エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-IX-9

2023-09-29 09:35:57 | 地獄の生活
 「この手紙を届けるためですよ!」
 給仕たちは肩をすくめた。
 「そんなの、うっちゃっておきなよ」と彼らは言った。「わざわざ届けてやるこたねぇよ……」
 こういう反応をシュパンは予想していた。
 「それがですね」と彼は言った。「中にお金が入ってるようなんですよ」
 彼は封筒の口を少し開けて中の札を見せた。
 その途端、給仕たちにとって状況が変わった。
 「そうなりゃ話は別だ」と、金が入っているのを見た途端、一人が言った。「届けなくちゃな……しかし、わざわざ家まで行くのも大変だぜ……ここに預けておきなよ、カウンターに。そしたらその人が次に来たとき渡してあげられるよ……」
シュパンの背筋に冷たいものが走った。彼の札が失われて行く図が見えたのだ。
「それはちょっとどうかな」と彼は叫んだ。「おいらのめっけた掘り出し物をここに置いとくなんて! それは金輪際御免だね。まっとうな報酬を誰が貰えるかってことなんで……。子爵様と言えば気前が良いと決まってる。おいらの手に二十フランは握らせてくれるでしょうよ……だからその人の住所を知りたいんで」
この異議申し立ては給仕たちに納得できる性質のものだった。彼らはこの若者の言うことは尤もだと思ったのだが、ド・コラルト氏の住所は知らなかったし、それを知る方法もなかった。
「ひょっとしたら」と一人が言った。「制服組の門番なら知ってるかも……」
門番が呼ばれ、彼は一度ド・コラルト邸まで外套を取りに行ったことがある、と言った。
「番地までは忘れちまったが」と彼は言った。「ダンジュー通りだったことだけは確かに覚えている。ヴィル・レヴェック通りとの曲がり角の近くだったような……」
この情報はその地点をピンポイントするには大して役立たないものだったが、生粋のパリっ子の血が流れているヴィクトール・シュパンにはこれで十分だった。
「大いに恩に着ます、旦那」と彼は門番に言った。「それだけ教えて貰えば、生まれつき目の見えない人間だったらまっすぐド・コラルトさんちに行き着くことは出来ないかもしれないけど、おいらなら目も見えるし舌もあるんで……もしお礼を貰ったら一杯奢りますんで待っててください……」
「で、もしお前さんがその人を見つけられなかったら」と給仕たちが付け加えた。「その金を持ってここへ戻ってきな。俺たちが返しておくからさ」
「もちろんでさぁ!」とシュパンは答えた。彼の発音では「ちろんでさ!」と聞こえた。「それじゃまた後で、旦那方……」
そして彼は大股で走り去った。9.29
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2-IX-8

2023-09-25 17:31:43 | 地獄の生活
「ボック(4分の1リットル入りのビールのコップ)を一つ」と彼は注文し、同時に書くもの一式を持って来てくれと頼んだ。障害にぶち当たったときのこの解決法は、彼がかつて手を染めていたあるいかがわしい仕事の名残りであった。他の場合であれば、こんな危険な方法を取ることに躊躇したであろうが、今は急を要するときだったし、他に頼る当てもなかった……。
給仕が頼んだものを持って来てくれるや否や、彼はそこからインスピレーションを得ようとするかのようにビールを一気に飲み干し、ペンを持つと、達筆とは言えないものの、出来るだけ綺麗な字でこう書いた。
『親愛なる子爵殿、
ピケのゲームで借りた百フランをお返しする。リベンジ・マッチはいつにしようか?
君の友、ヴァロルセイ』
この手紙を書きあげた後、彼はそれを三度読み返した。社交界で『最高にシック』と言われる人々が金を返すときこんな言葉の使い方をするものかどうか非常に不安だったのだ。正直なところ自信はなかった……。下書きでは『ベツィークのゲーム(二人でするカードゲーム)で』としていたのだが、清書の段階で『ピケ』に変えた。その方が貴族の好むゲームに思えたからである。
「そんなこと、別にいいや!」と彼は自分に向かって言った。「そう細かいことを気にする奴なんかいないって!」
インクが乾くのを待ってから紙を折り畳み、封筒に滑り込ませた。その際自分の古ぼけた財布から百フラン札を一枚取り出して同封した。それから封筒に宛名を書いた。
『ド・コラルト様、持参便』
それが終わると、彼は代金を払い、レストラン・ブレバンまでひとっ走りした。門の前でぶらぶらしている二人の給仕をつかまえると、封筒を見せた。
「この名前の主を知っていますか?」と彼は丁寧に尋ねた。「おたくの店から出てきた紳士がこの手紙を落とされたんです。その方にお渡ししようと追いかけたのですが、追いつくことが出来なかったんで……」
二人の給仕は宛名を読んだ。
「コラルト、ねぇ、心当たりは一人しかいないね……常連じゃないけど、ときどき来てるようだがね……」
「で、どこにお住まいですかね?」
「なんでそんなことを?」9.25
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2-IX-7

2023-09-21 21:00:46 | 地獄の生活
しかし彼の皮肉な笑いの下に激しい怨嗟のエネルギーが蠢いているのが感じられたので、フォルチュナ氏は全く不安を感じることはなく、この憎悪から派生した意志が、いわゆる『ロハで』働いて貰うよりずっと自分の助けになるだろうと確信していた。本来この手の手助けは最も高価なものにつくのだが……。
「そうか、そうか、それは結構だ」と彼は言った。「なら、お前を当てに出来るな、ヴィクトール……」
「もっちろんでさぁ。ご自分の分身だと思ってくださいよ。いつでも、どこへでも行きますよ」
「で、火曜日には確かな情報を持ってきてくれるというわけなんだな?」
「それより前かも……もし何も邪魔が入らなかったら」
「ようし。では私の方は専らパスカル・フェライユール氏に掛かることにするよ。ヴァロルセイの企みについては、彼より私の方がよく知っている。我々としてはマルグリット嬢の訪問の前にいつでも戦闘態勢に入れるよう準備しておかねばならない。彼女が何を教えてくれるのか、それ次第で我々がどう行動するか決めるのだ……」
シュパンはもう帽子を被っていたが、出て行こうとする瞬間、叫んだ。
「おっとー!肝心なことを忘れてた……コラルトはどこに住んでるんです?」
「残念ながら私も知らないんだ……」
厄介な状況に陥ったときの常として、シュパンは自分の黄色い髪を猛烈な勢いで引っ掻き始めた。
「こりゃ困ったな……」と彼はもぐもぐ呟いた。「あの程度の子爵じゃ紳士録には載らないだろうし……いや、しかし、何とかして見つけてやるぞ……」
そうは言っても、出て行くときの彼は非常に困惑していた。
「めくら滅法探しても埒は明かねぇし」と彼は速足で家への道を辿りながら彼は思った。「今夜はあの野郎の住所を探すので潰れそうだ……誰に聞いたら良いかな? マダム・ダルジュレの門番?……彼なら知っているだろうか?……ウィルキーの召使いに聞くか?……それは危険だな」
ド・ヴァロルセイ侯爵邸の周りをうろついて、彼の従者の一人を捕まえて言葉巧みに尋ねてみることも考えたが、大通りを横切り、ブレバンのレストランが見えるとそれまで思いつかなかった考えが頭に閃いた。
「よし、これだ!捕まえたぞ!」と彼は言った。
そしてすぐに、計画を実行すべく一番近くのカフェに飛び込んだ。9.21
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2-IX-6

2023-09-17 17:30:55 | 地獄の生活
ああ、そうは行くかって! あの手の若造は残念ながらそこら中にうようよしてますが、あいつら、社会の害虫ですぜ。待ってろよ、コラルト、お前からは目を離さないからな。お前には借りがある。そして俺は借りは必ず返す男だ! ムッシュ・アンドレが俺を窮地から救い出してくれたとき、実際俺は首をちょん切られても文句を言えないことを仕出かしたのに、あの人は条件を付けたりしなかった。ただこう言ったんです。『もしお前が骨の髄まで腐っているのでなければ、これからは正直に生きるんだ』ってね。それを言っているときのあの人の姿といったら酷いもんでしたよ。あの墜落がもとで身体中ズタズタ、肩は包帯でぐるぐる巻き、顔は真っ白で廃人同然といった有様で……こん畜生め! 俺はあの人の前で自分がミミズみたいにちっぽけに感じましたよ。そのとき俺は誓ったんです。この人の言うとおりにしようってね。で、悪い考えが襲ってくるときなんか、ときどきそういうこと、あるんです、酒が飲みたくて堪らなくなくときなんかが。そういうとき俺は自分にこう言うんです。『一体何なんだ? ちょっと待て、ほんの一ショピーヌだけならいいってか……そしたらムッシュ・アンドレはどう思う?』 そう思ったら乾きがピタッと止まるんです。俺はムッシュ・アンドレの肖像画を家に飾ってあるんですよ。で、毎晩寝る前に、その日の出来事を彼に向って話すんです……彼が微笑んでくれてるって思う時がよくあるんですよ……ほんと、馬鹿みたいっすね。でも俺は別に恥ずかしいなんて思わない。ムッシュ・アンドレと正直者の俺のおっ母さん、この二人が俺の松葉杖なんです。だから俺はもう道を踏み外す心配はないんですよ!」
意志について四巻の書を著したドイツの哲学者シェーベル(ショーペンハウアーのことか?「意志と表象としての世界」は1819年に刊行されている)でも、シュパンほどの迫力をもって語ることはできなかったであろう。
「つまり言いたいことはですね、ボス」と彼は言葉を続けた。「ボスからお金は頂きません、てことっす! 俺は正直な人間です。で正直な人間てのは人を助けるが報酬なんて貰わないんです。みんな同じ義務を背負ってる仲間なんですから……。コラルトだけのことでもなく、俺はあのいかさま師呼ばわりされている可哀そうな男のために喜んで一肌脱ぎますよ。ええと、何て名前でしたっけ? フェライユール? おかしな名前っすね! ま、そんなことはどうでもいいや、彼を窮地から救い出して、恋人と結婚させてやりましょう……。そうなりゃ俺も結婚式に出席するためにまず仕立て屋に行って、ご婦人方に手をお貸しして、カドリーユ(4人一組で踊るダンス)に加わるってわけでさぁ!」
そして彼は不気味な笑い声を立てた。そのとき鉄をも嚙み砕きそうな彼の鋭い歯が見えた。
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2-IX-5

2023-09-11 14:07:51 | 地獄の生活
ボスは俺の家庭をご存じですよね---彼はこの言葉を非常にもったいぶった様子で口にした---俺の母親にお会いになりましたね。いろいろと金が掛かるんです……」
「つまりお前の言いたいのは、 私の出す報酬が十分でないと……」
「いえ、その逆ですよ、ボス、最後まで言わせてください。確かに俺は金が好きです。ですがね、この件に関しては報酬は頂きません。給料も経費も、一サンチームも、何も要りません。ボスの仰るとおり働きます。が、それは俺のためであって、俺の満足のためです。ただでやります。ロハですよ」
フォルチュナ氏は驚きの叫び声を抑えることが出来なかった。腕の力が抜けて肩をすくめることも出来なかった。シュパンといえば金にガツガツした奴の代名詞、貪欲さにかけては年老いた高利貸しも顔負けの、あのシュパンが金など要らないと言うとは! このようなことは前代未聞であり、今後も決してないであろう……。
しかしシュパンの方は徐々に活気づいて行き、鉛色だった頬にうっすらと赤味が射し、掠れた声で続けた。
「これは間違いなく俺の考えっすよ! 自分の部屋の床の下に八百フラン、金貨で貯め込んであるんでさ……一年間の汗の結晶ですよ……でも、もし必要なら、その最後の一サンチームまで食い潰したっていい。で、あのコラルトの野郎が地面に這いつくばるのを見たら、こう言います。『これで良し!』ってね。そしたら十万フラン貰ったよりもっと嬉しくなるんすよ。もしボスに何か厄介ごとがあって、眠れない夜なんかにしょっちゅうそれが頭を悩ましたら、それを頭から追い払うために何かしますよね、そうでしょ? 俺にとっちゃ、あいつが悪夢の種なんでね……なんとしてもケリをつけなくちゃならんのです」
ド・コラルト氏は確かに海千山千の人物であったが、自分の知らないところにこんな敵がいることを知ったとしたら恐ろしさに震えあがったことであろう。ヴィクトールの目は普段はおぼろげな淡い青なのだが、今は鋼鉄のような光を発しており、彼の固く握り締められた拳は空に振り上げられていた。
「あいつなんです」と彼は陰鬱な口調で続けた。「俺の悪夢はすべて奴から来ている。俺は一時期悪事に手を染めてたことがあるってボスに話したことがありましたよね……天の恵みの奇跡が起きなかったら、俺は人殺しになってたんですよ! 本当に! もしムッシュ・アンドレが六階から落ちる際に背骨を折っていなかったら、あのコラルトが今頃はド・シャンドース公爵になってたんです!本物になり替わって! そいでもってあいつは末永く安楽に暮らして、豪勢な四輪馬車を乗り回し世間をたまげさせてた、って寸法でさ。9.11
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