エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-I-4

2022-07-31 09:21:22 | 地獄の生活

 この名前を聞いたとき、パスカルと母はハッと身体が震えるのを抑えることが出来なかった。しかし、フェライユール夫人は懸命に無関心を装って聞いた。

 「ド・シャルース様、ですって?」

 「ええ、ええ、そうでございますよ、伯爵の。あまりにもお金持ちなもんで、ご自分の財産がどれくらいか把握することも出来ないぐらいで……。もしあの方が御存命でしたら、あたしも人様の家で家事労働をするところまで身を落とすこともなかったでしょう……でもあの方は亡くなられ、今日埋葬が行われる筈です……」

彼女は仄めかしたっぷりの笑みを浮かべ、それから秘密めかした調子で言った。

 「昨日ド・シャルース屋敷に行ったんですよ、金銭的援助をお願いしにね、そのとき伯爵が亡くなったことを知らされたんです。ヴァントラッソンが、あたしの亭主ですがね、一緒に行ったんですが、あたし達が喋っているそのときに、玄関を横切って行く娘さんを見て、あの人に見覚えがあるってんですよ。ま、あたしにゃ関係のないことですけど。綺麗なお嬢さんでね、今じゃ雲の上の人みたいな身分で、亡くなった伯爵はご自分の娘として待遇しておられたてことです。世の中には不思議なことがあるもんですね……」

 パスカルの顔は石膏のように真っ白になり、目が光を帯びた。フェライユール夫人は身体を震わせた。

 「よろしい!」と彼女は言った。「貴女の要求どおり二十五フランということにしましょう……。それと、ときには午後にも来て貰うことがあると思いますが、そのときは文句を言わないで来て貰うという条件で。その際には夕食もお出ししますから」

 そしてポケットから五フランを取出し、ヴァントラッソン夫人の手に握らせ、付け加えて言った。

 「これは貴女への心づけです」

 相手はすばやくその金をしまった。この突然の態度の変化にすっかり仰天していた。こんなことは期待もしていなかったし、どういう理由なのか全く見当も付かなかった。しかし、そんなことは構うものか! この急展開にヴァントラッソン夫人はすっかり有頂天になり、いますぐにも仕事に取り掛かりたいと言い出したので、フェライユール夫人は彼女をこの場から厄介払いするため、昼食に必要なものを買い出しに行かせなければならなかった。

 息子と二人だけになるや否や彼女は言った。

 「さぁしっかりするのよ、パスカル!」7.31

 

 

 

 

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2-I-3

2022-07-29 08:12:06 | 地獄の生活

 そして双方がせめぎ合うのもこの点である。料理女が威丈高にこの合法的な盗みを沈着に主張すると、雇い主側は遠慮がちに異議を唱えることになる。

 「買い物は私がします」とフェライユール夫人は大胆にも宣言した。

 「それでしたら」とヴァントラッソン夫人は切り返した。「三十フラン頂きます」

 パスカルと母は目で相談し合った。このがみがみ女を二人とも同じように気に入らなかった。こんな女は追っ払ってしまえばいい、造作もないことだ、と二人は結論した。

 「それは高すぎます!」とフェライユール夫人は言った。「私は今まで十五フラン以上支払ったことはありません」

 しかしヴァントラッソン夫人は、おめおめと引き下がる人間ではなかった。この口を逃してしまったら、次のを見つけるのは容易ではないと分かっていたからだ。彼女を自分の家に雇い入れようなどと思うのは、この界隈の新参者で、『高級家具付き貸し間』の評判を知らない者たちしかないということを知っていたからだ。というわけで彼女はパスカルとその母親の同情を惹こうと自分の身の上話をし始めた。それはある事ない事を巧みに混ぜ込んだでっち上げの話で、彼女は自分自身を商売上の競争や都市区画整理の犠牲者として、また金欠と親族の冷酷な振る舞いに苦しめられている者として描いてみせた。自分も夫もれっきとした家系の出身であり、それは人に聞いてくれれば分かる筈、と彼女は主張した。ヴァントラッソンの姉はグルルーという名前の男の妻であり、夫はサンドニで製本業を営んで一財産をなした後、引退した。このグルルー夫妻がどうして彼女たちを助けて破産から救い出してくれなかったのか。親族の好意など当てにしてはならない、と彼女は嘆いた。商売が上手く行っているときは羨ましがったり、ちやほやしたりするが、左前になるとけんもほろろになる、と。

 これらの泣き言はヴァントラッソン夫人への同情を呼び起こすどころか、彼女のただでさえ不快な顔に嘘くささと疑わしさが加わり、不安にさえさせるものだった。

 「今言いましたように」とフェライユール夫人は遮って言った。「十五フランです。それが不満ならお引き取り下さい」    

 ヴァントラッソン夫人は一段と激しく抗議した。先ほど言った額より五フランなら下げましょう、でもそれ以上は……無理です、と。自分ほどの女、ちゃんとした地位を持ち、正直者であるという掘り出し物が雇えるというのに十フランを出し惜しみしなければならないものか。清潔好きであることにかけては並ぶ者がなく、主人への忠誠という点ではプードル犬も顔負けの自分を。

 「言うまでもないことですけれど」と彼女は付け加えた。「私は腕の良い料理女でしたよ、若い時には。今でも腕はそんなに衰えちゃいません。奥様も若旦那様もご満足なさいますよ。なんたって私のソースを舐めんばかりに喜んで賞味してくだすった貴族の殿方は一人や二人じゃありませんでしたよ。ド・シャルース様のお邸で奉公してたとき……」7.29

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2-I-2

2022-07-28 08:31:16 | 地獄の生活

 「俺は歯を食いしばって戦わねばならぬ。それが義務だからだ」彼は呟いた。努力が実らぬことを予見している男の口調であった。それでもなんとか立ち上がり、着替えたとき、部屋のドアをそっと叩く音が聞こえた。

 「私よ、パスカル」と外からフェライユール夫人の声がした。

 パスカルは急いでドアを開けた。

 「いま下にヴァントラッソン夫人という人が来ているの。あなたが昨夜言っていたお手伝いの人よ。正式に雇い入れる前にあなたの意見を聞いておきたいと思って」

 「ということは、その人はお母さんの気に入らないんですね」

 「会ってみて欲しいのよ」

 彼が下に降りていくと、一人の太った女がいた。顔は青白く、薄い唇で伏し目がちだったが、彼にばか丁寧な挨拶をした。これは確かにあの『高級家具付き貸し間』の女主人その人だった。朝のうちの暇な三、四時間は外で働けるから、というのが彼女の弁であった。確かに、他人の家で召使いの仕事をするのは女経営者としての彼女のプライドが傷つくので、自ら好んですることではなかったが、食べて行くためには致し方のないことであった。

 『高級家具付き貸し間』は、その魅惑的な名前にも拘わらず、借り手が殺到するということはなく、たまたまそこで寝泊まりすることになった間借り人のうちの何人かは必ず何かを盗み出す始末であった。胡椒を借りても返すことはなく、酔っ払いがうっかり置き忘れた小銭はヴァントラッソン夫妻がちゃんと自分のポケットにしまい、同業者のもとで飲む酒代に用いた。自分の店で飲む酒は不味い、というのは常識であった。パン屋にも肉屋にも果物屋にもツケがきかなくなったので、ヴァントラッソン夫人は自分の店で出す商品を食べて凌ぐ日もあった。カビの生えたイチジク、傷んだ干しブドウなどを彼女は大量のカシス入りブランデー---この世における彼女の唯一の慰め---を振りかけて食べるのだった。

 しかし、こんなのは『ちゃんとした食事』ではない、と彼女でさえ認めていた。というわけで、『家政婦』の仕事に就けば、毎日の昼食とちょっとした稼ぎにありつける、ということで職探しをしたのである。自分のプライドの高い連れ合いにはその姿を決して見せない、と誓って。

 「で、貴女の条件はどのようなものです?」とパスカルは尋ねた。

 彼女はじっと考え込み、指で数え、ついに宣言した。昼食込みで月十五フラン頂きたい、但し買い出しには一人で行く、という条件付きで、と。つまり、これが今の時代のやり方だということだ。料理女がある家に雇われる際、まず聞くのはこの点だ : 買い出しは私に任せてもらえますか? 

普通の言葉で言うと、これは「少なくともある程度はちょろまかす権限を与えて貰えますね?」ということになる。双方ともそれは承知の上で、誰も驚かない。これが現代の習慣なのだ。7.28

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第2部 マダム・ダルジュレ I-1

2022-07-27 11:37:58 | 地獄の生活

第二部 マダム・ダルジュレ

I. 

 

復讐! 邪悪にして不当な仕打ちを受けたとき、最初に心に浮かぶ考えはこれしかない。奸計をもって仕掛けられた罠にはまり、名誉、財産を失い、現在ばかりか未来も、更に希望さえも消え去ってしまったのだ。このようにして被った苦痛を和らげるのは、それを百倍にして返してやるという思いしかない。この思いに取りつかれると、最初はどんなことでも可能に思える。憎悪が怒涛の如く頭に押し寄せると同時に鬱勃たる憤怒が口角に溢れ、いかなる障害も打ち倒さずにおくものかと息巻く。というよりむしろ何物も目に入らなくなるのだ。

 現実と夢想を隔てる深淵を、そして計画の実行可能性を測り始めるのは理性を取り戻した後だ。その仕事に取り掛からねばならなくなると、意気を阻喪する多くの要因に気づく。情熱は去り、やがて諦める……。運命を呪うが、行動を起こしはしない……。身に受けた不当な恥辱を思いぐったりする。自己を放擲するか、絶望に身を委ね、こう呟く。「そんなことをして何になる」、と。かくて今一度、悪党どもの無処罰が確定する。

 このような葛藤がパスカル・フェライユールを待ち受けていた。ラ・レヴォルタ通りの粗末なアパルトマンで初めて目覚めた朝のことだ。ここで彼はモーメジャンという名前で身を隠すことにしたのだった。これからも長い間、このようなぞっとする瞬間が毎朝彼に訪れるに違いない。言わば、朝毎に自分の絶望が新たにされることになるのだ。彼は枕の上に肘を付き、蒼ざめた顔で、額に汗を浮かべ、自分がなすべき仕事の実際的な側面を検討した。すると様々な困難が彼の前に立ちはだかり、それらは山を退かすことよりもっと難しいことに思われるのだった。

 あの身の毛もよだつような中傷が彼を打ちのめしていた。卑劣な中傷者を殺すことはできる。しかし、それは後だ。あの中傷そのものをどのように打ち消すことができるか!

 「水をいつまでも掌に握り締めておくことが出来ないのと同じようなものではないか」と彼は思った。「疫病を運んでくる風を両腕で遮ろうとしても無駄なのと同じことではないか」

 彼の心に希望の灯をともしてくれていた何よりの望み、それもまた消えてしまった。マダム・レオンによってもたらされたあの運命的な手紙を受け取って以来、彼にとってマルグリット嬢は永遠に失われた存在になった。そのとき以来、闘うことに何の意味も見いだせなくなっていた。もしも奇跡が起こり、忍耐と努力で闘いに勝利することがあったところで、その褒美は一体何なのか? マルグリットを失った今となってはもう何も残ってはいない……。

 そのように自問自答し、絶望が自分の身体に入り込んでくるのを感じていた。彼の心が静かで言わば内省的であるだけに、絶望はますます深いものとなった。ああ、この世にただ一人だけで生きているのであれば! だが、彼には母親がいた。この強い精神力を持つ女性の声に諌められ、彼は手にしたピストルを取り落したことが既に一度あった。7.27

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1-XXI-12

2022-07-06 09:07:38 | 地獄の生活

それでもド・フォンデージ夫妻言うところの『可愛い大切な娘』がダイヤモンドを持参しないことを治安判事が彼らに伝えると、彼らの顔に隠しようのない渋面が浮かんだ。

「ふんっ!」と将軍は不満を思わず口にした。「こういうところにあの父親らしさがよく表れておる! 慎重に処すべきというわけだな。間違いない!まぁったく御丁寧なことだ。やりすぎだ、むしろ」

しかし治安判事が、おそらく裁判所ではダイヤモンドを返却する決定がなされるであろう、と話すと、彼の顔は晴れやかになり、自らマルグリット嬢のトランクや身の回り品などの荷物を監督するために階下に降りていった。そこではカジミール氏が邸の荷馬車の一台に荷物を積み込ませているところであった。

やがて出発の時が来た。マルグリット嬢は召使いたちの別れの挨拶に応えた。彼女から解放されることに召使いたちは皆大喜びだった。マルグリット嬢は馬車に乗り込む前、このド・シャルース邸という豪華な住居に、最後にもう一度ゆっくりと苦痛を伴う視線を送った。ここを彼女は自分の家と呼ぶ権利があると思っていたのに、今はここを立ち去り、おそらくもう二度と戻ることはないであろう……。

 

第一部           完

 

ここでしばらくお休みをいただきます。

第二部は「マダム・ダルジュレ」というタイトルです。どうぞお楽しみに。

 

 

 

 

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