エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XVIII-12

2022-02-17 09:26:40 | 地獄の生活

 「この調子じゃ今夜はここに泊まりだな」とシュパンは思っていた。

彼の不機嫌ももっともだった。もう深夜の一時だった。彼の周囲の椅子とテーブルは片付けられ、お引き取りを願われていたのだ……。

 どこのカフェも閉められ、閂の掛けられる音、鎧戸の内側から下ろす掛け金の音があちこちから聞こえていた。歩道の上では腕まくりをし、首の周りにナプキンを巻いたウェイターたちが手足を延ばし伸びをしては、比較的綺麗になった空気を美味しそうに吸い込んでいた。ブールヴァールは閑散としていた。男たちは小さな集団を作って遠ざかって行き、店々の前を女たちの影が滑るように動いていた。街の巡査たちが取締りの言葉を口にしながら巡回していた。カフェバーから出るにはもう小さな通用口しか開いておらず、そこから最後まで粘った客たちが出てくるのだった。彼らはおしまいにする前に必ず一口小さなグラスで飲んで締めくくると言ってきかない客なのである。

 ウィルキーたち一行が出て来たのも、この種類の戸口であった。彼らの姿が見えると、シュパンは喜びの言葉をムニャムニャと呟いた。これでようやく家に帰れる、と彼は思った。例の男を彼の家の門まで『尾行』し、番地を確かめたら、自分の家に帰る……。しかし彼の喜びはすぐに消えた。ウィルキーの提案により、彼らは夜食を取りに行くことにしたのだ。ド・コラルトだけがちょっと異議を唱えたが、結局皆に引き摺られていった。2.17

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1-XVIII-11

2022-02-16 09:28:52 | 地獄の生活

これらの青年たちと同じボックス席には二人の派手な化粧をした女性が同席していた。彼女たちは黄色い髪を猛烈な逆毛にしており、はしゃぎ、可能な限り動き回り、意味もなくにやにや笑ったり、金切り声を上げたりしていた。その唯一の目的は劇場中の注目を浴びすべてのオペラグラスを自分たちに向けさせることであった。そしてその術策は功を奏していた。

この他愛ない顰蹙を買う行為はド・コラルト氏の気には入らないようで、彼は出来るだけボックスの奥の陰の部分引っ込み、身を隠そうとしていた。しかしウィルキー氏の方は見るからに有頂天で、彼のボックスに向けられた注目を誇らしく思っている様子だった。彼は出来るだけ人々の視線を浴びようと前方に寄り掛かり、まるでクジャクが羽根を広げるように自分の肢体を伸ばし、見せびらかしていた。

 「それにしても」とシュパンは思っていた。「世の中にはアホな人間がいるもんだ。神様が知恵を与え損なったんだな……」

 これまでにも増してシュパンはウィルキーがマダム・リア・ダルジュレに面と向かって浴びせた侮辱を許せない気持ちになった。おそらくは彼の母親なのに……。

 演じられていた出し物については、シュパンはものの二十語も聴いていなかった。疲労の頂点に達していた彼はたちまち眠ってしまったからである。幕間になると騒音で目が覚めたが、それも束の間のことで、完全に目を覚ましたのは芝居が終わったときであった。

 彼の『お客さんたち』はまだボックス席に居た。あのウィルキーでさえ、立って同席の婦人たちに礼儀正しく肩掛けやコートを着せかけていた。

 「いよいよ家に帰るんだな」とシュパンは思った。

 どっこい、そうではなかった。劇場正面を飾る列柱回廊でウィルキーとド・コラルトは数人の青年たちに出会い、彼らは連れだって近くのカフェに入っていった。黄色い髪の女性たちも一緒だった。

 「まぁったく」とシュパンは不平の呻り声を上げた。「しょっちゅう喉が乾くように喉に塩でも擦りこんでるんじゃないのか、この連中ときたら! それとも、これが彼らの普通の生活なんだろうか?」

 しかし彼自身、夕食を大急ぎで取ったので喉が渇いていた。長いこと思案した挙句、節約よりも乾きの要求の方が勝利を収め、彼は外のテーブルの一つに座り、ビールの小ジョッキ(4分の1リットル)を注文し、満足の溜め息と共に唇を湿らせた。

 ちびちびと飲んでいたにも拘わらず、彼のジョッキが空になって相当時間が経っていた。それなのにウィルキーと彼の友人たちはずっと飲み続け、カフェから動こうとしなかった。2.16

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1-XVIII-10

2022-02-14 09:29:24 | 地獄の生活

美男の子爵の顔をしげしげと見た後、今度は彼の身体つき、歩き方、身振りなどをじっくり観察したが、そうすればするほど自分が最初に抱いた印象に間違いはないと確信が深まった。そして自分の記憶が頼りにならないことに苛立ちながら、結局名前に大した意味なんかないのだと自分に言い聞かせた。

しかし二人の青年がカフェの入口近くに座って飲んだり葉巻を吹かしたりしている間、このことに気が取られていたおかげで、歩道を行ったり来たりして潰す時間が短く感じられるという好ましい側面もあった。

シュパンを憤慨させたのは、彼らが桟敷席の切符を持っていながら、長々とそこに居続けることであった。

「考えなしの阿呆どもめ!」と彼は口の中で罵った。「あいつらは芝居が半分終わった頃に入って行って、わざとお客さんの邪魔をするんだ。大きな足音を立てて歩いて……どうしようもない馬鹿者だ!」

まるでその悪口が聞こえたかのように、彼らは立ち上がり、ほどなくヴァリエテ劇場に入っていった。二人は入ったが、シュパンはややしょんぼりと通りに立ったまま、猛烈な勢いで頭を掻き毟っていた。想像力を働かせようとするときの彼の癖なのだ。彼が懸命になって考え出そうとしていたのは、いかに財布の紐を緩めることなく劇場の席を手に入れるかということだった。現に彼は一銭も使うことなくブールヴァールでのすべての出し物を見ていた時期があった。窓口で切符を買うなんて沽券にかかわるとさえ思っていたかもしれない。

「芝居を見るのに金を払うなんて」と彼は思っていた。「俺はまっぴらだね……支配人は飯の食い上げになるだろうけど……。誰か俺の知ってる人間が通るに違いない……幕間まで待ったら何とかなるかも……」

彼の思惑どおりになった。幕間の時間になると、劇場からぞろぞろ出て来る大勢の人の中にぴかぴかの制帽を被り、縮れた髪をこめかみに貼りつかせた背の高い若者の姿を認めた。かつての仲間で今は賭場で働いている男だった。彼のおかげでシュパンは切符売りの男からチケットを一枚ただで手に入れることができた。

「やったね……至る所に友達がいるってなぁ良いことだ」と彼は呟いた。

彼が貰ったのは実際とても良い席で、三階の天井桟敷だった。そこからは少なくとも劇場の半分を見渡すことが出来た。一度ぐるりと視線を巡らすだけで彼の言う『お客さん』はすぐに見つかった。真向かいの桟敷席に居る。2.14

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1-XVIII-9

2022-02-12 09:24:50 | 地獄の生活

もう一人の男は財布を取出し、自分の飲んだコーヒー代を払うと申し出ている風だったが、ウィルキーは鷹揚な身振りで押し留め、ウェイターに向かって素晴らしく尊大な態度で言い渡した。

「こちらからは何も受け取るんじゃあない。払いはもう済んでいるんだから……釣りは取っておけ」

ウェイターは厳粛な態度で立ち去った。パリでチップの額を年間百万フラン以上も押し上げているのはひとえに虚栄心のためだということをよく知っている男の態度である。

 「伊達男たちが出て行くぞ」とシュパンは自分に言い聞かせた。「耳の穴かっぽじってよく聞くんだ」

彼らが店を出たそのときから会話を聞き逃すまいと、彼はドアに近づき、靴の紐を結び直す恰好をして地面に膝をついた。これはスパイや詮索好きな人々がよく使う手口の一つである。通りで隠し事をぺらぺら喋るような愚か者は、少なくともすぐ傍で何らかの作業に没頭している風を装っている者には警戒すべきだ。十中八九その者は聞き耳を立てている。何かの利益のため、単なる好奇心のため、あるいは噂のネタにするため、理由はいろいろだが。

しかしシュパンが様子を窺っている二人の青年たちは、自分たちが監視の対象となっているなどとは夢にも思っていないようだった。ウィルキーが先に出て来た。御馳走をたっぷり平らげ、消化力も上々の人間がよくやるように、テーブルから立ち上がるときと同じように非常に大きな声で話していた。

「さて、コラルト君」と彼は連れに向かって話しかけた。「このまんま別れるなんて言わないでくれよ……俺はヴァリエテ劇場に桟敷席を持ってるんだ。一緒に行ってくれるよな……シリーがテレーザの物まねをするのが本当に評判どおりかどうか、見に行こうぜ……」

「実は人を待たせてるんだ……」

「そんなの、待たしとけって! な、子爵、それでいいだろ?」

「ああ、全く、君の言うことには逆らえないな……」

「ようし! しかしその前にどこかでビールを飲んで葉巻をおしまいまで吸うことにしようぜ! 俺の桟敷に誰が来てると思う?」

二人は遠ざかっていった。雑踏の音で彼らの声はかき消されてしまった。シュパンは立ち上がった。

「コラルトだって?」と彼は呟いた。「コラルト子爵とか言ってた……フォルチュナさんとこの顧客の中にはない名前だ……それ以外だと……コラルト……いや、この名前を聞くのはこれが初めてだ、間違いない。俺が思い違いをしてる? ……いや、あり得ない!」2.12

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1-XVIII-8

2022-02-10 09:28:15 | 地獄の生活

ガラス越しに見える限りでは、若いウィルキー氏は懐の温かい人間の旺盛な食欲で夕食を平らげていた。

「チェッ、そうなんだ!」シュパンはちょっぴり羨ましさを感じながら呟いた。「たっぷり御馳走を戴いてるってわけだな……ま、一時間はテーブルに着いてるだろうから、俺もひとっ走りどっかで一口かっ込んで来るか……」

そう決めて、彼は急いですぐ隣の通りに入り、小さな食堂を見つけ、入ると三十九スーもする料理を奮発した。このように散財することはもはや彼の習慣ではなく、彼はけちけちと暮らしていた。いつか金持ちになるのだと誓ってからは。彼の言葉を借りれば、かつては『美味いものに目がない』生活をし、ロンドレス葉巻や小さなグラスで飲む強い酒が大好きだった彼が、今や隠遁者のように、水しか飲まず、勧められたとき以外は喫煙もしないという生活を送っているのだ。

こういう暮らしは彼にとって苦痛ではなかった。たとえ一スーと雖もそれは彼の懐に転がり込む金だからだ。一スーは来るべき一財産という建造物を建てるための砂の一粒となるのである。しかし今夜は、『ボルドーをちょっと一杯』を控えようという気にはならなかった。

「よし、豪勢にいこう!」と彼は考えた。「これは正当に稼いだ金だからな……」

しかしカフェ・リッシュの前の見張りの位置に戻ってみると、ウィルキーはもはや一人ではなかった。テーブルには彼と同じぐらいの年恰好の青年が同席し、二人はコーヒーを飲み終えていた。その相手の青年は素晴らしく美男で、ちょっと美男すぎるほどだったが、その顔を見るとシュパンは思わず声を上げた。

「ああ、誰だったっけ、どこで見たっけ! あの顔は確かにどこかで見覚えがあるんだがな……」

この新しく来た男、そのギリシャ彫刻のような顔はあまりに整いすぎて不安を起こさせるほどだったが、その顔に名前を関連付けようとシュパンは懸命に頭を捻ったが、思い出せなかった。しかし、彼の記憶の底に、過去の記憶の幻影とともに、確かにその人物が蠢いているのだった……。彼の苛立ちが最高潮に達し、自分も店の中に入ろうかと思案していたとき、ウィルキーがウェイターの手から勘定書きを受け取ると、周囲を見回してからテーブルの上に一ルイを置いた。

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