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日系アメリカ人~442部隊・ロストバタリオン救出

2014-10-16 | アメリカ

日本人の血が流れているというだけで、「危険・監視対象」とされ、
日系アメリカ人たちは強制収容所の生活を余儀なくされました。

西海岸の多数のアメリカ人が元々持っていた人種的な偏見と嫌悪は
政治家と陸軍を動かし、強制収容所への追放という悲劇を生みましたが、
この非人道的措置に対し、反対を唱えるアメリカ人もいたのです。

その一人が、FBI長官のジョン・エドガー・フーバーであり、
また、大統領夫人であったエレノア・ルーズベルトでした。

フーバーの反対は非常に論理的で、国内の危険人物は真珠湾攻撃後、
既にFBIの手で拘束したから、必要がないというものでした。


エレノア・ルーズベルトは人道的な面から、夫に法案への署名をしないよう、

プライベートで訴えていたのですが、それは聞き入れられなかったそうです。
(旦那のしたこと分かってんのかなこのおばちゃん?とか言ってごめんなさい)

その他にもコロラド州知事であったラルフ・カー、駐日大使も務めた
エドウィン・ライシャワー博士も反対を表明しています。
カー知事はこの立場を取ったため、後に政治生命を絶たれることになりました。



日系人の中には、強制収容所から出ることが出来た人たちもいました。

忠誠心があると認められた日系人は、外での農作業(ただし、
戦争で人手の取られたアメリカ人の農場など)が許されましたし、
アメリカ人の人道主義者や宗教団体なども、声を上げていましたから、
その助けで、二世の大学生は学業に戻るというケースもあるにはあったのです。

そして、収容所を出ることのできる確実な方法がもう一つありました。
アメリカ軍の兵士として入隊することです。



第2次大戦中、収容所を出て兵役に就いた日系アメリカ人は3万3000人いました。
太平洋地域に赴いた日系兵士の任務は、諜報が主なものでした。
アメリカ軍情報部に訓練を受けた二世の言語専門家は、入手書類を翻訳し、
捕虜を尋問しました。



日本兵を尋問する日系兵士。
戦争中、日系アメリカ人の諜報に関する活動は最高機密とされ、
その訓練段階から世間からは厳密に秘匿されたそうです。



日本人捕虜を尋問しているハリー・フクハラ。
いかにも切れ者のような容貌のフクハラは、後に大佐まで昇進しています。



ブーゲンビル(山本五十六の乗機が撃墜された地です)を
訪れたカイ・ラスムッセン大佐と現地の日系人将兵たち。
ここでラスムッセン大佐は、ロイ・ウエハラ、ヒトシ・マツダらに
敵の攻撃についてのより詳細な注意を与えたそうです。

敵とは、他でもない日本軍のことです。



アメリカ政府は敵を知るため、日系人を使って徹底的に情報収集を行いました。
彼らは日本の書物、パンフレットを英語に翻訳する作業をしています。
その数は何千冊にも及びました。



陸軍第162ランゲージ・デタッチメント部隊
言語専門の特殊部隊です。
こういった部隊に所属する日系兵士たちは、日本人兵士に向けて
戦意を失わせるようなビラをまいたり、投降を呼びかけるときの
アナウンスをしたりといった任務に就きました。

しかし日本側の記述による日系の通訳たちの評判はいいものではありません。
東京裁判における彼らの同時通訳は非常に拙いもので、
何を言っているかわからないと怒り出す被告もいたということです。

国際裁判の通訳をするからには、彼らの中でも優秀な人物が選ばれたはずなのですが。

山崎豊子の小説「二つの祖国」では、日系アメリカ人として育ち、
東京裁判に通訳として出廷する主人公が登場します。 



通称442部隊、名称

第442連隊戦闘団(The 442nd Regimental Combat Team)

は、日系アメリカ人ばかりを集めた部隊でした。

大隊長以下3人の指揮官は白人の士官で、後は日系人です。

指揮系統の上の士官には日系人が昇進して就きました。

映画「俺たちの星条旗」(アメリカン・パスタイム)では、
志願して442部隊に出征した主人公が、名誉の負傷で収容所に帰還したとき、
陸軍兵曹である看守たちが、かつての「囚人」に、
「サー」「ルテナント・ノムラ」と敬礼する様子が描かれています。



日系兵士の制服。
彼らを差別せず、アメリカの軍人として対等に扱ったことは、
4442部隊の日系人たちの士気を高めることになったと思われます。



「白人支配からの解放」を大義名分にしていた日本に、
アメリカの日系人排除を非難されたことに対して、
アメリカが反駁する必要から生まれたのが「日系人部隊」でした。

日系アメリカ人たちの立場から言うと、収容所を出ることができるうえ、
政府によって親が強制収容所に監禁されている中、祖国のために
生命の危険を犯すことで、忠実な市民として認められるチャンスでもあったのです。




「プリズンキャンプからアーミーキャンプへ
おめでとう 君たちは100大隊/442大隊の一員だ」

と題された写真。
第100歩兵大隊の士気が高く、訓練で高い成績をあげたことも
アメリカ政府が彼らを重用した理由でした。



漢和辞典、コンサイス英和辞典に混じって
さり気なく置かれた勲章?



「ペン習字書範」という本の上に置かれた認識票。



水筒、背嚢、ベルトポーチ、軍靴。



携帯用の鍋にもなる食器セット。
「アリイ」と書かれた背嚢にはカードが付けられていますが、
そのカードには、10カ所あった強制収容所が書かれています。
もしかしたら、収容所に帰還する日系兵士たちの荷物を
送り先を間違えないようにチェックするカードだったのかもしれません。

 



ミシシッピーのシェルビーで訓練中の442部隊。
隊長も小隊長も日系人だけです。



イタリアのサレルノに上陸した歩兵第100大隊の兵士たち。
カメラを見て微笑んでいます。

彼らはこの後ドイツ国防軍との戦いで初の戦死者を出しました。



日系の隊長が握手しているのは、イタリア軍人のように見えます。
後ろにはがれきの山。



サレルノの戦いで山中に陣地を構築する日系人部隊。



彼らがアメリカ陸軍最強の部隊となったのは、「ロストバタリオン」
となっていたテキサス大隊を救出したことでした。

敵に囲まれ孤立した211名の「テキサン」を、442部隊は
それを上回る214名の犠牲と、600名の負傷者を出しながら救出しました。



このときの戦いは、アメリカ陸軍の10大戦闘のうちのひとつに数えられ、
彼らの勇敢さは、日系人全体に対するアメリカ人の見方を変えることに
少しは成功しました。


「少し」というのは、これだけの犠牲を払ってアメリカのために戦っても、
戦後、帰ってきた彼らをアメリカ人は相変わらず「ジャップ」と呼んで
白眼視し、彼らはろくに職に就くこともできなかったからです。

皮肉なことですが、1960年代になって公民権運動が高まりを見せると、
アメリカ人は急に「模範的なマイノリティ」である日系人たちを
持て囃し出しました。

黒人たちの激しい人権復興運動の嵐に驚いた彼らは、
そういう方法ではなく、自分たちを犠牲にして国のために戦い、
アメリカ国民として認めてもらおうとした日系人たちを見直し、
あらためて評価する気になったのです。


勝手なものです(笑) 

 



続く。