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女流パイロット列伝~ルース・エルダー「アメリカン・ガール」

2013-09-23 | 飛行家列伝

男の世界、と言われてきた航空パイロットの世界ですが、
黎明期からこれに挑戦する女性はたくさんいました。

現在は日本でも民間機の機長に10数名の女性パイロットがいますし、
回転翼や小型機、輸送機のパイロットは自衛隊に多数います。
よく考えるまでもなく、女性が飛行機の操縦において男性に「女性だから」と
不利になる原因というのはありません。

「資質」を言うなら、それは個人差であり、決して性差ではないのですから。

ただ、なりたいと思うものの母数が少ないと、希少さゆえ珍しがられて
一般のパイロットより過大に評価されがちという点はあったかもしれません。


そういえば、わたしがグランドキャニオン観光をした時の行きのセスナ、
この機長が(コパイではなく)女性でした。
まるで、のちにお話しするアメリア・イヤハートのような金髪で背の高い、
ほとんど青年のように見えるボーイッシュな「ハンサム・ウーマン」で、
あまりのかっこよさにほれぼれしたついでに、降りた後は一緒に写真を撮ってもらったほど。

発進の様子を見ていると、天井から下がったギアを二人で同時に手を重ねて前に押すときに
かなりの力がいるらしく、どちらの腕にもものすごい筋肉が浮いているのを見て、

「やはり操縦士というのは力仕事の部分もあるのだな」

と思った覚えがあります。



今一度アメリカで操縦士と思しき女性を目撃したのは、なんとサンフランシスコ動物園。
ここに、当時幼稚園児の息子を連れてきたときにトレインの順番を並ぶ列の前にいた二人組。

この片方がパイロットで、もう一人は彼女の”ガールフレンド” でした。

なぜこの、やはり背の高い筋骨隆々の女性がパイロットだとわかったかというと、
彼女の着ていたTシャツに、彼女の所属であるらしいヘリ部隊の記章とナンバーが書かれていたからで。

当時サンフランシスコに来て間もなかったので、白昼堂々このようなレスビアンのカップルを
しかも間近で見ることは初めてのことで、物珍しさについ観察してしまったものです。

そして面白いと思ったのは、このカップル、男役と女役が実にはっきりとしていて、
女性役のほうは髪を長く伸ばし、女らしい恰好をして、男性役の腕にぶら下がるようにしていたこと。

同性愛のカップルは、特に男性同士のそれはその後いやっっっというほど見ることになるのですが、
総じて言えるのは、こういう同性同士のカップルというものは、
必ずどちらかが「異性役」を務めて成り立っていることです。

完璧に対等な同性同士の「付き合い方」というのはもしかしたら存在しないんじゃないか。
「ゲイの聖地」であるところのサンフランシスコ生活でわたしが発見した一つの真理です。


話が脱線しましたが、ともかく、この女性同士のカップルにおいて男役の女性がパイロット、
しかも軍人である、ということは、女性役(って女性ですが)にとって「惚れるポイント」
であったのではないか、という気がしました。

とにかく、パイロットが女性にとって「男性に比して」「ハンディを克服する仕事」であるのは間違いありません。


と こ ろ で 。


冒頭の超美人、どうですか?
まるで映画女優みたいじゃありませんか。

もっとも女優みたいもなにも、この女性は事実女優でもあったんですね。
おそらく美人がパイロットとして有名になったから、映画会社がオファーをしたのだと思われます。



見よこの蓮舫を凌ぐ高さを持つ襟の屹立する様を。

いかにも仕立てのよさそうなエビエーションジャケットに、襟の大きなシャツ、
ネクタイがきりりと彼女のフェミニンな美貌に凛々しさのアクセントを与えています。

コクピットから嫣然と微笑む彼女は、1902年生まれ。
このファッションを見てもわかるように、非常に裕福そうに見えます。
しかし、彼女は元はと言えばただきれいな顔をした、23歳の歯科助手にすぎませんでした。


1927年、25歳の時に彼女は大きな賭けに出ました。

女性として初めてスティンソン SM デトロイター機で大西洋横断飛行に挑戦したのです。
やり手であったらしい彼女は野望を達成するために「投資家チーム」を構築し、
そのなかに航空機制作会社の「スティンソン」が関連した人物もいたようです。

これは男性パイロットの操縦で、とありますから、単に横に乗っていただけということです。
操縦できるとはいえ、ただ横に乗っていただけなのに、なぜそれが快挙になるかわかりませんが、
なにしろそれまで誰もしたことがなかったのだから「初」は「初」です。

この挑戦には実は訳があって、その5か月前の1927年5月、チャールズ・リンドバーグが
こちらは正真正銘初の飛行機による無着陸大西洋横断に成功したため、

「太平洋無着陸横断した史上初の女性」
「レディ・リンディー」 


を目指して、何人かの女性パイロットがこれを目指したわけですが、ルースはこの
先陣を切ったというわけです。
彼女の回想によると

リンドバーグがパリに着いたとき、素晴らしい、と思ったの。
それでわたしがそれに続く最初の女性であろうと決心した。
でも一人でそれを行うことができなかったので、副操縦士ではなく、
乗客として行くことに決めたの」

” If I win, them I'm on top.
If I lose – well (with a shrug of her shoulders),
I have lived and that's that.”

 「もしわたしが勝てば、わたしはトップよ。
もしわたしが負けても・・・・そうね(肩をすくめて)わたしは生きてる、それはそういうこと」 


しかし、これを見ると思いますが、少なくともアメリカにおいて女性は、
こと航空の世界においては男性とほぼ同時にスタートを切っているのです。
「名誉を目指す」
ということに女性が意義を見出しそのように何人かが行動したのも、
これがアメリカだったからでしょう。

しかしながら、この挑戦は失敗に終わりました。

ニューヨークの空港からパリを目指して飛び立った(この目的地もリンドバーグと同じです)
ルースとパイロットのジョージ・ハルドマンの乗った愛機「アメリカン・ガール」ですが、
あと300マイルというところでオイル漏れと悪天候のため、不時着を余儀なくされます。


このハルドマンというのはルースの操縦の教官で、彼女はこのときに

まだ免許を取ってもいなかった

まだ免許を取ってもいなかった

まだ免許を取ってもいなかった

ことから、「女性初」の快挙をこの美人に遂げさせ、
あわよくばわが社の新型航空機の宣伝を、という、デトロイター社の「企画」
であったとの説が有力です。


まあ、いつの時代にもありがちですが、女性、特に「美人すぎる」女性を
宣伝に利用するのは、衆目を集めるという意味で非常に有効な手段なのです。

ルースを先陣として、その後何回かのチャレンジが行われましたが、あの
アメリア・イヤハートがフォッカー F.VII、「フレンドシップ」に搭乗して成功したのは、
なんと1928年6月。

リンドバーグの成功からわずか1年後のことです。

開拓者の血でしょうか。
アメリカの女性というのは実にチャレンジ精神に溢れていると思うのはこういう点ですね。
 
彼女の挑戦はかくして失敗に終わりましたが、彼女はアメリカ国民を魅了しました。
ライバルのイヤハートが内気で取材を受けるのを恥ずかしがるような人物だったのに対し、
彼女は自信に満ち溢れ、自分の魅力を知りつくし、自己プロデュースに長けてもいたのです。

帰還後すぐに彼女には映画へのオファーがあり、

「海兵隊のモラン」(Moran of the marines)
「翼の騎士」( The Winged Horseman)

などの無声映画に立て続けに出演します。
いずれも彼女の飛行シーンをふんだんに含むと思われる題ですが、
どんな映画か知ることはできませんでした。

しかしながら彼女にとって残念なことに、ちょうどこのころから世に出始めたトーキー、
即ちセリフ入りの映画に、彼女は全くと言っていいほど向いていませんでした。
理由は、アラバマ出身の彼女の強い南部訛りです


彼女は映画女優の道をわずか一年であきらめ、また飛行へと戻っていきます。
 
アメリア・イヤハートなど、20名の当時の全米の女流飛行家ばかりで行われた
エアー・ダービー、サンタモニカからクリーブランドへの飛行競争に参加し、
14人の完走者の一人になりました。

このレース中、一度彼女は牧草地に着陸を余儀なくされたのですが、
地面に降りていく間、彼女は

「ああ神様、どうかあれがブル(牡牛)ではなくただの牛ですように!」

と祈っていた、と自伝で述べています。
この時のダービーは「パウダー・パフ・ダービー」(お白粉パフ・ダービー)という
全く女性をおちょくったタイトルのものですが、これに出場した20名の女性パイロットの
顔写真を掲載しているページを見つけました。
綺麗な女性も何人かいますが、やはり洗練さの点でルースはダントツです。


当時、メディアのもてはやしはあったとはいえ、一般には女性というものは
家でオーブンの番をしているものだ、という考えは根強くありました。

彼女が最初の挑戦をした時に、彼女の声明をアイルランドのある新聞はこう酷評しました。

「空を飛ぶのは女性の仕事ではない。
飛行のための準備に関する彼女の声明は、若い女のおしゃべりとでもいうべきもので、
彼女の愚かな虚栄心を満足させるために危険を負いかねない完璧に馬鹿げた仕業である」

まあ・・・・確かに、彼女の人生、一介の歯科助手が企業をパトロンにしたり、
何が理由かはわかりませんが、6回も結婚していたり、演技もできないのに映画に出たり、
「虚栄心」「功名心」といった野心をたっぷりと持っていた女性であることは確かですが、
しかしそれではどんな理由なら「空を飛ぶ」ことに挑戦するのにふさわしいといえるのでしょうか。

リンドバーグが大西洋を横断した、その挑戦にはもれなく栄光が付いてきたわけですが、
リンディは「ただ飛びたい」と思っただけで、その栄光を全く求めなかったでしょうか。

綺麗な女性だからといって持てはやされもすれば、このようにその動機を必要以上に
矮小化される、これも「美人税」というものかもしれません。
彼女だって、リンディのように「飛びたい」と思ったから飛んだ、それじゃダメだったのかしら。


彼女はその後、パイロットとして腕を磨き、デモンストレーションなどで大活躍。
1929年には全米の女性パイロットのトップ5の中に入っており、少なくとも
女優業よりはずっとパイロットが彼女の適性に合っていたらしいことがこれからもわかります。
また女性パイロットの国際クラブ、Ninety-nine Clubの創設に携わるなど
女性パイロットの発展に寄与し、
1977年、6番目の夫の腕に抱かれ、サンフランシスコの自宅で72歳の生涯を閉じました。