エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XVII-7

2021-12-31 11:41:13 | 地獄の生活

シュパンはぎょっとして、顔つきが険しくなった。眉根は寄せられ唇は震えていた。フォルチュナ氏の方は拒絶されることなど夢にも思わぬ人間の落ち着きを見せながら、堂々と先を続けた。

「こういうことだ。いいだろう? それじゃいつから仕事に掛かろうか?」

「お断りします!」 シュパンは激しい口調で遮った。そして立ち上がった。

「そういうことは……駄目です。お引き受け出来ません。そんな仕事で稼いだパンをお袋に食べさせるわけには行きません。そんなもの、喉を通りゃしません。スパイになるだなんて! 俺はパスします。誰がそんなことを! ……価値のない仕事だ……どんだけ貰ってもやりません」

彼はケシのように真っ赤になっていた。憤慨のあまり彼はいつもの用心深さを忘れてしまった。自分の前歴は厳重にベールでくるみ、誰にも明かすことはしなかったのに。

「そういうことは俺よく知ってるんですよ。前にやってたんですから。ポワッシー(中央刑務所がある)行きのチケットを手にするようなもんじゃないですか、直行のね!俺はへり地製の履物をせっせと作る作業場に送り込まれる筈だったんですよ、ムッシュ・アンドレがいなければね。俺はあの人を殺しちまうところだった。大金をちらつかされて、悪ガキだった俺は窓の支えを鋸で切ったんです(『巴里の奴隷たち』参照)。そこからあの人は転落して……。ところがあの人の復讐は、俺を袋小路から救い出してくれることだった。そんなことのあった後で、前みたいな汚いまねが出来ると思いますか? 金輪際ご免だね! それぐらいならこの足を切り落とした方がましだ! 俺にその気の毒な女の人を尾行しろ、ですって? その人の秘密を嗅ぎ付けたら、その後はあんたがその人から最後の血の一滴まで絞り上げようってんでしょう? いや、いや、断ります。俺は金持ちにはなりたいっすよ。そうなってみせます。ですが、それはまっとうなやり方でやります。百スー金貨を自分のものとして触ってみたいすよ。けど、その後自分の手を洗わないといけないようではお断りです。というわけで、今までお世話になって有り難うございました……」

フォルチュナ氏は驚きのあまり、がっくりと脱力した。『お前の一体どこに良心が隠されていたのか、尋ねてみたいもんだな』と彼は思っていた。しかし同時に彼は、気安く打ち明け話をしたことで非常に不安にもなった。シュパンはこれを悪用するのではないか? 分かったもんじゃない!シュパンに自分の計画を明かした瞬間から、シュパンはその計画を自分で実行するであろうと彼は自分の心に思い定めた。従って、彼はこの上なく厳しく威厳のある態度を取り、重々しい口調で言った。

「お前は気でも狂ったのかと疑わざるを得ない!」

言い回しといい、抑揚といい、いかにも正義にかなった発言をしているという調子で言われたので、シュパンはちょっと恥じ入ったように立ち止った。12.31

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1-XVII-6

2021-12-29 10:26:50 | 地獄の生活

「ああ、ちょっとしたことなんだ」とフォルチュナ氏は答えた。「簡単なことだよ……」

そう言って彼は半ば無意識に自分が座っていた椅子をシュパンの傍に引き寄せた。

「その前に一つ質問がある、ヴィクトール……ひとりの女が若い男を見ているとする。道でも、劇場でも、どこでも構わない。それが息子を見ている母親の顔だとお前は見分けることができるか?」

シュパンは肩をすくめた。

「どんな質問かと思ったら!」と彼は答えた。「なぁんだ、そんなことか、フォルチュナさん。俺、間違いっこないっすよ。俺が夜うちに帰ったときのお袋の目を思い出しゃいいんです。可哀想なお袋は殆ど目が見えないんすが、俺の顔は見えるんです。つまりはそういうことっすよ。もしお袋に良い顔させたかったら、俺よりも心が優しくて感じの良い奴はパリ中で一人もいない、って言わないと駄目ですよ」

フォルチュナ氏は思わず両手を擦り合わせた。自分の考えがこれほどよく理解され、完璧に表現されたことに対し有頂天になってしまったのだ。

「よし、結構だ!」と彼は断言した。「大変結構!これぞまさしく叡智というものだ。お前を見込んでいた私は正しかった!」

ヴィクトールは好奇心ではち切れそうになっていた。

「一体どういうことなんです?」と彼は聞いた。

「つまりこういうことだ。ある女を尾行して貰いたい。どこへ行こうと決して目を離すことのないように。しかも相手に気づかれないように上手くやるんだ。その女は私が指さして教える。彼女が何に目を向けるか、視線の先に注意するんだ。で、彼女の目を見て、息子を見ているとピンと来たら、お前の仕事は終わったも同然だ。後は息子の方の後をつけて、彼の名前、住所、何をして日々の暮らしを立てているか、を見つけ出す……お前私の言ってることがちゃんと分かっているんだろうな……」

この疑いがフォルチュナ氏の中に頭をもたげたのは、シュパンの顔に驚きと不満の表情が表れたからであった。

「すいません、旦那」と彼は言った。「俺、よく分からないんですが……」

「なに、ごく簡単なことさ。問題の女には二十歳ぐらいの息子がいるんだ。それは分かっている、確かなことだ。ただ、彼女はそのことを否定し、隠している。息子の方では彼女を知らない。しかし彼女はこっそりと息子を監視しているんだ。息子に生活費が渡るようにし、毎日息子の顔が見られるようにしている……つまるところ、この息子というのを見つけることが私の狙いなのさ」

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1-XVII-5

2021-12-28 10:56:20 | 地獄の生活

「それじゃ、私たちのカモの話に戻ろうか」と彼は続けた。「つまり、カジミールのことだ。私が立ち去った後、お前はあの馬鹿者に何をしてやった?」

「まず最初にですね、あの男の酔いを醒まさせました。けど、それが簡単じゃありませんでしたよ……あの野郎ったらもう、どんだけ酒を飲んだんだか……ようやく何とか普通に口がきけて、ちゃんと立てるようにしてから、ド・シャルース邸まで送って行きました……」

「ああ、そうか、それはよかった。しかし、お前、あのアホ男と何か仕事上の取り引きをしてたんじゃなかったのか?」

「その点なら抜かりはありません……契約書にはちゃんとサインがしてあります。伯爵のためには最高の葬式になりますよ。極上の霊柩車、六頭立て、半ズボンの葬祭委員、二十四台の馬車を連ねた葬列、そりゃもう夢のような景色ですよ。見物料を払っても人が見に来るような!」

フォルチュナ氏は人が好さそうにほほ笑んだ。

「ほう、そうなのか! それじゃ、お前の懐にもたんまり転がり込むんだろうな」と彼は言った。

シュパンは委託業務ごとに手数料を貰う方式で働いているので、自分の時間や能力をどういう仕事に使うかは自分で決められるのだったが、フォルチュナ氏は部下が自分の下以外で金を稼ぐことを快く思っていないことはよく知られていた。従って、彼がこのように寛大な態度を示すことにシュパンは大いに驚き、警戒心を目覚めさせた。

「そうっすね、何スーかの稼ぎにはなります」と彼は控え目に答えておいた。「そいでもって、うちのおっ母さんが鍋に入れる食物が多少は増える程度に」

「それはでかした!」フォルチュナ氏は尚も褒めそやした。「使い方を心得ている人たちの手にお金が渡るのを見るのは素敵なことだ……それでだ、お前のところに仕事を一つ持ってきたんだ。お前が引き受けてくれて、上手くやりおおせれば、かなりの金になるという仕事だ」

シュパンの目がパッと輝いたがすぐに消えた。一瞬の光に過ぎなかった。喜びのすぐ後に警戒心が生まれたのだ。彼の雇い主であるフォルチュナ氏は常に厳格で融通のきかない人間であるのに、わざわざ不便を圧して出向いてきて、七階までの階段を上ってきた目的が、彼に金を儲けさせるためというのは異様なことだと彼には思えた。これは怪しい。なにかが隠されているに違いないと彼は思った。よく注意して見極めねばならない。しかし彼は自分の感情を隠すすべを心得ていたので、この上なく嬉しそうに叫んだ。

「え? 何なんですか? 金が稼げるですって? 今ですか? で、一体何をすりゃいいんですか?」12.28

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1-XVII-4

2021-12-27 10:52:59 | 地獄の生活

そんなことするぐらいなら我が身を切り刻まれる方がましだ、てんで俺は警察に駆け込み、署長が親爺を連れて行きました……それ以来、親爺は俺たちにちょっかい掛けなくなりました……親爺とのいきさつはこういうことです」

実際はこの十倍ほど憤懣をぶちまけたいことがヴィクトール・シュパンにはあったであろう……。しかし彼はそれ以上は口をつぐみ、もっと深刻な事情や彼の憎悪の決定的な理由については触れなかった。彼が口にするのを憚った事情とは、彼がまだ物心もつかなかった頃に父親が母親のもとから彼を連れ去り、悪の道に彼を置いたということだった。そこに居れば、奇跡でも起きない限り不可避的に、末はカイエンヌ(徒刑場があった)かロケット広場(刑場があった)で終わる運命であった。彼にとって幸いなことに奇跡が起きたのだったが、シュパンは自慢にも思わなかった。

「まぁまぁ、そう喧嘩腰になるなよ」とフォルチュナ氏は言った。「そう腹を立てなさんな。父親は父親だ。お前の親爺さんだってきっと真人間になるときが来るさ」

彼はごく普通の世間話のような口調で話していた。なによりまず礼儀上、そしてシュパンの話に興味を持って聞いているということを示すためであったが、実際はシュパン家の不幸のことなど全く意に介していなかった。最初心を動かされたものの、それはすぐに消え去り、この打ち明け話がちょっと長すぎると思い、肝心の話題から逸れていると感じていた。

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1-XVII-3

2021-12-25 09:54:18 | 地獄の生活

シュパンが自分の部屋と呼んだのは屋根裏の小さな空間に過ぎず、これ以上は出来ないというほど清潔ではあったが、調度品としては粗末な鉄製の簡易ベッド、トランク、そして椅子一脚だけであった。彼は椅子を勧め、ランプをトランクの上に置くと、自分はベッドに座り、言った。

「ここはボスのお宅とは較べものになりませんけどね、おいらの天窓を金メッキして貰いたいと大家に頼んでみるつもりなんすよ」

この言葉にフォルチュナ氏は大いに心打たれたが、それは彼の人生では滅多にないことだった。彼はシュパンの方に手を差し伸べながら言った。

「お前は大したやつだよ、ヴィクトール!」

「そんな! 人間、出来ることをやるしかないじゃないすか。一日二十四時間同じ靴を履いているわけにもいかないすよね……けど、まぁ、正直に金を稼ぐってのはしんどいことでさぁ。おいらのお袋の目がはっきり見えさえすりゃねぇ、随分と助けになるんでしょうが。てのは、うちのお袋てのは、そりゃもう働き者でしてね、右に出る者はいないぐらいでさ。ですがね、編み物じゃ百万長者にゃなれませんからね……」

「お前の父親は一緒に住んじゃいないのかい?」

怒りの稲妻がシュパンの目に一瞬現れた。

「ああ、その男の話題はなしにしてくださいよ……」と彼は叫んだ。「気分が悪くなりますんで……」

しかし、説明して自分の憎悪を正当化する必要があると思ったのか、彼は異様な興奮の態で言葉を続けた。

「俺の親爺、ポリト・シュパンってのは正真正銘のろくでなしです!そんな男でも幸運に恵まれましてね、まずお袋みたいな女と出会えて、結婚まで出来たんです。お袋は貞女の鑑みたいな女で、若い頃はトワノンの乙女と呼ばれてたんです。お袋は親爺を崇拝してましてね、奴に金を与えるために働いて働いて死にそうになったんです……ところが親爺の方はお袋を殴るわ、泣かすわ、その所為で目が悪くなっちまったんです。

話はそれで終わりじゃないんでさ。ある朝、どこからどうなったのか、さっぱり分からないんすけど、ブルジョワみたいにステッキを手にした暮らしができるだけの金が突然親爺に舞い込んだんです……なんでも、えらくお金持ちの人が昔なにかの仕事をしてくれた返礼にと、その金を遺してくれた、てんです。亡くなった御祖母ちゃんがラ・ポワブリエールでワインを売る小商いをしてた時代のことだとかで。12.25

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