エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-VIII-8

2021-03-31 09:04:47 | 地獄の生活

主人は気難しく不機嫌で、奥さんの方は激しい気性でした……。絶え間ない刺々しさと怒りの爆発の間に挟まれて、徒弟たちはよく辛い思いをしたものです。幸い、奥さんの方は嵐の合間にときどき晴れ間が見えて……。理由もなく私達を殴った後、やはり理由もなくこう言ったものです。『さぁ、頬っぺたをお出し、キスしてあげるから。もう泣くのはおよし。ほら、四スーあげるからガレットでも買っといで』と。

 治安判事は椅子の上でびくっとした。話しているのは確かにマルグリット嬢であり、その態度には女王のような威厳があり、その声は澄んで耳に快いものであったのだが、それを疑わせるほどに彼女は巧みにおかみさんのつっけんどんな語調や言葉遣いを真似ていたのだ。タンプル市場の周辺やサンドニ通り、ルイ通り、マレ地区などでよく聞かれる、がさつで生きのいいおかみさん達のそれである。

 マルグリット嬢はこのとき彼女の過去を今一度生きていたのだ。その頃の気持ちを丸々思い出していた。彼女の耳には製本屋のおかみさんの言葉や声が残っていたのだろう。彼女は老治安判事の驚きに気づかなかった。

 「私は孤児院から出たのです」彼女は続けた。「私にとってそれがすべてでした。新しい生活が始まるんだ、と私は思っていました。今までとは全然違う、うんざりすることも苦々しく思うこともない生活が、と。勤勉で正直な仕事仲間と一緒に働くことで、家族のない私が孤児院でのような皆で共有するものではなく、個別の愛情に出会うことがあるだろうと期待し、彼らの友情を得、私のことを認めて貰うために私の力と意志の及ぶ限りのことをしました。彼らの方でもすぐに私の気持ちを見抜き、ごく当然のことですが、おそらく自分でも無意識にでしょう、それを最も自分勝手な形で濫用しました……でも彼らのことを恨む気持ちは全くありません。

 私は仕事を覚えるため、ある条件のもとに雇われたわけですが、少しずつ彼らは私のことを召使のように扱うようになりました……とても都合がよかったからです。最初は親切心からやってあげたことが私の毎日の仕事になり、命令口調で言いつけられることになりました。朝は一番に起き、家の中をきちんと整頓しなければなりませんでした。その頃他の者たちは眠そうな目をして仕事場にやってくるのです。私の雇い主たちはそれなりに私を褒めてくれました。彼らは日曜に田舎の方に連れ出してくれました。私に一週間の疲れを癒し骨休めを与えるため、と言って。それで私は埃だらけのサン・マンデの道を直射日光のもと汗をかき、息を切らせながら彼らの後をついて歩かねばなりませんでした。肩には森の中で食べる昼の食事をはち切れそうなほど詰め込んだ籠、おまけににわか雨に遭ったときの用心に傘も何本か担いで。昼食は彼らの残り物を私にくれるのです。

 女主人の弟もしょっちゅうこの一行に参加しました。その人の名前は珍しいものでしたが、そうでなくても私の記憶に残っていたでしょう。ヴァントラッソンという名前でした。とても背の高いがっしりした人で、この人が大きな髭を震わせながら私を見るとき、私は震え上がったものです。軍人で、恐ろしく自分の軍服に誇りを持っていて、横柄で多弁でいつも自分の自慢話をしていました。自分ほど魅力的な男はいないと思っていたようでした。私が最初の……卑猥な言葉を聞いたのはこの男の口からでした。3.30

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1-VIII-7

2021-03-29 09:42:32 | 地獄の生活

私はかつて自分にどうかと言われたことのある『良い口』のことで話をしてみようかと思っていたところ、ある朝会計課に来るように言われました。そこは私達が『事務所』と呼んでいたところで、なにか得体の知れない怖い場所でした。夏も冬も朝から晩まで、タイル張りの大きな部屋の中で血色の悪い太った汚らしい服装の男の人が、緑のカーテンをかけた格子戸の後ろで色眼鏡を掛け、黒い絹のキャロット(頭にぴったりした縁のない帽子)を被って書き物をしていました。そこでは私達のことが記載されている登録簿がきちんと整理され、私たちを識別するため銘々に関する資料が注意深く保管され、厚紙の箱に入れられていました。

 私は胸をドキドキさせながら事務所に行きました。そこには例の血色の悪い男の人の他に修道院長様、目付きのきつい虚弱そうな小柄な男の人、それから太った気の良さそうな普通のおかみさん風の人がいました。すぐに修道院長様が、こちらにおられるのは製本屋を営むグルロー夫妻で、見習いを求めて孤児院に来られたのだと教えてくださいました。そして私にそこへ行く気があるかどうかと……。ああ、このとき私は目の前に天国の扉が開かれたかと思いました。それで急いで答えました。「はい!」と。

 するとすぐに黒キャロットの男の人が格子の向こうから出て来て、私に従うべき規則と義務について長々と説明し始めました。そして哀れな捨て子である私が皆様のお慈悲により育てられ、今ご自分の仕事場に私を雇い入れて下さるご主人と奥様の心の広さに感謝を忘れてはならないと何度も繰り返し強調しました。私には正直言って、この大いに褒めそやされている心の広さというのが理解できませんでしたし、私に期待されている感謝の理由も分かりませんでした。

 しかし、そんなことはどうでもいいのです!私は提示された条件すべてにはいはいと快く応じ、奥さんの方は大層喜んでいる様子でした。

 「この子は製本の仕事に向いているような気がしますよ」と彼女は言いました。

 すると修道院長が奥さんに向かい、この契約について守って貰うことがあると話し始めました。私が孤児院で最も優秀な生徒の一人で、敬虔で従順、注意深くて、お喋りはしない、読み書きは完璧、裁縫と刺繍も巧みで、まるで製本屋で育ってきたかのようだ、とくどくどと並べ立てました。私を自分たちの娘みたいに監督し、決して一人で放っておくようなことをせず、礼拝に連れて行き、ときどき日曜の午後には孤児院に来られるよう暇を与えてやってくれるよう、彼女に誓わせました。

 黒眼鏡の男の人の方は製本屋の主人に、雇い人に対する義務について話していました。更に、仕切り棚の向こうから分厚い本を取り出し、その一節を読んで聞かせました。私も聞いていましたが、それがフランス語であることは分かるものの内容は理解できませんでした。

 最後に製本屋夫妻はすべてに『アーメン』と答え、血色の悪い男の人が印紙を貼った紙に証書を書き上げ、双方が署名をしました。修道院長も、そして私も。そして私は親方に預けられることになったのです。

 彼女はここで言葉を止めた。子供時代の終わりというわけであった……。しかし殆どすぐ再び語り始めた。

 「この人たちには恨みを持っているわけではありません。彼らは裕福とは言えず、お金儲けにガツガツしていましたが、息子に分不相応な暮らしをさせるため身をすり減らしていました。ところが息子の方では両親が気に入らず、私はこのことでその御夫婦を気の毒に思っていました……。

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1-VIII-6

2021-03-27 09:30:50 | 地獄の生活

私は陰気なわけではなかったのです。ただ悲しくて引っ込み思案だったのです。周囲のものは何もかも私には辛く、私は自分の殻に閉じこもって、自分だけの考えや空想の聖域のようなものを作り上げ、その中に住んでいたのです。私は悪い性格を持っていたのかもしれません……。ときどき私は誠実に心から自分に問いかけてみました。でも答えは出ませんでした。人は自分のこととなると公正な裁判官にはなれませんものね……。確かなことは、普通なら女の子の生活に一条の光をもたらすような出来事が私に思い起こさせるものは、苦しみ、惨めさ、絶望的な葛藤、怒りに裏打ちされた侮辱でしかありませんでした。最初の聖体拝領を私はもう少しで拒否するところでした。というのは『慈悲深い奥様』が寄付して下さった儀式用のドレスを着たくなかったからです。聞いたところでは、そのドレスは胸の病で亡くなった私と同じ年の少女のものだったそうです。そのドレスを着て祭壇に進むなど考えただけでぞっとして我慢できませんでした。経帷子を着せられるようなものではありませんか。でもそれは一番美しいドレスでした。モスリンで裾に刺繍がしてあって、皆の羨望の的でした。それを私がご褒美として授与されたのでした……。それなのに私はどうしようもない嫌悪感を持ちその理由を口にすることができませんでした……言ったとしても誰が分かってくれたでしょう。それでなくても私は立場もわきまえぬ気難しさと滑稽なほどの自尊心で散々非難されていました。私の中では嵐が吹き荒れていたのです……私は十二歳でした……そんなとき私は老司祭様に告解したのです。この方にだけはすべてをお話することが出来ました。そしてこの方はご老人で男の方だったにも拘わらず私の心を理解して下さり、私を非難なさいませんでした。『そのドレスを着るのです』とその方は仰いました。『それで自分の思い上がりが砕かれるように。あなたにはそれ以外の悔悛の秘跡はありません』と。私は従いました。迷信の恐怖に凍り付いたようになって。というのは、私にはそれがこれからの私の不幸の予兆のように思えたからです。それで、この死者の刺繡付きドレスを着て聖体拝領を受けました……」

 二十五年前に治安判事となって以来、彼は人が必要や苦痛によってやむなくさせられる告白をたくさん聞いてきたが、今ほど苦渋に満ちた口調で語られる告白に心を動かされたことはなかった。今この娘が、まるで嵐の日に海が深海の藻まで垣間見させることがあるように、心の内の内まで曝け出して聞かせている相手は彼ではなく、彼女自身であった。

 やがて彼女は先を続けた。

 「聖体拝領が過ぎ、堅信礼(信仰上の成人式)も終わり、私達の日常は元の陰気な単調さを取り戻しました。同じように聖書を読む時間と労働の時間がきちんきちんとやって来るというような。私はこの冷え冷えとした環境の中で息が詰まるのを感じていました。肺の中に十分な空気が入ってこないような。そして、こんな見せかけだけの人生は本当の人生じゃない、これよりはどんなものでも他の人生の方がましだ、と思うようになりました。

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1-VIII-5

2021-03-26 11:25:08 | 地獄の生活

確かにそうとも言えました。貧しい労働者の子供たちは窮乏の中で育ち、固くなったパンだけの食事を取ることもあったというのに、私達にはそんなことはなかったのですから。でもそのパンひとかけらは、母親のキスと共に与えられていたことでしょう……」

 治安判事は極度の気まずさにいたたまれぬ思いで一言も返すべき言葉を見つけられないでいた。それにマルグリット嬢はその暇も与えなかった。それほどに彼女の記憶が急き立てる言葉は急流のような早さで語られていた。しかし、この『母親』という言葉に彼女の心も和むのではないかと彼は考えた。が、それは間違いだった。それどころか、彼女の声はより感情を欠いたものになり、目には怒りの炎が見えた。

 「私はこの孤児院で恐ろしく苦労をしました」彼女は再び語り始めた。「シスター・カリストがいなくなってから、私は周囲から冷たくされ、苛めを受けました。私が安心していられたのは、日曜日、地域の小教区の教会に連れて行かれミサを受けている間の数時間だけでした。大オルガンがゴーゴーという音を立て始め、遠くに合唱隊が立ち、灯りを集めた祭壇の周りに金の星を戴いた司祭様が祈りを捧げるとき、私は目を細め自分を眩惑状態に置こうとしました。私は恍惚とし、そのときは自分自身から抜け出られるように感じました。かぐわしい香の雲に乗って上がっていくと、シスターたちがよく話しておられた空のかなたに美しい国があり、そこにはすべての女の子のお母様がおられると……」

 マルグリット嬢はしばらくうっとりし、自分の考えに言葉を与えることを躊躇するかのようだった。その後、きっぱりした口調で先を続けた。

 「ええ、私は孤児院では大変不幸でした。殆どすべての子供たちが発育不良で、虚弱で、青白く、あらゆる病気に冒されていました。自分たちの親に捨てられる不幸だけではまだ十分でないとでもいうように。

判事様、私は恥ずかしいことを告白しなければなりません。これらの不幸な子供たちは私に極度の嫌悪感と不快感を与え、私は彼女たちを嫌わずにいられませんでした。彼女たちと一緒にいてその顔に触れるぐらいなら赤く燃えた火に唇を押し当てる方がましだと思っていました。ああ、このことについては抗弁のしようもありません。私はたった八歳か九歳でしたが、そのことを強く感じていました。他の子どもたちもそれを見抜き、私に仕返しをしようと、皮肉を込めて私に『レディ』というあだ名を付け、私を仲間外れにしました。休憩時間、シスターが見ていないときを見計らって、彼女らは私を叩いたり、顔を引っ搔いたり、服を破ったりしました。私はこの仕打ちを黙って耐えました。心のどこかでは、そうされるのも仕方がないと思っていたからです……。でも、服を破ったことで、何度叱られたか。たっぷりお説教をされ『だらしない子供』とか『どうしようもない根性悪』と呼ばれた後、固いパンだけの食事というお仕置きを何度受けたことか。でも私が結局は注意深く、真面目で勤勉であると分かり、他の子供より覚えが早かったりしたので、修道女様たちは私を可愛がってくれました。私は『良い候補者』になるだろうと彼女たちは言い、私のためにお金持ちで信仰心の篤いブルジョワの中から良い貰い手を見つけてあげようと言いました。このような教会関係の施設の支援者たちの中から……。私は陰気なのだけが欠点だと彼女たちは言いました……。3.26

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1-VIII-4

2021-03-24 09:45:38 | 地獄の生活

彼女たちは一様に同じ表情をしていました。当然のような諦め、変わらぬ優しさ、そして何にも耐えられる忍耐づよさという……。それでも意地悪な人たちはいて、その目に悪意を漲らせ、冷たく鋭い怒りを私達子供に浴びせることもありました。でも中に一人、とても若くて金髪の修道女がいて、とても善良で悲しそうな様子だったので、まだ物心つくかつかぬかの私でさえ、彼女は大きな不幸に襲われたのだということが分かったほどでした。休憩時間になると彼女はよく私を膝の上に乗せ、引き攣ったようなやり方で優しく抱きしめ、『可愛い子、可愛い子』と繰り返したものでした……。そうやって抱き締められるとときどき苦しくなることがありましたが、そんな素振りは見せないようにしていました。彼女をそれ以上悲しませたくなかったからです。それに心の中では、彼女のために苦しい思いを堪えることは嬉しく、誇りに思えることでしたから……。お気の毒なシスター!私の幼少期の唯一の幸福な時間は彼女が与えてくれたものです。シスター・カリストという名前でした。彼女がその後どうなったか、私は知りません。心が挫けそうになったとき、私はよく彼女の事を考えました。そして今でも涙なしで彼女の名前を口にすることはできません」

 現に今も彼女は泣いていた。大粒の涙が頬を伝わって流れ落ち、彼女はそれを拭おうとしなかった。話の先を続けるのには努力が必要だった。

 「もうお分かりですわね、判事様、私自身ずっと後になるまで分からなかったことが。私は孤児院にいたのです……私は捨て子でした。孤児院では何不自由ない生活とは言えませんでしたが、慈愛の心をお持ちの善良な修道女様たちに感謝しないのは恩知らずというものです。ああ、でも!修道女様たちの愛情やお世話は三十人の子供たちに行き渡るにはあまりに少なかったのです。他の子供たち全員に与えられる言葉や愛情だけでなく、自分だけに与えられるものがありませんでした。私たちは大寝室に寝ていましたが、ベッドや小さなカーテンは真っ白で清潔でしたし、部屋の真ん中には聖母像があって私達みんなに微笑みかけているように見えました……。冬は火を入れて貰えましたし、私達の着る服は暖かくよく手入れされたもので、食事も十分でした。私たちはそこで読み書き、裁縫と刺繍を習いました。勉強の合間には休み時間があり、よく努力してお利口にしていた子供は褒美を貰いました。また週に二度田舎の方まで歩いて遠足に連れて行って貰いました。この途中の道で行き交う人々から私は自分たちが何者なのか、世間で何と呼ばれているかを知ったのです……。

 ときどき午後の時間に素晴らしい身なりの女の人たちがみえました。健康と幸福ではち切れそうな子供たちを連れて……。修道女様たちから、この方々は『敬虔な奥様がた』とか『慈善の志の篤い方々』であり、愛し敬わなければならず、私達はお祈りのときその方々のことを忘れてはならない、と教えられました。奥様方は私達に玩具やお菓子を配りました。

 また他のときには教会から聖職者の方々や他の偉い男の方々もいらっしゃいました。そのいかめしい顔つきに私たちは恐れを抱いたものです。彼らはあらゆるところを見て回り、あれこれ質問をなさり、すべてがあるべきところにあることを確かめ、中には私達のスープまで味見をする方もいました。いつも皆様は満足なさり、修道院長は最大の敬意を払いながら送り出し、こう繰り返していました。

 『この子たちにはたっぷり愛情を注いでおりますの……可哀想な子供たちですから』

 すると男の方々はこう答えます。

 『ごもっとも、ごもっとも、シスター、この子たちは大変幸せですよ』3.24

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