エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

1-VI-11

2021-01-28 10:19:34 | 地獄の生活

彼女自身は心に閉じ込めることなど全くない様子で、度外れの激しさで感情に身を任せていたので、ジョドン医師が高圧的な態度で彼女を諌めるほどだった。彼女はハンカチで何度も目を拭いながら、涙で言葉を途切れさせつつ尚も言い続けた。

「はい、お医者様、御尤もでございます……わたくし自制せねばなりません……。でもあなた様のお母様の名にかけて、どうかお願いでございます。私の大事なお嬢様をこのあまりに悲惨な場所から連れ出してさしあげてくださいませ。ご自分の部屋に戻られて、この手酷い打撃に耐えられる力をお与えくださいますよう神に祈ることが出来ますように……」

マルグリット嬢が自室に戻ることを考えてはいないことは明らかであった。が、彼女が自分の意向を表明する前にカジミール氏が進み出た。

「私が思いまするに」と彼はそっけない口調で言った。「お嬢様はここにおられる方が良いかと存じます」

「何だって!」とマダム・レオンがやおら身を起こして言い返した。「その理由が何か、聞かせて貰いたいもんだね」

「何故かと申しますと……それは……」

マダム・レオンの目からは、怒りのため涙が止まっていた。

「一体どういう意味なのかね」と彼女は言った。「お嬢様がご自分の部屋でお休みになるのを止め立てするとは?」

カジミール氏は傍若無人にも口笛を吹いた。昨夜同じことをしたなら、現在すぐ傍に横たわっている主人から平手打ちを喰っていたであろう。

「ご自分の部屋ですとね?」彼は言い返した。「昨日ならばね、私もこうは申しませんよ。今日となると話は別です。この方は伯爵のお身内ですか? いや、そうではない。それでは何と仰います? 此処にいる我々は皆同等の人間だ」

彼の嘲笑的な口調は大層恥知らずなものであり、破廉恥な卑しいほのめかしを殆ど隠していなかったので、ジョドン医師をも憤慨させたほどであった。

「ごろつきめ!」と彼は言った。

しかし相手は高飛車にはねつけた。その態度は彼がジョドン医師の召使いと昵懇の仲であり、従ってジョドン氏の秘密をよく知っていることを物語っていた。

「もしなんなら、おたくの下男をば、その名で呼ばれるがよろしいでしょう」と彼は言い返した。「私には当て嵌まりませぬぞ、お医者様。おたくのここでの仕事はもう終わったのではありませんか? 我々のことは我々に任せて頂きたいものですな。有り難いことに、私の頭は確かでございます。死が訪れた家に莫大な財産が地下室や屋根裏部屋に保管されている場合、慎重を期して振舞わねばならぬことは、皆心得ております。特に、その家に家族がお揃いでなく、おられるのは……その……誰もその素性を知らず、いかなる理由でそこに住んでおられるのか誰も事情を知らぬ……という方のみ、という場合には……。1.28

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1-VI-10

2021-01-27 11:43:38 | 地獄の生活

伯爵の目にぞっとするような表情が浮かんだ。それは失望と激しい苦痛、そして深い絶望だった。もはや言うことを聞かない肉体の中で精神がもがいていた。知性、思考、そして意志の力がもはや活気づくことのない屍の中で鎖に繋がれているようであった。自身の無力さの自覚が狂わしい怒りの痙攣となって表れた。両手を握りしめ、首筋の血管は膨張し、目は眼窩から飛び出さんばかりだった。そしてしわがれた、人間のものとは思われぬ声が喘ぎながら言っていた。

「マルグリット……無一文に……気をつけろ……お前の母さんが……」

それっきりだった。これらの言葉が最後の精神力を繋ぎ止めていた糸を断ち切ったかのようだった。

「神父様を!」とマダム・レオンが痛ましい声で叫んだ。「誰か、早く、神父様を呼んで!」

「むしろ公証人でしょうな」とカジミール氏が仔細らしく言った。「遺言をなさりたいご様子なのは明らかですから……」

ジョドン医師が顔をこわばらせ、蒼白になった。彼はベッドに近づき、目を走らせ、重々しい声で言った。

「ド・シャルース伯爵、御臨終です」

愕然たる沈黙がしばらくその場を支配した。死が突然、予期せぬうちにやって来るとき、このような深い沈黙が襲う。疑念、エゴイズム、そして激しい恐怖の混ざった感情。この虚無から否応なしにやって来る密やかな感情が個々人を我が身に立ち返らせ、次の使い古された言葉を思い起こさせる。

『人間なんて、ちっぽけなもんだ』

「さよう、御臨終です」とジョドン氏は呟いた。「一巻の終わり……」

彼はこのような臨終の場面に立ち会うことには慣れていたので、いつもの冷静さで、マルグリット嬢をこっそりと観察した。彼女は雷に打たれたよう、と言うよりは凍りついたようになっていた。目に涙はなく、顔を引き攣らせ、その場にじっと留まったまま、ド・シャルース伯爵の死体の方に首を伸ばしていた。何かの奇跡を待っているかのように、永遠に閉じられた死者の口が決して話すことなく墓場まで持って行くことになった秘密がその唇から漏れるのを聞こうとするかのように。ジョドン氏のみがそれに気づいた唯一の人間であった。

他の者たちは蒼ざめ、茫然自失の態で、失望の視線を交し合った。女たちはその場に頽れ、跪いて泣いていた。皆が口の中で祈りを唱えながら……。その中でひときわ高く啜り泣きの声を上げていたのはレオン夫人であった。最初は不明瞭な呻き声を上げていたのだったが、突然マルグリット嬢の上に身を投げかけ、抱きしめながらこう叫んだ。

「何という不幸でしょう!可哀想なお嬢様! 大切な方をお亡くしになって!」

マルグリット嬢は全く口のきけない状態だったので、家政婦をそっと押しやって身を振りほどこうとしていた。しかし、マダム・レオンの方はお嬢様にしがみつき、尚も言葉を続けていた。

「お泣きなさいませ、お嬢様、お泣きなさい……苦しみをご自分の中に閉じ込めちゃあ駄目です……」1.27

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1-VI-9

2021-01-26 11:27:08 | 地獄の生活

瀕死の病人が意識を回復していた。目が開かれていた。右腕がベッドの上でぎこちなく動いていた。

「誰か来て!」マルグリット嬢は叫び声を上げた。「助けて!」

そして呼び鈴の紐がちぎれるまで引っ張った。

「急いで!」 現れた召使い達に彼女は言った。「近くの方のお医者様を呼びに行くのよ……早く……伯爵が目をお覚ましになったの……」

たちまち病室に人が駆けつけて一杯になったが、マルグリット嬢はそのことに気づかなかった。彼女はド・シャルース氏に近づき、手を取った。

「声が聞こえますか?私のことがお分かりね?」と彼女は尋ねた。

彼の唇が動いたが、喉からはゼイゼイという息の音しか聞こえず、意味は全く不明だった。が、彼は理解していた。そこに居合わせた人々は皆、彼が痛ましくも必死に示そうとする身振りを見ていた。というのも、麻痺が彼を襲い、右手を動かすだけがやっとというのが明らかだった。彼は何かを伝えようとしていた。が、それは何なのか? 人々は部屋の中にある物すべての名前を言ってみた。思いつく限りの言葉を並べたが、分からなかった。そのとき、家政婦が突然額を叩いて叫んだ。

「分かった! ご主人様は書く物を、と言っておられるのよ」

確かにそのとおりだった。少しだけ自由の利く手で、そして出せる限りのゼイゼイいう息で、ド・シャルース伯爵は『そう、そう!』と言い、マダム・レオンの方に目を向けさえした。その表情には疑いようもなく喜びと感謝が現れていた。

人々は枕を支えに彼の上体を起こし、小さな書見台代わりのなものと紙、そしてインクに浸したペンを持って来た。しかし、これは大きすぎる課題で、人々は彼の力を過信していた。彼は手を動かすことは出来ても、思い通りに動かすことは出来なかった。驚異的な努力をし、激しい苦痛に耐えて彼が紙の上に残したものは、形にならない線と判読不可能な殴り書きだったが、何とか苦労して数語は読み取ることが出来た。それは『我が全財産……与える……友よ……対して……』だけであり、意味をなさなかった。

絶望して、彼はペンを放し、その視線と片手は、ベッドに向かい合っている部屋の一部を指していた。

「伯爵様は書き物机の方を見ておられるぞ」

「そう……そう!」と病人の喘鳴が答えた。

「伯爵様は、それを開けろと仰っておいででは?」

「そう、そう!……」

マルグリット嬢は絶望的な身振りをした。

「まあ、どうしましょう!」彼女は叫んだ。「わたし、何てことをしたのかしら! 鍵を壊してしまった……私たちの誰かが責任を負わされることを心配していたのだけど。あの中に莫大な財産が隠されているんじゃないかと思ったものだから……」1.26

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1-VI-8

2021-01-25 11:46:00 | 地獄の生活

マダム・レオンは元の肘掛け椅子に戻り、ふんわりした暖かい毛布に心地よさそうにくるまっていた。祈祷書を読む振りをしながら、彼女は『大事なお嬢様』の動きをじっと観察していた。そうすれば彼女の心の奥の秘密まで読み取ることが出来ると思っているかのように……。

マルグリット嬢の方は、この保護者ぶった観察の視線に気づかなかった。彼女の気懸りはもっと他のところにあったのだ!彼女は椅子をベッドの足元まで転がして行き、そこに座り、ド・シャルース伯爵の顔をじっと見つめていた。彼女は二、三度ハッと身体を震わせ、一度はマダム・レオンに呼びかけた。

「来て……見て頂戴」

じっと横たわっている伯爵の顔に変化が見えたような気がしたのだ。が、それは錯覚だった。暖炉の火が部屋の中を照らし、気まぐれな影があちらこちらに動き回っていたのに惑わされたのだった。

夜が更けていった。家政婦は長い甲斐のない観察に疲れ果て、僅かに下顎が緩み、本が滑り落ち、ついに鼾をかき始めた。マルグリット嬢は深い物思いに沈んでいたので、そのことに気が付きもせず、苦痛を感じることさえ忘れていた。彼女は、自分の幸福が死を迎えるのを見守っているのだと自分に言い聞かせていたのかもしれない。瀕死の病人が最後の息を引き取るときは、若い娘としての自分の夢のすべて、秘めた希望のすべても共に死ぬのだ、と。おそらく彼女の思いはまた、自分が将来を約束した青年、パスカルのもとへも飛び立って行ったことであろう。ところが彼はまさにこの瞬間、『オット・ヴィー』の賭博場でその名誉を剥奪されていたのであった。

五時になる頃、空気はどんよりとなり、哀れな娘は気が挫けそうになるのを感じていた。彼女は窓を開け、新鮮な空気を少し吸い込もうとした。

その物音でマダム・レオンは微睡から起こされた。彼女は身体を起こし、眉を顰めながら伸びをすると、とても気分が悪い、何か食べなければ本当に具合が悪くなりそうだと言った。そこでカジミール氏が呼ばれ、マラガワイン(甘口でアルコール度が強い)がグラス一杯運ばれ、彼女はビスケットを何枚かワインに浸して食べた。

「これでちょっとはましになるわ!」と彼女は呟いた。「私は感じやすい性質だから、参ってしまったのね……」 そう言って彼女は再び眠りに就いた。

マルグリット嬢もまた元の椅子に戻った。しかし彼女も頭がぼんやりし始め、瞼が徐々に重くなってきた……。眠気が襲ってきたのか? 彼女は睡魔と闘ったが、ついに頭をド・シャルース氏のベッドに凭せ掛け、ウトウトと眠りに落ちて行った。

変な尋常でない感じがして彼女は目を覚ました。それはまるで、死者の冷たい手が自分の頭をそっと撫でさすり、髪の毛を優しくまさぐっているような感じだった。ぞっとして彼女は身を起こした。1.25

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1-VI-7

2021-01-23 10:15:51 | 地獄の生活

「ほら、ご覧なさい、お嬢様、私の申したとおりでしょう? 私の言うことを聞いて、少しはお休みになってくださいまし。あなた様の年頃では、寝ずの番なんてご無理ですわ……」

「いくら言っても無駄よ」彼女は頑固に言い張った。「私は一晩中付き添うわ」

相手は黙ったが、このとき女たちの間で奇妙な視線が交わされたようにジョドン氏には思われた。

「なんとね!」ジョドン氏は退却しながら内心思っていた。「あの二人は互いに相手を信用してないみたいじゃないか……」

彼の察したとおりかもしれなかった。確かなことは、彼がくるりと踵を返す前に、マダム・レオンが今一度『大事なお嬢様』に少なくとも数時間横になるよう強く勧めていたということだ。心労のあまり頬に斑点が出来、目の周りの青っぽい隈がますます広がっているという健康上の理由を家政婦は数え上げ、マルグリット嬢に懇願を繰り返していた。

「何を御心配なんですの?」と彼女はしみじみとした口調で言った。「ちゃんと私がついているじゃありませんか!レオン婆さんが眠る筈がないじゃあありませんか。あなた様の将来がここにいらっしゃる旦那様の一言で左右されるかもしれないってときに!」

「お願いだから……もうやめて……」

「いいえ、大切なお嬢様、私のあなた様への愛情が私に命じておりますの……」

「そうなの?……いいから、もう言わないで!」マルグリット嬢が遮った。「もうたくさんよ、レオン!」

その口調があまりに激しかったので、老家政婦は諦めたが、その前に大きな溜め息を吐き、自分の純粋な気持ちの証を求めるように、また自分の努力が報われないことを訴えるように天を見上げた。

「せめて、お嬢様」彼女は再び言った。「暖かくしてくださいまし……あなた様の旅行用のショールを取ってきてさしあげましょうか?」

「ありがとう、レオン……アネットに取りに行って貰うわ」

「ええ、是非そうして下さいな……それに、私達、病人を見守るだけじゃありませんね。何か必要なものがあったら、どうしましょう?」

「誰かを呼ぶわ」とマルグリット嬢は答えた。

しかし、それは必要なかった。ジョドン医師が出て行ったことで、召使い達の集会は急遽打ち切られ、今は全員が踊り場に集まっていた。彼らは不安そうに息を潜め、ドアが開いたままになっている部屋を首を伸ばして覗き込んでいた。マルグリット嬢は彼らの方に近づいた。

「マダム・レオンと私が伯爵にずっと付き添います」と彼女は言った。「アネット---これが彼女のお気に入りの女中だった---カジミール、それに下男は隣の小部屋にいて頂戴。他の者たちは下がっていいわ」

彼らはぞろぞろと引き揚げていった。ボージョンの鐘が二時を知らせた。重々しい静寂が辺りを支配した。ただ病人の喘鳴と、置時計の病を刻む音だけが沈黙を破っていた。パリの街の騒音も、王侯貴族の邸宅のように広大な庭園に囲まれたこの家の中までは聞こえてこなかった。それにクールセル通りに撒かれた藁のために、ときたまこの通りに入り込んでくる馬車の音もかき消されていた。1.23

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