ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

卒業式〜新春企画・平成30年度自衛隊参加行事

2020-01-02 | 自衛隊

昨年1年間、平成年間に参加した自衛隊行事を振り返っています。

 

昨日、第71航空隊の女性パイロットをご紹介させていただいたところ、
彼女の存在を教えてくれた自衛官から、

「彼女はとても元気な女子。
救難艇に『恋をして』飛行艇乗りになったと本人が言ってました」

という追加情報をいただきました。
また、救難艇の困難さについて、

着水は怖いですが、もっと恐れるのは離水です。
着水はやり直しが出来ますが、離水は一発勝負です。
離水タイミングを計りますが波は複雑で、
彼らを味方にしようとしますが、じゃじゃ馬で毎回手なずけるのが大変です。

とパイロットとしての体験からこのように書いておられます。

わたしは飛行艇そのものを「じゃじゃ馬」と表現したのですが、
実はパイロットにとって飛行機を乗りこなすのは第一歩で、
実戦に出れば波という読めない相手(こちらのいうことを全く聞いてくれない)
の方がずっと難題だというわけですね。

いずれにしても女性であることは救難艇パイロット始め、ベテランの男性でも
恐怖を感じるような職種を目指す者にとってメリットにならないどころか、
いまだにパイオニアとして茨の道を歩む覚悟が必要なのかもしれません。

しかし、そんな困難に臆せず夢を叶えようとするする女子は実に『女前』です。

 

江田島第一術科学校訪問

さて、岩国基地でUS-2を見学したあとは、そのまま一気に
江田島まで車を走らせ、第一術科学校に駆けつけました。

幹部候補生学校と第一術科学校の両校長、ならびに
幹部の皆様に表敬訪問を行うためです。

訪問時間が夕刻だったため、こんな江田島を見ることができました。

水害の時に地元の有志によって設置されたという
「がんばろう江田島」の文字。

赤レンガ二階にある応接室で表敬訪問をさせていただきました。

呉までの帰りは小用からの最終のフェリーに飛び乗る?ことができました。
このころまだ建造中だった「ピンクのコンテナ船」が写っています。

 

「いかづち」帰国行事 平成30年1月16日

第31回海賊対処行動を終えて帰国した「いかづち」を出迎えました。
場所は横須賀地方総監部です。

この日横須賀港では日曜日だというのに潜水艦が出航作業を行っており、
地方総監部に向かう途中、まだ雨も降っていなかったので
一部始終を写真に収めることができました。

この日の横須賀は冷たい雨の降る寒い日で、しかも傘を忘れたわたしは
入港してくる「いかづち」を待つ間、震え上がりました。

しかしソマリア・アデン湾から帰国した乗員にとって、
愛する家族の待つ久しぶりの日本なのですから、この雨でさえ
もしかしたら、懐かしく心地よいものに感じられたかもしれません。

「いかづち」が到着するまで夢にもしりませんでしたが、
この度の派遣部隊司令は初の女性司令となった東良子一佐でした。

海賊対処行動のため、「いかづち」には海上保安官も同行しています。

ところでわたしは昨年度、幹部候補生学校の見学をさせていただいたとき、
エスコートしてくれた自衛官と話をしていて

「横須賀に『いかづち』をお出迎えに行ったことがあります」

というと、

「ありがとうございます!わたし乗ってたんですよ」

とお礼をいわれてしまいました。

幹部は短期間で転勤するため、例えば名刺交換しても
次に同じところにいくとすでに本人はいなくなっているのが常ですが、
こういう「再会」もあると、なんだかとても嬉しいものです。

帰国式典ではその任務に対し防衛省から特別賞状が授与されました。

防衛副大臣参列による式典終了後、護衛隊司令から
個人に対して賞状が授与されています。

 

幹部候補生学校見学

幹部候補生学校のお招きで江田島見学をしました。
到着したとき、ちょうど総短艇がかかり、候補生が
グラウンドを全力疾走していくのを目撃しました。

これは卒業前の最後の総短艇だったそうです。

練習艦隊出国行事の際一人の実習幹部にこのときの結果を聞いたところ、
偶然彼はこのときに勝利をおさめたチームにいた人でした。

このとき総短艇をおこなっていた候補生たちも、その後
遠洋実習航海を経て、もう各自が自分の任地で自衛官としての
第一歩を歩き出しています。

この時の見学では、「陸奥」の砲塔の中に入らせていただきました。
戦後進駐軍はこの内部をわざわざ爆破したと聞きショックを受けました。

 

英国海軍「モントローズ」見学

翌日アメリカに出発という日、ロイヤルネイビーのフリゲート艦
「モントローズ」が
晴海に寄港していたので見に行きました。

自衛隊イベントというわけではありませんが、外国海軍の艦艇が寄港したときには、
必ず海自がエスコート艦を出して
隣で一般公開を行うのが恒例で、
このとき
「モントローズ」のカウンターパートに選ばれたのは
同等のクラスである護衛艦「むらさめ」だったのでご紹介しておきます。

この頃、相次いでイギリスから艦船が派遣されていた表向きの理由は、
北朝鮮の
瀬取り監視というものでしたが、一説によると、日英両首脳会談で
「日英同盟再び」とばかりに両国が防衛の面で協力する動きがあり、
イギリスはブレグジット後の自国のアジアにおけるプレゼンスを、
日本との連携を通じて強化していきたいという狙いがあったようです。

日本としても瀬取り監視は喫緊の課題でもあったので、
両者の利益は合致した、とこういうことだったみたいですね。

他所の国の軍人さんを間近で見ることができるまたとない機会です。
男性はほとんど全員刺青を二の腕から手首にかけて入れており、
女性も男性軍人と同じ部署で同等に任務についていました。

 

幹部候補生学校卒業式 招待行事

おそらくわたし史上最初で最後の機会だと思いますが、
幹部候補生学校の卒業式に海幕長招待枠で参加しました。

卒業式前日から招待者の艦艇見学ツァーが行われます。
このときは掃海母艦「ぶんご」に案内していただきました。

まずコーヒーをいただきながらスライドを見て
ブリーフィングを受けてから艦内を案内してもらいます。

ツァーご一行様は基本的に政治家を始め世間的にいうところの
上級国民的な(笑)肩書きの人ばかりでした。
ここになぜわたしが混じっていたのか、自分でも謎です。

減圧室も見学しました。
わたしは何度も見ていますが、他は初めての方ばかりだった模様。

「ぶんご」では帰りに機雷型のキーホルダーとか、(トゲがついていて
刺さると大変危険なのでウケ狙い以外の使用には適さない)
タオルとか手拭いとか、お土産をたくさんいただきました。

掃海隊からいただくタオルはいつも使いやすくて重宝しています。

その後マイクロバスで海自史料館に移動。
掃海母艦で機雷掃海について学んだ後、歴史的な機雷掃海作業を
資料で実際に見るという趣向です。

このツァーでは自衛官がたくさん同行していたので、
質問があったらその辺にいる誰かを捕まえれば、
誰でもある程度のことは答えてくれて大変便利。
いわば参加者よりガイドが多い状態でした。

その晩は宿泊していたホテルの宴会場で海幕長主催のパーティが行われました。

壇上は、次の日の卒業式で、幹部候補生が任官した瞬間、
号令なしで行動を取るようになるのでその変化に注目して欲しい、
と「見所」を解説している幹部候補生学校長南海将補です。

アメリカ海軍第七艦隊の司令も出席していましたが、スピーチは
米海軍の雇った通訳によってすべて同時通訳されていました。

明けて翌日、呉のホテルから江田島までバスで移動し、
幹部候補生学校卒業式に出席しました。

招待客の控室は赤煉瓦の一室です。
候補生たちが授業を受けていた部屋の一つです。

幹部候補生学校における成績優秀者五名は、昔の兵学校のように
短剣こそもらいませんが、最初に名前が呼ばれ、大変晴れがましいものです。

しかし、たとえばこのあとの遠洋航海でも成績がつくわけですし、
長い自衛官人生で最初のトップが最後にトップとは限りません。
海将や海将補になった方々にうかがってみると、防衛大学校や幹候で
普通だった(あるいは全然たいしたことなかった)とおっしゃる方が
案外多いのに気付きます。

こちら側に立っているのがこの年の「赤鬼」(か青鬼)。
候補生にとって怖い存在なので昔からこのように言われていますが、
先日ある若い自衛官の父上から聞いたところによると、
候補生たちは案外ドライというのか、江田島での生活も
それなりにうまく気を抜きながら乗り切っているようです。

アルファブラボーのことも無闇に恐れるわけではなく、たとえば
何かの折に候補生一同で贈り物をしたら『泣いた赤鬼』になったので、
それをみて皆ほっこりしたり、という具合です。

卒業式では必ず第七艦隊司令官の祝辞が行われます。
それにしても勲章がたくさんで重そうだー。

このとき二階バルコニーから撮った卒業式中の写真です。

江田島名物、表門(港)までの卒業生の行進。
午前中の卒業式で任官した彼らは、祝賀昼食会には
三尉の制服に着替えて出席し、その姿で出航していきます。

毎年一人いるタイ王国からの留学生は、遠洋航海にも参加します。
練習航海の帰国行事で声をかけてこられた方の息子さんは
このタイ留学生ととても仲が良かったとおっしゃっていました。

ちh

表桟橋から船に乗り込んだ新幹部たち。
向こうに見えているのは「かしま」ですが・・・・、

このとき、「かしま」の錨が泥に埋もれて上がらず、
先頭に立つはずが艦隊の最後になるというアクシデントがありました。

後で「かしま」艦長に聞いたところ、前進と後進を交互にかけて
揺するようにして泥から引き揚げたということでした。


このことを梶元司令は水交会の会誌に書いておられます。

それによると錨が上がらないという報告は前甲板から上がり、
その報告を司令は艦橋伝令から聞き、錨鎖が切れる危険性を察知し、
甲板から実習幹部を引かせる決定をしたのは艦隊司令だったそうです。

「後知恵ですが、当日一度錨をあげてみるなど、
念には念をいれるべきであったと反省しております」

とも書いておられますが、このことは本年度の練習艦隊に
失敗から学ぶ知恵として伝えられていくに違いありません。

 

このとき将官艇に乗ることができたのも忘れがたい経験です。

海峡のところでは帽振れをして練習艦隊を見送る学校関係者の姿を
海上から写真に撮ることができました。

これが村川海幕長が見送った最後の練習艦隊ということになります。
第七艦隊司令もこの後交代し、この二人が制服姿で並ぶのを見るのは
最後の機会になりました。

その後山村新海幕長には市谷に表敬訪問させていただいたのですが、
市谷では写真を自粛したため、証拠写真はありません。

ちなみに山村海幕長の印象をひとことで表現させていただけるとすれば、
旧海軍でいうところの

「フレキシブルワイヤ」

という感じでした。

 

続く。

 

 


新春企画・平成30年度自衛隊参加行事〜おまけ:救難飛行艇US-2の女性搭乗員

2020-01-01 | 自衛隊

みなさま、あけましておめでとうございます。
日記のように思うがままにつづってきた当ブログも、2010年の開設から
今年2020年をもって、なんと足掛け10年になろうとしているのです。

いやもうとんでもないな(笑)

単なる趣味と言いながら10年。

10年一昔といいますが、このディケイドは、わたしにとって
まさにネイビーブルーに恋し、時々オリーブドラブとスカイブルーにも
ときめきながら、東に練習艦隊の出航あれば行って激励してやり、
西に退官する自衛官があれば、行ってその労をねぎらい、
南で潜水艦の引き渡し式があれば、行って予想した名前と違ったと言い、
北で当ブログ読者に声をかけられれば、なぜ分かったのかと必要以上に動揺し、
日照りの総火演では涙管閉塞した右目から涙を流し、寒さの降下始めでは
終わってからふらふら歩き、みんなにモノ好きと呼ばれ、褒められもせず、
たぶん苦にもされず、そういうものにわたしはなっていたという気がします。

 

最近になってgooブログがアップデートされて機能が変更になり、
(少し前に書き込みできないというメールをいただいたことがありますが、
どうやらこのとき工事中だったらしい)
昔の古い記事から見ることもできるようになったので探してみると、
わたしが最初に自衛隊の行事に参加したのは2012年。
知り合いの紹介で呉教育隊と「さみだれ」を見学したのが7月、
そして同じ年の10月に初めて観艦式に参加しています。

以来幾星霜、数々の自衛隊行事に参加してきたわけですが、
新春企画として、このお正月は、昨年1年間にわたしが参加した
自衛隊行事を振り返ってみたいと思います。

陸上自衛隊 平成30年度 降下始め

毎年1月の上旬に習志野駐屯地で行われる空挺部隊の降下始めです。

寒さの降下始めではふらふら歩き、と書きましたが、冗談抜きで
体感温度0度の草地に携帯椅子で座っていると、立ち上がったとき
体が固まってしまって足がいうことをきかないのです。

それに気づいた次の年から、わたしは必ず何分に一度かは立ち上がり、
軽く足踏みなどをしてこれを防ぐようにしています。

とにかく1年間で一番寒い時期に、遮蔽物もない原っぱで
空から降ってくる落下傘を眺めるためにじっとしているのですから、
イベントの要忍耐力の点では夏の総火演と双璧かもしれません。

毎年少しずつ筋書きというか展示が変わるのがこの降下始めです。
この前年度はとにかく降下を行う人数が大量でしたし、
全く戦車の登場しないときもあったりで同じであったことがありません。

新しくなった装備がお目見えするのも楽しみの一つです。
C-1の後継機である輸送機C-2が降下始めに登場したのを
わたしはこのとき初めて見たような気がします。

ただしわたし自身毎年必ず降下始めに行っているわけではないので、
このときが初めてだったかどうかはわかりません。

降下する空挺隊員は両側のドアから同時にジャンプしますが、
こんなふうに接近してしまうと怖いだろうなと思います。

実際、空挺降下はどんなベテランでも飛ぶ前は怖いのだそうです。

大量に降下した年、落下傘の索が絡まって、つながったまま
予備傘を出して降りてきた二人を見たことがあります。

C-2に置き換えられる予定のC-1もまだ残っています。

戦術輸送機C-130Hハーキュリーも空挺降下を行います。

アメリカ陸軍の空挺部隊の参加は最近恒例になっています。
肉眼では見えませんでしたが、写真に撮ってみて
空中でこんなドラマがあったことを知りました。

降下中、接近しすぎて傘が絡みそうになった二人の米軍降下兵。

上にいる方が思いっきり相手の頭を蹴って反動で体を離しています。

そして何事もないように並んで降下していきました。
あれは空中で接触しそうな時のマニュアルなのかもしれません。

一降下でばらまかれた落下傘の列が降りきらないうちに、別の輸送機が
別の落下傘をばらまき、さらにその上に別の落下傘の列ができていきます。
こんな光景が見られるのは降下始めだけ。

わたしが辛い寒さも覚悟の上で習志野に向かう理由です。

ヘリコプターから降り立つギリースーツの狙撃兵を見られるのも
降下始めならでは。

チヌークCH-47からリペリング降下で人が降りたり、
迫撃砲や車を降下させたりするのも恒例の展示。

一眼レフカメラを手に入れてからはこんな写真が撮れるようになり、
一層参加が楽しみになりました。

ただし、今年は年明けにアメリカに行くことになってしまったので
降下始めには参加できないことがすでに決定しています。

ヘリからのリペリング降下を撮るチャンスは一瞬です。

招待客の観覧席前では近接格闘の展示が行われました。
わたしのところからは望遠レンズでないと何もみえません。

ヘルメットを被っている人が、次々と襲ってくる敵をやっつけていきます。
うしろで立て膝している人たちは、自分の順番を待っています。

スキンヘッドの人が武器を持って襲ってきました。
このスキンヘッドも数秒後には他の人のように地面に倒れる運命です。

おっと、相手は銃を持っているぞ。

しかし、隙を見て銃を奪い相手をねじ伏せてしまう。
まるでランボーのようなヘルメット隊員です。

習志野の地元では第一空挺団というだけでヤクザも手出しできない、
という伝説を聞いたことがありますが、みんながこんな強かったら
そりゃ誰もからんだりしてこないだろうっていう。

模擬戦闘で最後に相手を制圧した陸上部隊でした。

 

「かが」体験航海

「かが」でドック入り前の体験航海が開催され、参加しました。
前日から呉入りし、「かが」に乗り込んでわずかの航海を体験します。

「かが」が呉にやってきたときから係留されている姿は見ていましたが、
乗艦するのは初めての体験となりました。

艦内での行動はグループごとにエスコートがつき、
ちゃんと決められているので、自分で行き先を考える必要がなく
ある意味とても気が楽な見学となりました。

出航作業を見るために最初に艦橋に案内していただけたのも良かったです。

ランチには乗員食堂でカレー(牛乳パック付き)をいただき、士官室で
艦長にデュテルテ・フィリピン大統領乗艦の時の写真を見せてもらうなど、

何かとお得感のある体験航海となりました。

「かが」がドックに着岸してから、艦内のハンガーデッキでは
自衛官の「宣誓式」が行われ、それに立ち会うこともできました。

 

海上自衛隊岩国航空基地訪問

何か見学したい飛行機はあるか、と訪問前に聞かれて、
瞬時に「US-2」と即答したため、岩国では
あの!救難艇US-2のコクピットに座らせていただくことができました。

 

搭乗前に、US-2については前もって予習していましたが、
現場のパイロットやクルーから聞く話は驚きの連続でした。

波打つ海面に着水するときは、どんなベテランでも、
さらに何回やっても「怖い」のだそうです。

どんな飛行機乗りも自分の乗っている飛行機を愛するのは当然ですが、
US-2乗りの愛は、相手が一筋縄ではいかないじゃじゃ馬だけに一入という印象です。


「わたしにUS-2のことを語らせたら数時間でも終わりません」

とこのとき航空隊の隊長から聞きましたし、江田島にいた
US-2出身の自衛官も片言隻句違わず全くおなじことを言っていました。

 

ところで、その江田島のUS-2乗り(今回の移動で『古巣』に戻られた)
と話していて、US-2にも女性パイロットが誕生していたことを伺いました。

週刊海自TV:海自女子】救難飛行艇「US-2」パイロット

興味を示したところ、その幹部から「航翔会」という、
海上自衛隊航空学生の「同巣会」が発行している会誌をいただいたのですが、
そこに、この女性パイロット岡田めぐみ三尉が手記を載せているので、
ここでご紹介させていただきます。

 

小学生の時に「ヤクルトレディになるのが夢」だった少女がいました。
彼女は長じて目的もなく大学にいくよりはと航空学生に出願しました。
そして救難飛行艇を見た瞬間衝撃を受け、

「これに乗りたい」

と思ったのだそうです。
しかし、自衛隊内で誰にそれを言っても、返ってくる言葉は、

「女性は難しいかもな」

 

ある日、救難飛行艇の機上救助員と話す機会があったので
救難飛行艇を希望しているというと、顔をしかめてこう言いました。

「ふざけたこというな。
俺はあんたみたいな女の子に飛び込めなんていわれても飛び込まないよ」


それでも自称「諦めの悪い」彼女は、P3-C部隊で研鑽を積み、
第71航空隊に転勤願いを出してそれが認められるに至りました。

初めてUS-2を操縦して着水したとき、海面が近づいてくる恐怖心、
1秒が数倍に感じられるような緊張感で、彼女の手は震えていました。

「着水したんだ・・・」

泣きたくなるほどの感動で言葉がでてこない彼女に、

「ボーッとしてないで早くcrewに指示を出せ!」

と叱咤する声が飛んできました。
しかしその日、飛行作業を終え、汗臭い飛行服の彼女に、
一緒に飛んだRS(機上救難員)がこう声をかけてきたのだそうです。

「あなたも飛行機乗り。仲間ですね」

冊子「航翔会」には、第71期航空学生の所感が掲載されています。
そのなかで、岡田三尉のYouTubeを見て入隊を決めたという
女性航空学生が

「US-2のパイロットである岡田めぐみさんに、
岡田特別指導官として会えたので、パイロットになるという
目標を見失うのではないかという不安は払拭された」

ということを書いていました。

世界で一人である救難飛行艇のパイロットを目指すにあたり、

「後に続く女性隊員の道を閉ざすようなことになってはいけない」

と考えていた岡田三尉の心配も、現実には払拭されたということでしょう。

PS-2の前型、PS-1が1989年退役するとき、全機で行った記念飛行。
おのおのの機体に機長が自筆でサインをしています。

このときの見学で大変ラッキーだったことのひとつは、
2017年に退役処分になって廃棄を待っているUS-1/1Aの姿を
最後にカメラにおさめることができたことです。

続く。

 


希望の歌、喜びの歌〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-18 | 自衛隊

 

令和元年度の自衛隊音楽まつり、自衛太鼓が終わると
その盛り上がりは最終章のフィナーレにつながっていきます。

その前に、これも音楽まつり恒例となった、演技支援隊の紹介があります。
大きな楽器の出し入れやステージ途中のセッティング、カラーガードが
使用する小物を手渡すなどという細々とした仕事も行います。

東部方面隊から選抜された隊員12名とそれを率いる隊長からなり、
会場のアナウンスでは、

「自衛隊在職中に一度あるか無いか。
ほとんどの自衛官は経験せずに過ごすこの機会を
自分の進化の糧として変換し、幕を閉じるまで
この音楽まつりの進行を支えてまいります」

と紹介されていました。

最終章のテーマは

「ディスティネーションー到達へのひびきー」

演技支援隊の敷いた赤い絨毯を指揮者がまっすぐに指揮台に向かい、
敬礼をすると、スポットライトには4名の奏者が浮かび上がりました。

曲はモーリス・ラヴェルの「ボレロ」
本来はヴィオラとチェロのピチカートとスネアドラムの刻む、

タン・タタタ・タン・タタタ・タンタン

の繰り返しから入るこの曲ですが、吹奏楽なので
ハープが弦楽器の代わりを行います。

そして、フルートがまずメロディを16章節奏でるのが原曲ですが、
本日のは8章節で別の楽器に交代するという変則アレンジです。

フルート、クラリネットときて原曲には無いユーフォニウム、
そしてトランペットに受け継がれていきます。

リズムの上に執拗にメロディが繰り返されるあいだ、
全部隊はボレロのリズムである三拍子で静かに行進し、
最初のフレーズがリピートされたときには整列を済ませていました。

それと同時に、第302保安警務中隊が音楽まつり参加各国の
国旗を掲げ、入場してきました。

国旗を持つ旗手は赤絨毯の上を、銃を携えた「ガード」は
その横を護衛する形で肩を並べ、進路の両側を
青と白の制服に身を包んだ儀仗隊に守られて歩いていきます。

後ろに見えるコンバス奏者は呉音楽隊からの出張だと思われます。

 

ところでわたしはこの4カ国の旗が入場するのを見るたびに、
4カ国のうち全てが、この旗の下にお互いかつて干戈を交えたことがある、
という事実に思い当たり、感慨を覚えずにはいられませんでした。
アメリカに至っては、他三ヶ国全てが「かつての敵国」です。

平和な時代に生まれるって本当に素晴らしいですね。

曲が盛り上がり、カラーガードがステージ前方に位置すると、
ちょうどそのとき曲は転調し、エンディングへと向かいます。
もちろんステージ用に短くアレンジしてあります。

そのとき、音楽隊以外の全部隊(自衛太鼓、カラーガード、防大儀仗隊)
などが速足で入場してきて、音楽隊の周りに整列しました。

始まる前、どうして太鼓があるのだろう、と思っていたのですが、
このときに謎が解けました。
ラスト4小節、ハ長調に戻ってクライマックスを迎えるところで、
銅鑼とともに自衛太鼓が演奏に加わったのです。

全部で5打、トゥッティ(総員演奏)の大音量の中で
二台の大太鼓の音ははっきりとその存在を主張し、
視覚的にも音楽的にも目を見張るような効果となりました。

そして、このとき、防大儀仗隊の列員が銃を構えています。

ラストサウンドを振り終わった指揮者が、挙げた両手のうち
左手だけをさっと振り下ろすと、儀仗隊の銃が号砲を発射。

銃声は一斉にというわけではなく、
「パパパーン」という感じで三音聴こえてきました。

しかし、この写真を見ると、全部が空包入りではなく、
もしかしたら弾が入っているのは一人置きで、あとは
文字通りの「エア撃ち」なのか?という疑問がわきますね(笑)

「ボレロ」への拍手が止むと「喜びの歌」のメロディが始まりました。
いわずと知れたベートーヴェンの第9交響曲「合唱」の第四楽章です。

今回は何かとベートーヴェンづいていますが、その理由として
ドイツの軍楽隊を招聘するということがあったのでしょうか。

そこで自衛隊の歌手が出場です。
ただし、メロディは「喜びの歌」でも、これはクラシックの人がよく知っている

「♫フロイデ シェーネル グッテル フンケン トフテル アウス エリージウーム」

というあれではなく、

「希望の歌~交響曲第九番~」FULL

という、藤澤ノリマサの曲です。

藤澤バージョンのオリジナル出だしを歌うのは、海自東京音楽隊の男性歌手。
9小節目からは同隊歌手の中川三曹がこれに絡みます。

そのとき、ステージ後方には空自の歌手がペアで。

陸自のペアも後ろでサビの部分(喜びの歌のメロディ)を歌います。

「あなたが笑顔でいられるように みんなが笑顔でいられるように」

日本語にしてみると、なんてこのメロディにぴったりの歌詞なんだろう、
とそのハマり具合には感心せずにはいられません。

どちらかというと日本語歌詞の

「晴たる青空 漂う雲よ 小鳥は歌えり 林に森に」

よりも、なんというか言葉が人ごとではない感じがあります。

演奏をしない部隊は決められた振り付けでステップ踏みながら拍手。

ワンコーラス終わると、後ろにいた空自ペアが前に出てきて二人で歌います。

管楽器奏者は普通に歌が上手い人が多いので、
音楽まつりの歌手も人材に事欠きません。

男性歌手、みなさん本業ではないにもかかわらず大変お上手です。

海自の二人はその間後方にお目見え。

そして陸自の二人が引きついで2コーラス目の最後を。
その間彫刻のように身動ぎもせず立ち続ける302。
「ボレロ」で行進してきて、音楽が止まった時に立ち止まってから
一度も整列し直していないにもかかわらず列に全く乱れがありません。

恐るべし第302保安警務中隊。

ほとんどの人が笑顔なので見ていてこちらが嬉しい。
「エガオノチカラ」です。

どさくさに紛れて? ハイファイブしている人たちもいるよ。

3コーラス目は歌手六人全員で熱唱。
東京音楽隊の中川三曹は得意のハイトーンでオブリガードを。

今年の男性歌手は体型と背丈がわりと揃っていますね。
三人でコーラスグループ(名前は”J’s-ジエイズ-”とかね)組めそう(笑)

カラーガードと自衛太鼓が交互に並んでいます。

最終章の指揮を行うは海上自衛隊東京音楽隊長、
樋口好雄二等海佐。

先般の即位礼に伴う国民祭典では自衛隊音楽隊が大活躍でしたが、
黛敏郎の作曲した「黎明」を指揮したのは陸自中央音楽隊の
樋口孝博一佐、そしてこちらの樋口好雄二佐がファンファーレを指揮しました。

また、そのときの陸海空合同音楽隊での「威風堂々」の指揮は
空自中央音楽隊長松井徹生二等空佐でした。

「希望の歌」が感動のうちに終わりました。

楽器を持っていない人は両手を大きく振って・・。

全出場部隊の退場曲が始まりました。

「君が代行進曲」です。

両手バイバイで退場していく出演部隊。
手前の陸自隊員は「千本桜」のボイスパーカッション奏者じゃないかな?

全員がはけて暗くなった会場に、ピアノの音が流れました。
「ベートーヴェンコラージュ」で演奏した太田沙和子一等海曹です。

東京音楽隊の歌手、中川真梨子三等海曹が歌う
「瑠璃色の地球」が始まりました。

このとき会場のスクリーンに映し出されていたのがこの映像。
この組み合わせにグッときて熱いものがこみ上げてきたわたしです。

暗い会場に蛍のような光が舞い、スクリーンに映し出された
銀河系の映像と相まってうっとりするような効果を醸し出していました。

歌が続く中、最終章の指揮を行った樋口二佐が赤絨毯をまっすぐ歩み・・、

最後のピアノの音と同時に静かに敬礼を行いました。
この瞬間音楽まつりは終了します。

代々木体育館の会場入退場は、二つの入退場口から一方通行で行います。
その点武道館よりも人の流れがスムーズに行われるのですが、
箱が大きいだけに入場者数も大幅に増やしたらしく、
終わってから体育館を出るまでが大変でした。

ようやく会場の端までたどりついたとき、演技支援隊が
これからお仕事らしく整列しているのが見えました。
真ん中に立っているメガネの隊員が確か隊長だったと記憶します。

最後に紹介されていた隊員は全員ではなかったんですね。

最後にフロアをのぞいてみたら、赤絨毯にカーペットクリーナーをかけてました。

最初の日、体育館の外に出た人たちは皆、NHK通りのイルミネーション、
「青の洞窟」のブルーの灯に歓声をあげていました。

今回縁あってここ代々木で自衛隊の奏でる音楽に酔いしれた人々にとって、
イルミネーションでブルーに輝く並木は、
令和最初の音楽まつりを
思い出深く彩る最高の舞台装置となったに違いありません。

 

 

終わり。

 


炎輪(えんりん)〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-16 | 自衛隊

防大儀仗隊の演奏が終わると、音楽まつり名物、自衛太鼓です。
ところでこのとき、アナウンスで英語の「自衛太鼓」のことを

「Japan Self-Defense Force Japanese ナントカ」

と言っていたのですが、「ナントカ」」は「ドラム」ではありませんでした。
聞き取れなかったので気になって仕方がないのですが、
どなたかここが聞き取れた方、ご教示いただければ幸いです。

参加はこれまでの音楽まつり史上最高となる15チーム、総勢250名。

去年の音楽まつりで、開場を待つ列の前に自衛太鼓のOBだったという方がいて、
その方から自衛太鼓の選抜方法や練習について色々とお聞きしたものですが、
そのときに一番驚いたのは、陸自の場合多くの駐屯地がチームを持っていて、
音楽まつりに出られるのは選抜された一部だけだということです。

しかし今年はフロア面積がほぼ二倍?くらいの代々木体育館になり、
出演できるチーム数が増えたので、毎年当落の知らせに一喜一憂する
「ボーダライン」のチームにとっては
朗報となったことでしょう。

今年の自衛太鼓のテーマは「炎輪」(えんりん)。
文字通り炎のように激しく燃え上がる太鼓の輪を意味します。

自衛隊には実に多岐にわたる職業がありますが、このテーマを考える人と、
艦艇の名前(特に潜水艦)を考える人は大変だろうなといつも思います。

自分の考えた言葉が大々的に広報されることになるので、
どちらも大変やりがいがあるでしょうけれど。

早速最初の「炎輪」が中央に形成され、演舞が始まりました。

予行演習でわたしのとなりにいた女性たちは、初めてらしく、
大音響と振動ににびっくりしていましたが、わたしは、武道館での、
あの建物全体が震え上がるような、地鳴りのなかに体を埋めているような
異世界的体験を思うと、明らかに別物に感じられました。

ただ、こちらの会場での自衛太鼓が良くなかったというわけではありません。
広い会場を得て出演チームを増やした今回の自衛太鼓は、
もし今後こちらでの公演が継続されれば、さらなる進化を遂げるだろうという
予感を感じさせるに十分なものでした。

真ん中にできた一つの輪の周りに、両側に見えるように太鼓が並んで
「どどんど ・どどんど・ どんどんどん」
という連打から始まります。

出演各チームが工夫を凝らしたユニフォームで登場しますが、
これらの活動は自衛隊の任務とは全く関係がないので、
ユニフォームや太鼓などを調達する資金も自分たちで補っているはず。
(たまに地元の篤志家の寄付という例もあるかもしれませんが)

全体で叩いていると、観客席からはほとんど見えませんが、
写真を撮ってみると、こんなことしてたんだとわかることがあります。

連打の合間にバチをくるっと宙で回転させています。

演舞にはときどき全員による「やあー!」という掛け声が入ります。
自衛官というのは日頃から大きな声で話す訓練を受けているのに、
その声の大きなひとりひとりが腹の底から声を上げるのです。

現在女性自衛官は自衛官全体の10%だそうですが、自衛太鼓においても
ほぼ同じ割合で
女性奏者の姿を見ることができます。

平常の勤務では後ろで小さくお団子にしている髪を、ステージでは
和風のまとめ髪にして櫛をあしらっているのが艶やかです。

こちらの女性自衛官も、ユニフォームに合わせて”くのいち”風ヘアで。

去年伺った話によると、チームが音楽まつりに選ばれても、万が一
一人の隊員が不祥事を起こしたら、即出場停止だそうです。
音楽まつりは「自衛太鼓の甲子園」である所以です。

最初のパートが終了すると、小太鼓の連打が続く中、
配置転換が行われます。

最初の輪の周りにあっという間に小太鼓で二つの輪が形成され、
三つの輪が並びました。

今年のテーマの「輪」という文字はここから生まれたのでしょう。

大太鼓はその両側に文字通り「ドラムライン」を形成します。

5つのチームごとに一つの輪が形成されている状態。
炎がたぎるような演舞を続けている三つの輪の中に
各チーム名を記したのぼりが立てられました。

「やあー!」

という全員の一声をもってこのパートが終了すると、
次からは
恒例の各チームごとの演舞になります。

最初は熊本西特連太鼓

熊本市にある西部方面特科連隊(野戦特科部隊)に所属するチームです。
西部方面隊唯一のFH-70を装備する部隊だとか。

同部隊は2018年の再編まで第8特科連隊といい、太鼓チームは
「熊本八特太鼓」という名称だったそうですが、部隊新編のため
「熊本西特連太鼓」と改称しました。

「八戸陣太鼓」

は陸上自衛隊八戸駐屯地に所属するチームで、音楽まつり常連の一つです。

八戸駐屯地は第4地対艦ミサイル連隊、対戦車ヘリ隊などが所属する
陸上自衛隊の駐屯地です。
海上自衛隊八戸基地とは滑走路を挟んで向かい合っています。

ここも常連チーム、朝霞振武太鼓
練馬、朝霞市、和光市、新座市の全てにまたがる朝霞駐屯地の所属です。
陸自の観閲式はいつもここの訓練場で行われるのでご存知の方も多いでしょう。

観閲式のあとは必ず朝霞振武太鼓の演舞が披露されます。

千歳機甲太鼓は、千歳にある第11普通科連隊所属でです。
この駐屯地に太鼓が誕生したのは昭和62(1987)年のことで、
当時の師団長の発案だったということです。

HPを是非見ていただきたいのですが、さすが北海道のチーム、
雪と氷に囲まれてノースリーブで演奏という無茶をしまくっています。
(しかも夜まで・・)

わたしの記憶ではここ何年かで初めての出場だった気が。
山口維新太鼓は第17普通連隊に所属するチームです。

かつては陸軍の駐屯地だった同駐屯地の歴史を見ると
「日露戦争出兵」から始まっていてなかなか感慨深いです。

ところでこの維新太鼓を調べていて知ったのですが、
山口には航空自衛隊の「防府天陣太鼓」そしてなんと、海自の
「関門太鼓」なる海空太鼓チームが事実上存在していて、
この維新太鼓と三隊
合同で演奏することもあるらしいのです。

海自に太鼓がない理由は「陸にいないから」だと思っていましたが、
考えたら陸上勤務のメンバーだっているわけだし、あってもおかしくないですね。

調べていたら、この海自関門太鼓は下関基地隊所属で、

オリジナル太鼓衣装「ドドーン」

という会社で衣装をおあつらえしていたことが判明しました。
「山口維新太鼓様」もここのお客様のようです。

太鼓着の背中には「雲海」と書かれています。

滝ヶ原雲海太鼓は富士総合火力演習、通称総火演でお馴染み
静岡県御殿場の駐屯地で、ここには防衛大臣直下の部隊、富士学校、
そして航空学校などと、東部方面隊隷下の東部方面航空隊などがあります。

駐屯地としての規模が大変大きいため、太鼓に参加する人数も多く、
それが常連チームであり続ける理由でしょう。

そういえば、音楽まつり出場全チームは、御殿場で本番前の総練習をする、
と去年のOB氏が言っていた記憶がありなす。

駐屯地が大規模なので、全部隊を収容する入れ物にも事欠かないのかもしれません。

「さつまかわうちえんじだいこ」と読んでしまいましたが、「川内」は
じつは「せんだい」だったことを調べて初めて知りました。
薩摩川内焔児太鼓の所属は陸上自衛隊川内駐屯地(鹿児島県薩摩川内)。

ところで画面の右上をご覧ください。
出番を待つ奏者たちは、皆四つん這いでじっと顔を伏せています。

陸自川内駐屯地は陸自第8施設大隊の根拠地なので、主要装備が
地雷原爆破装置だったりドーザだったりします。
おっと、あの機動支援橋もありまっせ。

船岡さくら太鼓が所属する宮城県柴田郡の船岡駐屯地も、
主要部隊は第二施設隊と後方支援の部隊だそうです。

グリーンとオレンジのユニフォームも毎年お馴染みの、
北富士天王太鼓

北富士駐屯地は山梨県にあって、第1特科隊などが駐屯する部隊です。

背中に描かれた五重塔ははもちろんその名の通り善通寺のはず。
善通寺十五連太鼓
香川県の善通寺駐屯地に駐屯する第15普通科連隊なので「十五連」です。

善通寺駐屯地は陸自の呉地方総監部みたいな感じで、
陸軍時代の建物が保存されており、一部は史料館として公開されています。

同駐屯地は陸軍時代から四国地方における最大・最重要駐屯地とされ、
さらには近い将来発生が予想される南海トラフ大地震の際の最重要地域でもあるので、
近い将来に施設の近代化や、拠点としての機能拡大を行う予定だそうです。

滝川しぶき太鼓は陸自滝川駐屯地の所属チームです。
ちなみにこれも「たきがわ」(それはクリステル)ではなく、
「たきかわ」と読まなくてはいけないそうです。

北海道の滝川という、よそ者にはどこにあるのか見当もつかないところから、
一年に一度の音楽まつりに選抜されて参加してきました。

滝川駐屯地には第10即応機動連隊が駐屯します。
即応機動連隊とはなんぞや?ということからしてよくわかりませんが、
多分、いろいろ装備を取り揃えていて、一つの駐屯地で全てが完結する
パッケージ的駐屯地なんだと思います。(違っていたらすみません)

長野県松本駐屯地の松本アルプス太鼓
松本駐屯地は長野県に唯一存在する自衛隊です。
第13普通科連隊などが駐屯していて、広い範囲をここだけでカバーするため、
山岳の活動に強い精強部隊として知られているということです。

陸自ばかりの自衛太鼓の中で数少ない空自部隊太鼓、
航空自衛隊入間基地の入間修武太鼓、今年も出場です。

いつも小さい鐘や篳篥、踊りを加え軽妙な単独演舞を行うチーム。
必ずこんな女性が混じっているのも空自らしさとでも言いましょうか。

一昨年の航空祭の見学にいったので、今ならどこにあるかわかる。
(関西の人間には芦屋と言うと兵庫県芦屋しか思いつかない)
そう、福岡は遠賀郡芦屋基地の「太鼓隊」(こう呼ぶらしい)
芦屋祇園太鼓

おっと、最後に空自の太鼓チームがふたつも続きましたね。

ここも女性が目立ち、さらに単独演舞に軽妙さと楽しさが感じられます。
太鼓にも一般人でもわかる「陸自らしさ」「空自らしさ」があるものです。

さて、単独演奏のトリを取るのは北海自衛太鼓と決まっています。
その理由は、北海自衛太鼓が自衛太鼓の「祖」だからです。

自衛太鼓発祥の歴史については去年詳しく書きましたので、
ご興味がおありの方はこちらをご覧ください。

自衛太鼓 彼らは如何にしてここまで来たか

良く見ると三人一組でまるで千手観音みたいなことをやっていました。

北海自衛太鼓は 陸自幌別駐屯地に所属する太鼓隊です。
幌別駐屯地は室蘭港にも近く、海自との関係もある陸自駐屯地で、
所在地は登別。

前にも書きましたが、自衛太鼓の出演チームは、ここに指導を受けるため
代表を一人送り込んで演技を体に叩き込み、原隊にそれを指導します。

1チームごとの単独演舞が終わったら、いよいよフィナーレです。
全太鼓チームが一体となって叩く太鼓の音は、今回
代々木体育館の遥か外で待っている者の耳にも届いてきました。

広いフロアにくまなく人員を配置しての総員演舞です。

武道館のように身体全体が太鼓の響きに包まれるような臨場感こそありませんが、
過去最大の参加人数による演舞は、太鼓という楽器の持つ力によって
プリミティブな感覚が揺さぶられるような感動と興奮を誘いました。

さて、第三章の「ジェネレーション」と自衛太鼓の関係付けについてです。
これだけたくさんの自衛官が出場するとなると、出演している年齢層は広く、

下は18歳、上は53歳。

今回の出演者の中には父子で参加している例もあるのだとか。
そう、これぞまさに「ジェネレーション」を超越して奏でる一つの音です。

太鼓指導は北海自衛太鼓のリーダー、高橋直保陸曹長。

高橋陸曹長はリーダーになって三年目となります。
自衛隊音楽まつりで自衛太鼓が演じる曲を作曲?するのは、
実はこの北海太鼓のリーダーの責務となっているのです。

そして、自分で作った曲を、音楽まつり参加チームに伝達し、
実技を指導し、音楽まつりの本番で自衛太鼓を成功させるまでが仕事です。

この責任ある北海太鼓リーダーの任務は、退官するその日まで続きます。

 

 

続く。

 


スローン・ルーム〜令和元年度 自衛隊音楽まつり

2019-12-13 | 自衛隊

外国招待バンドのステージが全て終了しました。
最後に出演した自衛隊音楽隊は航空自衛隊航空中央音楽隊です。

紹介でいきなりクロスドメイン、つまり陸海空の領域を超えた
防衛の新世紀の姿を言い表すために、

「宇宙」「サイバー」「電磁波」

といった空間に言及しました。

これは、同隊の選んだ本日のテーマ、「スターウォーズ」につなげるための
実に適宜な導入だったといえましょう。

平たくいうと、誰が上手いこと言えと、というやつです。

空自中央音楽隊の選曲については、いつも個人的に
ピンポイントでわたしの好みを突いてくることに驚きますが、
今日もまた、その嬉しい予感が当たりそうです。

プログラムによると、本日のテーマは

「スターウォーズ〜Tribute to Prequel Trilogy〜」

恥ずかしながらわたし映画「スターウォーズ」、観たり観なかったりで、
映画の細部については全く詳しくありません。

あらためて調べたところ、この「宇宙オペラ」(オペラだったんだ)は
最初の三部作を「旧三部作」とし、本日取り上げるところの
「プリクエル・トリロジー」は、旧三部作制作以降しばらくお休みしていた
ルーカスフィルムが、何かのきっかけで急にやる気になり、
アナキン・スカイウォーカーを主人公として過去編を作ったということです。

三部作は

「エピソード1 ファントム・メナス」

「エピソード2 クローンの攻撃」

「エピソード3 シスの復讐」

から成り、エピソード1発表当時は評価に賛否が巻き起こったとか。

ファンファーレで始まるステージは、おなじみのカラーガードが
赤と黒、シルバーの旗を持って登場します。

音の出ないビューグルを使う「喇叭隊」カラーガードも健在です。
彼女らも各部隊から推薦や自薦で応募し、選抜されるのでしょうか。

赤いフラッグは炎を表し、激しい戦いの曲などに用いられます。
照明もその時は赤が中心となります。

プレクエル・トリロジーのいずれかの映画の戦闘シーンの音楽なのでしょう。
場内のあちらこちらで、フラッグ隊ふたり一組による「バトル」が行われます。

一眼レフで撮影するようになってから初めて写真を見てわかったことですが、
彼女らの持っているフラッグには、持つ時目じるしにあするためのテープが
いくつも巻かれています。
このバトルの時も、旗の柄の握る位置は厳密に決められている模様。

「美は細部に宿る」という言葉を思い出しますね。

ところで、ご存知の方も多いかと存じますが、この音楽まつりの期間、
空自百里基地では航空祭が行われておりました。

わたしの知り合いは音楽まつりと航空祭、どちらに行こうか
迷った結果、百里を選んだそうです。

わたし自身も、実は12月1日に「いせ」の体験航海にお誘いいただいて、
すっかり行く気になっていたのですが、お願いしていたチケットが
どんぴしゃりで12月1日の招待公演だったため、体験航海をあきらめた、
というくらいの「イベントウィークエンド」でもあったのです。

一対一のバトルで思い出したので、この日航空祭に参加してこられた、
いつものKさんのブルーインパルスのコークスクリューの写真を貼っておきます。

トレイル隊形でしたっけ?
これをパッと見て「変だな」と思った方、あなたはブルー通です。
Kさんのご報告によると・・・。

ブルーの編隊を、よ~く御覧下さい。
実は一機欠けているんです。
離陸直前に3番機に不具合が発生して5機編成になっちゃいました。
普段なら予備機が代替するのですが、
前日に4番機にも不具合が発生していて、
既に予備機を投入済みなので已む無く5機での展示飛行となりました。
一部の演目はチョット残念な出来映えでした。
それでも中止せず4番機が3番機のポジションに臨時で入ったりして
飛んでくれたクルーに感謝です。

ということでした。

せっかくの航空祭に出演できなかった3番機ブルーは残念でしたね。

そういえば思い出しませんか?

空自中央音楽隊のステージは、毎年最後に全部隊の上を
ブルーインパルスを描いた布が通過するという演出をしていましたが、
2年か3年前にやめてしまいました。

ただ、あれが今でも続いていたとしても、今年の代々木体育館では
広すぎて布の幅が足りず、できなかったと思われます。

激しい調子のバトル的音楽が(題名はわかりません)終わると、
雰囲気は一転し、
カラーガードは青い旗に持ち替えました。

この旗の受け渡しを行うのも演技支援隊の隊員です。

ハープのアルペジオから始まる切なげな曲は、

「Attack of the Clones」の「Across The Stars」

 

その調べに乗ってふたりのカラーガードが旗を降り踊ります。
ちなみにこのときハープの演奏をしていたのは男性隊員でした。

彼女らの動きはここでも完全にシンクロしています。
適当に旗を振っているのではなく、振り付け通り。

二人で始まった踊りに他のカラーガードも加わって。

なびく白とブルーの旗とメランコリックなメロディの調和。
空自中央音楽隊お得意の選曲のセンスが遺憾なく発揮されています。

曲調がドラマティックに盛り上がった瞬間、会場を照らすライトが
赤く染まるという演出も大変効果的なものでした。

(でも正直赤いライトって写真に撮るといまいちなんですよねー)

そして、誰でもが知っている「スターウォーズのテーマ」が始まりました。

ビューグルのEXILEをしているカラーガード(笑)

外に並んでいる時、このカラーガードさんが舞台メイクをしたまま
出てきて、知り合いに声をかけているところを見ましたが、
ライトで飛んでしまうため青いシャドウをこってりつけていました。
目の下にはキラキラ光るスパンコールも付けています。

こんな機会でもないと今時普通の女性はまずしないという舞台化粧ですが、
彼女らにとってはコスプレ感覚で楽しんでしまえそう。

音楽隊と違い、カラーガードのお嬢さん方にとって音楽まつりのステージは
自衛官生活でたった一度限りの経験となるわけですから、
練習の期間も含めて、得難い一生の思い出となることでしょう。

ビューグル隊を真ん中に挟んで両側から互いに旗を投げ受け取る、
という、これも空自恒例のフォーメーションが始まります。

ビューグル隊は邪魔にならないように立て膝できっちりと静止。
これも日頃鍛えている自衛官だからブレずに姿勢を保てるのかもしれません。

時間にすれば一瞬なのですが、今回連写しまくったので、
写真をここぞとたくさん掲載してしまいましょう。

この投げ渡し、いつも彼女らは軽々と投げ、失敗なく受け取っています。
これまでの音楽まつりで同じフォーメーションを何度となく見ていますが、
旗を落としたのを一度としてみたことがありません。

そもそも、投げ上げた旗が隣とぶつからないだけでもすごい。

飛んでくる旗を受け止めようとする彼女らの真剣な表情をご覧ください。
それにしてもどれくらい練習を重ねるのでしょうね。

投げ渡しのあと、

「♬ド〜ソ ファミレド〜ソ、ファミレド〜ソ〜ファミファレ〜」

の一番盛り上がるメロディが。

その次の瞬間、次のフォーメーションに向かってダッシュ!

フィナーレに向かって全隊が気持ちを高めていきます。

そして空自中央音楽隊、今年もやってくれました!
わたしの全スターウォーズ曲中モストフェイバリットであるところの、

「スローン・ルーム」(Throne Room)

でのカンパニーフロントを。

日本では「王座の間」というタイトルだそうです。

誰かその理由を教えて欲しいのですが、ただ人々が演奏しながら
横一列に歩いて行くことが、なぜこんなに感動を誘うのでしょうか。

スターウォーズ NHK BSプレミアム 『王座の間とフィナーレ』

ましてやこの「スターウォーズ」一の名作とわたしが信じる
この曲とカンパニーフロントが一緒になったときの破壊力と言ったら・・・・。

今回、三回見て三回ともこの部分で涙腺を緩ませてしまったのですが、
こんな人はわたしだけだったでしょうか。

そして大感動のうちにステージは終わりを告げます。
わずか6分間だったとは思えないくらいストーリー性に富んだ
素晴らしいパフォーマンスでした。

指揮は芳賀大輔三等空佐、ドラムメジャーは島田祥宏三等空曹でした。

 

さて、陸海空自衛隊とゲストバンドが全てのステージを終えました。
次は前出演音楽隊による親善ステージです。

 

続く。



秋の花火〜海上自衛隊オータムフェスタ

2019-11-12 | 自衛隊

オータムフェスタのためこの日江田島の第一術科学校を訪れた一般人は、
国旗掲揚台に国旗降下のために整列し静止している科員に注目しています。

自衛隊においては太陽の出入りに伴って毎日行われるルーチンワークですが、
一般人にとっては非日常的なアトラクションみたいなものです。

わたしを含め、その場の人々は今か今かと発動の瞬間を待っていますが、
待っているものにとっては大変長く感じる時間となります。

掲揚された旗の索を掲揚台から外し、立っている海曹のもとに、
もう一人、違う腕章をつけた海曹が木箱を捧げ持って近づきました。

これは降下した国旗を明日の朝まで収納しておく収納箱です。
今まで気がつきませんでしたが、竿の根元にはこれを設置する専門の台があります。

掲揚台足元に二人がそれぞれ索を手に立ちました。
江田島の国旗掲揚竿は長いので、護衛艦などの自衛艦旗掲揚降下とちがい、
揚げ下げのペースを思いっきり早くしてやっと間に合うという感じです。

自衛隊の旗掲揚降下は何度もみていますが、ラストサウンドがきたときに
ぴたりと上に揚っている状態にするために、索を繰る速度については
あれでなかなか遣うものではないかといつも思います。

自衛隊のことだから、早すぎても遅すぎても厳しく指導が入るでしょう。

右側の海曹が索を引き、左がその補助と言う形です。
これも海自のことなので右側が先任だったりするのかもしれません。

左の海曹は索が地面を擦らないように、まとめて持っています。
細部の細部までその行動に意味のないことは全くない、それが海上自衛隊。


ところで、わたしはこのオータムフェスタがすんでから、わけあって再び
江田島第一術科学校に訪れ、朝の国旗掲揚を見る機会がありましたが、
そのときの掲揚は喇叭隊なし、君が代は放送、旗を降ろすのも一人でした。

毎日この形で行われているわけではないことを改めて知った次第です。

緊張感の漂っているのは隊員のいるところだけで、
人々は完全にリラックスムードでこの様子をみています。

別にどんな格好でも構わないと思いますが、国旗掲揚台のすぐ脇で、
シートを広げて座って国旗にお尻を向けたままというのは、
いくらなんでも、と言う気がしないでもありません。

「時間」

この号令で国旗降下発動です。
航海科からなる喇叭隊がラッパを構えました。
左端の自衛官は敬礼のためにちょうど右手を挙げたところです。

索を取るために大きくクロールのように手を動かす自衛隊独特の動き。

海軍兵学校の時代から国旗掲揚台は変わらずこの場所にありました。

このときふと思ったのですが、戦後役10年間、つまり昭和31年に
術科学校がここに帰ってくるまで、この掲揚台に日本国旗ではなく、
占領軍の国旗が揚がったことがあったのだろうかと。

終戦後、広島・呉地方にはアメリカ軍ではなく、イギリス連邦軍が
アメリカの補助という形で(というかソ連などの介入を防ぐため)
駐留しており、その本部があったことは前にもお話ししました。

このイギリス連邦軍とは、

オーストラリア・ニュージーランド・イギリス・カナダ

の四カ国からなります。
その場合、軍隊駐留地での国旗掲揚はどうであったかというと、

こうなるわけですね。

これは呉からイギリス連邦軍が撤退する日の写真です。

呉鎮守府庁舎を接収した連合軍が、自衛隊音楽隊が演奏する
イギリス国歌に合わせて四カ国の国旗を降下しているシーンですが、
これによると、占領期間、庁舎前
には国旗掲揚台が5竿あったようなのです。

4カ国なのに竿が一本多いのは親玉であるアメリカのためだろうと思われます。

というわけで、おそらく兵学校跡においても、イギリス連邦軍のために
掲揚竿が5本あったと想像されるのですが、それらしい写真はありません。

実際のところ、連邦軍は昭和23年以降はほとんど兵力を減らし、
実質この地方に進駐していたのは
オーストラリア軍だけだったといいますから、
もしかしたらここ江田島の象徴的な国旗掲揚竿には、

31年まで豪州旗が揚げられていたという可能性もあります。

 

話を戻しましょう。

索を引いている右側の海曹が国旗を手にします。

ラストサウンドのあと、行動の終わりを意味する

「ドッミド〜」

まで、国旗を胸に抱えるような位置で保持し、そのあとは
丁寧に旗を畳んで箱に収納し、その場を引き上げます。

じつにいいものを近くで見せてもらいました。

さて、続いてはいよいよ江田島名物秋の花火です。

赤煉瓦の前の芝生にもシートを敷いて花火大会の場所をとっている人多数。
手前では子供が地面に転がってるし。

いつもの江田島しか知らないみなさん、この光景にびっくりでしょ?

花火大会は夕刻6時30分から開始されます。
なにしろグラウンドは広いし、どこに座っても確実に見えるので、
よくある有名な花火大会前の殺伐とした雰囲気は皆無。

訪れた人々はのびのびと芝生の上でくつろぎながら始まるのを待ちます。

招待客のためにパイプ椅子が並べられています。
この席も例の席次表によってきっちりとどこに座るか決められています。

花火大会の頃には帰ってしまう来賓もけっこういたので、
かなりの空席が見られました。

序列を大事にする海自の決めた席次ですので、花火の見物席も
最前列は学校長と政治家だったりしますが、

はっきりいってどこに座っても見え方はまったく同じです。

ところで、この日花火があるとわかっていながら、二泊三日の旅行で
間に慰霊式をはさみ荷物が多い移動とあって、わたしは
花火撮影には必須である三脚を持ってくることを全く考えませんでした。

しかたがないので、設定をバルブにし、あとはできるだけ
カメラを動かさないように、脇を閉めて胸の前に持ち、
ファインダーも全く覗かないでMEKURA撃ちすることにしました。

そして撮れたのが案の定こんな写真です。
手ブレは防げていても端っこが欠けているというね。

まあそういう次第ですので、真剣に撮った写真だと思わず見てください。
花火は江田の沖に浮かべた船の上からあげられ、どこにいても
江田島名物の真っ直ぐ伸びた松の木がこのようにシルエットに入ってきます。

会場には、小さい女の子が花火が上がるたびに

「たまやー」

(かぎやはなし)

と叫んで、周囲の暖かい笑いを誘っていました。 

夜には風が強くなるので、花火の煙がすぐに消えて空がきれいになるのも
この季節に花火を行うメリットの一つかと思われました。

しかし、去年は海側から強風が吹いてきて、花火の煤や殻が、
皆グラウンドの方に流れてきて、次の日掃除がたいへんだったとか・・。

今年はその点でもベストな状態だったのではないでしょうか。

小花の開く花火は、打ち上げられてからいっぺん沈黙?して、
忘れた頃ぱっと花開くので、わたしの前の第一術科学校校長は

「失敗したのかと思った」

と幹部候補生学校長に話していました。

赤一色の小花。
こういうのを「千輪菊」というそうです。

ところで、なぜここではオータムフェスタに花火が行われるのでしょうか。

その理由は、昨年夏西日本を襲った水害でした。
例年江田島ではサマーフェスタで江田内の花火を売り物にしてきたのですが、
豪雨災害の復旧作業に呉の自衛隊が全出動し、さらに被害の大きさに
イベントは全て自粛され見送られて花火大会もなくなりました。

しかしご存知のように、花火というのは賞味期限?があるので、
夏にやるつもりで調達していた花火は早く使い切る必要があるから
オータムフェスタにそれを上げてしまおうということになり、
昨年初めて「秋の花火大会」が行われたのでした。

ところが実際にやってみると、夏場より参加者は快適だし、
陽が落ちるのが早く、そのため早く開始でき早く終わるので、
参加できる人も増え、おまけにもう花火などどこでもやっていないので
オリジナリティという意味でも名物になりそう、といいことだらけ。

というわけで、今年から江田島ではオータムフェスタに花火大会を行う、
ということに決まったということでした。

花弁がひらひらと散っていくところが表現されています。

吹いてくる風の冷たさのせいでしょうか。
秋の花火は夏とはまた違う切なさをはらんでなかなかの風情でした。

というわけで花火大会は無事に終了。
皆が一斉に外に向かいます。

夜の第一術科学校の中は、関係者でもないと
まず立ち入ることはできないのではないかと今まで思っていたのですが、
江田島市民にはその特別な景色をみる特別な場が提供されていました。

ただし、この後現場から帰り着くまでが長かった。

まず、一つしかない出口からたくさんの車が出るのに、
歩いている人優先で車が堰き止められ、校内から出るのにたっぷり30分かかり、
さらにはフェリーが終わっているので、皆が同じ道を
同じ方向に進むしかなく、一本しかない道が大渋滞。
呉のホテルに帰るのにたっぷり1時間半かかってしまいました。

しかし、さすがは自衛隊だけあって、人と車を捌くのも非常に慎重ながら
手際がいいせいか、現地での混乱のようなものは全く起こりませんでした。

当たり前のことのようですが、事故もなくこれだけのイベントを
無事円滑に運営できるのも、自衛隊という組織ならではです。

というわけで今年も自衛隊記念日一連の行事に無事参加できました。
ご招待をいただきました海上自衛隊の皆様には心よりお礼を申し上げます。

 

自衛隊記念日シリーズおわり。

 

 


懇親会〜海上自衛隊オータムフェスタ

2019-11-10 | 自衛隊

さて、「とうりゅう」命名・進水式のご報告も終わりましたので
江田島のオータムフェスタの続きと参ります。

観覧席に座っていた招待客は、術科学校学生館へと案内されました。
中でなにかあるというのではなく、懇親会会場が行われる食堂には
この中を通り抜けるのが近道なのです。

わたしもこの中に入るのは初めての経験です。

この学生館は、平成17年にそれまでの旧西生徒館と呼ばれていたものを
全面的に建て替えたものですが、やはり旧兵学校の関係者から
自分たちの思い出の西生徒館を壊して作り変えることに対しては
かなりの反発があったと言われています。

それらの意見と、歴史的な価値などを勘案した結果、建て替えられたものは
一見以前の建物と変わらないそっくりなものとなりました。

生徒館の廊下には、術科学校開校時の歴史的な写真が展示されていて、
かつての術科学校の様子をしのぶことができますが、この、
昭和31年5月16日に行われた術科学校開校式の写真には、
昭和13年に竣工した西生徒館が写っています。

現在の写真と細部を是非見比べてみてください。

窓枠は木製、建物の屋上はかつて洗濯物干場があったそうですが、
そこから人がひとり式典の様子を眺めているのが確認できます。

術科学校は昭和31年江田島に移転してくるまで横須賀にあり、
正式に「第一術科学校」と言う名称になったのは1958年(昭和33年)
のことなので、この写真のキャプションは「第一」のない

「術科学校開校式」

となっているのに注意です。

訓示を行っているのは第二代海上幕僚長・長澤浩海将
海軍兵学校49期卒の長澤海将にとって、術科学校が自分の赴任中に
古巣である江田島に帰ってくることは望外の喜びだったのではないでしょうか。

ついでに、後ろに写っているアメリカ海軍の軍人ですが、
おそらく当時第7艦隊司令であった、

スチュアート・H・インガーソル中将(1898〜1983)

ではないかと思われます。

インガーソル中将はここでも散々お話ししたことがある、
ハルゼー&マケインコンビが指揮して無謀にも台風に二度も突っ込んだ
あのハルゼー艦隊の軽空母「モントレー」の艦長だった人物です。

このときインガーソル中将は、台風で大破した「モントレー」艦長として
総員退艦の指揮官命令に背いた上で必死の修復作業を指示し、
結果、艦と貴重な人命を救うという英雄的行為を成し遂げ、
その功績に対して十字勲章を授与されています。

同じ日の術科学校にて、国旗掲揚の様子。
台上はおそらく術科学校校長だと思われます。

このときの術科学校長、小國寛之輔海将補は海軍機関学校卒でした。
術科学校なので適任として任命されたのだとおもいますが、
機関卒士官が校長になるなど、兵学校時代には考えられなかったことです。

同じ日の祝宴では、なんとびっくり、大講堂で飲食をしています。
当時はこれだけの人数が一挙に集まることができる場所が
ここしかなかったということなのかもしれません。

席についている招待客はここに写っている限りでは全員男性。
立食ではなくテーブルに配膳される形式の食事のようですが、
ところどころにいるスカートを履いた女性はウェイトレスでしょうか。

それから、皆が座っている長椅子は、海軍兵学校の食堂で
学生たちが食事をしていたのと同じものだと思われます。

昔の大講堂の照明はいまのようなものではなく、
吊り下げ式のボールランプであったこともわかりますね。

この日は江田島の商店街を音楽隊を先頭に行進したようです。
長らく占領軍が駐留していた江田島ですが、これをみて
現地の人々は、

「兵学校が帰ってきた」

と歓迎したのでしょうか。
当時は道路がまだ舗装されていなかったらしいのもわかります。

この写真に写っているのはここかなと思ったのですがどうでしょう。

さて、誘導されるままに第一術科学校の中を歩いていきます。

先ほど喇叭行進をしていた航海科の女子隊員たちが
二列に隊列を組んで引き揚げていく後ろ姿です。

この右側は四方を囲まれた中庭テラスになっていて、
どこかでみたことがあると思ったら、防衛大学校でした。

防大ではここで棒倒しの最後の練習をしていましたっけ。

会場はいつもの食堂です。
前回は観桜会のときにここで宴会が行われました。

ここでも自衛隊記念行事に伴う懇親会となっています。
そしてこの横断幕なんですけど、どうみても毛筆の手書きに見えます。

観桜会の時にも

「得意分野は洋菓子です」

という女性の給養員が平成最後の桜をモチーフにした
四角いケーキをひろうしてくれたのですが、今回は
なぜかダンボをプリントしたケーキとブルーのケーキ。

なぜダンボか、なぜブルーかについての説明は特になく、
最後までどう言う意味が込められていたのかわかりませんでした。

もしアナウンスされていたのにわたしが聞いていないだけなら
どうもすみません<(_ _)>

まず第一術科学校長丸澤海将補がご挨拶。

「先ほどの観閲行進をみながら、三十?年前を思い出しておりました。
その時指揮隊長だったのが渡邊剛次郎という男でした」

おお、丸澤海将補は横須賀地方総監と同期でいらっしゃいましたか。

続いて恒例の給養員紹介コーナー。

宴会の料理にも基地柄がでるといいますか、江田島は
呉とは全く違う路線で、海に囲まれた地ならではの刺身舟盛りは基本として、
焼きそばとかコロッケパン?みたいな庶民的なお料理も顔を見せます。

ちなみに、舟盛りのこちらにあるお盆の上の白いものは、
大根のツマというのか、網大根といわれる飾り切りしたもので、
それがなぜかラップがかかったままごろんと置いてあるので、
まわりの人たちが

「これ、なんなんですかねー」

「大根ですか」

(大根なのかどうかもわからない形状だった)

「なんでこんなところにあるんでしょう」

「きっと刺身の乾きどめにするつもりがかけ忘れたんでは?」

などと話題にし、すっかり会話のきっかけと成り果てていました。

刺身のツマなので刺身と一緒に食するためのものであるはずですが、
どうもこの網大根、一切れが大きくて、誰も食べるものと思わず、
最後までラップのかかったまま放置されておりました。

お話ししていた自衛官が屋台からカレーをとってきてくれました。
第一術科学校カレーは、大豆とジャコが入っているのが特色です。

味というより主に食感に歯応えを与えるために混入しているようですが、
これがまたいけるんだ。

会場入り口に展示してあったケーキもいつの間にか切り分けられ、
これも持ってきていただいたのでいただいてみました。

ホームメイド風で(ってホームメイドなんですけど)おいしかったです。

会の締めの挨拶をされたのは幹部候補生学校長大判海将補
前第一術科学校長だった中畑海将とは防大の同期だそうです。

この間政治家の挨拶が行われたのですが、その中に
河合克之法務大臣の妻、河合案里氏がおられました。
河合氏が出席できなかったので代理で挨拶をしたようですが、
皆さんもごぞんじのように、その直後、河合氏は他ならぬこの
案里氏の公職選挙法違反に責任を取る形で法相を辞任しています。

「政権への打撃か?」

などとマスコミと野党が任命責任ガーで大騒ぎしていますが、
その理由はというと、ウグイス嬢に二倍の日当を払っていたというもの。

規則を破ったからといわれればそれまでですが、現実問題として
今時既定の何千円かで1日いいウグイス嬢が雇えるんでしょうか。

現政権が安倍一強で崩す手立てがないので、牙城を案里ならぬアリの一穴から
(だれうま)法務大臣を辞任させ、その調子でとにかく閣僚を三人刺して
「政権に打撃を与えたい」といういずこからの悪意のある意図を感じさせませんか。

まあ、その辺りの政治的な裏読みはともかく、少なくともこの日、
壇上で挨拶をしていた案里氏の様子からは、自分が原因で
夫が危機に陥っていることにたいする動揺のようなものは微塵も感じられず、
つまり公職選挙法の話が出たのはこの後だったのだろうと思われます。

ちなみに週刊文春がこの問題を報じたのは10月30日、
河井克行氏が法相を辞任したのが10月31日、オータムフェスタは11月27日でした。

さて、懇親会も終わり、6時半から始まる花火大会までには
まだ間があるということで、わたしはまた外を散策してみました。

懇親会の出席者の一人から、江田島は海からの風が吹くので
昼間は暑くても花火大会の時は寒いかもしれない、と伺い、
車の中に置いてあったコートを取りに行こうと思いつき歩き出すと、
国旗掲揚台の下に自衛官が整列していました。

国旗降下の日没時間が近づいていたのです。

最前列には先ほど喇叭行進を行ったのかもしれない
航海科の海士君たちが喇叭譜「君が代」を吹鳴するために控えます。

しかし、今更ですがやはり若い人たちのセーラー服姿はいいものですね。

幹部・海曹の制服は時代とともに変化していっていますが、
海士のセーラー服だけはそれこそ海軍時代からほとんど変化しておらず、
それなのにいつ見ても時代から取り残された古臭い印象が全くありません。

服飾のデザインとしても完璧ということなんだと思います。

掲揚台の下には当直の海曹が国旗を降ろすために索を持って控えています。

この日、令和元年11月27日の日没時刻は1723。
それまでの、待っている我々にはとてつもなく長く感じられる何分間か、
彼らは微動だにせず発動の時刻を待っています。

 

続く。

 

 

 


潜水艦「とうりゅう」進水祝賀会 於 川崎重工業株式会社

2019-11-09 | 自衛隊

川崎重工業における新型潜水艦「とうりゅう」の進水式が終わりました。
進水式が行われたドックから引き込み線沿いに、
クレーンを見上げながらバス乗り場に戻ると、バスはそのまま
神戸駅前にそびえ立つ川重のビル向かい空き地まで行ってくれます。

この日写真を撮ったのはいつもバッグに入れているコンデジなので、
ビルのてっぺんまでフレームインしているか眩しくてわかりませんでした。

この日の神戸は、船出を行った「とうりゅう」の行手を祝福するような
雲ひとつない青空で、後で祝賀会席上、呉地方総監杉本海将が、

「わたしは晴れ男ですからね!」

と自信たっぷりに自慢しておられたくらいです。
そういえば、幹部候補生学校卒業式の前日夜半まで降っていた雨を
てるてる坊主の力で見事晴天にした実績がおありでした。

「あんまり(晴れ男)言うと、降ってしまうのでやめときます。
あちらには今年の観艦式を雨にした張本人がいますが」

👉→→→山村海幕長

「しかし『雨男』は今禁句ですから(いいません)」

現体制の海上自衛隊も、この杉本海将といい山村海幕長といい、
海軍伝統のユーモア受け継ぎまくりとお見受けします。

川崎重工での祝賀会は、いつも本社ビルの三階ホールで行われます。

自衛隊主催の祝賀会と違うところは、会費が要らないことと、
会場に入ると、夜会巻きにロングスカートのコンパニオンが
おしぼりを渡したり飲み物を注いでサービスしてくれることです。

時計はすでに祝賀会開始時間の1330になっていますが、
おそらくこの頃まだ海幕長が工場見学をしておられたのでしょう。

会場を出たところには正帽置き場が設置してあります。
潜水艦の祝賀会ではあまり見たことがない女性幹部の帽子もあり。

陸自はおそらく伊丹駐屯地から招待されて来ていたようですが、
副官らしき自衛官がなんといまだにOD色の旧型制服を着ていました。

ここでは帽子置き場のスペースは十分にあるらしく、副官の帽子の上に
ボスのが重ねて置いてあるというおなじみの光景は見ることはできませんでした。

前回来た時と少し内容が変わっていて、まず、中華チマキがなくなり、
そのかわりに大きな魚(タイ?)の揚げ煮つけ料理がどーんと登場。

このお料理、味見してみたい気持ちは山々だったのですが、
微妙に取りにくそうだし、汁が滴れそうなので手が出せず、
どのテーブルでもほとんど減っている様子がありませんでした。

そして今回ちょっと残念だったのは、いつもの
潜水艦の名前をラベルにしたお酒の瓶がなかったことです。

微妙に緊縮財政気味なのかな、と感じたのはこれだけでなく、
本日と前回冒頭画像に使った
絵葉書入りパンフレットも、
いつもはテーブルに無造作に置かれ、その気になれば
いくつでも持って帰れたのですが、今回は会場に入る時
欲しい人だけに一枚ずつ渡していたことからもでした。

小さなことにすぎませんが、これは実に氷山の一角であって、
お節介船屋さんがコメントでも書いておられるような、
造船業、特に防衛計画を請け負う業界の置かれた苦しい状況を
わたしのような部外者ですら嗅ぎ取らずにはいられません。

そしてさらにその根本原因をたどっていくと、どうしても
自衛隊が憲法で保障されていないということにたどり着くのですが、
そういう考察はまたの機会に譲ります。

 

 

さて、開式にあたり、まず川崎重工業社長よりご挨拶がありました。
少し長いですが書き出しておきます。

「本艦は平成29年1月27日に起工して以来、防衛省関係諸官の
ご指導とご支援のもと、建造を行い、本日めでたく
海上幕僚長、山村浩様により「とうりゅう」と命名されました。

上幕僚長の見事な支鋼ご切断により、(なぜか笑いが起きる)
多くの関係者の見守る中無事進水し、神戸の海に其の勇姿を浮かべました。

命名ならびに支鋼切断の大役を賜りました山村海上幕僚長、ならびに
海上幕僚監部代表、藤装備計画部長、防衛省庁代表、佐藤装備官、
そして本式典を執行されました杉本呉地方総監に厚く御礼申し上げます。

ご臨席賜りました高島潜水艦隊司令官、牛尾近畿中部防衛局次長をはじめとする
防衛省防衛省関係の諸官、吉田国土交通省運輸管理部長、
ならびにご来賓の皆様方にこころより御礼申しあげます。」

 

「本艦は昭和35年6月にお引き渡ししました戦後初の国産潜水艦、
「おやしお」の建造から数えて当社29隻目の潜水艦となります。

これまでの「そうりゅう」型潜水艦とことなり、新たに水中動力源として
大容量リチウムイオン電池が搭載されました。
さらなる水中潜航能力の向上が図られております。
当社は現在本艦を含む2隻の潜水艦の建造を進めております。

また、修理の分野では年次検査、定期検査の工事にくわえ、
潜水艦増勢に向けた延命工事を施工してきております。

日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中、
潜水艦の建造修理に携わる者として国防の一翼を担うと言う責務の元、
「とうりゅう」建造におきましても、当社の建造技術を結集して
基礎工事を進め、防衛省どののご期待にお答えし得る潜水艦として、
令和3年3月には慣行のお引き渡しをする所存でございます。

なお、当社は潜水艦以外にも航空機、ガスタービンエンジン、
各種推進機関など数多くの製品分野にご用命いただいております。

この新たなご要求にお答えし得るように、
さらなる研鑽を積んで参る所存でございますので関係各位殿より
一層のご指導ご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます」


「見事なご切断」で一部から笑いが起きたのは、おそらくですが
近くにおられた山村海幕長がそれに反応されたのでしょう。

じつは、この後海幕長とお話しさせていただいたとき、
支鋼切断のとき緊張されませんでしたか、と伺ってみたのです。

即答でした。

「無茶苦茶緊張しました!」

「進水式といっても自分が何かするわけでないので
こーんな( ̄σ・ ̄*) ←感じで横にいればいいのかと思ったら、
副大臣が出られなくなって自分がやらなくてはいけないって・・。
もう心臓バクバクでした」

海幕長のような方でもいまだに心臓をドキドキさせる場面があるとは、
海上自衛隊ってなんて刺激の絶えない活気のある職場なのかしら。

ちなみにこの前にお話しした杉本海将は、今回、
潜水艦の進水というものを自衛官になって初めてご覧になったそうです。

「初めてですか!」

思わず驚いてしまったのですが、よく考えたら固定翼機出身の自衛官は
海幕長か地方総監、しかも川崎三菱のある神戸がお膝元である
呉地方総監部にならない限り、潜水艦進水式には縁がないものなのですね。

このとき総監に指摘されたように、自衛官は自分の分野以外は
同じ海自のことでも未知の世界のまま終わるもので、
わたしのような物好きな一般人のほうが、よっぽど自衛隊について
外から見える部分に関しては詳しいものなのかもしれません。


また、山村海幕長はそのご挨拶の中で、「とうりゅう」は、
幕末の詩人梁川星巖(やながわせいげん)の七言絶句によって、

「白波雲の如く立ち水声夥(おびただ)し」

とうたわれ、巨龍の躍動に似たところから名づけられた
兵庫県加古川にある名勝、闘竜灘から取られていると説明されました。

闘竜灘は、川底いっぱいに起伏する奇岩、怪石に阻まれた激流で、
この新型潜水艦の荒々しく闘う姿にその名を被せたのです。

「とうりゅう」の配備先はまだ決まっていないそうですが、
この命名由来からいうと阪神基地隊がいいのでは?

宴たけなわ、会場ではあちこちで挨拶が行われております。

そうそう、この日祝賀会会場でわたしがお話しした自衛官が、たまたま
当ブログを読んでくださっていたのですが、この方が例の

「自衛官の旅費問題」

に中の人としての証言をしてくださったので触れておかなくてはなりません。

ちなみにこの自衛官が遠洋航海に行ったのは10年前。

「そのときは任地までの旅費は出ました」

そのときも遠洋航海から帰り即日赴任だったそうですが、もしかしたら
それまで海自では、遠洋航海の後すぐに任務ではかわいそうだから?
着任までの間休暇を挟むこともあったのではないか、という推測でした。

その方の任地は青森(ってことは大湊ですかね)だったということで、
艦を降りてから同じところに着任する何人かで一緒に移動されたとか。

ちょっと遠洋航海の延長みたいな感じで楽しかったかもですね。

 

それから、最後に河野元統幕長とお話しすることもできました。

「虎ノ門ニュースに出られた時のは全部聞かせていただいてます」

河野さんといえば、有本香さんの関係で何度か同番組に出演され、
憲法改正についても韓国との関係についても、気持ちの良いくらい
本音で語り、現役の自衛官もこう言う風に考えるんだ、とある意味
瞠目させていただいていたこともあってぜひそれをお伝えしたかったのです。

「もうやめたので、好きなこと言ってやろうと思って」(笑)

統幕長の立場だった方がこうおっしゃるのですから嬉しいではありませんか。

「是非お願いします。これからも期待しております」

お愛想でもなんでもなく、心からこのような言葉が出ました。

もうすぐお開きというとき、先ほど支鋼切断に使われた斧が
川崎重工株式会社より山村海幕長にプレゼントされました。
通例この斧は切断を行った本人に贈呈されます。

アリガトゴザイマシタ┏o  o┓ドウイタシマシテ

山村海幕長、満面の笑顔です。
きっと内心「うれぴー」と思っておられるに違いありません。

・・・・・いえ、単なる空想ですよ?

斧と切断した支鋼(右の木製のものは何?)は
しばらく会場に飾ってありました。
支鋼がまず「鋼」ではなかったことがこれでわかりました。

海幕長は、

「ほら、斧って先がこんな風に丸いじゃないですか。
その先端がうまく当たるかどうか心配で」

とおっしゃってましたが、確かに。
でもこんな洗濯ロープみたいなのなら、難なく切れるような気しません?

ところが、このとき伺ったところによると、過去、
名前は秘しますが、一回で切れなかった方もいたとか・・。

わたしが、

「外国の艦艇だとシャンパンを艦体に叩きつけて割りますが、
これが失敗すると船にとって縁起が悪いとまでいいますよね」

というと、海幕長、

「先にそのお話を伺わなくてよかったです。
聞いてたらもっと緊張したでしょう!」

またまたー、そんなことくらいよくご存知でしょうに。

 

この斧は「とうりゅう」の進水のためだけにつくられたものです。

進水式でこのような形の斧をつかうのは日本だけで、外国では
切断を行うのは槌とのみを使っていたそうです。

日本で初めて古くからの縁起物である斧を使って進水したのは
1907年、佐世保海軍工廠における防護巡洋艦「利根」でした。

なんでも、軍艦の進水式なのだから西洋式の槌とのみではなく、
日本古来の長柄武器であるまさかり状の器具を支綱切断に用いるべき、
として考案されたのがこの形の斧だったということです。

というわけで「とうりゅう」進水を祝う祝賀会も終了です。

実は現在の安全保障分野における最前線にいるのが
潜水艦であり、原子力を使わない潜水艦分野ではその技術と
海上自衛隊潜水艦隊の実力は世界のトップクラスと言われています。

その評価をさらに高めるであろう「とうりゅう」の完成が心から待たれます。

 

終わり。



潜水艦「とうりゅう」進水式 於 川崎重工業株式会社

2019-11-07 | 自衛隊

江田島のオータムフェスタ参加レポートの途中ですが、
神戸の川崎重工で行われた新型潜水艦の進水式に行って参りました。

潜水艦の行事は造船所内で撮影が厳しく禁じられているので、
いつものように写真を元にということはできませんが、
この貴重な行事を目撃するという特権に預からせていただいた以上、
そのときの様子を微力ながらご報告させていただこうと思います。

 

前回潜水艦関連の行事にご招待いただいたのは、今年3月、
やはり同じ川崎重工で行われた「しょうりゅう」の引き渡し式です。

潜水艦の艤装は進水式を行ってから1年半で完成するので、
だいたい今の季節に進水式を行い、3月に引き渡し式となります。

この日進水を行った平成28年度計画により建造された8127艦は、
(この数字は自衛隊が建造した艦艇の通算数でしょうか)
令和3年の3月に引き渡しが行われる予定です。

潜水艦行事の招待者は、構内で受付を済ませると、自衛官が
待機するための社屋の前まで連れて行ってくれます。

無言で歩くのもなんなので、

「良いお天気でよかったですね」

と話しかけると、

「本当です。三菱の進水で雨が降ってあの時は大変でした」

川崎重工では、潜水艦の艦首の部分に向かい支鋼切断する
命名者はじめ、立ち会っている者全てが屋内にいるので
雨が降っても大丈夫ですが、三菱では潜水艦の右舷側に
艦体と並行に観覧席があるので、屋根がないのです。


受付ではパスカードをもらい、それを建物の入り口で
駅の改札のようにピッとゲートにかざして入室します。
さすがは軍需産業、セキュリティは大変厳しいものなのです。

通常この部屋でお呼びがかかるまで待つのですが、
この日わたしは時間を潰してぎりぎりを見計って到着し、
待合室に入ることなくバスに案内されました。

バスから降りて結構長い距離を歩き進水ドックまで到着すると、
スロープを上って組み立てられた観覧台です。

絶望するくらいひどい図面ですが、macにカタリナを入れたら
途端にいろんなものが今まで通り使えなくなり、スキャンはできないわ、
ワコムインストールは
ペンタブレットのクッキー調整で行き詰まるわで、
恥を忍んで超やっつけ仕事の手書きの図で失礼いたします。

わたしが観覧したのは左側の招待客ゾーンでした。
観覧席はすべて自衛隊旗の意匠で覆われた艦首と向き合う形です。

わたしたちのいる席の一階には川崎重工の社員たちが、
音楽隊のこちら側には自衛官が並んでいたようです。

 

到着してしばらくすると、呉音楽隊が演奏を始めました。
これが一曲目かどうかは最初に入場したわけではないのでわかりませんが、
それが「君が代行進曲」だったのにわたしはいたく満足しました。

川崎でも三菱でも、旧海軍時代から変わらぬこの伝統の進水式において、
演奏されていたにちがいないこの曲が流れるのは、海軍時代から受け継がれる
潜水艦魂を受け継ぐ海上自衛隊潜水艦にとって大変良いことだと思えたのです。

演奏のおよそ半分は「国民の象徴」などのアメリカ製マーチでしたが、
そのあと、これも海軍時代の進水式で必ず演奏されていたであろう曲、

/ "Patriotic March" by Tokyo Band chor
 

「愛国行進曲」が演奏され、わたしは内心快哉をさけびました。

演奏の合間に、場内には待ち時間を利用して潜水艦の説明などや
撮影をしないこと、携帯の電源を切るかマナーモードにするようにという
諸注意がアナウンスされました。

アナウンスはまず今日進水する潜水艦のスペックからです。

「潜水艦の全長は84メートル、幅9.1メートル、深さ10.3メートル、
基準排水量は2,950トンでございます」

なんでも本型は、戦後我が国によって建造された潜水艦の中で
最大級の大きさなのだそうです。

「主機関は川崎12V25・25型ディーゼル機関、2基、
および推進電動機、1基1軸を搭載しております」

「ソナーなどに最新の設備が施されているほか、船体には
強度を高めるための高張力鋼を使用しています」

マンガンを添加したり、熱を加えたりして引っ張りに対して
強い鋼材のことを高張力鋼、ハイテン鋼といいます。
強度が高いのに薄いので船体の軽量化にとっても欠かせません。

とにかくこの最新鋭艦は安全性にも万全の対策が施されている、
というようなことが説明されました。

ところでわたしの描いた図で、潜水艦の脇にある「浮き」と書いた
四角いものは、現地で見ると黒い箱状の羽のように取り付けられていて、
進水後の揺れを抑える役目をするものだそうです。

ただ、この名称をいうときアナウンサーが言葉に詰まり、
正確になんといっているかわかりませんでした。
たしか「バル・・ジなんとか」と聞こえた気がします。

 

わたしの立っていた左の招待席(といっても全員立っている)
の横が、命名者である海幕長始め、本日の進水式の「当事者」となる
自衛隊と川崎重工関係者(偉い人)の立つ席です。

わたしたちのところにも隣にも、床は赤い毛氈が敷かれていましたが、
隣の席にはこれもまたきっちりと、立ち位置に名札が貼ってありました。

両脇の観客が全部位置についてから、真ん中の人たちが入ってきました。
その中には河野元統幕長はじめ、元自衛官がおり、その中の何人か、
現役時代潜水艦だった将官は、川重の顧問という肩書きで参加しておられます。

解説を挟み、音楽隊は長時間立って潜水艦の頭とお見合いしているだけの
人のために、最後まで心躍るようなマーチを聴かせてくれましたが、
一番最後に演奏されたのは「宇宙戦艦ヤマト」でした。

潜水艦の式典のために作曲された委嘱作品、「てつのくじら」は
この日聴けなかったのですが、もしかしたらわたしが到着する前に
すでに演奏が終わっていたのでしょうか。

 

 

さて、いよいよ命名者である海上幕僚長が入場し、式典の始まりです。

まずは命名者たる海幕長が

「本艦を『とうりゅう』と名付ける」

と力強く宣言すると、同時に艦体上部にある幕が取れて

「とうりゅう」

という文字が皆の前に現れます。

わたしは潜水艦の命名式に呼ばれるたびに、次は何になるだろう、
いつも遊び半分に名前の想像をして楽しむのですが、この
「とうりゅう」も一応は今回の想像の範囲内にありました。

ただし、どういう漢字を当てるのかは祝賀会までわかりません。

 

さて、国歌演奏により国旗が掲揚されてから進水式にうつります。

進水の準備、つまり支鋼一本だけで船体を支えている状態になるまで
その支えを「排除」していく作業が始まるわけです。

これが始まる時、最前列台の上には工場長(かどうか知りませんが)
が立ち、
ホイッスルによる「始め」の合図を送ります。

そこから先は、残念ながらわたしたちのいる観覧台からは
潜水艦の影で行われているため、全く見えません。

ですので、「ちよだ」のときに三井造船でもらった資料を出してきます。
艦体を支えている盤木は、ピンの隙間から砂をおとすことで離れます。

そのことで船の重量は盤木から離れ、今や滑走台にかかりました。

進水する船は生身?で台を転がるのではなく、水際までは
滑走台というものに乗って進水台を転がり落ちていきます。

準備段階ではこの滑走台を止めているつっかえ棒の土台、
「ジャッキ」をおろし、つっかえ棒を外します。

そして、最後の最後に「トリガー」から安全ピンを外します。
このとき支鋼切断の数十秒前。

上の図に支鋼が見えていますが、今船体が動くのを止めているのは
この鋼一本なのです。(実際は違いますが一応こう言っておきなす)

そこまで作業を終えると、台の上で笛を吹き、手を上げたり下げたり
指差しポーズをしていた人(1)は、台の右手にいる人に

「進水準備作業完了しました!」

すると、その人(2)は、自分の後ろにいた人に

「進水準備作業完了しました!」

すると、その人(3)は、山村海幕長に

「進水準備作業完了しました!」

皆おなじところにいるんだから最初の人が海幕長に直接
完了しましたといえば済むことじゃね?という気がしますが、
そこはそれ、進水は「儀式」なのですから、こういうことも
昔から伝わる慣例通りにやらなくては意味がないのです。

すると、それを受けた海幕長が台に進みでて、このために作られた
銀色のまさかり状のオノで、自分の前に張られている支鋼を
一刀両断に?叩くと、支鋼はまず、上部で支えられていたシャンパンの
紅白の布で包まれたビンを艦体に叩きつけ、次の瞬間、
自重で艦は滑走台ごと進水台を転がり落ちていくというわけです。

 

ところで「支鋼一本で支えられている状態」といいましたが、
さすがに重量が全部一本の鋼にかかっているわけではありません。

最後の瞬間滑走台を止めているのは、実はこの図の三色のトリガーです。
支鋼は青いトリガーの下にあって、これが重力で下に落ちるのを止めているのです。

支鋼を切断すると、まず青のトリガーが下に落ち、続いて赤が落ち、
最後に黄色が外れて滑走台を止めていたものが全てなくなるというわけです。

 

この後の祝賀会で支鋼切断を行った海幕長とお話ししていると、

「自分でやっておきながらどういう仕組みであれが(支鋼を切ると)
ああなるのか(船体が転がり落ちていく)全くわかりませんでした」

とおっしゃっていたのですが、つまりこういうことなんですよ。

艦体がほとんど音もなく滑り出すと同時に、音楽隊の
行進曲「軍艦」の演奏が始まり、
どこから放たれたのか
色とりどりの風船が舞い、
薬玉が割れて中からリボンが翻りました。

(あとから映像を見たら、風船を放す係の人がいた)

何回見ても心躍る瞬間です。

サンテレビのニュース映像が非常に簡潔にこの日の式典とともに
「とうりゅう」のスペックについても簡潔に報じています。

リチウムイオン電池搭載 川崎重工で新潜水艦の進水式
 

潜水艦が台を滑り降りていってからしばらくしても、周囲には
シャンパンの放つ香りが強烈に漂っていたのが印象的でした。

 

このあと、バスに乗り込んだわたしは、神戸駅前の川崎重工ビルで
関係者を招き華やかに催された祝賀会に参加しました。

 

続く。

 

 

 


観閲行進〜自衛隊記念日 江田島オータムフェスタ

2019-11-06 | 自衛隊

観閲行進に先立ち、観閲官たる第一術科学校長、そして
幹部候補生学校長と江田島市長が観閲用の車に乗り込みました。

「先導いたします」

と指揮台前で宣言した観閲部隊指揮官は、先行の車両右側に着座して、
部隊の目の前を通過する際に部隊側を向くように座っています。

 

わたしが「お供いたします」といったように勘違いして覚えていたのは
同じ車に乗り込んで座る=お供と記憶が改変されたからに違いありません。

自衛隊法の細目によると、部隊指揮官は

執行者の目の前に進み、部隊指揮官の氏階級と人員等の報告後に
「ご案内します(どうぞ)」と右手を伸ばし誘導する

とされています。

音楽隊の演奏する「巡閲の譜」の調べがグラウンドに響く中、
全部隊を「閲兵」する観閲官。

練習艦隊などの場合は観閲官(防衛大臣か副大臣、政務官)が
儀仗隊の隊列を歩いて巡閲します。
巡閲を行う者を受礼者といい、このとき受礼者は隊員一人ひとりの
容儀、姿勢、眼光などに表れる気迫を通して、練度や士気を
確認するという意味があります。

これらの細目は全て自衛隊法の実施要項によって定められ、
指揮官は基本三尉から三佐まで、ということになっています。

幹部候補生はまだ任官しておらず海曹長という階級なので、
厳密にはこの基本から外れることになりますが、本式典は
あくまでも第一術科学校内での観閲行進なのでこれはありです。

海曹が指揮官になっていたことで前回unknownさんが
違和感を感じておられましたが、これが校内における行進で
さらに指揮官が海曹長であることを考えれば、
これもありなのではないか、と思われますがどうでしょうか。

いずれにしても旧海軍時代にはありえなかったリベラルさです。

巡閲終了。

「受礼者」に対し、この観閲部隊指揮官を「立会者」と称しますが、
立会者である部隊指揮官の

「巡閲終わります」

の報告で、巡閲は終了します。

ダビッドの前を普通に歩いている自衛官が気になる・・・。

部隊指揮官の

「観閲行進の態勢を取れ」

の号令により、各部隊が用意を行い、そののち
部隊指揮官が先頭となり観閲行進を指揮します。

しかし先頭を歩くのは実は行進曲「軍艦」を演奏する
音楽隊だったりします。

続いて幹部候補生隊(二大隊)、海曹部隊、海士部隊、
最後に喇叭隊が行進を開始します。

候補生部隊はもちろん全生徒が参加しているのでしょう。
隊列はグラウンドを右回りに行進し、芝生を取り囲む
観客の前を通過して術科学校の正面まで戻ってきます。

音楽隊が正面にさしかかりました。
部隊が通り過ぎるたびに盛大な拍手が観客席から起こります。

さすがはマーチングが本領の音楽隊、足の角度が皆ぴったり同じ。

音楽隊の先頭は全ての先頭ということになりますが、
このバトンを持った役目をドラムメジャーといいます。

ドラムメジャーは背の高い人しかなれませんが、それは
見栄えの問題というよりは背が高くないと、この
長いバトンを扱いにくいという実質的な理由があります。

海曹部隊の行進が始まりました。

そしてその頃観閲部隊指揮官を先頭とする指揮官部隊が通過。

続いてカラーガード部隊です。

「国旗が前方を通過するときにはご起立をお願いします」

というアナウンスがありました。
わたしの周りの来賓は当然皆立ち上がっていましたが、
昔防大の開校記念祭で、グラウンドを国旗が通過する際、
規律を促すアナウンスがあっても頑として立たない防大生の父兄らしい人や、

立ち上がったら後ろから

「(撮影の邪魔になるから)立つな!」

と怒鳴る連中がいて、茫然としたことがあります。

カメオタと呼ばれる中に得てしてとんでもない非常識さんがいるのは
あちこちのイベントで散見してよく知っていますが、
自分の子供が自衛官になるかもしれないのに国旗に敬意を払わない、
というのはいかがなものなんでしょうか。

候補生観閲部隊が観閲台前にさしかかりました。

こちらは候補生部隊の第二大隊。

部隊指揮官は、観閲台の手前(数十メーター)に隊列がさしかかると、

「頭(かしら)〜」

の号令を発すると同時に右手を伸ばします。

そして、その後、

「右!」

の号令で観閲台に向かって敬礼を行います。

旗を持って行進している旗手は「旗の敬礼」。

右手で旗ざおを垂直に上げ同時に左手で右脇で旗ざおを握り、
次に旗ざおを水平に前方に倒して行なう敬礼です。

このとき旗がちゃんと下に垂れるようにするのは難しそう。

銃を持って行進している部隊は、敬礼の代わりに、
「頭右」だけを行います。

ただし、一番観閲台寄りの列だけがまっすぐ向いたままです。
理由は知りませんが、多分全員で右を向いたら
列がまっすぐ進まないからじゃないでしょうか。

続いての海曹部隊旗手はすらりと背の高い女性隊員。

行進している海曹は、幹部候補生としてここ赤レンガで幹部を目指す、
「部内選抜一般幹部候補生」と言うことになろうかと思います。
このグループを「B幹部」といい、そのほかにも「C幹部」といって、
海曹長・准尉の中から試験で選抜された候補生もいますが、
履修期間は12週間だけですので行進に加わってはいない気がします。

防衛医大などの出身である医科歯科幹部候補生もいますが、
観閲行進にさんかしているかどうかについてはわかりませんでした。

最後に行進する海士の帽子には「第1術科学校」の金文字入り。
今見えている海士の全員が海士長(旧海軍の上等兵)です。

行進している海士のこちら側にも海士が立っていますが、
観閲行進が始まると同時に観閲台の両脇にたち、
いわば観閲官を「警護」しているという役割です。

この頃には音楽隊はグラウンドから建物の向こうに姿を消し、
音楽はまったくない状態がしばしあったわけですが、すぐに
最後尾の喇叭隊が「速足行進」の演奏を始めました。

このとき演奏されていたのは「速足行進その1」だと記憶します。

喇叭隊は二つに分かれ、メロディを交互に吹きます。
吹いていない時はこうやって右脇にラッパを抱え、
自分の吹く番になるとさっと構えるのです。

この行進&演奏を見ていて、わたしは最初に江田島にきた時を思い出しました。
毎日行われている第一術科学校の一般公開に参加したときです。

教育参考館の見学が終わり、ここにさしかかったとき、ちょうど
喇叭隊が行進していくところ(つまり行進部隊の最後)を目撃したのです。

そのときの見学グループを率いて説明してくれた
もと自衛官が、もうすぐ何々があるのでその練習です、といっていたのですが、
今にして思えばあれは自衛隊記念日の観閲行進の練習だったのですね。

同時に初めて見た自衛隊の行進に感激した気持ちまでもが蘇ってきました。

あれから幾星霜が流れました。

あの時行進していた自衛官のうち誰一人としておそらくここにおらず、
同じ制服を着ている自衛官もまずいないでしょう。

なによりも、いつの間にか同じ自分が、同じ場所で、その観閲行進を
観覧席に座って見ていることがなんだか不思議でした。

 

続く。

 

 


国旗国歌に対する儀礼〜自衛隊記念日式典 江田島オータムフェスタ

2019-11-04 | 自衛隊

オータムフェスタというのは直訳すれば秋祭り。

秋祭りだと神事のようなので日本語にしなかったわけはわかりますが、
第一術科学校とカ幹部候補生学校がある江田島で行われるのに
なぜ「学校祭」と銘打たないかというと、自衛隊の単独主宰ではなく、
江田島市の多大なる支援を受けているからではないかと思います。

江田島市が観光名所でもある第一術科学校を借りて地域を盛り上げ、
海上自衛隊はこの日だけは内部を開放する代わりに、行事を
一般に公開し、広報活動につなげるWin-Win✌️✌️というわけですね。

しかし、そのために、敷地内ににステージは立つわ屋台は出るわ、
芝生には皆がズカズカ入り放題、シートを引いて寝そべったり飲み食いするわで、
unknownさんもショックを受けておられたように、その日一日だけは、
もし海軍兵学校を知る人が見たらかつての聖地が卒倒しかねない有様になります。

地元の人々に親しみを持ってもらう試みそのものは大いに結構ですが、
わたしとしてはこういうのは年一回だけに留めて頂きたいという気もします。

さて、早く来過ぎてしまい、グラウンドを一周してから
江田島クラブにある自衛隊史料室を見学して時間潰しをしたわたしですが、
それでも控室となっている大講堂の応接室はまだこんな状態。

応接室には山本五十六の書の下に、聯合艦隊司令部が
岩国の海軍航空基地で真珠湾攻撃のための作戦説明会議を行った
昭和16年11月8日の集合写真が飾ってありました。

「凌雲気」の書は、山本長官が揮毫し、岩国の海軍旅館「久義萬」の主人に
贈呈されたのと同じ文字ですが、もしこれがレプリカでなければ、
旅館が廃業したあと、江田島に寄贈されたのでしょうか。

「凌雲気」は文字通り「雲を凌ぐほどの気」、つまり俗世の全てを超越した
覚悟や意気、というものを表していると思われます。

今度機会があったら、これが本物かどうか確かめてこようと思います。

 

さて、誰もいなかった控室も1時半にはすっかり人で埋まり、
隣の方と名刺交換をしたり、知り合いと挨拶したりしていると、
控室に集う人々に、バスに乗るようにという指示がありました。

こういうときに、さすが序列社会である海軍の末裔だと感心するのは、
海上自衛隊の式典ではこんなことまでというくらい、席次とか
順番とかが前もってきっちりと決まっていることです。

式典に到着すると、まずホッチキスで止めた分厚い紙束が配布されるのですが、
それはおどろくなかれ、本日行われる全ての場面別席次表なのです。

バスに乗る際も、前もって色のついたカードが紙束と別に渡されていて、
赤いカードをお持ちの方はこちらにお乗りください、といった具合。

日本(24)−布哇(ハワイ)作戦(4)

海軍では集合写真を撮る時も車に乗る時も、序列により場所がきまっています。
たとえばこの岩国の写真では、山本大将がきっちり真ん中に座り、
前列に座っている8名は全員が中将、後ろがが少将と大佐です。

(ところで、この前列一番右が井上成美中将ってご存知でした?)

というわけで、その伝統を引き継いでいるところの海自でも、
公式の写真は必ず椅子に名前が振ってあり、立食パーティのテーブルや
花火の見学まで席をきっちり決めないといけないようなのです。

この順番を考える係の自衛官には心からお疲れ様と申し上げたい。

ここで史料館の江田島ジオラマを活用させていただきます。

バスでの移動は、通常大講堂からだと赤煉瓦前を通り、グラウンドを
時計回りする青い線を通りますが、この日は青い線のところに
屋台が出ていて人がたくさんいるため、赤線コースを通ることになりました。

なんどもここには来ましたが、初めて通る道です。
古い建物は自衛官の官舎のようでしたので写真は控えました。

コース途中にはこのような廃墟マニア垂涎の年代物建築もあり。
スロープで車のついた用具を出し入れしていた倉庫かもしれません。

グランドが見えてくると、そこにはすでに観閲行進を行う部隊、
そして指揮官部隊が整列していて壮観です。

グラウンド内の出入りはとくに制限されていないらしく、
自衛官が持つ黄色いロープのぎりぎりで見学することができます。

乗っているバスが第一術科学校前の式典会場来賓席に到着しました。
さっそく小冊子?を頼りに自分の名前を探して席に着きます。

最前列は国会議員、市長、町長、県会議員など。

指揮台の前に並んでいるのは術科学校副校長始め、
指導官といった立場の幹部と海曹の一団です。

朝から立ち入りを禁止していただけあって、指揮台前は
まだ目立てがきれいに残っている状態でした。

広いグラウンドなので観覧席からはかなり遠くに見えます。
観閲行進の先頭部隊は呉音楽隊。

呉音楽隊といえば、呉地方総監部で行われた自衛隊記念日の演奏で
お伝えするのを忘れていたのですが、「海をゆく」に続く二曲目は、

「月月火水木金金」

でした。
作曲者江口夜詩の息子は海軍兵学校2年で終戦を迎えています。
この曲の演奏時も「海をゆく」と同じように

「うみーのおっとこのかんたいきんむ、げ(略)」

の部分ではやはり小さくメロディを歌う声が周りから聞こえてきました。

まず第一術科学校長、丸澤伸二海将補が壇上に上がり、挨拶と訓示。

公明党の幹事長、斉藤鉄夫氏が挨拶。

続いて挨拶した参議院議員の森本信治氏は、民主党から民進を経て国民民主、
それだけでもわたし的にはアウトで政治主張にも全く賛同しませんが、
祖父が海軍兵学校卒で南方にも出征したという話には思わず聞き入りました。

ただし、氏は護憲派の立場上そのことにはプロフィールでは一切触れていません。
つまり、ここに来たときだけ披露するとっておきのネタというわけですねわかります。

シニカルな言い方をすると政治家の挨拶なんてそんなもので、
たいていはその場にいる有権者にアピールする目的しかないですが、
そんな中で江田島市長明岳周作氏の挨拶だけは、

「江田島市はこれからも海上自衛隊とともに歩んでいきます」

など、いつもわりと真に迫っています。

呉市もそうですが、江田島にとって海軍遺跡とそれを継承する海自は
大事な観光資源でもあるのですから、真に迫るのも当然のかもしれません。

観閲部隊はこちらから見て左に音楽隊、そして幹部候補生隊が並びます。

海側に向かって海曹、つまり部内選抜の幹部候補生、
海士の部隊、そして一番右が喇叭隊です。

海士の行進部隊を率いる小隊長も海曹です。

学校長や来賓の挨拶のとき、最初に敬礼を行い、
しばらく気をつけの姿勢でいますが、壇上の訓示者が
「休め」「休んでください」というと、「整列休め」の号令が降り、
手を後ろに組み、銃を持つ者は地面に銃床を置いた姿勢で立ちます。

一連の式典開始に先立ち、幹部候補生から選抜された隊長と
女性候補生一人を含む5人が、指揮台前で報告を行います。

指揮官と部隊の間にも始まりの挨拶が交わされ・・。

観閲行進部隊は銃に着剣を行います。

これは何に対しての着剣かというと、国旗と自衛艦旗に
捧げ銃を行うための準備となります。

我々参列者も国旗と自衛艦旗に敬意を払って起立します。

このあと、国歌斉唱が行われました。

自衛官は国旗掲揚のとき敬礼をし、斉唱は気をつけで行います。

国旗と自衛隊旗を持つこの一団は、自衛隊ではなんと呼称するのか知りませんが、
一般的には「カラーガード」の範疇に入ります。

マーチングバンドでも旗、銃、サーベルを用いるパートを
「カラーガード」といいますが、この「カラー」にはまさに
国旗と軍旗(日の丸と自衛隊旗)を意味し、それをガード、
護衛するというのがこの名称の語源であり、旗の両脇、
そして後方を着剣した銃で守って歩くというわけです。

旗が移動中、壇上では第一術科学校長、幹部候補生学校長が敬礼を、
江田島市長が左胸に手を当てていました。

この左胸に手を当てる仕草は、サッカーの三浦カズ選手がやり出してから
(だと思います)特に最近日本でも同じようにする人が増えましたが、
もともとはアメリカの「忠誠の誓い」であって、日本の作法ではありません。
日本では国旗国歌の際直立不動というのが正しい姿です。

善意で解釈すれば、他の二人が敬礼しているのに、自分だけ空手で
ぼーっと立っているのもなんなのでやってみました的な?

厳しい言い方かもしれませんが、スポーツ選手ならノリで許されても、
この立場の人間がこれは物知らずという指摘は免れません。

仮にも日本国の自治体の長たる者、もうすこし勉強された上、
正しいプロトコルに則った所作で臨むべきではないでしょうか。

国旗・自衛隊旗は右回りに移動して指揮台に正対しました。
これから観閲官による巡閲が行われます。

ここで観閲部隊の総指揮を行う隊長が一人、進み出ました。
一挙手一投足をここにいる全ての人に注目される華々しい役目です。

指揮台前に到着した巡閲用のオープンカーの前に立った指揮官は、

「お供いたします!」

というようなことを力強く宣言し、それに促されて
前の車両に第一術科学校長、後ろの車両に幹候校長が乗り込み、
江田島市長は幹部候補生学校長と同じ車の後部座席に座りました。

広大なグラウンドなので、全部隊の巡閲は車で行われるようです。

 

続く。

 


自衛隊記念日・江田島オータムフェスタ〜自衛隊資料室

2019-11-03 | 自衛隊

さて、オータムフェスタに早く着きすぎてしまったわたし、
そのおかげでいつもはバスの車窓から見るだけのグラウンド南側を
歩いて(しかも芝生の上を)回ることができました。
しかしそれでも時間はまだたっぷり残っています。

となると、一階に売店のある江田島クラブに行くくらいしかありません。

普通の自衛隊ショップにもないようなグッズを探すのもまた楽しいものです。
幹部候補生学校では昔と同じく陸戦訓練も行いますが、それに必要な
陸自的装備もここで調達することができます。

足ゴムとか弾帯止め(100円って安っ)など、どう使うのか想像できないものも。

ちなみに幹部候補生学校の陸戦訓練は専用のフィールドで行うそうです。

江田島を訪れた時の故菅原文太、小西博之の写真あり。

この売店、模型も飾ってあります。
小型潜水艇を搭載している伊号16潜水艦出撃の図です。

前回、術科学校グラウンドに展示されているヘッジホッグの話が出ましたが、
伊16はまさに米海軍の駆逐艦「イングランド」から5回にわたって投下された
24発ずつのヘッジホッグによってソロモン諸島で戦没しています。

力作です。
坊ノ岬沖海戦、天一号作戦に出撃する「大和」艦隊。

輪形陣と呼ばれる艦隊配列ですが、若干駆逐艦の数が足りてません。

第一術科学校の見学コースは毎日3回(祝祭日は4回)
行われており、所要時間は1時間半。
大講堂、教育参考館だけでなく、不定期に今では
表桟橋と陸奥の砲塔を見せてくれる日もあるようですが、
一般コースでは見られない建物や施設、碑など、
写真が江田島クラブの一階に展示してあります。

「海軍兵学校の碑」

「赤城戦死者の碑」

「従道小学校記念碑」

はわたしもまだ見たことがありません。

「水交館」「高松記念館」は見学しましたが写真公開不可。
「理化学講堂」も向かいの学生舎から中を覗き込んだことはありますが、
まだ実際に中に入ったことはありません。

ところで理化学講堂には「出る」という噂が絶えず、ついにクレーム?が出たので
当時の幹候学校長が神職に御祓してもらって今はもう大丈夫なんだそうです。

しかし、これだけ色々と歴史を重ねた(しかも何かと出る要素が多そうな)
江田島のなかで、どうして理化学講堂だけが問題となったのか不思議。

 

さて、売店を見終わったあと、自衛隊資料室があるのに気がつきました。
いつの間にか江田島クラブ二階に開設されていたのです。

階段を上がっていくと、海上自衛隊出身の宇宙飛行士、
金井宣茂「軍医大尉」のポスターがありました。
潜水医官から宇宙飛行士を目指し、平成29年、ソユーズに乗り込み、
長期滞在を終えて昨年無事帰還してきたことが報じられましたね。

金井氏は医官として7年間務めてきましたが、自衛隊呉病院と、
ここ第一術科学校の衛生課での勤務の経験もあるということです。

ところでアメリカの場合、軍人が宇宙飛行士になっても軍籍はそのままですが、
自衛隊の場合それができないので、金井氏は宇宙飛行士採用と同時に退官しました。

しかし、NASAは金井飛行士をアメリカ人宇宙飛行士の例に倣い、公式にも
「大尉(Lieutenant)」の称号で呼び、軍人として扱っていたということです。

ポスターのISS 54/55は、国際宇宙ステーション第54次・55次滞在を意味します。

史料館には第一術科学校のジオラマが展示されていました。
江田内を大護衛艦隊が航行していますが練習艦隊にしては多すぎるような。

一般公開に来る人のために作られたジオラマなので、一般見学コースを
紅白のラインで示し、自分がどこを歩いてきたかわかりやすく示しています。

展示室入口には、昔当ブログで希望者に送らせていただいた、
兵学校と幹部候補生学校の今昔写真集

「伝統の継承」

のページが展示してあります。
兵学校の写真は1943年、カメラマンの真継不二夫氏が、
幹部候補生学校は真継氏の娘美沙さんが手掛けました。

起床、食事、教務、実習、点検、短艇、遠泳・・。

兵学校時代と幹部候補生学校、今昔の写真を見比べると、
海の武人としての教育は時が移り変わっても変わることがない、
ということをあらためて思います。

10分の1サイズのエアークッション艇模型です。
なんと第二代LCAC艇隊の隊長だった町田三佐が、隊員の教育用に

段ボールだけで

制作したという超力作です。
教育用って、これ絶対町田三佐の趣味だろっていう。

説明をそのまま書いておくと、

「輸送艦『おおすみ型』に搭載して運用する
ホバークラフト型の輸送艇。
通常は第一エアークッション艇隊に所属し、整備・訓練を実施、
輸送艦が運行する際に2隻搭載され任務にあたる。

輸送艦後部ランプを開いて発進、エアークッション艇なので上陸地の
地質などにあまり影響を受けずに揚陸できる。

最大速力40KT、陸自の90式戦車2両、人員約30名、
重量にして約50トンの積載能力がある」

90式が2両運べるって凄すぎない?
本当に訓練で戦車を載せたことはあるんでしょうか。

どちらも教練用の弾薬砲(3インチと5インチ)です。
中にカプセルみたいなものがぎっしりと詰まっています。

「対空戦コーナー」として、冷戦時、対艦ミサイルから身を守るため、
砲や対空ミサイルなどの武器をシステム化することにより、自動的に
迅速、かつ正確な防御がおこなえるようにした、という説明とともに、
シースパローミサイルが展示してあります。

 

こちらにあるのはM2444魚雷(展示用)。
哨戒機やヘリが行う対潜戦について、

捜索・探知 (ソナーなどによる)

攻撃(魚雷、ロケット型飛翔魚雷による

などの説明付き。

対潜戦で用いられるソノブイ。使い捨てです。
P-3Cなどから投下し、海中でマイク(左下の黒いの)から
潜水艦の音をとらえ存在を航空機に伝達します。

最深70mまで潜水可能な潜水服。
錘が入っているらしい靴が凄まじいですね。

ここで使われていたようなのですが、平成12年度教育終了、とあります。

右側にあるのは米軍の使用していた昔の潜水ヘッドです。
ヘッドギアの横と上部にどちらも視界を確保するための窓があります。

ペルシャ湾の掃海派遣で海上自衛隊の掃海部隊が破壊した機雷。
機雷の上に置かれたプレートには

「誇り高きペルシャ湾の勇者に

1991.6.5~9.11

掃海派遣部隊」

と刻まれています。

 モールス号表の下に置かれた練習用の電鍵。

この説明には

1985年にマルコーニが無線通信装置を実用化」

とありますが、これはもちろん1895年の間違いです。

ながらくモールス信号は無線通信の中心でしたが、昨今は通信衛星、
そしてデジタル技術の発達によってその座を退きました。

船舶における通信手段も通信衛星が登場したため、日本では1990年代に
モールス通信は廃止されています。

ただし、アマチュア無線、漁業無線、そして自衛隊では現在も
モールス符号を使った通信が行われています。

第一術科学校ではここにあるのと同じ電鍵を用いて
通信技術の研鑽が日々行われているということです(-人-)

アネロイド気圧計
電源を用いず、真空の容器が外気圧との差で伸縮する動きを
針に変換して気圧を表示します。

水銀(液体)を用いた気圧計に対し、こちらは
液体(ネロイド)がない(ア)というギリシャ語からきた名称です。

右は

「通信制限付き 船舶時計」

で、色がついている秒に針があるとき、特定の周波数の電波を
使ってはいけない、と規制する意味があります。

遭難信号が確実に受信されることを目的としています。

左はおなじみ信号ラッパ
ご存知とは思いますが、ドミソ三種類、ドソドミソ5音しか音が出ません。
この三音を組み合わせた曲で、自衛隊は号令を伝えます。

右は天測を行うために使う六分儀です。
天体の高さをはかることで現在位置を知ります。

操舵磁気羅針儀(マグネットコンパス)、操舵装置、テレグラフ
自衛艦の外に設置されている速力信号標、そして艦長席、司令官席。

このコーナーには「ゆき」型の艦橋が再現されていて、
今本艦が航行しているのは音戸の瀬戸だと思われます。

自衛艦見学で舷側を歩いているとよく目にするこの赤いパイプの
正式名称を初めて知りました。

アプリケーターといって、先端の孔から低速の霧が噴霧され、
消火活動時に人員を防護したり、甲板や外板の冷却をするとき、
ノズルの先に取り付けて使用します。

「たちかぜ」型の2番艦、「あさかぜ」の時鐘と艦名プレート。
「あしがら」の就役と同時に除籍され、2010年に廃艦になりました。

昭和30年度計画で建造された「あやなみ」型のネームシップです。
術科学校校庭に展示してあったヘッジホッグを搭載しています。

ヘッジホッグ。艦橋の前に設置されていたんですね。

昔の護衛艦は甲板の真ん中に魚雷を積んでいたと_φ(・_・

観艦式の訓練展示では必ずミサイル艇のIRデコイ発射を行います。
水の噴水みたいで今回これが見られなかったのも残念でしたが、
そのミサイル艇「はやぶさ」「おおたか」「くまたか」の先輩、
ミサイル艇1号「わかたか」の模型がありました。

ミサイル艇って、転倒防止に水中にこんな脚を伸ばしていたんですね。

 

ここの説明で初めて知ったのですが、ミサイル艇は、
北海道沿岸の対艦ミサイルを搭載する「外国艦」に対抗するため、
魚雷艇の後継として建造されたのだそうです。

そして驚いてはいけない、この30分の1模型を制作したのも、
あの町田三佐なのだそうです。

クッション艇を制作したのは「隊員の教育用」だったようですが、
この模型はもう退官されたらしい町田元三佐が、この展示室のために
「余暇を利用して」(←わざわざ書く必要あるかな)作製したものです。

しかし、これだけ力作を提供してくれたのだから、「町田三佐」の
フルネームをせめてちゃんと掲示すべきと思うのはわたしだけ?

今年の呉地方総監部における自衛隊記念日では、呉海自カレーが
感状を授与されていましたが、このアイデアは、海上自衛隊にとって
多大な広報効果があったことは間違いありません。

右下はいまでも自衛艦内の隊員食堂で使われている食器ですが、
初期のカレースタンプラリーでは全カレー制覇したらこのトレイを
プレゼントにもらえる、という企画でした。

わたしはゴルフ場の中や離島のレストランまでカレーを食べに行き、
見事これをゲットしたという奇特な方を知っています。

 

 

江田島クラブの入り口にあった自衛隊音楽まつりのポスターと、
てつのくじらをフューチャーした呉市観光ポスター。

音楽まつり、今年は武道館が工事中なので代々木体育館で行うんですね。


さて、というわけですっかり充実した時間潰しが終わったので、
まだ少し早いですが、控室に戻ることにします。

 

続く。


江田島散策〜第一術科学校-江田島市共催オータムフェスタ

2019-11-01 | 自衛隊

 令和元年度の自衛隊記念日に付随する呉地方隊の行事が終わりました。
いつもならそこでわたしの自衛隊記念日も終了なのですが、今年は

「まだだ、まだ終わらんよ」

第一術科学校の行事にお誘いをいただいたため、呉滞在3日目、
わたしはガンダムのクワトロ・バジーナのセリフを脳内に浮かべながら
江田島小用港行きのフェリー乗り場へと車を走らせました。

すると、乗り場には待っている車どころか人影もなし。
少し早めに来たからかな?と思いつつそこにいた係員に聞いてみると、
なんとたった今フェリーは出航したばかりというではありませんか。

「じゃ10時40分発というのは」

「それは小用発呉行きですね」

うーむ、我ながら時刻表もまともに読めない奴だったとは。

自分で自分に心底呆れながら、そこはそれ、こんなこともあろうかと
借りていた燃費の良いプリウスで地道コースをGo!

ちなみに今回借りたのはまだ納車されて6ヶ月の新車でしたが、
そのおかげで広島空港⇄呉⇆江田島と3泊4日運転しても、
最後までガソリン残量のケージは一コマも減らず。
最後に満タンまで給油して料金は600円で心底驚嘆しました。

前もって送っていただいた駐車カードを見せながら進むと、
一般公開出発コースになっている建物の裏に誘導されました。

 

テントの下の受付コーナーに受付票を見せると、ここではなく
大講堂の中で受付してくださいとのご指示が。

写真に見えている車寄せから一歩中に入ると、
制服と制服でない人がいっぱい待機していて、そこで受付をし、
懇親会の会費を支払い、代わりにリボンをつけてもらえます。

その後待合室となっている一階の応接室に通されたのですが、
誰もおらず、続いて誰かが来る様子もまったくありません。

ひっろーい応接室に、わたし一人です。

とりあえず現副校長と明日から任期交代する新副校長、他にも
顔見知りの自衛官のみなさまにご挨拶をすませましたが、
この辺でわたしは少々
早く着きすぎたのではないかと思い始めました。

今回の行事、初めてご招待いただいたので勝手がわからず、とりあえず
開始時間の11時に行けば良いだろうと車を走らせてきたのですが、
そもそもこの日のオータムフェスタは、地元と第一術科学校を繋ぐ
触れ合いの機会として設けられた、いわば文化祭とか普通大学なら
大学祭みたいなノリのお祭り。

それが開門になるのが11時であり、来賓客というのは2時から行われる
この日の目玉イベントである観閲行進に間に合うように、
鷹揚にご来臨するものであることに遅まきながら気づいたのでございます。

「うーん・・・・」

まさかここでお茶をすすりながら式典開始まで待てるか?いや待てない。
ちょうどご挨拶に来られた総務の一佐に外に出た方がいいですよねー?と伺うと、

「もちろんです。
構内はそのすっばらしいカメラで写真をお撮りになるべき
ポイントがたくさんありますし、今日は大講堂の前に特設ステージが設けられ、
そこでもうすぐミュウージックが披露されます」

「ミュウージック」にツッコむべきかどうか一瞬迷いましたが、そこはスルーして、
わたしは集合までの2時間半、江田島を散策することにしました。

一佐が始まるとおっしゃった「ミュウージック」はまだで、このとき
ステージ上ではこの日の司会進行のお二人がMCを行っていました。
この右手にある屋台は人がいっぱいでしたがステージ前はご覧の状況。

ちなみにこの日江田島のお天気は日差しの強い夏日で、湿度も高く、
秋らしくセーター・マフラーに帽子といういでたちでキメてきた女性司会者は、

「暑いですけどわたしこれ脱がずに頑張ります」

と宣言していたものの、かなり辛い状況だったんではないかと思われます。
彼女の装いはおそらくこの日の花火大会に照準を合わせたのでしょう。
この時期江田島は陽が沈むと海から吹く風で寒くなるのだそうです。

自衛官が自分の家族や彼女?を案内しているらしい光景も見ました。
防大開校記念日もそうですが、制服姿の恋人や婚約者にエスコートされると、
制服マジックもあって惚れ直してしまいそうですね。しらんけど。

それにしても暑いのう、と思いながら日陰で写真を撮っていると、
写真に写っている自衛官がわたしが暇を持て余しているのを見抜いたのか、
すたすたっと近づいてきてお話相手になってくれました。

この自衛官が江田島で何をしているかというと、「教官の教官」、
つまりここ術科学校で先生をする予定の自衛官に、

「教え方を教える」

という仕事です。
技術的なことは自分の専門についてよく知っていても、それを
他人に教えるというのはまた全然別のことなので、ということでした。

「どのくらいのタームで授業するんですか」

と聞くと、

「常時開講です。自動車学校みたいなもんですから」

授業をする方もしょっちゅう自らが講義を受けているってことね。

ちなみにこの日のオータムフェスタで海自迷彩を着て、
あちらこちらに立っている自衛官のほとんどがこの教官なんだとか。

「自衛官の仕事って本当にいろいろあるんですよ」

ええそれはよく知ってますともさ。
自己完結が自衛隊の本領ですからね。

ところで、この自衛官氏は学外の近場にお住まいということでしたが、
自転車で四国をほぼ一周したりはしょっちゅうなのだとか。
そのとき近くをたまたま通りかかったEODの先生を呼び寄せて、

「この人は毎日呉から自転車で通ってきてますからね」

「呉から橋を二つこえて?どれくらい時間かかるんですか」

「2時間です(`・ω・´)」

「てことは通勤時間に4時間・・・?」

「アホですよねー」

いやアホとは思いませんが、自衛官って皆こんなのなの?

「いや、さすがにそんなのはわたしたちくらいですが」

そうなのか?

ちなみにEODの教官に聞いたところによると、現在
EOD訓練を受けている女性隊員は3人もいるそうで、資格試験も
体力的な条件に全く男性と差をつけないで受けるのだとか。

岩国の第31航空隊には女性のUS-2パイロットが誕生しそうですし、
潜水艦乗員、掃海艇長と、今まで男性しかいなかった職場に
次々と女性が進出しており、海上自衛隊は政府の提唱する
女性参画推進計画のロールモデルにならんばかりの勢いです。

 

この光景を見ていつもとの違いに気づいたあなたは江田島通です。
江田島見学では、一般コースは徒歩、ちょっとディープになるとマイクロバス、
と移動の方法は違いますが、そのとき絶対に足を踏み入れないのが芝生。

この日は一般に解放されていて歩き放題どころか、夕刻に予定されている
花火大会ではここで完全に寝そべったりできるのです。

というわけで赤煉瓦の校舎も芝生の上から写真が撮れます。

第一術科学校の玄関前には指揮台が置かれ、その左右に
式典と観閲行進を展覧するための来賓席が並べられています。

迷彩の自衛官が立っていますが、芝生を歩く人たちに

「ここから向こう側には立ち入らないようにしてください」

と注意する係です。

なぜ向こうを歩いては行けないのか。

最初、砂地部分に目立てをしてあるからかと思いましたが、そうではなく、
政治家の来賓席にみだりに人を近づけないようにだったのでしょう。

表桟橋はついにリニューアルに踏み切ったらしく、工事中でした。

桟橋が工事中の関係で、陸奥の砲塔一帯もロープから向こうには行けません。

この時間すでに夜6時から始まる花火大会の場所取りをする人あり。
観閲行進があるのでまったく意味がないんですがそれは。

せっかく芝生を堂々と歩くことができる機会なので、
この旧校舎も姿を留めているあいだに全景を撮っておきましょう。

芝生を時計回りして古鷹山と校舎が皆収まる場所までやってきました。

いつもマイクロバスの中から見ていた「明石」のマストを間近で。

巡洋艦明石(3,000t)は明治32年に国産鋼鉄巡洋艦「すま」型の
二番艦として就役、日露戦争参戦後、大正時代には地中海方面で
駆逐艦の旗艦として活躍し昭和3年廃艦となった。

という説明の看板があるのを初めて見ました。

細かいことを言うようですが、まず、「すま」型というのは
旧軍艦の「須磨」型の間違いですよね。

そして、「大正時代に地中海方面で」とありますが、これ、

第一次世界大戦で青島攻略戦に参戦

となぜもうすこし正確に書かないんでしょうか。
何に、さらに何のために配慮しているのか全くわからん。

かつてはここで海軍兵学校の生徒が棒倒しをしたり、
何重もの大きな円を作って「軍歌演習」を行ったものですよ。

って、いろんな媒体で再現されたものや当時の写真を見ているうちに
すっかり見たことがある気になっているだけなんですけど。

こんなものが展示されていることも知りませんでした。
ボフォースの4連装対潜ロケット発射装置とその弾薬。

「たかつき」「やまぐも」「みねごも」「いすず」、そして
「ゆうばり」型に搭載されていたとありますが、恥ずかしながら
ニワカのわたしには実際に見た護衛艦はどれ一つとしてありません。

ここにあるランチャーは平成22年に除籍になった「ゆうばり」が
搭載していた、ということなので、かろうじてこのブログが
始まった頃にはまだ現役だったようですが・・。

後ろの建物は自衛官の宿舎だったりするんでしょうか。
建物に人が近づかないように警備している自衛官は、写真に写ってもいいように?
ばっちりマスクで顔も警備しています。(たぶんね)

写っている不思議な装備は、

54式爆雷投射機「K砲」

なるもので、対潜爆弾を艦体側方から飛ばして撃つ投射機です。
こっちから見たらわかりませんが、横から見ると「K」の字状なので
「K砲」、艦体の両側に同時に投射するのは「Y砲」だったそうです。

海上警備隊発足直後、米軍からの貸与艦に搭載されていました。

この形状をみればヘッジホッグであることは、アメリカで軍艦を
なんども見てきたわたしにはすぐにわかりました。(←自慢している)

これは自衛隊初、いや日本初の対潜ミサイル搭載型であり、後世の護衛艦の
艦体設計、機関設計に対して多大な影響を与えたといわれる、伝説の護衛艦

「あまつかぜ」

が搭載していたものです。

この54式対潜発射機で、一度に24発の対潜弾を発射すると、
対戦弾は潜水艦を取り囲むようにして落下していきます。

24発のうち一発でも命中、炸裂すれば、振動によって
全弾が連鎖的に炸裂して破壊力を増大させるという、
潜水艦にとっては実に嫌な仕組みの武器でした。

まあでも、これがなくなったということは、その後の対潜武器には
これを遥かに凌駕する確実性と破壊力があるってことなんですが。

グラウンドではサッカー教室が行われており、その横では
訓練支援艦「くろべ」が積んでいるチャカIIIが展示されていました。

このとき初めて知ったような気がするのですが、チャカって、
「CHUKAR」っていうスペルで鳥の「イワシャコ」のことなんですってね。

なぜ「チャカ」という名前になったかというと、(鳥の話ですよ)

「チャック・チャック・チャカー・チャカー」

という鳴き声だからということですが、

 

途中から「チャカ」っぽく鳴いています。
ペットにしている人もいるようですが、鳴き出したらなかなか煩そうです。

ちなみにノースロップ社がなぜ標的機に「チャカ」と名付けたかというと、
欧米では(今は知りませんが)ウズラの種類がかつてスポーツとしての
猟銃の射撃標的にされていたことから来ているようです。

柵の向こうはテニスコート。
コートハウスはどうみてもかなりの年代物です。
物置として現在も使用されているようです。

ちゃんと登録がされているらしく、種目は「事務所建」、
建物番号は257番と札が貼ってあります。

海上自衛隊創設期の国産護衛艦「いそなみ」主錨。

「教育資料として昭和63年に現在位置(旧海軍軍艦
千代田艦橋跡)に設置した」

とあるのですが、ということはかつてここに
千代田の艦橋があったこともある、ってことですね。

 

調べてみると、かつてここには、晩年に兵学校の練習艦を務めた
巡洋艦「千代田」の艦橋部分が置かれて、戦前戦後を通し
号令台となっていましたが、敗戦後撤去されたのだそうです。

千代田」が標的艦となった時の演習は、お召艦「山城」から昭和天皇が、
「長門」からは高松宮宣仁親王が少尉として天覧されるというもので、
「千代田」にとってはある意味名誉な、華々しい最後だったといえましょう。

グラウンドを一周して帰ってきても集合時間にはまだまだ間があります。
さて、このあとどうやって時間を潰しましょうか。

 

続く。

 

 


呉地方総監部自衛隊記念日式典と懇親会

2019-10-31 | 自衛隊

呉地方総監部で殉職自衛官追悼式に参列した翌日は、
自衛隊記念日に伴い行われる感謝状贈呈式と懇親会が予定されています。

昨日羽田空港に到着したときには豪雨の降る荒天で、出がけに
一旦部屋に戻ってレインコートを羽織ってきたわけですが、
追悼式の間、お天気は曇り気味といえなんとか持ちこたえました。

さらに夜には降り出し、次の早朝にもまだ降り続いていたため、
傘をトランクから出して用意していたら、開始時刻前には抜けるような青空が!

今回は練習艦隊のお迎えから始まって、雨の方が回避してくれているという感じ。
昔はわたしが呉に行くと必ず雨が降るというジンクスがあったのですが、
ついにこれを克服する日がやってきたようです。

少しだけ早めにホテルを出て、アレイからすこじまに車を走らせました。
昔からの赤煉瓦の倉庫街が残されている街並みと、潜水艦基地。

呉に車で来ると必ず一度はここに立ち寄ることにしています。

このレンガの建物はかつての呉海軍造兵廠、呉海軍工廠のさらに前身が
ここにあった1897~1903(明治30~36)年建てられたものばかりです。

窓枠などはアルミサッシに変えられていますが、基本昔のまま。
かつては海軍工廠の電気部がここを使用していたということです。

煉瓦の建物の並びには普通にコンビニがあるのが日本らしいですが、
このコンビニのウィンドウにこんなポスターが貼ってありました。

劇画「アルキメデスの大戦」

が映画化されるという話は実は昔に関係者から聞いていたのですが、
私がアメリカにいる間に公開も終わっていたので驚きました。

で、山本五十六が舘ひろしですって・・・(ざわざわ)

映画化されたら笑福亭鶴瓶そっくりの造船会社社長鶴辺清は
絶対本人が演じるだろうと思っていたら、やはりそうでした。

不思議な縁というのか、鶴瓶さんのお舅にあたる人は、
戦艦大和の菊花紋章の金箔を貼る仕事をしたらしいですね。

コンビニに車を止めさせてもらい、水のボトルなど買ってから、
写真を撮るために道を渡ってアレイからすこじまの桟橋前にきました。

アレイとは英語のAlley(細い道)の意味があり、「からすこじま」は
昔ここ呉浦にあった周囲3~40mの小さな島の名前だそうです。

烏小島は大正時代に魚雷発射訓練場として埋立てられて無くなりましたが
名前だけがこのように残されています。

この桟橋は「男たちの大和」の大和出航のシーンのロケが行われました。
映画のセットとして警衛ボックスが立っていましたね。

 

桟橋にはれレールの跡のようなくぼみが突堤の先まで続いています。
映画では、この先にあるポンツーンから大和乗員が船に乗り込んでいました。

潜水艦のむこうにみえるのは潜水艦救難艦「ちはや」です。
潜水艦救難艦はDSRVを内臓するためのウェルを内部に持つので
前から見ると艦橋の幅が広く、ほとんど船殻と同じなのが特徴です。

この日は土曜日なので、流石の潜水艦もお休みなのでしょうか。
岸壁には当直らしい士官と海曹がいますね。

4隻が係留されていますが、全部「しお」型です。

これも「しお」。
川重で建造されたことを表す丸いセイルのドアを開けていると、
ここが耳とか目とかにみえて可愛らしいです(萌)

「かが」のこちら側の艦番号229は護衛艦「あぶくま」です。

航行中の民間船は呉の貨物船、「山城丸」。

潜水艦の向こうに見えている2隻は掃海艇だと思いますが、
だとすれば「あいしま」「みやじま」でしょうか。

ところでわたしはその奥の艦影と番号をみて驚きました。
二日前、横須賀で遠洋航海からの帰国をお迎えしたばかりの「かしま」です。

帰国行事をおこなった次の日1日で横須賀から母港に戻っていたのね。
二日前に見たばかりなのにこんなすぐに再会できるとは。

ここからは見えませんが、同じ練習艦隊の「いなづま」も一緒に帰ってきて
呉港のどこかに錨をおろしているのでしょう。

アレイからすこじまで艦ウォッチを堪能していたら、ちょうど良い時間となり、
自衛隊記念日式典会場である呉教育隊に移動しました。

この建物は旧海軍時代からのもので、おそらくは倉庫だったのだと思いますが、
今でも使っているのかどうかはわかりませんでした。

ここに来るたびについ写真を撮ってしまう旧兵舎跡。

呉鎮守府開庁と同時に創設された呉海兵団の兵舎として建てられ、
戦後の進駐軍による接収を経て、変換された後は自衛隊が使用し、
東京オリンピックの年には水泳チームの強化合宿宿舎になったりしました。

その後は呉地方隊史料館として一般にも公開されていましたが、
平成16年の台風18号に被災し、建物は破損してしまいます。

明治38年の芸予地震でも昭和20年の呉大空襲でも被災したものの、
持ち堪えていた建物が、老朽化もあってついに保存不可能になってしまいました。

しばらく被災した建物はそのまま放置されていたようですが、
平成20年になって海上自衛隊の機動施設隊の手で解体撤去されました。

その際、入り口の部分だけを建築当時と同じ場所に残すことが決まり、
往時をしのぶよすがとしてその姿を留めています。

受付では懇親会の会費三千円を支払い、入場します。
昔は無料でしたが、確か今年の4月1日付けで飲食を伴う会は料金徴収になりました。

これについては様々な意見があると思いますが、かねがね
自衛隊のお振舞いによる飲食については、豪華であればあるほど、
税金でここまでしていいのかな〜?と心配だったわたしとしては賛成です。

壇上には政治家などが座り、前方に自衛官という式典会場の配置です。

来賓より自衛官を前に、追悼行事で献花の順番を先に、という
「自衛官ファースト」の傾向は
少なくともわたしが呉地方隊で定点観測する限り、
ここ最近顕著になってきていますが、
自衛隊内で行う行事において
主体はあくまでも自衛官となるわけで、来賓は
それを見てもらうために招待する、
という本来の趣旨を考えると、これも正しいと思います。

式典が始まりましたが、いかんせんわたしのところからは
自衛官の頭越しにこのような光景が垣間見えるだけでした。


杉本呉地方総監は、挨拶冒頭、台風19号の犠牲者に対し哀悼を捧げられました。
大きな災害があると、式典やそれに続く祝賀会は全て謹慎ムードになり、
乾杯も自粛、おめでとうも禁句となってしまうのが昨今の風潮ですね。

もちろん災害発災と同時に大量の人員を現地に派遣し、今もまだ被災地で
活動を続けているという自衛隊側のこういう配慮はもっともですが、
一方、日本のようにしょっちゅう災害の起こっている国では
いちいち自粛していたらきりがないんじゃないか、と思ったりもしました。


れはともかく、杉本総監は、我が国を取り巻く安全保障状況について
「差し迫った脅威」「力を用いた一方的な現状変更」という言葉を用い、
ますます海上自衛隊の日頃の備えと即応力が問われていることを強調しました。

また、杉本総監によると、令和元年の今年は呉鎮守府が開庁して130年目。
海上自衛隊呉地方総監部は、そのちょうど半分の長さにあたる
65年前に誕生したという節目の年なのだそうです。

ちょうど半分といっても、実は終戦から10年間は進駐軍が駐留していたので、
内訳は

海軍=55年、進駐軍=10年、自衛隊=65年

となります。
自衛隊は
いつの間にか旧海軍の歴史を超えたんですね。

自衛隊記念日の恒例行事として、自衛隊に貢献のあった一般人に
感謝状が贈られる表彰式が行われます。

今年は「呉海自カレー」事業が、自衛隊の広報に多大な貢献があった、
ということで表彰されていました。

この追悼式の前日も呉ではカレーフェスタが行われいてたようです。


そして最後に呉音楽隊が演奏を行いました。
一曲目の「海をゆく」は歌なしの演奏でしたが、

♫ おお 堂々の海上自衛隊(じえいたい)

の部分では、周りから一緒に歌う小さな声が聴こえてきました。

式典が終了すると、隣の体育館に移動し、通常は祝賀会になりますが、
今年は「懇親会」として、
乾杯も献杯もないまま開式となりました。

が、自衛隊側の配慮にもかかわらず(笑)壇上で挨拶をした来賓も、
紹介された来賓も、普通に「おめでとうございます!」と叫んでいました。

いつも料理が豪華なことで定評のある呉地方隊の懇親会ですが、
舟盛り(鯛のお頭つき)は最前列のテーブルだけです。
それでも練習艦隊の関西寄港艦上レセプションとは違い、舟盛りはもちろん、
料理が空になるのを最後まで見ることはありませんでした。

元海上自衛隊出身者や支援者、関係者ばかりの会場のせいか、食べ物より
本来の目的である社交が中心という、日本のパーティでは稀な例となり、

わたしもこの日は元から顔見知りの方、思いがけず再会した方、
初めてご挨拶させていただいた方と話すうち、あっという間に時間が経ちました。

とはいえ、やっぱり外せないのが海軍カレーの味見ですよね。
この日会場で振る舞われたのはとてもまろやかな味のビーフカレーでした。

配膳してくれていた自衛官は、わたしがカメラを向けると
おたまを持つ手をピタリと止めてポーズ?してくれました。

この日会場には特別に借りてきたという呉の歴史写真パネルが展示されていました。
昔の写真と海軍の歴史には目のないわたし、狂喜です。

まず130年前の開庁時の軍港全図と呉鎮守府オープニングスタッフ。

現在の呉地方総監部のあるところにはかつて亀山神社がありましたが、
鎮守府建設のため遷座したという歴史があります。

左下が開庁当時の鎮守府庁舎です。

今の中通を知っていると、海軍のあった昔の呉の方が
よっぽど街として賑わっていたのではないかと思われます。

人が車に乗らず全員歩いているのでそうみえるだけかもしれませんが。

現在の庁舎が完成したのは1907年(明治40年)のことです。
当時の庁舎には地下があったという話ですが、今はどうなってるのかな。

呉在住の人にはこの写真が今のどこかわかるのでしょう。
海軍だけでなく、東洋でもトップクラスの規模を誇る
海軍工廠があったのですから、街も繁栄していたと思われます。

今も残る「大和の大屋根」建造中の貴重な写真(右上)。
繁華街では水兵さんが肩で風を切るように歩いていました。
街中に海軍旗がはためく「海軍の街」の様子が偲ばれます。

終戦間際の数次にわたる大空襲で呉は壊滅的な被害を受けました。

長らく閉鎖されていましたが、池呉地方総監時代に整備され、
一般に公開された呉鎮守府の地下壕は、英連邦占領時代、
電話交換所と通信連隊の司令部として使用されていました。

占領後に使用するため、連合軍は海軍の建物をほとんど破壊しませんでした。

左下の緑の部分は呉地方総監部のグラウンドと同じ場所でしょうか。

壇上で挨拶される杉本呉地方総監。

歴代地方総監や水交会元会長が紹介されました。
ここにいる紳士方のほとんどはかつての海上自衛隊の将官です。

左に見切れているのが今メディアでご活躍中、「伊藤提督」ご夫妻。
その右側も元呉地方総監です。

ところでわたしは杉本地方総監にご挨拶する機会に、兼ねてから気になっていた

「杉本総監の楽器歴」

について伺ってみました。
前回の呉地方総監部主宰観桜会で、自衛艦旗降納の際、
喇叭譜「君が代」を女性海曹と一緒に演奏して皆を驚かせた杉本海将ですが、
もし全くラッパの経験がなかったらあんな無謀なことを思いつくまい、
とわたしは当時から確信があったので、そこのところを確かめてみたのです。

結果はビンゴ。

やはり杉本海将、小学校4年から5年まで、吹奏楽部で
トランペットを吹いていたことがあると白状?されました。

「(あれに懲りずに)こっそり練習してまたチャレンジしてください!」

と心の底から力一杯激励させていただきましたが、さて、
地方総監の強権発動によって、
杉本海将がラッパ手の仕事を奪う日は
果たして再びやってくるのでしょうか。

乞うご期待。


続く。



令和元年度 自衛隊記念日 殉職自衛官追悼式

2019-10-29 | 自衛隊

 

横須賀で練習艦隊の帰国をお迎えした翌日、わたしは4時起きして
朝一番の広島行きANAに乗り込み、そこからはえぐり込むように、
殉職自衛官の追悼式、呉地方総監部の自衛隊記念日式典、そして
江田島の第一術科学校でのオータムフェスタを全てこなすという、
自衛隊追っかけイベントを全てこなしました。

そのツァーの合間を縫って練習艦隊帰国行事の写真現像とブログの
二日分をなんとか仕上げることができましたが、そこで気力が尽きたため、
広島での行事については家に帰ってきてやっと着手できたしだいです。
コメントへのお返事も滞ってしまい、大変申し訳ありません。

 

ところで、ツァー移動中に知人の元自衛官が、前回のブログ最後の記述、

「練習艦隊解散後の赴任地までの交通費は自費かどうか?」

について元経理補給幹部であるその方の同僚に聞いてくださったのですが、
その返事は

「時代により種々解釈はあるものの、解散〜休暇先は私的なので支給なし、
休暇〜赴任地は支給されるというのが基本である」

ということだったそうです。

「じゃつまり普通に支給されていて、わたしがお話を伺った方の息子さんは、
たまたま横須賀勤務なので出なかったってことなんですかね?」

と聞くと、そうではないかとの答え。

ところがunknownさんにいただいたコメントは、こうでしたよね。
unknownさんもどなたか中の人に聞いてくださったようでしたが、

「遠洋航海が終わった時点で休暇で、明けに着任という扱い」

「だから任地まで自腹」

つまりこちらは遠洋航海〜任地の移動は「休暇に行って帰ってきただけ」という解釈。

でも、聞いたところによると解散地の横須賀から任地までは即日移動らしいですから、
つまりそこに休暇はまったく挟まれていないということになりませんか?

だいたいごく普通に考えても佐世保や北海道(函館にも基地がありますからね)まで
自腹ってのは、あまりにも関東圏勤務の人に比べ不公平すぎない?
いくら釣った魚に餌はやらない自衛隊でもこれはないのではないかという気がします。

ちなみにunknownさんはご自身のことについては

「昔は遠洋航海が終わった時点で発令で、旅費はもらえた気がします

とおっしゃっていますが、この元自衛官氏は

私自身ですが、確かにこの時期は給料と手当てが手付かずで残っている、
生涯でもっともリッチな時ですので、
赴任旅費がどうこうなんて気にもしてませんでしたねー(๑・̑◡・̑๑)」←文字化け済

つまりこちらは全く覚えていないというわけですわ。

これだけ情報が錯綜していて当事者の記憶が曖昧な事例も珍しいんですが、
この件を明確にする中の人のタレコミがぜひ欲しいところです。

さて、一連の自衛隊記念日行事が開始されるのは今年は10月25日。

わたしが20年前、三日三晩聖路加の出産室で過ごした末、(普通は1日)
外に出るのを嫌がる息子を七転八倒しながらなんとか世に送り出した日ですが、
そんなことはどうでもよろしい。

この日はかつて日本海軍が初めて組織的な特攻隊を出撃させた日で、
初の特攻隊長関大尉の故郷松山市でいわゆる五軍神の慰霊式が行われます。

5月の金比羅神社で行われた掃海隊殉職者追悼式に参加したとき、
慰霊式の執行役?をなさっている元海将とお近づきになったご縁で、
10月25日にはぜひ参列させていただきたいと思っていたのですが、
今年は自衛隊殉職者追悼式と重なったのでそちらは見送ることになりました。

 

今回は長丁場で江田島訪問の予定もあるので、荷物の置き場や交通の便等、
様々なことを勘案した結果、レンタカーを借りての呉入りです。

呉地方総監部の表門、つまり海側の方のゲートを通るとき、

「追悼式出席なのですが、レンタカーなのでナンバー告知してません」

というと、それだけであっさり入れてくれました。

横須賀はその点厳しくて、事前にナンバーを通知していない車両は
絶対に入れてくれません(そう招待状に書いてあった)。

今回わたしは、練習艦隊帰国行事のために届ける車のナンバーを、
アメリカにいるときにTOに聞かれ、寝起きだったためか、
忘れないように海軍記念日と同じに設定した527をなぜか528と口走ってしまい、
横須賀基地で名簿とナンバーの照合をしていた警衛の自衛官に

「(ナンバーが)一つ多いですね」

と笑われ、つい、

「人に書類を任せたもので・・・」

ととっさにTOのせいにして誤魔化しましたが、名簿の名前はかろうじて
間違っていなかったため、追い返されることにはなりませんでした。

まあ、横須賀と違って、呉にはそこまでピリピリするほどの脅威もない、
ということなんだと思います。

入場後は自衛官の指示に従ってグラウンドに駐車します。
停めたのは呉教育隊の訓練で使うカッターのデリックが並ぶ岸壁でした。

真っ先に気がついたのは、長らくここからの眺めにいやでも入り込んできた
ピンクの巨大船が完成したらしく、いなくなっていたことです。

残る1隻はまともな色の船に隠れて煙突しか見えません。

あれはワン・グラースワン・コルンバという14,000トンクラスのコンテナ船でしたが、
あんな大きなものでも半年くらいで完成してしまうと聞いて驚いたものです。

会場の慰霊碑前にはテントがしつらえてあり、その横にはすでに
参列するためにだけそこにいる自衛官たちが整列しています。

立ってじっとしているのも仕事とはいえすごいなあと思いながら
ぶらぶらと彼らの後ろを歩いてテント下に行こうとしたら、

「先に受付をお済ませください!」

と追いかけてきた自衛官に声をかけられました。

ちょうどわたしの座っている席の横の一団は、こんな早くから待機して
式の進行に沿って敬礼したり気をつけしたりしていましたが、
つまり2時間近く同じ場所で立ち続けていたことになります。

その間、普通の人のように決して体の芯がぐらぐらしたりせず、
さすがは日常鍛えているだけのことはあると内心感嘆しました。

来賓席には政治家、歴代呉地方総監、水交会や家族会のトップ、
防衛団体代表、そして基地モニターの代表などが前から順に座ります。

今年出席された歴代地方総監は、30代谷氏、31代山田氏、34代道家氏、
43代池氏といった方々でした。

いつもお顔を拝見する方が見えなかったりしましたが、それはこの日、
自衛隊記念日行事がいろんなところで行われていたためです。

ほとんどの元司令官は何箇所かを週末に転々とされたのではなかったでしょうか。

殉職自衛官追悼式の式次第はこのようになっています。

殉職隊員の霊名を記した礼名簿は、式の最初に呉地方総監が奉安し、
式の間慰霊碑の前に座していただいている状態で、最後に降納を行います。

呉地方総監は恒例の追悼文を捧げますが、その文中にある

「尊い任務を遂行して亡くなられた自衛官は、家庭にあっては
掛け替えのない夫であり、兄弟であり、そして御子息でした」

という一節を聞くと、いつも胸にこみ上げるものを感じます。


まるで隠し撮りしたみたいですが、そうではありません。

わたしは現地の写真を撮るためにカメラを一応持参していたのですが、
式の最中の撮影は厳に慎み、席を立つ度にカメラを座席に置いていたら、
献花で立ち上がり席に置いたときに指が当たってシャッターが切れたらしく、
あとで見たらこんな写真が撮れていたのです。

席についてから、自衛官から耳栓を渡されました。

「弔銃発射のとき大きな音がしますので・・・」

おお、なんという心遣い。
しかし、まわりの元自衛官のお歴々は、

「こんなの要らないよね」

といってほとんどが使用されていませんでした。
わたしも何度か弔銃発射を経験しているので、根拠なく大丈夫な気がして
使わなかったのですが、最初の一発目、衝撃の凄さに思わず飛び上がりそうになり、
甘く見ていたことを思い知らされました。

弔銃発射は伝統に則って、まず「命ヲ捨テテ」が捧げ銃の状態で演奏され、
そのあと同じメロディがアップテンポで繰り返されるのと交互に
空砲が合計三度発射されます。

続いて「慰安する」という曲が始まると呉地方総監杉本海将が献花を行い、
全員が一人ずつ前に出て霊前に白菊をたむけていきます。

献花の順番は、地方総監に続き遺族の方々、政治家、歴代総監。
そのあとが例年と少し違っていて、部隊指揮官、幹部、海曹、海士代表と
自衛官が一般人より先になっていました。

 

そして呉音楽隊の追悼演奏では、一曲目の「海ゆかば」のあと、
トランペット奏者が「巡検ラッパ」を吹鳴しました。

アナポリスの見学記で、アメリカの巡検ラッパである
「タップス(TAPS)」の響きを聴くとき、候補生たちは誰しも
この国を思い、この国のために戦って斃れた命について思いを馳せる、
という卒業生の言葉を紹介したことがあります。

自衛官たちもまた、この三音で構成された静かなメロディを聴くとき
生きている自分と彼岸の人々を繋ぐ同じ防人としての思いを想起するのかもしれません。

巡検ラッパはラストトーンが途切れると同時に行進曲「軍艦」へと変わりました。

 

国旗が降下されてから、最後に遺族の代表の方が挨拶をされました。
代表に立たれたのは去年と同じ女性です。

「国を守るという尊い任務のためとはいえ、愛するものを失ったことは
筆舌に尽くし難い悲しみがございました」

「皆様のお力をいただき、悲しみを乗り越え、元気に生きていきます」

挨拶の中の言葉も、去年とおそらく寸分違わぬ同じものでありましたが、
却ってそれが何年経とうと身内の死が風化することなど決してないのだという
遺族の方々のやるせない思いを表している気がしました。

そして令和元年度の追悼式が終了しました。

遺族の方々は歴代地方総監、呉地方総監部幹部とともに記念写真を撮り、
その後は一緒に昼食を囲む会が催されたそうです。

 

わたしはホテルのチェックインまで時間があったので、
知人を呉駅まで送って行ってからクレイトンホテルで昼食を取りました。

クレイトンホテルは海自とのコラボメニューが充実しています。
その前日横須賀港でお出迎えした「かしま」カレーは豪華な牛タンカレー。

ヘリ搭載型護衛艦「かが」カレーはビーフカレーですが、なんと
それにカツが乗っているというこれでもかの力技カレー。

味の調整を「愚直たれ」で行うことになっています。

そうそう、その「愚直たれ」ですが、「かが」の味調整としても、
がんすバーガーのソースとしてもまだまだ現役です。

「愚直たれ」は、その生みの親である池太郎元呉地方総監によると、
なんと、今年になってから商標登録されていたのです。

商標登録検索 

(当確ページがでなければ、「愚直たれ」を入れて検索してください)
これによると、出願されたのは池総監が在任中の2018年12月19日、

商標登録は今年の7月12日、権利者は呉地方総監とあります。

海軍のポストが権利者となって商標登録を行うなど、世界ではどうだか知りませんが、
少なくとも
我が国では鎮守府開庁以来の歴史でも初めてのことに違いありません。

というわけで、最初はがんすバーガーを食べようと思ったのですが、
この衝撃的な写真とコンセプトに激しく惹かれたわたしは、
海自とは関係ありそうでなさそうなクレイトンホテルオリジナルの
潜水艦カレーを頼んでしまいました。

 運ばれてきたものを見てわたしは思わず息を飲みました。
それほどまでにそのビジュアルは潜水艦と海を忠実に再現していました。

潜水艦は黒い、黒いは潜水艦、潜水艦は沈む、沈むは潜水艦。

といわれるくらい黒いのが当たり前の潜水艦ですが、まさかイカ墨で
これを実際に表現してしまうとは。

そして、海は海でもこれは絶対にフィジーとか地中海とかだろー、
というくらい、エメラルドグリーンを通り越してマラカイト色の海。

この色の正体は最後までわからなかったのですが、食べてみると味は
いわゆるココナッツの効いたタイカレーです。

青い海には泳ぐちりめんじゃこまでいるという念の入れよう。
で、意外なことですが、この潜水艦カレー、マジでおいしかったです。

インスタ映えどころではないインパクトなので、もし皆様、
クレイトンホテルのCôte d'Azurで昼を食べることがあったら、
ぜひこのマラカイトカレー、試してみてください。

あ、おやつなら愚直たれ使用がんすバーガーをオススメですよ!←配慮

 

カフェ入り口には「華麗なる愚直たれ」ポスターを始め、各種海自シリーズ認定証などが。
呉という街が海自とともにあるということを改めて実感させていただきました。

 

 

続く。