エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-X-1

2023-11-23 15:06:28 | 地獄の生活
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目的地に着いたので、シュパンは歩を緩めた。そしていかにも事情を心得ているといった様子で慎重に店に近づき、ガラスに鼻をくっつけんばかりにして中を窺った。予め中の様子を見るのは、自分がどんな感じで入っていったらいいかを決めるのに役立つだろうと考えたのだ。確かに、たっぷりと心行くまで観察するのを妨げるものは何もなかった。夜の闇はすっかり濃くなり、河岸に人の気配はなかった。物音ひとつ聞こえてこない……。悪臭を含んだ濃い霧が息苦しいほどに立ち込め、陽気なざわめきのある隣の市門までずっと続いていた。パリの街ならすべて知り尽くしていて驚くことなどない生粋のパリっ子のシュパンでさえ、ぞっとするような場所だった。『おいらの街』の中ならどんなにさびれた場所に居ても、ブルジョアが自分のアパルトマン内の部屋ならどこであろうとくつろげるように、我が物顔に振る舞うシュパンなのに。
「あの悪党のコラルトの正式な妻って人がこんなところに店を構えるとは、年収十万リーブルは行かないんだな」と彼は思った。
実際、このタバコ屋ほど酷い店はないと言っていいだろう……。二階までしかない建物で、俗に言う吹けば飛ぶような小屋であった。両側が支柱で支えられていなければ今にも瓦解しそうになっており、その両側の壁に出来たひび割れは古い船の床板を正面の壁に釘で留めることで隠されていた。
「この中に居たら」とシュパンは思った。「とても安心しちゃいられないだろうな。風の強い日なんかには……」
店舗そのものはかなり大きかったが、そのみすぼらしさと不潔さは顔をそむけたくなるようなものであった。壁は漆喰が剥がれており、くすんだ緑色の染みが涙のように染み出していた。分厚く不均等に塗られたペンキの痕が見られたが、窓ガラスはなくなっていた。床はこのセーヌ河岸を覆っている黒く粘ついた石炭粉と同じ色をしていた。解体業者が道具類を手あたり次第に売ったものらしく、砂岩の壺四つ、秤が二個、いびつなガラスケースにはパイプ、紙煙草、いろんな値札の付けられたガラス器や瓶、葉巻の箱が数個、たばこの葉の入った箱がいくつか(これらは絞れば水気が滴るようなものであることが見なくても分かるものだった)といったものがカウンターの上に置いてあった。
この陰惨な店とド・コラルト子爵の贅沢な家の内部とを較べるとシュパンは心が沈み、同時に怒りが沸々と湧いてきた。
「このことだけを取っても」と彼は歯を食い縛りながら思った。「あのクソ野郎は銃殺にすべきだ」11.23
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2-IX-20

2023-11-14 15:52:09 | 地獄の生活
このド・コラルト氏の妻に宛てた手紙と男爵夫人宛てに持って行かせた手紙の間には何らかの繋がりがある、とシュパンは思った。きっとそうに違いない。それら二通は同じときに書かれ、同じ感情に支配されていたと考えられる。なにか問題でも起きたのか? ラ・ヴィレットのタバコ屋とヴィル・レヴェック通りの大富豪の男爵夫人との間にどんな関係があるのか、シュパンは頭を捻って考えたが、どうしてもありそうな関係は思いつくことが出来なかった。とは言え、思案の方は前に進まなかったが、彼の脚は動きを止めなかった。果てしなく思われるラファイエット通りを上がって行き、フォブール・サン・マルタンの高台まで出ると、外周道路を横切りフランドル通りに着き、ようやく息を整えた。
「やれやれ! 乗合馬車に乗るよりはちっと速く着いたかな……」と彼は呟いた。
河岸通りにやって来たわけだが、ここはフランドル通りとルルク運河の間に延びている幅の広い道路である。左側にはあばら家や、ぞっとするような廃屋、作業場、それに巨大な石炭倉庫が並んでいた。右側の運河沿いには粗末な屋台の店や、泥土、建築用の不良材料などで作られた間に合わせの店が並んでいるだけで、見苦しく不潔で煤けた光景であった。
昼間なら、ラ・ヴィレット港の活動が集中しているこの河岸ほど騒がしく活気づいている場所は他にはないほどなのだが、夜になり作業場が閉められると、まばらにしかない街灯が闇の不気味さを却って強調し、この上なく寂しく陰気な場所になった。聞こえるものと言えばひたひたという水の音と、船乗りたちが時折船底の水を汲み出す音だけであった。
「こりゃあ、子爵殿は住所を間違ったな……」とシュパンは思った。「この河岸あたりには店なんか一軒もないぞ」
しかし、そうでもなかった。スワッソン通りを越えると、遠くに、霧の切れ間に赤味がかった角灯が見えた。タバコ屋だ……。11.14
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2-IX-19

2023-11-09 13:17:44 | 地獄の生活
しかし彼は独り言を言うのをやめ、馬車の通れる立派な門の陰に用心深く身を隠した。粋な身なりのフロランはヴィル・レヴェック通りでもひときわ豪華な邸の門の呼び鈴を鳴らしていた。門が開けられ、彼は中に入っていった。
「ふうむ、長い距離じゃなかったな」とシュパンは思った。「抜かりはないな、子爵と男爵夫人……近所なんだから、花を送ったりするのも便利というわけだな……」
彼はあたりを見回し、一人の老人が自分の店の前でパイプを吹かしているのを見つけた。その老人に近づいて行き、丁寧に話しかけた。
「ちょっとものをお尋ねしますが、あちらの立派なお宅はどなたのお住まいかご存じですか?」
「あれはトリゴー男爵邸さ」と相手は口からパイプを離さず答えた。
「それはどうも有難う存じます」とシュパンは鹿爪らしく答えた。「こんなことをお聞きしましたのも、わたくし家を一軒買おうと考えておりますので……」
こう言うと、彼はトリゴーという名前を四、五回繰り返して記憶にしっかり刻み付けた後、今度は脚をラ・ヴィレットの方向に向け、全速力で走り始めた。まるでルーレットの上を転がっているかのように自分自身にも信じられないような速さで疾走して行く彼は有頂天になっているように見えた……だが、実際はそうではなかった。事がうまく運び過ぎ、彼は逸る心を抑えられなかったのだ。ポケットに入っている手紙は真っ赤に焼けた鉄のように感じられた。
「マダム・ポール……」と彼は低い声で呻るように呟いていた。「これがあの悪党の正式な妻に違いない。そもそも、ポールというのはあいつの名前だ。彼女がタバコ屋の権利を買ったらしいということは話に聞いている……だから間違いない!……あの二人は仲の悪い夫婦なんだとばかり思っていたが、手紙で連絡は取り合ってるんだな……」
この手紙の中味を知るためだったら、彼の言葉を借りれば、一ショピーヌ(二分の一リットル)の血ぐらい流したって構わない、というところだった。封を開けて中を見てみたいという気持ちはやまやまだったが、彼を押しとどめたものは残念ながら人としての礼節ではなく、あの手ごわい暗紅食の封蝋であった。しかも金粉がちりばめられ、非常に入念に固められていたので、ほんの少しでも破ろうとすればたちまちその形跡を残すようなものだった。シュパンはフロラン対策に阻まれていたと言える。ド・コラルト子爵は下男の手の付けられぬ好奇心から身を護るためにこの封蝋を用いていたのだ。というわけでシュパンに出来ることは、その封書の表書きを何度も眺めることと、便箋から発するクマツヅラとアイリスの匂いを嗅ぐことだけだった。しかし機敏な彼は素早く疑惑を察知し、いろいろと推測を巡らし始めた……。11.9こ
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2-IX-18

2023-11-05 10:53:10 | 地獄の生活
彼の自制心は相当なものだったとは言え、内心の動揺はあまりにも大きかったのでその場に居た者たちの目に止まらずにいなかった。
「おい、お前、一体どうしたんだ?」と彼らは同時に尋ねた。「どうかしたのか?」
意志の力を振り絞ってシュパンはなんとか冷静さを取り戻し、自分のヘマを取り繕うべく口実を素早く探した。
「そうっすねぇ」と彼はむすっとした口調で答えた。「そりゃまぁ、やるとは言いましたがね……こっからラ・ヴィレットまで遠路はるばる行くんしょ……旦那が行くのを渋るようなとこまで。こりゃもうお使いってなもんじゃない、出張っすよ……」
この説明はすんなり受け入れられた。自分の労力が当てにされていると知って、この若者はもう少し値を吊り上げようとしている……まぁ当然のことか。
「それじゃ不満だってのか!」と赤いチョッキのフロランは叫んだ。「ようし、仕方ない! 三十スーやろう!けど、さっさと出発しろよ!」
「へい、只今!」とシュパンは答え、呆れるほどに蒸気機関車の警笛そっくりの口笛を吹きながら、吉兆を告げる鳥がごとき素早さで出て行った。
しかし、館を出て二十歩ほど来たところで彼はぴたりと立ち止まった。周囲を経験豊かな目で見回すと、目立たない一角を目指して走って行き、身を潜めた。
「あの赤チョッキ野郎がもうすぐ出て来る」と彼は考えていた。「件の男爵夫人とやらのもとに手紙を届けに行くんだ。そしたら俺は後をつけ、やつがどこに入っていくか見届ける。そうすりゃ、ズドンと的に命中だ! あのならず者の子爵の面倒を見ている気前の良い奥様の名前が分かるってもんだ……」
時刻も曜日も彼に幸いした。あたりはもう暗くなり始め、かなり濃い霧が出てきたが、街灯にはまだ灯が入らず、日曜だったので殆どの店は閉まっていた。実際、あまりにも薄暗くなっていたので、フロランが出てきたときも、もう少しで彼だと気づかないところだった。というのも、彼は赤いチョッキの下男のときとは全く様子が変わっていたからである。彼は主人の衣装箪笥の鍵を持っているため、ときどき主人の服を借用していることは一目瞭然であった。今夜の彼は、ド・コラルト氏お気に入りの淡い色合いのズボン、彼には少し細身すぎる広い折り返し襟のついたフロックコート、そしてお洒落なカンカン帽を身に着けていた……。
「さぁ来たぞ!」とシュパンは呟き、彼のあとをつけ始めた。「お洒落しても気詰まりじゃ、楽しくないだろうに……。もし俺が召使を持つようなことがあったとしても、あんな真似はさせないぞ……」11.5
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2-IX-17

2023-11-01 15:23:22 | 地獄の生活
ド・コラルト子爵は手早く手紙をしたためたようだ。まもなくまた姿を現し、手にした二通の手紙をテーブルの上に投げ出しながら指示を与えた。
「一通は男爵夫人に。奥様自身か、奥様付きの小間使いに直接手渡しする以外誰にも渡すな……返事は貰わなくていい……それからもう一通は書いてある住所に届けて、返事を貰って来るんだ。それを私の書斎のデスクの上に置いておくように。急いで行け」
こう言い捨てて、子爵は入って来たときと同じように、つまり走りながら出て行った。その後すぐ彼の馬車の音が聞こえた。
赤いチョッキの下男、フロランは怒りで真っ赤だった。
「これだよ!」と彼は門番にというよりシュパンに向かって話しかけていた。「だから言ったろ? 男爵夫人に直接手渡し、それかマダム付きの女中に、だってさ。つまりは、こっそり隠れてってことさ。言わずもがなだが、知らぬが仏のご亭主に知られちゃまずいんだ……てわけで、この仕事がやれるのは俺しかいない……」
「そりゃそうっすね、わっかりました。けど」とシュパンは反論を試みた。「もう一通の方は?」
フロランはもう一通の方はまだ調べていなかったので、テーブルからそれを取り上げると、住所を改めた。
「こっちの方は、お前さんに任せてもいいな」と彼は言った。「それに、大きに都合が良いや。この住所はこの近所じゃないからな。しかしまぁ主人ってぇもんは好い気なもんだ。こっちはうまく仕事を按配して、ちょっと時間に空きが出来た、やれやれって思ってたら、いきなりとんでもなく遠くまで使いに行け、だなんて。人の都合も聞かねぇでさ。お前さんが申し出てくれなかったら、こっちは素敵なご婦人との晩餐をふいにしちまうところだったよ……しかし、途中で道草喰うんじゃないぞ。馬車の屋上席を奮発してやるんだからな……。それに、聞いたろ、返事を貰って来なきゃいけないんだ。返事はムリネさんに預けておいてくれ。そしたらムリネさんはお前さんにお使い賃と馬車代六スー、合計一フラン五サンチームを払ってくれるから……まぁ四捨五入できっかり二十スー硬貨一枚だな。それ以外に、手紙を届けた先でチップを貰えたとしたら、それは自分のものにしておいていいよ」
「了解っす、旦那! マドレーヌ通りでおいらの返事を待ってる貴婦人のところまでひとっ走りする時間を貰えれば、すぐ行きますよ……じゃ、手紙をください」
「はいよ」 赤いチョッキのフロランは手紙をシュパンに手渡した。
しかし、そこに書かれた住所を一目見たシュパンは顔が真っ青になり、両目はかっと見開かれた。そこにはこう書かれてあった。
『マダム・ポール、タバコ小売商、セーヌ河岸通り』11.1
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