エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

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2020-12-30 10:01:43 | 地獄の生活

彼はこう言うと、巨体を揺すぶりながらパスカルのデスクの前まで行き、座って手紙を書いた。

『編集長殿、

先日の晩、D邸において持ち上がった騒動を目撃した人間として、重要な点に関し訂正を報告いたしたく存じます。カードが余分に滑り込まされていたことは明白な事実でありますが、それがX氏による行為であったか否かは証明されておりません。何となれば、誰もその現場を見た者はおらぬからです。状況は同氏にとり不利に見えることは確かでありますが、私は自らの名誉をもって同氏を信じる者であります。

トリゴー男爵』

この間、フェライユール夫人と息子は目で相談をし合っていた。二人の抱いた印象は同じであった。この紳士は敵である筈はない、と。男爵が自分の書いた手紙を読み上げたとき、パスカルは言った。

「貴方様にはどのように感謝しても伝えきれないほど感謝しております。しかし、貴方様が真実私のためを思ってくださるならば、どうかその手紙はお出しにならないで下さい。貴方様にはご迷惑をかけることになるでしょうし、どのみち私が自分の職業を続けられなくなることは避けられません……私はむしろしばらく忘れられる方が有難いのです……」

「さようでござるか……ご心中はお察し申す……貴殿は自分で犯人を探し出したいのじゃな。それまでは相手に警戒させたくないと……。いや貴殿の慎重な態度はわしも賛成じゃ。しかし、わしのこの手紙はずっと持っていてくだされ。そしてもしも、助けが必要ということであれば、わしの家の門を叩いてくだされ。貴殿が証拠を手にした暁には、単に恥辱をすすぐのみならず、貴殿の主張を明らかに宣言する方法を必ず貴殿にお示し申そう……」

彼は立ち去ろうとしたが、ドアから出て行く前に次のように付け加えた。

「これからは、ゲームの際自分の左側に座った男の指を注意しておきますぞ……それに、わしが貴殿の立場であれば、あの記事の基になったメモを手に入れようとするであろうな……書かれたものというのは、大いに役に立ってくれるときがあるものじゃ……」

男爵が立ち去ると、フェライユール夫人は立ち上がった。

「パスカル、あの方は何かを知っているわ」彼女は叫んだ。「それにお前の敵は彼の敵でもある。彼の目を見れば分かります……はっきりとド・コラルト氏を非難なさっていたわね」

「ええ、僕も分かりました。お母さん、決心がつきましたよ……僕は出発しなくちゃなりません。今のこの瞬間から、パスカル・フェライユールはもう存在しないんです……」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

早速その日の夜、引っ越しの大型馬車がマダム・フェライユールの住んでいた家の前に停車していた。彼女は家財道具をまるごと家具屋に売り、先に旅立った息子に合流するつもりだと語った。アメリカで。12.30

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2020-12-29 10:36:13 | 地獄の生活

「貴殿には隠し立てなく申しますぞ」と彼は言い始めた。「わしがここへ来たのは良心が咎めたからでしてな……」

ここでパスカルがある身振りをしたのを、彼は誤解した。

「いやいや、良心でござる」と彼は繰り返した。「わしにも、ときには良心のうずくことがありましてな。貴殿が今朝あの……遺憾な騒動の後立ち去られた後、わしの心に色々とやくざな疑いが生まれましてな……ちょっと待て、とわしは心の中で言ったわけで。わしらはちょっと性急過ぎたのじゃあるまいか……あの青年は犯人ではなかったかもしれん、と」

「何を仰りたいのか知りませんが!」とパスカルが威嚇の口調で遮った。

「あ、いや、すまんが、最後まで言わせて貰おう。じっくり考えてみた結果、正直に申さねばならぬが、わしの心に生じた疑いは益々大きくなるばかりじゃった。なんてこった、とわしはまた自分に言いましたのじゃ。もし、あの若者が無実なら、真犯人はマダム・ダルジュレの常連客の一人ということになる。言い換えれば、わしが毎週二回は顔を合わせ、来週の月曜にもわしとゲームをする可能性のある者だ、と。そこでわしは平気でいられなくなり、ここへやって来た、というわけじゃよ……」

この突然舞い込んできた男爵の言う風変わりな訪問理由は本当であろうか? それは見極めがかなり難しいことであった。

「わしはこう思って此処へ来たのじゃよ」と彼は続けて言った。「貴殿の家の中を観察すれば、貴殿の人となりの一端が分かる、と。で、それを見た今は誓って言える。貴殿は奸計に嵌められたのだ、とな」

男爵は騒々しい音を立てて鼻をかんだ。が、そうしている間も、パスカルと母親の間で演じられている無言劇をじっと観察していた。二人は呆気に取られていた。このようにはっきり言明されたことは嬉しい反面、大いに警戒の余地があった。人が不運に見舞われた人間にこのような興味を示すということは自然なことではない。そこに何らの利益も介在しないのであれば。では、この奇妙な訪問者の利益とはどんなものであり得るのか? それにしても、彼は自分が受けている氷のように冷たい対応を全く意に介していないように見えた。

「これだけは言える」と彼は再び話し始めた。「誰か貴殿のことを目障りに思っている者がおる。それで、そいつはこのやり方で貴殿を排除できると思ったという訳じゃ。ナイフで切りつけるより確実なやり方だ。貴殿に関する新聞記事を読んだとき、それがピンと来た、という訳じゃよ。貴殿も、それを読まれたか? そうか、よし。それで何と思われたかな? あの記事は貴殿の敵が新聞社に渡したメモを基に書かれたのに違いない、とわしは思っておる。それだけではない。あそこに書かれている具体的な詳細は事実と違う。じゃから、最終的に無辜の他者に罪が着せられることのないよう、この悪事を明らかするために、わしが一筆正しい事実をしたためて、わし自身の手で持っていこうと思う……」12.29

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1-V-14

2020-12-28 10:40:54 | 地獄の生活

彼は途中で言いさし、耳を澄ませた。控えの間からなにやら家政婦と訪問者の間で揉め事が持ち上がっているようだった。

「彼は居る筈だと言っているだろう、分からぬやつじゃな!」と息を切らせた野太い声が聞こえた。「わしは彼と会って話をせねばならんのだ!事は火急なんじゃ。じゃから、ブイヨット(カードゲームの一種)の一番盛り上がっているところで席を立って来たというのに!」

「さっきから申し上げているじゃありませんか。主人は出かけております」

「そうか!それなら待とう!……どっか座れる部屋に案内して貰おう」

パスカルの顔が蒼ざめた。その声に聞き覚えがあったのだ。マダム・ダルジュレの舘で、彼の身体検査をすれば良い、と提言したあのプレイヤーだった。

覚悟を決め、パスカルはドアを開けた。マスカロン(装飾用の怪人面)よりも大きな顔の太った男が蒸気機関車のように息を切らし、彼に向かって突進してきた。自分にはふんだんに金があるから何でも許されると思っている男のずうずうしい態度が感じられた。

「やっぱり!」彼は叫んだ。「ここに居る筈だと分かっておった。おぬし、わしを覚えておろうな……トリゴー男爵だ。わしが来たのは……」

彼の言葉はここで途切れ、年利収入八十万フランもある男とは思えぬような狼狽ぶりを示した。マダム・フェライユールの姿を認めたからである。彼は夫人にお辞儀をし、旧知の間柄のような身振りと共にパスカルに言った。

「おぬしに個人的な話があってやって来たのだ……その、おぬしも良く知っている事柄についてな」

パスカルは非常に驚いていたが、それでも表情にはそれを露さなかった。

「母の前でお話になって結構です」と彼は冷たい、敵対的とも言える口調で答えた。「母はすべてを知っておりますから」

男爵の驚きは顰め面となって表れた。彼の場合、それは顔面の痙攣だった。

「ああ」と彼は三度異なるイントネーションで繰り返した。「ああ、ああ」

誰も彼に椅子を勧めなかったので、彼は自ら肘掛け椅子の方へ進んで行き、どかっと腰をおろして言った。

「お許し願いますぞ……あの階段には参り申した!」

このどっしりと肥満した人物はその鈍重そうな外見の下に、よく鍛えられた慧眼と繊細な神経を隠していた。呼吸を整えるふりをしながら、周囲に油断のない一瞥を飛ばし、彼は執務室と主人側の二人を観察した。床には拳銃と、くしゃくしゃになった手紙が落ちており、フェライユール夫人とその息子の目にはまだ涙が光っていた。鋭い観察者でなくとも、事情は察しがつくというものだ。12.28

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1-V-13

2020-12-27 10:15:17 | 地獄の生活

……僕は毎日、今日こそお母さんに全部打ち明けて、ド・シャルース伯爵に会いに行っていただこうと思っていたんです。……僕の身分はまだとても低いので……その伯爵というのは物凄く金持ちなんです。マルグリットに二百万フランという途方もない持参金をつけるというおつもりらしいのです……」

マダム・フェライユールは身振りで息子の言葉を遮った。

「それだわ」と彼女は宣言した。「そこから、この話は始まっているのよ」

パスカルは立ち上がり、背筋を伸ばした。頬は紅潮し、目には炎が燃え、唇はわなないていた。暗闇を切り裂く閃光がたった今、自分が突き落とされた奈落の深みを照らし出したかのように思えた。

「もしそうだとすれば!」彼は叫んだ。「ド・シャルース伯爵の巨万の富がどこかの卑劣感の強欲を刺激したことはあり得ます……マルグリットをこっそり見張っていて、僕が邪魔者だということが分かる……そんなことがないと誰に言えるでしょう。何百万もの富の輝きがどれほど欲深い人間の心を奪うか、僕だって知らないわけじゃありません……」

実際、金銭欲に捉われた者がどれほど恐るべき手段に訴えることがあるか、彼は他の人間よりもよく知っている筈であった。彼自身の人生はずっと平穏で単調でさえあったが、彼とて伊達に四年も公証人の主任書記をやっていたわけではない。世間での悲惨な経験に触れているうち、あっという間に幻想は打ち砕かれる。共同洗濯場に持ち込まれる汚れ物のように、小売りの不正、相反する利益から生じるいがみ合い、どん底の生活から来る罪障、凶悪犯罪に至るまで、重罪院や軽罪裁判所から流れてくるこれらの事件を扱うことで、人生を知るものだ。

「きっとそうです」フェライユール夫人は尚も言い張った。「私の言っていることは間違ってはいない、という気がするのです。……証拠はなにもないけれど、私は確信しています……」

彼女は考えに沈んだ。

「それに」とパスカルは続けて言った。「なんて奇妙な偶然だろう! 僕が最後に愛するマルグリットと話したとき、何が起こったと思います?……一週間前のことです。彼女はとても悲しそうで、見るからに気が動転していたので僕は驚いてしまったのです。尋ねてみると、最初は話したがらなかったのですが、僕が何度も尋ねたのでついにこう言いました。『いいわ、こういうことなの。私を結婚させようという話が持ち上がっているので私は震え上がっているの。ド・シャルース様は私に何も仰らないけれど、ちょっと前からお部屋に閉じこもって、何時間も若い男の人と話し合っておられることがよくあるのよ。なんでも、その方のお父様から昔大恩を受けたことがあるそうよ……。で、その男の人は、私が同席するといつも、とても変な様子で私をじっと見ているの……』」

「その人の名前は?」

「分からないんです。彼女は言いませんでした。僕は、彼女の話に不安になって、聞きそびれてしまいました。でも、彼女は教えてくれると思います。今晩にでも、もし彼女に会うことが出来なくても、手紙を書きますよ。もし僕たちが考えているとおりなら、秘密は三人の手の中にあることになりますね。そうなったらもう秘密じゃない……」12.27

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1-V-12

2020-12-26 09:26:59 | 地獄の生活

彼の仲間の誰かに損害を与えるようなことはしなかった? 誰かの邪魔をしたとか?……よくよく考えてみるのよ……お前の職業にはそれなりの危険がついて回るものよ。お前を酷く憎む敵を作ることだってある。弁護士というものは相手側の虚栄を容赦なく攻撃しなくてはならないときがある。そういった破廉恥な事件の一つに関係があるのではないかしら……」

パスカルは身震いした。闇の中に一筋の光が射すのを感じた。弱々しく、何か入り混じったような光ではあるが、それでも希望には違いなかった。

「そうだ、何だってあり得るんだ……」と彼は呟いた。

フェライユール夫人はじっと考えに沈んでいた。熟考の所為か、あるいはその考えの性質のためか、彼女の顔は紅潮してきた。

「母親にも羞恥心を捨てて向き合わねばならないときがあるものです。息子よ、お前に恋人がいるとしたら……」

「そんな人はいません」とパスカルは遮って答えた。それから彼は真っ赤になり、少しの間躊躇したがやがて付け加えた。

「ですが、健全な愛情を捧げ恋しく思っている女性はいます。この世の中で一番美しく、一番純潔な乙女です。彼女は、お母さんに値するような賢明さと良い心の持ち主です……」

夫人は重々しく首を振った。この退廃した犯罪の奥には女がいるに違いないと予期していたかのようであった。彼女は尋ねた。

「で、その娘さんは誰なの? 名前は何と?」

「マルグリットです」

「マルグリット何という名前?」

パスカルの狼狽は大きくなった。

「彼女にはそれ以外の名前がないんですよ」と彼は早口で答えた。「彼女は両親を知らないんです。かつては僕たちと同じ通りに住んでいました。年を取った家政婦のマダム・レオンと一緒に。その頃僕は初めて彼女に出会ったんです……現在彼女はクールセル通りのド・シャルース伯爵の舘に住んでいて……」

「どういう名目で?」

「その伯爵が彼女を庇護しているんです。彼女が教育を受けられたのもその伯爵のおかげなんです。保護者みたいなもので……彼女自身の口から聞いたのでなければ、ド・シャルース氏は彼女の父親だと思っていたところです」

「で、その娘さんもお前のことが好きなの?」

「ええ、そう思います。彼女は僕以外の男とは決して結婚しないと誓ってくれています」

「それで、その伯爵は?」

「何も知りません。何も怪しんでいないようです。

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