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空母「ホーネット」艦橋ツァー カタパルトとウィル中尉

2015-09-02 | 軍艦

2年前に続き、見損なった艦橋ツァーの残りを見るため
サンフランシスコの対岸にあるアラメダに繋留している
空母「ホーネット」を訪ねたときのご報告をしています。 

補助操舵室(AUX CONN)の説明をした後、ボランティアの元海軍中尉、
通称「Sさん」(海軍兵学校元生徒のSさんに激似していたため)は、
ツァーに参加した10人余りの一団を率いて、甲板レベルまで降りてきました。

「みなさん、アイランドツァーはこれで終わりです。
でも、今日は特別に甲板の飛行機について解説しますので、
お時間と興味のある方は残ってください」

そして「Sさん」ことウィル元海軍中尉は、これは「informal」です、と付け加えました。

歩くのを見ていると、右足を引きずっており、狭い艦橋の階段を
登ったり降りたりを繰り返すのはさぞかし難儀であると思われましたが、
おそらく彼は海軍に奉職した人生を誇りにしており、
空母艦載機のパイロットであった自分の経歴を、ボランティアを通じて
人々に少しずつでも伝えていくのを人生の最後の生きがいにしているのでしょう。

見学の途中で鳴り出した携帯の着メロが「錨を上げて」という、海軍の実質上の
(公式ではない)公式歌であったことで、わたしは一層その確信を深めたのですが、
こうして決して体力が有り余っているわけでもないのに、エキストラのツァーを
行ってくれるというのです。

ほとんどの客はそこで解散してしまい、「Sさん」の呼びかけに応じたのは
どうやら日系アメリカ人らしい高齢の男女3人組と、わたしの計4人となりました。



そのエキストラツァーとやらがなかなか始まりそうにないので、
甲板の艦載機エレベーターの工事を見に行きました。
前回来た時にはここは完璧に閉じられていたと記憶しますが、
1.5mほど降下させた状態で、甲板とエレベーターを接続する面を修復しています。

昇降機の向こうに見えているのは多分S-2B「バイキング」。哨戒機です。




ふと、艦橋ツァースタート地点に、新しいグループが集まっているのに気付きました。
解説員を見ると・・・・、お、これは2年前のツァーの人じゃないか?

その時は髪を長くしていてまるでお茶の水博士みたいだったのですが、
今年はイメージチェンジしておられます。
この人も元海軍軍人だということは解説の端々でわかりましたが、
このツァーに参加した時には、この時の倍くらい参加者がいたため
わたしは最初の彼の自己紹介を聞き逃してしまい、彼が海軍でどんなことをしていたのか
結局分からないまま終わってしまったのでした。 


さて、甲板を撮っていたら「Sさん」が三人の参加者とともに歩き出すのが見え、
慌てて彼らのところに走って行きました。
「Sさん」はどうやらカタパルトの説明をしてくれるようです。

歩いていて、ふと「Sさん」がわたしの横を並んで歩いている状態になったので、
思い切って声をかけてみました。

「わたし、日本から来たんです」

「おお、そうですか。それはようこそ」

ボノム・リシャールにも乗っておられたんですか?」

「はい、乗ってました」

これは、「Sさん」の着ていたボマージャケットの背中に、強襲揚陸艦でなく
空母「ボノム・リシャール」の ワッペンがあったので聞いてみたのです。

「ボノム・リシャールは日本にもいたことがありますよね?」

 朝鮮戦争の時には北朝鮮の空爆に参加したという記憶があったので聞いてみました。
「Sさん」は確か自分の軍歴について最初の自己紹介で

「ベトナム戦争に参加している」

と言っており、80歳くらいと仮定しても朝鮮戦争の頃は
まだ軍隊に入ってもいなかったはずですが、それを聞くと、

「わたしは『ボノム・リシャール』乗組のときに横須賀に行きましたよ」

と話を合わせてくれました。
ベトナム戦争の時、日本政府(佐藤栄作政権)は、後方支援のために
沖縄、佐世保、横須賀、横田などの軍事基地を提供していますから、
「ボノム・リシャール」が横須賀に補給のため寄港していたということは十分考えられます。



どうですか元パイロットの海軍中尉、かっこいいでしょ?
8月も半ばというのに皮ジャンパー着用しておりますが、
これはこの辺りの気候の特異性を考えると全く不思議ではありません。

この日は燦々と陽の高いいつも通りの天気で、車から降りたら
帽子なしではとても歩けないくらい強烈な暑さだったのですが、
そんな日中でも日陰に入ればひやっとするくらい。
空気が乾燥していて(今年は雨不足で一層)、寒暖の差が激しいので、
皮ジャンパーの人とタンクトップの人がどちらもいるような、
それがベイエリアの夏の気候というものなのです。 

右腕には「LSO pacific fleet」 というパッチがありますが、
この「LSO」は、「Landing Signal Officer」、甲板の信号員のことのようです。
「Sさん」は信号員ではなかったと思うのですがこれは一体?

とにかくこのジャンパー、長年着込んでいるらしく、
裾のゴム部分が伸びきって破れているのが印象的でした。
わたしが奥さんだったら、これくらい直して差し上げるのに・・・・。


もしかしたら、夫や父が海軍にいたことなどあまり関心を払わない家族に囲まれていて、
このジャケットも、
ボランティアの解説に出かけるときだけ出してきて着込んで行くだけの
「仕事用ユニフォーム」となっているのかもしれませんし、そもそも
連れ合いがいたとしても、まだご健在かどうかと訝られるほどのご高齢ではありますが。


さて、それはともかく、このフェンスのようなものは、
「ブラスト・スクリーン」という説明だったので、つまりこれはカタパルトの後方、

航空機がジェット噴射を受ける部分にあり、狭い甲板上で甲板員が
発進の際のブラストを受けないようにするための防御壁だと思います。


今のカタパルトは、これが発進に際して立ち上がるようになっていますが、
このころのは垂直に突き出してくるようになっているように見えます。

いずれにしても航空機の射出のたびに出したり引っ込めたりできないと、

タキシングの邪魔になってしまいますね。



カタパルトの上にセッティングされているのはF-4でした。
塗装の塗り替え中のようで、全身真っ白のファントムIIです。
ファントムIIは「ホーネット」では運用されたことがないようですが
そんなことはどうでもよろしい。

床部分から伸びてきた「ブライドル」といわれる牽引具が、

黄色い接続具によって機体にジョイントしています。


カタパルトで航空機に推進力を与える動力は二種類あります。

スチームの圧力を送り込む「スチームカタパルト」、そして第二次大戦時、
アメリカが採用していたのが「油圧式カタパルト」です。
エセックス級空母から、改良型の油圧式カタパルトが採用されるようになったので、
ここにあるカタパルトは油圧式の初期の形ということになります。


圧搾空気でオイルをシリンダーに高圧の作動油として送り込み、
滑車やケーブルでその動きを拡大し、甲板の溝にはめこまれたシャトルを引っ張る 


というのが油圧式カタパルトの仕組みですが、これは

 

肝心のカタパルトトラックとどうつながっているのか、写真のポイントが甘くて(−_−;)
写っておりません。 すみません。
とにかく、これは「Holdback Pendant」ということですので、
誤作動による航空機の射出を防ぐために接続しておくもののようです。

まあ、誰も乗っていないのにいきなりシャトルが走り出したら、
機体を海にぶん投げることになりますから・・。 



U字型に見えているロープは、その先が「シャトル」と呼ばれる
溝にはめ込まれた牽引具に連結されています。



シャトル拡大図。
航空機が空中に射出すると自然にロープは外れる仕組みですが、このとき
ロープが海に飛んでいかないように(多分)、ロープは金具と紐で固定されています。



シャトルが引っ張るブライドルは、航空機の下に付いているフックに掛かっているだけ。
実際に見ると、よくこんなのが射出時にうまいこと外れてくれるものだと思いましたが、
シャトルがレールの端まで走行して到達すると、航空機にはすでに慣性の法則で勢いがつき、
必ずこのフックからロープは外れるようにできているようです。

何かのはずみでロープがかかったまま離陸してしまい、次の瞬間甲板に機体が叩きつけられ、
という事故が一度もなかったらしいのはさすがアメリカの技術力といえましょう。



そういえばここに転勤する士官のブーツを乗せて「射出」している
お茶目な写真があったなあ、と思いながら、わたしはこのことを
説明している「Sさん」に聞いてみたくて仕方がなかったのですが、
あまりにもくだらなくて理解してもらえないかもしれないと思い、
すんでのところで堪えました。

カタパルトの説明が終わった後、「Sさん」はわたしたち4人を
艦橋の前方に置かれているF-8、クルセイダーの前に連れて行きました。



いくつかある甲板の航空機の中で、わざわざこの前に来たわけは、
彼が

「わたしは、現役時代この飛行機に乗っていたんです」

といったことでわかりました。
気のせいかもしれませんが、「Sさん」はこのことを言うとき、
他の三人ではなく、明らかにわたしの方を振り向きました。
日本からわざわざ(っていうわけでもないけどまあ一応)、アメリカ海軍の
史跡を見に来て、しかも「ボノム・リシャール」の読み方も間違えなかった
(何も知らないアメリカ人ならおそらく『ボンオム・リチャード』と読む)女性、
しかもエキストラツァーにまで参加しているとなると、

「よほど海軍について関心があるのだろう」

彼がこの時点で思ったとしても不思議はありません。
まあその通りなんですけどね。


その後は、まあ当たり障りのない航空機の説明があり、同行の男性が
何やら少し分かっている風の質問をしていましたが(よく聞き取れなかった)、
すぐにそれも終わってしまい、皆で艦橋に向かいました。

わたしはここでせっかくのクルセイダードライバー、ベトナム戦争のベテランという
海軍史の生き証人を目の前にしているのだからと、引っ込み思案に鞭打って(笑)
思い切って話しかけてみました。

「クルセイダーもやはりMiGと戦うために開発されたのですってね」

「そうですよ」

「もしかしたら、クルセイダーでMiGを撃墜したナージ中尉をご存知ですか?」

2年前にこの甲板で見たチャンス・ヴォートの「救世主」であるクルセイダーについて
書いたことがあり、しかも、サンダウナーズという日本人にとっては
微妙な感慨を抱かせる飛行隊にいたMiG撃墜のエース、アンソニー・ナージの名前を
記憶していたわたしは、なんとなく尋ねてみました。

すると、「Sさん」の表情が大きく動き、

「ナージ・・・・わたしは彼を知っていますよ」

こんどはわたしが驚く番です。

「実際にお会いになったことがあったのですか!」

アンソニー・ジョン・ナージ中尉は1940年生まれ。
1963年に海軍兵学校卒業です。
ベトナム戦争であげた功績、

「空中戦における卓越した飛行技術、模範的な勇気とその決断力に対し」

シルバースター勲章、十字勲章二回を授与されている海軍軍人は、
もしかしたら「Sさん」と同じくらいの歳かあるいは少し下でしょうか。

「彼は・・・いい人(good man)でした」

わたしの知らない海軍基地の名前をいい、そこで会った、といいます。

驚いたな(exciting)、どうして彼の名前を」

「先月ニューヨークの『イントレピッド』に行ってきたのです」

正確には、その少し前、「イントレピッド」とナージ中尉について調べ、
ブログのためのエントリを書いたばかりだったんです、 なんですが(笑)

しかし、この「Sさん」、解説員としてもあまり立て板に水というタイプでもなく、
訥々と喋ってはすぐに

「何か質問は」

と見学者に丸投げしてしまう傾向があり(笑)、おそらくはもともと
無口な人らしく、エキサイティングとかいうわりに話はそれ以上にもならず、
わたしはさらに無口な人と会話を弾ませるほど英語が堪能なわけでもないんで、
話はそこで終わってしまいました。

同行の3人が、Sさんにお礼を言って、ハンガーデッキへの行き方を
尋ねたため、会話が中断されてしまったこともあります。

しかし、この短い会話は、どうも「Sさん」にはそれなりに印象的だったようです。

わたしが同行の三人に押される形で狭い艦橋の入り口を入り、
ハンガーデッキに降りるためのエスカレーター(今は動いていない)の前で
最後に後ろを振り返ってみたら、三人の頭越しに背の高い「Sさん」は、
しっかりわたしの目を見て、明らかにわたしに向かって手を振っていました。

「Thank you.」

わたしも手を降り返し、心の中で、どうぞいつまでもお元気で、とつぶやきました。