エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-XIX-7

2022-03-31 11:50:28 | 地獄の生活

長年自分の表情を制御する訓練を積んでいる彼は無表情を通していた。微笑みさえ浮かべていた。が、それも表面だけのことで、よくよく観察すれば目の中に苦悶が表れているのが見て取れたであろう。顔色も蒼白になっていた。

ついに我慢しきれなくなった彼は財布の中から百フラン札を一枚取り出すと、それを両手で丸め、シュパンに投げつけながらこう言った。

「君の話はなかなか面白いね。だがもうたくさんだ。その金を持って出て行ってくれないか……」

運の悪いことに、その丸められた札はシュパンの顔に命中した。彼は荒々しい叫び声を上げ、酒瓶を一本掴むとそれを振り上げた。ド・コラルト氏は脳天をぶち割られる、と誰もが思った。

だがしかし、そうはならなかった。超人的な努力で、シュパンは狂気の行動に訴えることを自ら思い留まった。彼は酒瓶を置くと、切り裂くような悲鳴を上げ始めた二人の女に言った。

「静かにしてくれませんか。冗談だってことが分かりませんか?」

しかし他の客たちやウィルキー氏でさえ、その冗談がちょっと度を過ぎ、危険だと思った。彼らは断固たる態度で立ち上がったので、本気でシュパンを外に放り出すつもりであることが明らかだった。が、シュパンは身振りで彼らを制した。

「お手を煩わせるには及びません。出て行きます」と彼は言った。「ですが、こちらの紳士がたった今私に投げつけた札を探させて貰います……」

「ごもっとも」とウィルキーが言った。「お探しなさい……」

彼は苦労して身を屈め、殆どピアノの下敷きになっていた札を見つけた。

「さて今度は」と彼は続けた。「葉巻を一本頂きたいもので」

葉巻が二十本ほど並べられている皿が差し出された。彼は鹿爪らしく一本を選ぶと、鋏で端を切り、口に咥えた。他の者たちは度肝を抜かれた態で彼の動作を見ていた。あんなに荒々しい態度を見せた後、こんなに皮肉な平静さがやって来たことが理解できなかった。

 さてヴィクトール・シュパンというのは、金持ちになるということ以外に目的は持っていないように見える男であり、何よりも金が好きで、その他のものに向ける情熱はすべて抑えつけてきた男、そして五フラン稼ぐのに二時間働き、馬車を呼びに行く際の手数料として五スーを請求して憚らぬ男であった。そのシュパンが、紙幣をくるくると捩ってガス灯で燃え上がらせ、まるで反古紙のこよりを使うように自分の咥えていた葉巻に火を点けたのであった。3.31

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1-XIX-6

2022-03-30 09:53:49 | 地獄の生活

……そのうちに……朝に乞食をしていた者が夜には金持ちになるって喩えもある。運は天下の廻りものだって言うだろ? ひょっとしたら、あんたらが有り金を食い潰しちまったとき、俺には金があるかもしれない……そのときは大笑いだ……俺は人が好いからあんたらに煙草を半分恵んでやるよ……」

ウィルキーは大喜びしていた。彼の中にはイギリス人特有の奇抜なことを好む血がほんの少し流れているらしかった。彼はピアノの上に座り込み、鍵盤に両足を乗せ、裁判官の席から法廷を見下ろすような格好で、シュパンとド・コラルトを代わる代わる応援したり、拍手したりしていた。

「ブラボー、小僧! いいぞ、コラルト!」

これには子爵もついに頭に来たようだった。

「よしわかった!」と彼は叫んだ。「もうこうなったら巡査を連れてくるしかない」

「巡査だって?」とシュパンは喚いた。「そんなやり方ってないだろ……」

彼は急にぴたりと止まった。声が喉のところで消えた。口をぽかんと開け、茫然とし、身振りが宙ぶらりんになり、目が焦点を失っていた。驚きで……。ド・コラルト氏が見せたある表情が光の矢のようにシュパンの記憶の一点を照らしたのだ。一瞬にして彼は思い出した。どこで会ったか、いつだったか、どういう状況でこのド・コラルト子爵を見たか、もう記憶の中を探す必要はなかった。今やその当時の彼の名前さえ思い出した。

「あぁ、あぁ、あぁ」と彼はゆっくりとトーンを変えながら息を吐いた。

しかし、この発見で彼の怒りが消し飛ぶことはなかったにしても、少なくともまるで魔法のように冷静さが彼に戻ってきた。そして郊外のフォーブールで育った者特有の冷やかすようなあの恐ろしい訛りもついでに戻ってきた。

「そうムカつくこたねっすよ、旦那ぁ、おいらの言ったこた、ほん冗談っすよ……さっきはエラそうに言ったっすけどね、おいらみたいな貧乏人の小せがれと旦那みたいな子爵様の間にゃ、一っ跳びで越えらんね段差があるってこと、ちゃあんと分かってますって。……おいらにゃ金がない、そのことにおいら、頭に来るんすよ……ですがね、おいらだってそう見てくれは悪い方じゃねぇ。運がよけりゃ、どっかの銀行家の娘かなんかがおいらに惚れて、おいらと結婚するなんて言い出すかもしれねぇ……そうなったらもっけの幸いっすね! そのために何をするかって言えば、どこかの名門の、まぁ公爵かなんかが良いかな、の行方不明になった息子になりすましゃいいんですよ。もし本物の息子が生きていて、邪魔になったら、そのときは……さっさと殺しちまって自分が代わりになる……」

ウィルキーを始めそこに居た誰もシュパンのお喋りの意味が分からずぽかんとしていた。二人の黄色い髪の女性たちは大きな目を見開いてシュパンをまじまじと見ていた。しかし、彼の言葉の一つ一つの意味がド・コラルト氏にははっきり伝わっていることは明らかだった。しかも、なにか恐ろしい意味が。3.30

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1-XIX-5

2022-03-28 09:01:52 | 地獄の生活

シュパンの撫で付けられた頭髪は怒りのため逆立った。

「何だって、何だって!」彼は叫んだ。「ごろつきというのはどういう者か教えてやろうじゃないか、この性根の腐った弱虫めが!」

彼の身振り、態度そして目つきが凄まじい挑発と威嚇を帯びていたので、その場にいた男たちの二人は恐くなり立ち上がってシュパンの腕を捕えた。

「さぁ帰ってくれよ」と彼らは言った。

しかしシュパンはもがきながら答えた。

「帰るだと!何があっても動くものか! ごろつき呼ばわりされて、侮辱をおとなしくポケットに入れてハンカチで抑えて帰れると思うか! まさかそんなこと思ってはいまいな! まずは謝罪を要求する……」

これはド・コラルト子爵にはあんまりな要求だった。

「そんな馬鹿者、相手にするな」と彼は平静を装って言った。「ベルを鳴らしてウェイターを呼べばいい。そしたら外につまみ出してくれるだろう」

この新たな侮辱を聞くまでもなく、シュパンは既に怒り心頭に達していた。

「つまみ出すだと!」と彼は喚いた。「おお、言ってくれるじゃないか! そんなことできる奴はどこにいる? 掛かって来い! 誰が相手だ?」

そう言うと彼はやにわに力を奮って男たちの手を振りほどき、サヴァット(フランス式キックボクシング)の達人の構えを取った。胸を前に突き出し、全体重を左のひかがみの上に乗せ、両腕は胸の高さで折り畳んだ。攻撃と防御の両方の構えである。

「さぁさぁ、まぁまぁ」と男たちは尚も宥めようとした。「外に出てくれませんか……」

「ああ、良いだろう。だがこの男も一緒に外に出て貰おうか……。男なんだろ? それなら外で話をつけようじゃないか」

男たちがまた自分を捕まえようとしているのに気づくと彼は呻り声を上げた。

「手を下ろせ! でないと殴るぞ……そうだ、それでいい。俺を呼ぶべきじゃなかったな。さんざん飲み食いし過ぎた方々がお集まりのところで余興を提供するのは俺の仕事じゃないんでね……へん、なんで馬鹿にされるがままになっていなくちゃいけないんだ? 俺には利子収入はない、あんたらにはある。俺は働いているが、あんたらは遊び暮らしている。それはそのとおりだ。だからって、そんなこと理由にならないだろ3.28

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1-XIX-4

2022-03-26 09:14:09 | 地獄の生活

テーブルの上には数本の殆ど手を付けられていないボトルがあった。そのことを指摘されるとウィルキーは肩をすくめた。

「俺を誰か他の奴と間違ってやしないか!」と彼は言い放った。「気の抜けたワインなんか飲まないんだよ、もうすぐ相続財産が舞い込んでくることが分かってる人間は……」

「ウィルキー、よせ!」ド・コラルトが急いで遮った。

しかし時すでに遅し。シュパンはちゃんと聞いており、理解した。彼がそうではないかと疑っていたことが確実なものとなった。ウィルキーは自分に相続の権利があることを知っていたのだ。フォルチュナ氏は子爵に先を越され、彼の苦労は単に骨折り損に終わったということだ。

「気の毒に」とシュパンは思った。「ド・ヴァロルセイの後にこれとはね!さぞかし悔しい思いをすることになるんだろうなぁ!」

シュパンは彼の年齢の青年にしては、自分の心のうちを外に漏らさぬ術を高度に身に着けていた。しかしこの発見はあまりに突然だったので思わず身体がびくっと震えるのを隠せなかった。顔色も少し蒼ざめたほどだった。ド・コラルト氏はこれを見、何を見抜かれたのか知る由もなかったが、それまで我慢していた怒りが爆発した。彼は出し抜けに立ち上がり、ボトルの一本を取り上げるとそこにあったグラスの一つを出鱈目に掴み、なみなみと注ぎ込んだ。

「さぁ、飲むんだ」と彼はシュパンに向かって言った。「さっさと。飲んだら行け!」

ヴィクトール・シュパンには改心して以来はっきりと変わったことがあった。猜疑心と感受性が鋭くなったのだ。しかし彼の性格では、自尊心を傷つけられたり不快な目に遭ってもカッとなって我を忘れることはなかった。ただ単にタメ口で呼びかけられること、あるいは手当たり次第にグラスを掴んで酒を飲めと勧められることぐらいでは。しかしド・コラルト氏には何か理由もなく説明もつかないある嫌悪感を掻き立てられるところがあり、我慢できなくなった。

「え、何だ何だ」と彼はぶっきらぼうに言った。「タメ口をきくとは、どこかでシャンパンを一緒に飲んだことがあったっけか?」

この言葉は、好意的に解釈すれば、単に粗野な冗談でしかないものだったが、ド・コラルト子爵には酷く癇に障ったようだった。

「ウィルキー、聞いてるか」彼は言った。「君の同郷人シーモア卿の古き良き時代は終わりを告げたんだということが、このことで分かったろう。昔は酒を飲んだ後貴族に殴られても平民は恭しくそれを受けたものだ。ところが今はどうだ、君が下賤の者なんかと付き合って浮かれたりするからこのざまだ。通りすがりのごろつきの誰にでも酒を振舞ったりするから……」3.26

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1-XIX-3

2022-03-24 08:43:38 | 地獄の生活

「おーい、そこの誰か……俺の帽子を拾ってくれた人! 正直な行いは報われるぞ。シャンパンを一杯とロンドレス葉巻一本、進上する。持ってきてくれたらな、六号室だ」

シュパンは躊躇した。上がっていくとすれば、彼の任務が折角うまく行きそうなのに、ふいにしてしまう危険もある。しかし一方で、好奇心が搔き立てられるのを感じていた。あの若い紳士連中がどのような楽しみ方をしておられるのか自分の目で確かめてみるのも悪くない。それに、あの子爵を至近距離で観察する機会にもなる。どこかで会ったことがあると確信があるのに、それがどこだったか、どのようにしてだったか思い出せない、あの男を。そうこうしているうちにウィルキーは窓から彼を見つけていた。

「さぁ、持って来てくれよ、あんた!」彼は叫んでいた。「喉が渇いてないのか!」

子爵のことが決め手になった。シュパンは中に入り、ゆっくりと急な階段を上っていった。中二階の踊り場まで達すると、黒い制服を着て髭をきれいに剃りあげ、でっぷり太った金髪の青白い顔の男が行く手を遮り、乱暴な口調で尋ねた。

「何の用だ?」

「この帽子がおたくの店の窓から落ちて来たんですよ。それで……」

「分かった。じゃ、それ、こっちに貰おうか!」と黒の制服の男が言った。窓から外に落とされた物をさんざん見てきたのだ。しかしシュパンはこれを聞く気はなかった。彼が説明を始めたとき、近くのカーテンが持ち上げられ、ウィルキーが現れて叫んだ。

「フィリップ、なぁ、フィリップ、俺の帽子を持ってきてくれた人なんだ。通してくれよ」

「さぁ、これでお分りでしょ」とシュパンは言った。「頼まれたんで……」

「分かりました」とフィリップが言った。「さぁどうぞ……」

廊下の仕切り幕を持ち上げると、彼はシュパンを六号室に押し込んだ。

そこは小さな正方形の部屋で、天井は低く、まるで竈の中にいるかのような熱気だった。剥き出しのガス灯が目を開けていられないほどに恐ろしくギラギラと輝いていた。夜食は終わりにさしかかっていたが、まだ皿は下げられていなかった。すべての皿には料理の痕跡が不規則な切れ切れの線となって残され、飽食の後を物語っていた。その上、ウィルキー氏を除く全員がひどく冷めた態度で、退屈で堪らないという様子に見えた。部屋の隅では黄色い髪の女性の一人がピアノに凭れて眠っていた。窓の近くでテーブルに肘を付き煙草を吸っているのがド・コラルト子爵で、彼は他の者たちより更にもっと冷淡な態度だった。

「僕の帽子が戻ってきた!」ウィルキーがシュパンの姿を見るなり言った。「約束のお礼をしなくちゃな」 そう言って彼は呼び鈴の紐に飛びつき、あらん限りの声で叫んだ。「アンリ!……おーい、ソムリエ! きれいなグラス一個とヴーヴのシャンパン(1772年シャンパーニュ地方で創業したクリコー社を、1805年夫の死後、未亡人が後を引き継いだ。ヴーヴとは未亡人のこと。最高級シャンパンとして知られる)を持ってきてくれ!」3.24

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