サンカルロスの「ヒラー・エビエーション・ミュージアム」に行ったとき、
「アメリア・イアハートだわ!」
と言って、この有名な女流飛行家の写真の前に立ち、
連れの男性に自分の写真を撮ってもらっていた女性がいました。
チャールズ・リンドバーグをしらないひとがいないように、
アメリア・イアハートのことを知らない者は世界でありません。
日本での知名度はそうたいしたことはありませんが、アメリカ本国では
彼女はいまだに国民的な英雄なのです。
単独による大西洋温暖飛行を女性で最初に達成したほか、輝かしい記録を次々と打ち立て、
かつその素顔は知的でシャイな面を持つチャーミングな女性飛行家。
その謎に包まれた最後はさまざまな憶測を呼び、神話を生み、
こんにちもその足跡を追って熱心な研究を続けている人たちがいるほどです。
ここで彼女の樹立した主な記録を一覧にしておきましょう。
- 女性による達成高度の世界記録:14000フィート(1922)
- 女性として世界初の大西洋横断(1928年)
- オートジャイロで飛行した最初の女性(1931)
- 世界で最初にオートジャイロで米国を横断(1932)
- 女性初の空軍殊勲十字章授与者(1932)
- 女性としては最初に東海岸から西海岸までを飛行(1933年)
- 女性による大陸横断最速記録(1933年)
ここに挙げたのは「女性として」という冠が付くものが多いですが、
彼女は
ホノルル(ハワイ)‐オークランド(カリフォルニア)
ロサンゼルス(カリフォルニア)‐メキシコシティ(メキシコ)
ニューアーク(ニュージャージー)‐メキシコシティ(メキシコ)
間の単独飛行を男性女性関係なく最初に達成しており、なお、
オークランドからホノルルまで、イースト・トゥ・ウェストの最速記録(1937)
を持っていました。
「女としてはすごい」ではなく、真に実力のある飛行家だったということです。
その飛行は繊細で、天性のカンを持ち、
『飛ぶために生まれてきたかのようにデリケートなスティック捌きだ』
と一緒に飛んだプロの男性パイロットは皆、彼女を激賞したそうです。
1897年、アメリア・イアハートはカンサス州のドイツ系アメリカ人の家庭に生まれました。
幼いころからお転婆だったアメリアは、野山を虫を取ったりして走り回るような子供で、
7歳のある日、納屋の屋根から通りにトタンを渡して自家製の「ジェットコースター」を作り、
それをすべり降りた・・・・と思ったら、乗っていた箱は地面に激突して潰れてしまいました。
しかし彼女は唇を怪我しながらも爽快な顔つきで箱から現れ、見ていた妹にこう叫びました。
「ああ、ピッジ、 まるで飛んでるみたいだったわ!」
理系少女だったアメリアはコロンビア大学で医学を学ぶために入学しますが、
肌が合わなかったのか一年で退学し、第一次世界大戦では看護助手をしています。
たまたま友人と訪れたカナダ・トロントの博覧会でアメリアは
第一次世界大戦時のエースの展示飛行を見、すっかり飛行機に魅せられます。
それが一時代を築いた「テキサコ13」乗りの飛行家、フランク・ホークスでした。
彼の飛行学校で操縦を習い、10分10ドルの飛行代と彼女自身の飛行機を買うために、
カメラマン、トラック運転手、電話会社での速記などでお金を稼ぎます。
負けず嫌いなアメリアにはこんな面もありました。
レザーの航空ジャケットを購入した彼女は、他のエビエイターの目を意識して、
ちょっとでもベテランらしい印象を出すために、三日間ジャケットを着込んで寝たそうです。
そして、イメージのため髪の毛を短く切ってまるで少年のようなスタイルに変えました。
そして、最初の飛行機、黄色いKinner Airsteの複葉機を手に入れます。
前回、映画スターでもあった飛行家、ルース・エルダーについてお話しした時、
チャールズ・リンドバーグが大西洋を横断するや否や、「最初にリンディに続く女性」
になるため次々と女流飛行家が名乗りを上げた、という話をしましたが、
この「名乗り」というのは、どうやら「これは商売になる」と踏んだ「仕掛け人」が、めぼしい女の子、
つまり出資する企業のイメージにぴったりな女性の飛行機乗りを探しに探して
これを成し遂げさせようとするコマーシャリズム紛々の「イベント」であって、
ほとんどの女性はこれに「乗った」という構図らしいことがはっきりしています。
アメリアに声がかかったのも、そもそも最初にエイミー・フィップスゲスト(1873~1959)
に白羽の矢を立てたものの、彼女では実力不足、ということで、
エイミーの代わりを探していたからです。
1928年の4月、アメリアはヒルトン・R・ライリー大尉と名乗る人物から電話を受けます。
「大西洋を飛んでみませんか?」
これが飛行家アメリア・イヤハートの始まりであり、後に夫となる出版業者であり、
彼女のコーディネイター、ジョージ・P・パトナムと出会うきっかけでした。
アメリア・イヤハートのことを調べていて初めて知ったのですが、
どうも最近、彼女の映画ができていたようです。
このパトナムを演じているのがリチャード・ギア。
つくづくこの俳優は、こういう
「プリティー・ウーマンの王子様役」みたいな、女性をあれこれドラマチックに変える、
「マイフェアレディ―」のヒギンズ教授みたいな役がぴったり、と思われているらしいですね。
そしてギアはともかく、このアメリアを演じている女優が、写真を見る限り本人そっくり。
アメリアのその他についてはこの映画を観てから書くことにします。
ともあれ彼女はこの誘いにより
「初めて大西洋を横断した女性」
の称号を獲得したわけで、これ以降輝かしい飛行家人生を、
その謎に満ちた死を遂げる日まで歩み続けるのです。
しかし、ここでひとつ疑問が。
やはりルース・エルダーのときにお話ししたようにこの時の「横断」とは、
即ち男性パイロットの横に乗っているだけだったんですよ。
「それの何が快挙なのだろう」
と現代の私たちには奇異にすら思われるわけですが、当時の女性が
旧式秩序の因習に満ちた世界で女性らしさのステロタイプを要求されていたことを考えると
「女だてらに飛行機が操縦できる」
というだけで世間的には十分センセーショナルなことだったのです。
ですから、おかしな話ですが、
「飛行機の操縦ができる女性が
飛行機に乗って(操縦しなくても可)
大西洋を初めて横断する」
ということそのものが、競うに十分意味のある栄光だったということのようです。
さて。
19286月17日、ニューファンドランド島からウェールズを目指したフォッカーF.VIには
正操縦士、副操縦士兼エンジニア、そしてアメリア・イアハートが
チームとして乗り組んでいました。
そう、アメリアは副操縦士ですらなかったのです。
着陸後のインタビューで彼女はこのように語りました。
"Stultz did all the flying—had to.
I was just baggage, like a sack of potatoes.
”シュトルツ(正操縦士)が皆操縦したの・・・・しないといけなかったの。
わたしはただの荷物よ。ジャガイモの袋みたいなものよ”
ジャガイモの袋みたいな立場で「世界初」とか言われても、みたいな
彼女の小さな自嘲と反骨精神が垣間見える発言です。
この時に「仕掛け人」から声をかけられて「レディ・リンディ」の栄誉を目指した女性は
何人かおり、ことごとく失敗しているのですが、前述のように、自分が操縦しないまでも
命の危険のある飛行にか弱い女性の身空で挑む、ということに挑戦の意義があったわけです。
ですから彼女たちにとっては「芋の袋」となって飛ぶことそのものがゴールであり、
その結果得られる栄光が目標であったと思われます。
しかし、アメリアが「クィーン・オブ・ジ・エアー」アメリア・イアハートとなることができたのは、
こういう「女としての特別扱い」に甘んじず、むしろ反発し、
「次を目指す気持ち」を持っていたからこそでした。
彼女は自嘲的な「芋の袋」宣言の後、こう付け加えています。
"...maybe someday I'll try it alone."
「いつかわたしは自分一人で挑戦するわ」
その言葉通り、この飛行から5年後の1932年5月20日、アメリアは
チャールズ・リンドバーグのパリへの単独飛行と全く同じルート、
ニューファンドランド島のグレース湾からロッキード・ベガで出発します。
機械の故障でパリに到着することはできず、アイルランドの牧場に着陸したのですが、
ともかくこれは女性による初めての大西洋単独横断飛行となったのです。