぼらしい家には嫌悪感を起こさせる不潔さ、見捨てられた印象が充満しており、極貧と卑しさを露呈していた。

フォルチュナ氏はひるみはしなかったが、中に入る前に、内部を覗いてみることは辞さなかった。彼は非常に用心深く近づくと、目をガラス戸に押しつけるように、赤いカーテンが大きく破れている箇所から中を覗いた。7.25

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2020-07-24 09:03:49 | 地獄の生活

掏り切れ、垢でテカテカになった古いフロックコートを着ていたが、それは膝を隠すほど丈が長く、極端に形の歪んだ長靴を履き、くず屋でも被らないような帽子を被っていた。首の周りにはいつものエレガントなサテンのネクタイの代わりに、すっかりボロボロになったネッカチーフを結んでいた。ブルス広場界隈では評判の良い、金回りのいいフォルチュナ氏は殆ど消え失せ、残っているのは顔と手だけだった。外見は、貧しいのを通り越した、惨めな、空きっ腹を抱え死にそうな、生きていくためにはどんなことでもやる、もう一人のフォルチュナ氏であった。ところが、このぼろ着を身にまとった彼はくつろいでいるように見えた。この服は彼に似合い、長年着慣れているかのように柔らかくなっており、身体がどんな動きをしても無理がなかった。蝶が毛虫に戻ったのだ。シュパンの顔に賛嘆の笑みが広がったところを見れば、彼の苦労が報われたというものだ。シュパンが承認するのであれば、ヴァントラッソンが彼を彼がそう見せたい人物として受け取るであろうことは間違いない。つまり、他の人間の利害のために働いている貧しい男、と。

「さあ行こう」と彼は言った。

しかし出発しようとした瞬間、控えの間で、彼は一番大事な命令を伝えるのを忘れていたことに気がついた。彼はマダム・ドードランを呼び、彼女がこんな格好をしている彼を見て目を剥いているのには気づかぬ風で、こう言った。

「もしヴォロルセイ侯爵が見えられたら……見えることになっているんだが、お待ちいただくように言うんだ。真夜中前には戻りますから、と。彼を私の仕事部屋に入れるんじゃないぞ。サロンで待たせるんだ」

この最後の命令は少なくとも無用なことだった。というのは、フォルチュナ氏は彼の仕事部屋に鍵を二重に掛け、その鍵は抜かりなくポケットにしまったからだ。おそらく彼は上の空だったのだろう。それに彼は先ほどの怒りも自分の損失もすっかり忘れてしまったかのように、まるでこれから楽しみな夜会に出かける男のように上機嫌だった。

シュパンが御者台に上がろうとする素振りを見せたときも、彼はそれを制し、馬車の中に入って自分と並んで座るよう命じた。行程はさほどでもなかった。馬は良い馬で、御者は飛び切りの酒代をはずむと約束されていたので。フォルチュナ氏と彼の部下シュパンはアスニエールの門に四十分足らずで着いた。

出発時に命じられていたように、御者は城壁跡の外、道の右側で馬車を停めた。入市税納税所の鉄格子から百歩ほどの場所である。

「さあ、旦那、ちゃんとお連れしましたぜ」御者は馬車のドアを開けながら要求した。「ご満足でしょ?」

「大変満足だ」とフォルチュナ氏は答え、シュパンに助けられて地面に降りた。「そら、これが酒代だ。今からはわしらを待って貰わにゃならん。ここから動かんだろう?」

しかし御者は首を振った。

「いやいや、旦那さえよけりゃ、あっしは納税所の前で停めときたいですね。ここじゃ、うっかり寝込んでしまうかもしれないんで……あそこに行きゃ……」

「よし、わかった。行け」

御者のこの用心ぶりを見るだけで、パリのこの界隈の悪評についてのシュパン言葉が誇張でないことがフォルチュナ氏にも分かったことであろう。7.24

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