エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-VI-1

2023-01-30 10:53:35 | 地獄の生活

VI

 

 ウィルキー氏に彼の出生の秘密を教えるだけでは十分ではない。更に、それを有効な手段として用いるにはどうすればよいかを教え込むことが必要であった。ド・コラルト子爵の表現を借りるとこういうことであり、彼はそれを入念に実行したのであった。しかもふんだんに注意事項を盛り込んだところをみると、彼が自分のクライエントの洞察力にあまり信頼を置いていないことが明らかだった。

 「マダム・ダルジュレは全く油断できない相手だ」と彼は考えていた。「このアホの若造を手玉に取るぐらい朝飯前だろう。前もって注意しておかなかったら、こいつは一芝居打たれて訳も分からぬまま放り出されるのがオチだ」

 というわけで彼はウィルキー氏に前もってあれこれと教え込み、五百万フラン以上の財産を相続するべき人間に仕立て上げようとした。これこれのことをし、こういう風に言い、このように返答すべし。涙に対しては警戒すること、上流階級の御大層なやり方に気後れしてはならぬ、状況に応じ、斯く斯くの態度を取り、……云々。

 子爵は一時間たっぷり諸注意と忠告を与えたのでウィルキー氏は大いに気分を害した。自分があまりに子ども扱いされていると感じ憤慨して、自分は何も知らない愚か者なんかじゃない、自分だって他の人間と同じように状況に応じてうまく対処し、見事に切り抜けてみせるのだと抗議した。

 しかし、これを受けてもド・コラルト氏は一向にやめようとせず先を続けた。やがてあらゆる場合に言及し、言い忘れたことは一つもないと確信すると、ついに立ち上がった。

 「これで全部だ」と彼は言ったが、それでもまだ不安そうだった。「計画は私が立てた。実行するのは君だ。くれぐれも冷静に。さもないとこの勝負は負けだ」

 相手は自信たっぷりに立ち上がった。

 「たとえ負けることになったとしても、それは僕がヘマしたからとは言わせない」と彼は語気強く答えた。

 「大事なのは時を移さず行動することだ」

 「その点はご心配なく……」

 「それに、いいね、何が起ころうとも、私の名前は決して出さないこと。さもないと……」

 「ああ、分かってる、分かってる」

 「それじゃ、何か分かったら……」

 「すぐに知らせるから」

 「その場所は社交クラブだ、いいね?」

 「わかった……気を揉む必要はないよ。もうこっちの懐に入ったも同然さ……」

 「そうだといいね」 1.30

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2-V-19

2023-01-27 10:38:29 | 地獄の生活

しかしこの禁止も奇妙に見えるかもしれないと思ったので、門番に尋ねて来る人がいれば自分は郊外に出かけ、恒例の客を迎える明日まで戻らないと告げるよう言いつけた。これはつまり、マダム・ダルジュレはパーティの夜を延期することは出来ないということだった。長年毎月曜の夜に常連客が彼女の舘に通ってきていたというのに、門が閉まっていたら彼らは何と言うであろうか。彼女は女優ほどの自由も持っていなかった。泣いたり、一人で苦しむ自由さえなかったのだ。

 というわけで月曜の夜七時頃、身も心もくたくたになっていたが彼女は起き出し、着替えや整髪、身嗜みを手伝わせた。彼女は手持ちのドレスの中から黒っぽい色のものを選んだ。パスカル・フェライユールが犠牲になったあの夜に着ていたのと同じドレスである。今夜の彼女はいつもより青白かったので、ルージュを濃く塗り、目鼻立ちを派手にするようシャドーを強くして目の下の隈が目立たないようにした。

 十時になると一番乗りの客たちが煌々と照らされたサロンに入ってきたが、そこで目にしたのはいつものように暖炉の前の長椅子に身を丸くし、常に消えることのない微笑を唇の上に貼り付けた彼女の姿であった。客たちが四十人ほども集まり、ゲームが活況を帯びてきた頃、マダム・ダルジュレは男爵が入ってくるのを見た。彼の目を見ただけで、何か喜ばしい知らせを持ってきたのだと彼女は思った。

 事実、挨拶の握手を交わしたとき彼は囁いた。

 「すべて順調です……フェライユール氏に会いましたよ。なかなかの切れ者です。ヴァロルセイ・コラルト組には十スーたりとも賭けませんよ」

 どんな薬よりもこの言葉はマダム・ダルジュレに力を与えた。そのことはド・コラルト氏が『表敬のため』訪問したとき彼女の見せた自由闊達さが証明した。彼は厚かましくもやって来たのであった。疑念を晴らすためか、それとも彼の言葉を借りれば自分が火付け人となった騒動の効果を見極めるためか、のいずれにせよ。

 マダム・ダルジュレの平静さは彼をまごつかせたに違いない。彼女は何も知らないのか? それともそういうふりをしているだけなのか? どちらとも決め兼ね、不安にもなった彼はゲーム参加者の真ん中に入って行き、席に座った。そこからマダム・ダルジュレの様子が逐一観察できる位置であった。

 二つのサロンは人で一杯であった。バカラは熱を帯び、皆が楽しんでいるように見えた。真夜中を半時間ほど過ぎた頃、一人の召使いが足早にサロンを横切り、マダムの耳元で何か囁きながら一枚の名刺を渡した。彼女はそれに目を走らせると掠れた悲痛な叫び声を洩らした。その声があまりにも恐怖に満ちたものだったので、五、六人がゲームの手を止めたほどであった。

 「どうかしましたか?」

 彼女は答えようとして声が出せない様子であった。顎が震え、口を開いて何か言おうとするのだが言葉にならなかった。ルージュの下の顔は真っ蒼で、かっと見据えられた目は異様に光を帯び、頭の中で狂気が躍っているのを思わせた。不審に思った者が近づき、何気なく彼女の手に握り締められた名刺を取り上げようとした。と、彼女は物凄い力でその男を押し戻したので、彼はあやうく倒れそうになった。

 「どうしたんだ、彼女?」あちこちから声が聞こえた。

 力を振り絞りようやく彼女は答えた。「何でもありません!」

 それからマントルピースにぶら下がるようにして、なんとか体勢をまっすぐに立て直した。それからぎこちない足取りで壁を伝いながら彼女は出て行った!1.27

 

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2-V-18

2023-01-25 11:24:14 | 地獄の生活

時計の鐘が響き、それで彼は言葉を切り、椅子から飛び上った。

 「もう二時だ!」彼の表情には不安がありありと表れていた。「カミ・ベイが私を待っているんだった! ここで時間を無駄にしたわけでは断じてないが、正午からゲームを再開することになっていたんですよ。私が勝ち逃げするんじゃないかとカミが疑っているかもしれない……どうもトルコ人というのは奇妙な人種でね。ま、今のところ私が二十八万フラン勝っているのは確かですが」

 彼は頭に帽子をきっちり被ると、ドアを開けながら言った。

 「それでは、また近いうちに。くれぐれも今までと何も変わらないように振舞ってください。我々の成功は敵を安心させることに掛かっていますからね」

 この忠告をマダム・ダルジュレは至極尤もなものと納得し、半時間後には無蓋馬車に乗ってブーローニュの森に出かけたが、自分の馬車の後をフォルチュナ氏が差し向けたスパイであるヴィクトール・シュパンがつけているとは知る由もなかった。帰りにウィルキーの家の近くまで行くことは軽率なことであろう……。こっそり陰に隠れていたとしても息子の家の周囲をうろつけば疑惑の目を覚まさせる危険があり、可哀想な彼女はそんな危険を冒すわけには行かなかった……しかし理性より不安の方が大きかった。彼女は御者にエルダー通りの入口に着けることを命じ、結局ヴィクトール・シュパンに秘密を悟られることになってしまった。ウィルキーから酷い侮辱の言葉を浴びせられるところをシュパンに目撃されてしまったのだ。彼女は嵐に打たれたような衝撃を受けたが、それでも息子には廉直な感情がある証拠だと思おうとした。夜な夜な大通りのアスファルトの上に溢れている大勢の売春婦たちに対する軽蔑の気持ちの表れなのである、と。

 しかしいくら彼女の精神が不屈であったにせよ、あまりに多くの出来事が起きたため体力が消耗しており、意気を阻喪し始めた。館に帰ると彼女は気が遠くなるのを感じ、ベッドに横にならねばならなかった。悪寒に身体は震えていたが、身体中の血は熱い炎のように流れていた。医者が呼ばれたが、大したことはないという看立てだった。しかし暖かくして床に就いていなければならないと言い渡された。この医者は洞察力のある男だったので、幾分悪意のある微笑とともに、何事も過剰は身体に有害である、楽しみにしても他の事でも、とつけ加えた。その日は日曜だったので彼女は医者の言いつけを守ることが出来、門を閉め切り、男爵だけは例外だが、他は誰も通さぬよう命じた。1.25

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2-V-17

2023-01-21 10:08:47 | 地獄の生活

彼女は強く息を吸った。すべての血が胸に流れ込んだかのようであった。そして押し殺した声で続けた。

 「ウィルキーは働きます。自分のため、そして私のために。彼が強い男なら、私達は救われます。もし弱い男だったら、そのときは私達二人とも破滅するだけの話です! ああでも、卑怯な行動や恥ずべき妥協はもうたくさん! 正直に生きている青年の名誉と私の兄の娘の幸福を、私が自分の息子のために犠牲にしたなどとは誰にも言わせません。果たすべき義務がどこにあるのか、私は見据えています。あらん限りの力をもって私はその義務に自分を縛りつけます」

 男爵は表情と身振りで同意を示した。

 「よくぞ申された!」と彼は言った。「ただ、これだけは言わせてください。すべてが失われたわけではない。法律というものは大義があれば戦う手段を用意してくれています。なんらかの方法があるかもしれない。貴女の夫には手を触れさせず、貴女が遺産を手に入れられるような……」

 「ああそれは! 私もかつて相談してみたことがありますのよ。でも駄目だと言われました。私はがんじがらめだと。でも、貴方の方でも調べてみてくださいまし。貴方を信頼しています。貴方は私に無理強いするような方でないことはよく分かっています。でも、急いでください。最悪の事態でも今の私の苦しみよりはましなのですから……」

 「迅速にやります。フェライユール氏は有能な弁護士だとのことです。彼と話してみます」

 「それから、私に会いに来たフォルチュナという男に対しては、どうしたらいいでしょう?」

 男爵はしばらく思いを巡らしていた。

「何もしないのが一番安全です」と彼はついに宣言した。「もしその男がなにか悪い企みをしているなら、貴女が会いに行ったり手紙を送ったりすれば事を速めるだけでしょう」

 マダム・ダルジュレは頭を振っていた。その様子は彼女が事態に何の希望も持っていないことを表していた。

 「結局は悪い結果になるのよ」と彼女は呟いた。

 男爵もそう思わないでもなかった。が、勇気を振り絞る必要のある事態を前にして不幸な人間から前もって勇気を奪ってしまうことは思い遣りのある行為ではない。

 「なあに!」と彼は軽い口調で答えた。「そのうちきっと運が向いてきますよ。風向きはしょっちゅう変わるもんです! いつも同じ者が運に恵まれるとは限らない。特にそれが悪人の場合はね! 私が賭け事をする理由はそれです……」1.21

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2-V-16

2023-01-19 10:56:28 | 地獄の生活

もしも、男爵、私が貴方の忠告どおりにして、亡き兄の遺産相続を申し出たとすれば、私の夫であるあの男がたちまち私達の結婚契約書を手に姿を現し、すべてを奪って行くでしょう……。あの男に富を与えることになってしまいます! そんなこと、絶対にさせるものですか! どんな代償を払っても、それだけは嫌です。それぐらいなら貧苦のうちに死ぬ方がましです。ウィルキーが飢え死にするのを見る方が!」

 マダム・ダルジュレの態度には仰々しさは全くなかったが、彼女の抑制された感情の迸りの中に長年秘かに彼女を苛んできた怒りが垣間見えた。そして何物によっても揺らがぬ決心が。彼女に翻意させ、より思慮深く、より現実的な方向へ導くことはとても出来ぬ相談のように思われた。

 男爵はそれを試みようとさえ思わなかった。マダム・ダルジュレとの付き合いは昨日今日始まったものではない。彼女の頑固さが筋金入りだということは経験上よく知っていた。ド・シャルース家の血を引く者の頑固さは世間でもよく知られており、あの安宿のおかみであるヴァントラッソン夫人もフォルチュナ氏に語ったとおりであるが、マダム・ダルジュレのそれは更に一層強かった。

 彼女はしばし沈黙した。思わずしてしまったこの告白に自ら憔悴してしまったかのようであったが、やがて断固とした口調で続けた。

「それでも貴方の御忠告には部分的に従いますわ、男爵。私は今夜にもパターソン氏に手紙を書いてウィルキーを彼のもとに呼び寄せて貰います。二週間以内に私は持っているものをすべて売り払い姿を消します。豪勢に暮らしているように見えても、人が思うほどではありません……でも、そんなことはどうでもいいことです……私の息子は男ですから、自分で稼ぐ方法を身に着けるでしょう」

 「私の金庫から好きなだけ遣って貰っていいのですよ、リア……」

 「有り難う、貴方はお友だちね、本当に感謝しています。でも、それはお受けできません。ウィルキーがまだ幼かったときは、そうは言えませんでしたけれど……。現在は自分のこの手を使ってたとえ地面を掘ってでも、貴方からのお金を一ルイたりともウィルキーに与えることは致しません。そんなことをすれば、あの子があらゆるところで貴方の影響下に置かれるような気がするのです……私のこと、矛盾に満ちているとお思いでしょうね? おそらくそうでしょう! ともかく、私はもう昨日までの私ではありません。不幸が降り掛かって、私がこれまで自分の目を覆っていた分厚い目隠しが引きちぎられたのです。今は自分の行為と向き合って……自分で裁いています……。息子にも、自分にも、私は罪を犯しました。正気の沙汰ではありませんでした。私は息子の存在によって元の自分を取り戻すことができましたが、息子は私によって名誉を傷つけられるでしょう……」1.19

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