エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-VII-5

2023-04-29 09:48:37 | 地獄の生活

彼女がド・シャルース邸で使っていた瀟洒な部屋とこの侘しい小部屋とを較べると、マダム・レオンは渋面を隠すのに苦労しなければならなかった。しかし、ためらいを見せたり選り好みなどを言っている場合ではなかった。ド・ヴァロルセイ侯爵からはマルグリット嬢の傍から離れぬよう厳しく言われているし、お嬢様に随行できたこと自体、僥倖と言わねばならなかったのだ……。侯爵が目的を遂げるかどうかは別にして、相当な報酬を支払って貰うという約束があるのだから多少の不便は大目に見なければならないだろう……。

 というわけで彼女は飛び切りの甘い声と心にもない遜りで本心を隠し、貧しい未亡人にはもったいないくらいの部屋でございます、と言い切った。降り掛かった不幸のため元の社会階層から転落した身である自分には、と。そして、ド・フォンデージ夫妻のご配慮のおかげで自分の不幸も耐え忍ぶことができそうでございます、と付け加えた。

 「将軍」とその妻がマルグリット嬢から何を期待しているのか、正確には分からなかったものの、夫妻が何か重要なものを狙っているということを嗅ぎ付けるだけの抜け目なさを彼女は持っていた。「大事なお嬢様」が相談役のお付きとして彼女を置いておくことを決めたのだから、この機会は大事にしてふいにしないよう気をつける必要があった。

 「この人たちは私に熱心に取り入ろうとするに違いないわ」と彼女は考えた。彼女としてはド・ヴァロルセイ侯爵及びフォンデージ夫妻の間で二重スパイをするつもりでいた。そして、もし夫妻の筋書きの方が実入りが良いようなら、喜んでそっちに鞍替えする気だった。これからは何くれとなく気づかいをしてくれたり、甘いものや贈り物などが届けられる時期が続くだろう、と彼女は予想していた。

 早くも最初の晩から彼女の予想は的中した。意外なできごとが彼女を大喜びさせた。彼女は主人たちと同じテーブルで食事をするべしと決められたのである。これはド・シャルース邸では決してあり得ないいことだった。マルグリット嬢が異議を唱えたので、彼女は激しい悪意のこもった視線を送った。が、フォンデージ夫人は頑として譲らず、こんな品格のある女性を仲間に加えない理由が分からないから、と愛想よく言い張った。この特別な贔屓は自分という人間の価値によるものだとマダム・レオンは疑わなかった。マルグリット嬢はもっと観察眼が鋭かったので、「将軍夫人」はこのような決定は本来全く気に喰わないのだが、マダム・レオンを家の使用人達と接触させないためにこうしたのであろうと思った。つまり、使用人たちの悪口を聞かせないようにするためである。確かに、この家にはぞっとするような或いは物笑いの種になるような秘密がたくさんありそうであった。それは体面やプライドを保つためには大いなる妨げになるであろう。4.29

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2-VII-4

2023-04-26 08:18:32 | 地獄の生活

そうこうしているうちに彼らは殆ど家具の置かれていない部屋をいくつか通り抜けた。

 「申し訳ないのは私の方ですわよ」とフォンデージ夫人は言葉を続けていた。「あの素敵なド・シャルース邸が恋しくおなりになるんじゃないかと心苦しく思っていますのよ。私共は貴女の亡くなったお父様ほどのお金持ちではありませんのでね。暮らし向きは随分良い方ですけれど、それだけのことでね……。さぁここですわ。ここが貴女の部屋ですよ」

 女中がその部屋のドアを開け、マルグリット嬢は中に入っていった。それは窓が二つあるかなり大きな部屋で、みすぼらしい壁紙が貼ってあり、青いカーテンが掛かっていたが、日の光と埃で殆ど色褪せしていた。部屋中の物が驚くべき乱雑さで散らかっており不潔だった。ベッドメーキングはされておらず、洗面道具は洗われた形跡がなく、へり地製の履物が擦り切れた毛布の被さったベッドの足の方にぶら下がっていた。暖炉の上には振り子のない置時計、それに空のビール瓶とグラスが一個置かれていた。更に、床の上、テーブルや椅子の上、部屋の隅々の至る所に大量の煙草の吸殻が、まるで天から降り注いだかのごとく撒き散らされていた。

 「な、なんということ!」フォンデージ夫人は頭の天辺から声を上げた。「ジュスティーヌ、お前はこの部屋の掃除をしなかったの?」

 「あら奥様! 時間がなかったんでございますわ……」

 「ギュスターヴがこの部屋を使ってからもう一ヶ月以上は経っているじゃあないの!」

 「分かってますよ……でも、マダム、お忘れじゃないでしょうね。この一ヶ月私は大忙しだったんです。洗濯からアイロン掛けまで全部一人でやらなければならなかったんですから。洗濯女が……」

 「もういいわ!」とフォンデージ夫人は遮った。それからマルグリット嬢の方に向き直って言った。

 「まぁ、ごめんなさいね。明日の今ごろには若い娘さんにぴったりの素敵な部屋にしておきますからね。白いモスリンと花で一杯の」

 この部屋の続きには、『将軍』の家にふさわしく『副官の間』と呼ばせているもっと小さな部屋があった。窓は一つきりで、配置から見ても化粧室として使われることが想定されたが、この小部屋が小間使いの女中にあてがわれた。4.26

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2-VII-3

2023-04-23 09:01:43 | 地獄の生活

三階の部屋のドアまで来ると、フォンデージ夫人はポケットを探りマスターキーを取り出そうとしたが、見つからなかったので呼び鈴を鳴らした。やがて金ぴかのお仕着せを着た恐ろしくふてぶてしい態度の大男が、古い汚れた錬鉄の燭台を持って現れた。燭台の上ではちびた蝋燭が一本悪臭を放っていた。

 「どういうことなの!」とフォンデージ夫人は声を張り上げた。「控えの間にまだ灯が入っていないのは! 馬鹿にしているの! 私が居ない間に一体何をしていたの? さぁぐずぐずしないで……火を灯しなさい! 料理女にお客様の夕食も用意するように言っておくのよ! 私の小間使いを呼んで。ギュスターブの部屋を準備させないといけないんだから。それから下に降りて、この方々のお荷物を運び入れるのに将軍がお前の助けを必要としているかどうか見て来なさい」

 このように一度には出来ないさまざまな用事を言いつけられ、何を先に選べばよいか分からなくなった召使いは何も選ばないことにした。彼は悪臭を放つ燭台を控えの間の壁に取り付けられた小卓の上に置くと、そのまま何も言わずにむっつりと台所に通じる廊下を歩いて行った。

 「エバリスト!」とフォンデージ夫人は顔を怒りで真っ赤にして叫んだ。「ちょっとお前、待ちなさい、この無礼者!」

 召使いは振り返ることさえしなかったので、彼女は彼の後を追って駈け出した。そしてすぐに、家の奥の方から凄まじい言い合いが聞こえてきた。召使いは罵りを浴びせ、逆上した女主人の方はこう叫ぶことしか出来なかった。「お前はクビよ! 礼儀知らず、出て行きなさい!」

 控えの間でマルグリット嬢の傍に立っていたマダム・レオンはにやにや笑っていた。

 「まぁ面白い家ですこと!」と彼女は言った。「なかなかの始まりですわね……」

 しかしマルグリット嬢にとって、この女中は自分の胸中を絶対に明かしてはならない相手だった。

 「お黙りなさい、レオン」彼女はきっぱりと言った。「もとはと言えば、私たちが原因で起きた混乱なのよ。私は恥ずかしいわ……」

 マダム・レオンは口に出かかった意地の悪い言葉をぐっと飲み込まねばならなかった。フォンデージ夫人が戻って来たのである。背後には火の付いた燭台を手にした背の高い女中を従えていた。この娘は挑戦的な目と恐ろしいほど反り上がった鼻を持ち、髪型は凝りに凝っていた。

 「何と言ってお詫びしたらいいのか分かりませんわ、マダム」とマルグリット嬢は言い始めた。「私たちがどれほどのご迷惑をお掛けしているかと思うと……」

 「まぁ、そんな……貴女がいらしてくださって、これほど嬉しいことはないのよ……さぁこっちへ来て、貴女の部屋を見て頂戴」4.23

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2-VII-2

2023-04-19 15:50:12 | 地獄の生活

将軍は彼女に奥の座席にフォンデージ夫人と隣り合って座るよう言い張った。彼は前の長椅子にマダム・レオンと共に座った。道中は長く物悲しいものだった。やがて日が落ち、パリの街が動き出す時刻となった。通りは混雑し、どの曲がり角でも馬車は一旦停止しなければならなかった。一人フォンデージ夫人だけが会話を続けていた。彼女の甲高い声は車輪の音に負けず響き渡っていた。彼女は亡くなったド・シャルース伯爵の優れた資質を讃え、マルグリット嬢が良い決断をしたと言って褒め上げた。彼女の言葉はどれも月並みなものであったが、言葉の端々に深い満足と、殆ど思いがけぬ勝利の喜びに近いものが滲み出ていた。将軍はときどき馬車の昇降口に身を屈めては、ド・シャルース邸からマルグリット嬢の荷物を積み込んだ荷馬車がちゃんと後をついて来ているかどうか確かめた。

 ついに馬車はフォンデージ夫妻の住むピガール通りに到着した。将軍は真っ先に降りて、まず妻に、次にマルグリット嬢、そしてマダム・レオンに順に手を差し延べ、御者にもう行っていい、と合図をした。が、御者は動かなかった。

 「すいませんがね、旦那」と御者は言った。「親方から言いつかってますんでね……くれぐれもと」

 「何をだ?」

 「おたくに請求するのを忘れぬように、てんです。お分かりでしょ。今日一日で三十五フランです。酒代は別にして……」

 「よし分かった……明日払う」

 「ご勘弁願いますよ、旦那、同じことでしたら今夜お願いしやす。親方が言いますのに、その、お代はかなり値が張りますんで……」

 「何を言っておる、無礼なやつだな?」          

 しかし、すでに屋敷の正門のところまで行っていたフォンデージ夫人が引き返してくると財布を取出し、御者に言った。

 「さぁ、三十五フラン、これでいいでしょ」

 御者は角灯に身を屈め、金を数えた。そして請求どおりの金額しかないことを確かめると言った。

 「それで、あの、酒代ですが」

 「無礼者には酒代など出さぬ」と『将軍』が答えた。

 「なんてぇやり口だ!」御者は悪態を吐いた。「貸し馬車を雇う金がなけりゃ、辻馬車に乗るもんだよ! 食うや食わずの貧乏人が偉そうに!」

 マルグリット嬢はもうそれ以上聞かなかった。フォンデージ夫人は階段の方に彼女を連れて行きながら言った。

 「さぁ早く。あなたの荷物を積んだ荷馬車が下に来ていますよ。私があなたと女中さんのために用意したお部屋がお気に召すかどうか見て貰わなくてはね……」4.19

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2-VII-1

2023-04-16 15:17:43 | 地獄の生活

VII.

 

 

 見知らぬ人間……それどころか自分を執拗に追ってくる敵……に身を委ねること……。他者の損失において己の利益を追求することに機敏な、猫かぶりのペテン師たち、その度合いでその悪辣ぶりを測ることができるのだが、そういった連中はどんなことでもやってのける。熟考を重ねた後、このような手ごわい偽善者たちの意のままになる決心をするということ、相手が密かに企んでいる災いに、穏やかな眼差しと微笑で平然と立ち向かうこと。危険な匂いのする誘惑や忠告、狡猾に計算された追従、あらゆる種類の罠、陥穽、あるいは暴力もあるかもしれないのに……。

 これをやってのけるのは並みの精神力の持ち主ではない。自分の意志の力に揺るがぬ自信を持ち、危険をものともせず、生きるか死ぬかの決断に迷わない。こういった英雄的資質をマルグリット嬢は持っていた。この夜、まだ二十歳の娘である彼女はド・シャルース邸を出て、自分を迎えてくれるフォンデージ夫妻のもとに行こうとしていた。おまけにマダム・レオンまで連れて行くことにしたのである。この甘ったるい口調の女性には大いに含むところがあったし、彼女がド・ヴァロルセイ侯爵のスパイであることを知っていたにも拘わらず。

 しかし、いかに気丈な彼女と雖も、フォンデージ将軍の馬車に乗り込もうとするとき彼女は気が挫けそうになるのを感じていた。ド・シャルース邸の建物の正面や見慣れた景色、馴染みの召使いたちの顔を最後に視界に捉えたとき、彼女の心は悲嘆に満ちていた。この邸のすべてが懐かしかった。砂を敷き詰めた広い中庭、幅の広い石段、二本のプラタナスの樹、建物の前面に張り出した洒落た入口、そして繋がれていた鎖を精一杯引っ張って彼女の手を舐めに来た老いた番犬……。

 かつてはあんなにも彼女を不快にさせた使用人たちの顔にも何か親しげな表情が浮かんでいるように思えた。下男のカジミール氏、門番のブリジョー夫妻などである。

 しかし彼女を励ます者は誰もいなかった。 いや、そんなことはない!二階の窓辺で窓ガラスに額を押し当てている人物が誰か、彼女には分かった。この世における彼女の唯一の味方であり、自分を弁護し、励まし、支えてくれた人物。力になり、助言を与えると約束してくれ、遠い将来に成功が待っていると示してくれた人。

 「私は臆病者になってもいいと言うの?」彼女は思った。「パスカルにふさわしくない女になってもいいと言うの?」

 彼女は決然と馬車に乗り込み、固い決意の言葉を自分に言い聞かせていた。

 「賽は投げられたのよ!」4.16

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