エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-XI-12

2024-05-31 07:06:43 | 地獄の生活
夫人は立ち上がり、きびきびした動作で引き出しから一枚の汚れてくしゃくしゃになった紙を取り出し、息子の前に置くとこう言った。
 「これをよく読んで頂戴」
 それはマダム・レオンがパスカルに手渡した鉛筆書きの走り書きのメモだった。パスカルはこれを街灯の灯りで読むというより推測しながら目で追ったものだった。彼は帰宅するなり、それを母の手に投げ捨てるように渡したのだったが、母はそれを残していた……。
 この走り書きを受け取った夜、彼はその内容の残酷さにショックを受け、何も考えられない状態だったが、今はそんな支障もなく至って冷静な判断が出来た……。ほんの数行に目を通しただけで、彼は身体を硬直させ、顔は蒼白に険しくなり、いつもとは全く違う声で言った。
 「これを書いたのはマルグリットではありません!」
  この意外な発見にパスカル自身も仰天していた。
 「僕は頭がどうかしてたんだ」と彼は呟いた。「完全に狂ってた!……こんなお粗末な偽物、一目見るだけで分かりそうなものを!僕はなんでこんな物に騙されていたんだろう?」
 それから、一つ一つ論証する必要があるかのように、母に対してというより自分自身に対して言葉を続けた。
 「筆跡は、確かにマルグリットのものにかなり似ている。文字を真似ることに関しては、そこそこ上手く出来ている……しかし鉛筆で走り書きされた文字は多かれ少なかれ似通っているものではないだろうか……一つはっきり言えることは、率直そのものというのがマルグリットの特徴だ。彼女なら、こんなわざとらしい書き方はしない。これじゃまるで俗悪なメロドラマの長台詞じゃないか……。全く!これが彼女の書いたものだなんてよく思えたもんだ。
『死の床にある人にどうしてもと懇願され、立てた誓いに背くことは出来ません。たとえ私の胸が張り裂けようとも、私は誓いを守ります……』 これは本当に陳腐だな。それにこの個所もそうだ。『かつて貴方を深く愛した女のことはもうお忘れになって。その女は今や別の方の婚約者です。そして女の貞節が、貴方の名前までも忘れろと命じているのです!』」
 彼は通俗的な芝居で使われる抑揚をつけてこれらを朗読した。そうするとその滑稽さがくっきり浮き出た。実際、彼のこの行為はいささかやりすぎであった。望外の喜びが脳に伝えられ、この高揚感を促したのであろうか。
 「それにこれらの綴りの間違いはどうです」と彼は続けて言った。「お母さんも気づいたんですね。『命じる(commander)』はmが一つしかないし、『懇願(supplier)』にはpが一つ、『厳かな(solennel)』はlが二つ、nが一つだけです。急いでいたからうっかり間違えてしまった、とは考えられない。無知であることの証明です。なぜなら同じ間違いが殆ど常に繰り返されているから。この偽手紙を書いた人間は繰り返される文字を一つ省略する癖がある……」
 フェライユール夫人は無表情で聞いていた。これらの欠陥について彼女は既に頭の中で何度も反芻していた。この三日間というもの、何らかの手がかりが得られるのではないかとこの走り書きを矯めつ眇めつ眺めていたのだから。5.31
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2-XI-11

2024-05-24 06:40:27 | 地獄の生活
「ええ、そうよ!」
彼女は一瞬怯んだかのように見えたが、ややあって言った。
「お前は私に言いましたね? マルグリット嬢の教育は幼少時に捨てられたことによって損なわれはしなかったって……」
「ええ、その通りです」
「彼女は勇気を持って一定の教育を受けることを選んだ、と?」
「マルグリットは高い能力を持った子女が四年間の教育で得られることのすべてを身に着けています。彼女の境遇が著しく不遇だったとき、勉強だけが彼女の唯一の避難場所であり、安らぎの場だったのですから……」
「彼女がお前に手紙を送ってきていたとしたら、それはフランス語で書かれたものでしょうけど、綴りの間違いが一杯あったのではないこと?」
「そんな、まさか!」とパスカルは叫んだ。
ある考えが閃いたので、彼は口をつぐみ、自分の部屋へと走って行った。やがてすぐ戻ってきて、手にした手紙の束をテーブルの上に投げ出し、言った。
「さぁ、お母さん、読んでください!」
フェライユール夫人はゆっくりした動作で眼鏡をケースから取り出し、束ねられた豊かな灰色の髪の下に差し込み、低い声で読み始めた……。それは長い時間だった。
テーブルに両肘をつき、顔を両手で挟んでパスカルは母の顔に浮かぶどんなに僅かな印象も逃すまいと全神経を集中させた。
明らかに彼女は驚いていた……。マルグリット嬢からの手紙の中にこれほどまでに高尚な感情が吐露されているとは思っていなかったのだ。彼女自身に引けを取らないほどの精神性、そして彼女自身の偏見のこだまさえ、そこには表れていた……。というのも、マルグリット嬢の考えはフェライユール夫人のそれと奇妙に一致するものだったからだ。何度も彼女は自分の出生と過去が、彼女とパスカルの間に大きな溝を作っているのではないかという悩みを打ち明け、かの老治安判事が彼女の身の上話を聞いた後に言ってくれた言葉に慰められたと書いていた。『もし私に息子があれば、貴女のような方に愛されることを誇りに思います』という。
 やがてすぐに、フェライユール夫人が心を動かされていることは明らかになった。彼女の表情は優しくなり、一度など眼鏡を持ち上げ涙をそっと拭ったりしたので、パスカルの心は喜びに弾んだ。
 「これらの手紙は素晴らしいわ」と彼女ははっきりと言い切った。「修道女様に育てられただけの娘がこれほどの気高い感情を表現できるなんて、かつてないことだわ……ただ……」
 彼女は言葉を止めた。息子の気持ちを傷つけたくないと慮ってのことだったろうが、パスカルに促され、彼女は言葉を続けた。
 「ただ、これらの手紙がお前に宛てて出されたという点だけが過ちね、パスカル」
 しかし、これが彼女の手の施しようのない頑固さから来る最後の抗議であった。
 「今度は、お前にちょっと待って貰うわ。母を裁く前に!」5.24
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2-XI-10

2024-05-17 07:02:29 | 地獄の生活
このような気の滅入る考えで頭が一杯になり、食事の間中パスカルはずっと不機嫌な沈黙を続けていた。母が彼の皿に一杯盛り付けてくれたので、彼は機械的に食べ物を口に運んでいたが、出されたものがどんな料理だったか言ってみろと言われたら全く答えられなかったであろう。
しかし、ささやかではあっても、この料理は素晴らしい出来であった。『高級家具付き貸し間』のおかみさんであるヴァントラッソン夫人は料理人としてかなりの腕前だったのである。そして今夜の食事は彼女の実力以上の出来栄えだった……。ただ、期待した誉め言葉が貰えなかったことで、彼女の料理名人としての虚栄心が傷つけられた。辛抱しきれなくなって彼女は四、五回も「料理はどうでございますか?」と聞いたのだが、返ってきたのは実にそっけない「大変結構」だったので、この味の分からぬ惨めな連中に二度と自分の才能を無駄遣いするものか、と彼女は心に誓った。
実はフェライユール夫人も息子同様、沈黙を守り急いで食事を終わらせようとしていた。明らかに彼女もヴァントラッソン夫人を一刻も早く厄介払いしたくて堪らない様子であった。というわけで、貧弱なデザートが出されるや否や彼女はこう言った。
「もう引き取って結構よ。後は私が片付けますから」
ヴァントラッソン夫人は『この連中』の無口な態度にカンカンになって出て行き、そのすぐ後、通りに通じる出入口の戸が荒々しく閉められる音が聞こえてきた。
パスカルは胸から重い閊えが降ろされたように、ふうっと長い吐息を吐き出した。ヴァントラッソン夫人がいる間、彼は視線を上げることすら出来なかった。それほどまでに、この根性悪女がずうずうしい悪意を一応表面的に隠している偽善的な穏やかさを目にするのが怖かったのだ。この女の首を絞めてやりたいという衝動に逆らえないのではないかと、彼は恐れていた。しかしフェライユール夫人は息子の普段とは違う表情を別の意味に取り違えていた。で、二人きりになるや、彼女は言った。
「私があまりにも率直にものを言ったので、お前は私を許せないと思っているようね」
「まさか、お母さん、僕がお母さんを恨むなんてことはあり得ません。僕のためだけを思っていて下さることが分かっているのに……でもお母さんの主張なさることを聞いて僕が悲しく思うのは仕方ないでしょう!」
フェライユール夫人は身振りで息子の言葉を遮った。
「この話を蒸し返すのはやめましょう!」彼女はきっぱりとした口調で言った。「マルグリット嬢が私の人生で最も残念なことの原因になることは間違いありません、彼女自身に罪はなくても。けれどだからといって私は彼女を嫌うわけではありませんよ。私は常に、どんなに嫌いな人間でも正当に評価しようと努めてきました。そのことはお前に示しました。今度はその証拠を見せましょう。明白な証拠を……」
「証拠、ですか?」5.17
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2-XI-9

2024-05-10 09:08:32 | 地獄の生活
母と息子の間に暗雲が立ち込めたのは、これが初めてのことであった。パスカルは自分が心に抱く最も深い愛情と信頼の脆弱な部分を攻撃され、もう少しでかっとなるところであった。苦々しい言葉が口を突いて出かかった。しかし彼はそれを圧し止めるだけの理性を持っていた。
『マルグリットだけが』と彼は心に思っていた。『この無慈悲な偏見に打ち勝つことができるんだ。お母さんが彼女に会ってくれれば、自分がいかに不当であるか分かって貰えるのに!』
これ以上自制心を保っていられないかもしれないと恐れた彼は、曖昧な口実を呟き、いきなり立ち上がり自室に引き上げていった。身も心もズタズタになった彼は服を着たままベッドの上に倒れ込んだ。フェライユール夫人の時代遅れの主張を呪う資格が自分にはないということを、彼は十分に承知していた。なぜなら、かくまでに献身的な母親がまたとあろうか!それに、彼女に叩き込まれているこのかたくなな偏見こそが、この素朴かつ英雄的な市民階級の女性にとって善を讃え、悪を憎み、不幸に挫けぬ不屈の精神力を汲み出す源泉となっているのでないと、誰が言えよう? 母は彼の結婚に異を唱えるものではないと約束した。それは彼女にしてみれば途轍もなく大きな譲歩であり、身を切られるように辛い犠牲ではなかったか……!
それに、現実的に見れば、母親としての最高の喜びの一つとして、息子の妻になる娘を選ぶことを挙げない母親がどこにいるだろうか。あまたの女たちの中から息子の生涯の伴侶とななり、家庭の平和の守り手となり、幸福な時も不幸なときも夫の天使であり続けるような女性を。
このようなことを考えていると、突然大きな音を立ててドアが開いたので彼は慌てて床に飛び降りた。
「何事です?」
それは夕食の支度が出来たことを主人に知らせにやって来たヴァントラッソン夫人だった。フェライユール夫人が出かける前に彼女に残っていてくれるよう命じていたので、彼女は自分自身で夕食を準備したのだった。
ヴァントラッソン夫人の顔を見るなり、パスカルは激しい怒りを身体中に感じ、母親が述べた所見がまざまざと蘇ってきた。この邪な心を持った女を捻り殺す力が自分にあれば、と彼は念じた……何の咎で?……ああ他でもない!彼女はあのヴァントラッソンの妻なのだから、卑劣で忌まわしいものを自然で当たり前のことと受け取る性質を持っているであろう。だから夫の恥ずべきほら話を信じたに違いない。
ヴァントラッソンは悪口を言いふらすだけの下劣な男にすぎない、ということにパスカルは確信を持っていた。だがこの男の言うことを信じるような更にもっと悪辣な人間もいることだろう……それなのに自分は彼らを罰することが出来ない! それは愛する者を持つ男にとって果てのない拷問が続くことを意味する……。5.10
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2-XI-8

2024-05-03 09:04:57 | 地獄の生活
「それが彼女の罪だなんて、私が言いましたか? いいえ、そんなことは言っていません。ああ神様、ただ祈るのみです。お前が決して明かされることのない秘密の過去を持つ娘を選んだことを後悔する日が来ないことを!」
パスカルの顔は蒼白になった。
「お、お母さん……」と言う彼の声は震えていた。
「私が言っているのはね」と母親は冷ややかな口調で言った。「お前はマルグリット嬢の過去を知ることは決してないだろうということよ。彼女がお前に話すこと以外はね。あのヴァントラッソンの下品で勝手な決めつけをお前も聞いたでしょう……彼女はド・シャルース伯爵の娘ではなく愛人なのだという……。これから邪悪な心を持つ者たちがどんな卑劣な罠をお前に仕掛けてくるか、誰にも分からない……。もしももしもお前に疑いの気持ちが湧いてきたら、お前は何に頼るの? ……マルグリット嬢の言葉?……それだけで済むの?……今のところはそうでしょうけれど……でももっと後になってからだったら! 私は自分の息子の妻が、変な疑いなど掛けられようのない人であって欲しいの……ところが彼女の人生は、どこを取っても悪質な中傷の格好の餌食になりそうなことばかり……」
「何だって言うんです! 僕は中傷なんか気にしませんよ! 彼女に対する僕の信頼はびくともしません。お母さんが言い立てるマルグリットへの非難は、僕の目には彼女への賛美としか映りません……」
「パスカル!」
「彼女が不幸な人生を歩んできたからという理由で、彼女を拒否せよと言うんですか。彼女が生まれてきたことが彼女の罪だと断罪せよと……彼女の母親が軽蔑すべき女だから、僕も彼女を軽蔑すべきだと! まさか!僕たちはもはや野蛮な偏見の時代を生きているのではありませんよ。母親の過ちの犠牲として生まれてきた私生児たちが、排斥される運命を辿るのは当然だなどと……」
しかしフェライユール夫人の頭に沁みついた考えは、いかなる論理にも揺るがなかった。
「私は議論をするつもりはありませんよ、パスカル」と彼女は息子の言葉を遮った。「でも、用心なさい……欲求に身を任せて出来た子供たちに責任はない、と言ってしまうと、女を義務に縛り付けている最も強い絆をお前は断ち切ることになるのよ。もし貞節と徳を守る女の息子が、淫らな女の息子に対して何の優位も持てないのであれば、子供のことだけを思って義務を守る側の女たちはこう言うでしょう。『義務など守って何になる!』と……」5.3
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