安保法制反対派が断固として目を向けようとしないのが、
「国際社会の一員としての日本のありかた」
でしょう。
今の国際社会で、自国の平和だけを唱えて世界の平和維持活動に対しても
「怖いから参加しません。お金だけ出すんであとはヨロシコ」
ってわけにはいかないということをまず議論に乗せもしないのです。
戦後半世紀以上が経ち、占領政策として付けられた憲法をいつまでも
不磨の大典のごとく奉り、自縛された状態の日本に対して、さすがに
その配給元であるアメリカすらもういい加減に変えたら?とすら言っているわけですが、
反対派には都合の悪いことは全く目にも見えず、聞こえない。
最近では拉致された日本人の命より憲法が大事だ、とか、
憲法を変えようとする者はヌッコロすなどと何の疑問もなく言い放つ始末。
ところで、今の何倍もの人数の過激な暴力デモで、犠牲者まで出したのにもかかわらず、
かつて日米安保条約は成立し、今日に至るわけですが、現在、国会前で
デモをしてそれで安保を廃案に出来ると信じている人たちにお聞きします。
日米安保成立前夜、学生を中心としたデモ隊が言っていたように、
日米安保で日本はアメリカの戦争に巻き込まれたでしょうか?
まあ、あの暴動があっても安保法案は成立したのですから、野党の意を受けた所詮
「ファッション左翼」が騒いでも、民意により法案は近々成立すると思いますけどね。
さて、ところで今日は、日本がその憲法に今より一層がんじがらめであるときに発生した
クェート侵攻と、その後起こった自衛隊のペルシャ湾掃海についてお話ししましょう。
これは、それまで自国の平和だけを唱え、すべての平和維持活動にも顔を背けて来た国、
日本国が初めての国際貢献に派遣した海上自衛隊掃海部隊、
それに友情と呼ぶべき協力を惜しまなかったアメリカ海軍の物語です。
平成2年8月2日、イラクは突如隣国クェートに侵攻し、現地在留外国人を
人質として拘束しました。
国際社会はこれを非難し、クェートからの即時撤退と人質の解放を求め、
国連はアメリカ軍を中心にした多国籍軍を編成して軍事行動を行いました。
平成3年の1月から2月いっぱいまで行われた攻撃によって、
多国籍軍は圧倒的な勝利を収めたのですが、この湾岸危機全般に対して
日本は相変わらずの「軍靴の足音が~」な声ばかりが大きな国内世論に足を引っ張られ、
多額のお金を供出したのにもかかわらず、国際社会からは
「命の危険を伴う人的貢献は他の国に任せ、金だけで済ませようとした」
「Too little, Too late」
「一国平和主義」
「経済大国にふさわしい対応を取らなかった」
といった非難が浴びせられました。
戦後、イラクが湾岸戦争に備えて敷設した機雷を除去するという必要に迫られた時、
日本には資金面のみならず人的貢献を求める国際世論が高まると共に、
国内からも経団連、石油連盟、日本船主協会、そして海員組合から
「ペルシャ湾における安全確保のための掃海艇の派遣」
を求める声が高まっていったのです。
その後、国内の鬱陶しい反対論(日本が戦争に巻き込まれるとか・・戦争終わったつの)
を説き伏せる形で日本は自衛隊創設以来、初めての海外実任務として
掃海艇を派遣することが決定されたのは周知のことです。
このとき、ペルシャ湾には数十カ国の国から艦艇が派遣されていました。
日本国自衛隊は、各国と緊密な連携を取り合いながら作業にあたったのですが、
その時の様子を、掃海から15年後に当たる平成18年、
落合 元掃海派遣部隊指揮官 幹候14期
が、在日米海軍司令官ケリー少将の求めに応じて講演の中で語った資料があります。
本日はこの講演内容から、自衛隊とアメリカ軍との協調についてお話ししたいと思います。
■ 多国籍軍との協力
当時ペルシャ湾に派遣されていた各国軍は、
● MIF (Multinational Interception Force Operation)
イラクに対する海上封鎖作戦
● MCM ( Mine Counter Measure Operation)
イラクが敷設した機雷を除去する対機雷戦
に従事しました。
MCMグループ、すなわち対機雷に携わったのはアメリカを筆頭に、
英、仏、独、伊、オランダ、ベルギー、 サウジアラビアそして日本です。
イラクは感応式沈定機雷(マンタなど)、触発式係維機雷( LUGMなど)など、
約1200個の機雷を敷設して、多国籍軍艦艇の海岸線への近接を阻止していたのですが、
この機雷危険海域を5つに区分し、それぞれの担当を分担して除去は行われました。
各国がそれこそそれぞれの国のやり方で啓開を行っていったのですが、その際、
お互いの不足した機能を補完し合って協力し合いました。
各国軍が自衛隊に対してしてくれた協力をまとめてみますと、
オランダ イラクが使用している機雷の性能や今まで彼らが行った処分のノウハウを提供
ドイツ 補給艦「フライブルグ」上でブリーフィングを行って使用機雷から得たデータを提供
ヘリでの人員や物資の輸送について日本部隊を支援
イギリス 掃海艇の磁気測定のための施設を提供
WEU(西欧同盟)部隊と日米部隊の調整役を務める
これに対し、日本部隊はドイツに対してヘリへの洋上補給や救急患者の医療協力を行っています。
しかし、何と言ってもこの作戦で日米海軍の協同は大変緊密なものでありました。
■ スチール・ビーチ(鋼鉄の海岸)パーティ
まず調整会議において啓開海域の打ち合わせを行うとともに、相互に連絡士官の派遣を決め、
両部隊間の連絡と調整の円滑を図りました。
会議における調整項目は次の通り。
◯ 掃海作業海域の分担
◯ 米海軍部隊の進捗状況
◯ 日本掃海部隊の作業要領を説明
◯ 米掃海部隊からの機雷状況説明
◯ 米軍部隊が放置した航空掃海具の位置の説明
この会議は大変綿密に行われ、相互に理解し合意するまで喧々諤々と意見を戦わせ、
会議は往々にして夜半を過ぎて2時までかかることもあったということです。
冒頭の挿絵は、米海軍掃海部隊指揮官の(落合1佐のカウンターパート)
ヒューイット大佐が、この時の会議の様子を漫画に描いたものです。
いかにこの時の会議が熱いものであったかということなんですが、
左側の絵は、デスクの左側に「イシイ」「オチアイ」「オクダ」などの日本勢がいて、
右側に「Hewett」はじめ米海軍の名前があるのに対し、5分後という設定の右側の絵は、
なぜか左にヒューイットとオクダがならんでいて、右にオチアイがいます。
わたしたちには少しわかりにくいギャグですが、現実に会議を行った
当事者たちにとっては、思わずニヤリと笑ってしまう的を射た漫画なのでしょう。
最初に日本部隊が掃海に当たったのは、水深が10メートル以下と非常に浅く、
川の河口なので流れ込んでくる砂漠の砂で水中視界が悪いという難所でした。
しかも海底にはオイルターミナルに油を送るパイプがあるので、探知した機雷を
一旦無能化させて、そのあとバルーンで海底から浮上させて、
安全なところまで曳航してから爆破するという、大変な手間を強いられました。
もっとも難所であったというこのような苦労を共にした日米両掃海部隊は、
掃海作業が進むほどに、固い友情で結ばれていったのを実感したといいます。
自衛隊が米軍から受けた支援は次のようなものです。
◯ MH53ーE(ヘリ)による前駆掃海
◯ 対空警戒、対水上警戒
◯ 航空機による人員輸送
◯ 通信及び気象・海洋予報の提供
◯ 米海軍施設の便宜供与
必要に応じ、日本からも米海軍艦艇への燃料の補給(貸付)も行われました。
そして作戦の合間に両軍は懇親会(スチール・ビーチ・パーティ)(笑)
を持ち、お互いの健闘をたたえ、さらなる親睦を深めていきました。
共通の敵「機雷」に対し、共に肩を抱き合うようにして戦ってきた一体感から、
それらのパーティは大変な盛り上がりを見せたそうです。
■ タスク・フォース造りの名人
これらの共同作業によって海上自衛隊は、アメリカの強さと背景にある
強力なlogisticsのちからを思い知ったといいます。
logisticsというのは日本語で言うと「兵站」ということになりましょうか。
多国籍軍が圧倒的な勝利を収めたのはこのロジスティックスの勝利であるという説もあります。
膨大な量の航空機や戦車をはじめとする装備品を調達・確保し、世界の各地から
中東の現地に運ぶだけでなく、まさに
「必要なものを、必要な時に、必要な場所に」
補給するこの能力にかけてはアメリカはまさに偉大な軍でした。
海上自衛隊の旗艦は「はやせ」でしたが、米軍は旗艦を作戦中4回も変えています。
旗艦の業務というのは指揮通信中枢としての任務はじめ、会議の準備、
各国指令官や業務調整のために来艦するVIPの接遇、他には医療、補給、整備、
ありとあらゆる重要な役割を負っているのですが、この交代をアメリカ海軍は
実に鮮やかにやってのけるのだそうです。
掃海とは関係のない業務をしている艦艇が旗艦に指名されると、その船は
期日に掃海現地に駆けつけて、任務を解かれる旗艦の近くに投錨し、
搭載艇とヘリコプターで約150名の司令部要員、各種種類、機材を
ごくごく短時間で移送するや否や、旗艦業務を始めてしまうのです。
タスク・フォース(という映画がありましたね)、というのは
これは任務遂行のために編成された 部隊という意味ですが(機動部隊じゃないのよ)
落合司令は、旗艦交代だけでなく、隊司令や艦長の交代も洋上で淡々と行事を行
アメリカ海軍は、タスクフォース作りが実に上手な組織だと感心するとともに、
いたるところでアメリカ海軍が予備役の軍人を指揮官や幕僚として
重用しており、彼らが現場で目覚しい活躍をしていたことをもって、
これもアメリカの強さを支えている一つの要素であろうと賞賛しています。
■ 「ストウフ大尉に帽振れ」
日本の掃海部隊司令部に米海軍から派遣された連絡士官はストウフ大尉といい、
彼は「はやせ」に乗艦していました。
三ヶ月にわたってストウフ大尉は両軍の連絡調整を見事に成し遂げました。
日米掃海部隊の共同作業において一件の事故も起こらなかったのは、
彼の功績によるものであった、と落合司令は回想します。
ストウフ大尉は湾岸戦争の戦役が掃海作業中に切れることになったため、
「はやせ」を退艦することになりました。
当日、「はやせ」では幹部自衛官の離任退艦に伴う儀式と全く同様に、
「総員集合」 「感謝状贈呈」「離任披露」
が行われました。
そして、
「総員見送りの位置につけ」「帽振れ」
をもって大尉の退艦を送りました。
「はやせ」の舷門で自衛艦旗に敬礼するストウフ大尉の目には涙が溢れていました。
「帽振れ」の号令で一斉に帽子を振る「はやせ」の乗員に対し、
舷梯を離れていく内火艇の上で、乗員たちに応えるために習ったばかりの日本式の要領で、
懸命に帽を振る彼の姿は、15年経ったあとも落合元指令の脳裏に鮮明に蘇ってくるそうです。
これには後日譚があって、ストウフ大尉はこのあと故郷に帰り、
そこで生まれた町の市民が凱旋を熱烈に迎え、その功績を讃えられました。
彼はそのことを日本の掃海部隊に向けて手紙で知らせ、そして
「我が人生で最良の日であり、海軍軍人になって本当によかったと思い、
国家に貢献できたことを、この上もなく誇りに思う」
と添えてきたのでした。
落合指令は、「アメリカ軍の精強さの根源を垣間見たような気がした」といいます。
国の防衛に携わるものは、国民の絶大な信頼と期待を受けて、国家、国民のために、
国の命令に基づき危険をも顧みず、身を以て任務を遂行します。
国と国民への奉仕を行うことを名誉とし、自分自身の誇りとすることから
強固な使命感は生まれてくるものであり、ひいては軍の精強さへもつながるのでしょう。
ペルシャ湾の自衛隊の活動の成功は、アメリカ軍の全面的、
かつ心温まる支援なしにはあり得ませんでした。
自衛隊に対し、横須賀基地にイエローハンカチーフを揚げ、
「君たちが任務を達成し、無事に帰ってくるまでこれを揚げておく」
と励ました少将。
188日間の派遣期間中、隊員の留守家族を日本で励ましてくれた少将もいました。
そして任務を終えた自衛隊が帰国してきたときには、台風が来ているというのに、
「ブルーリッジ」はわざわざ沖縄西方海域まで来て、自衛隊部隊を出迎えてくれました。
戦後始まった海上自衛隊と米海軍との好誼は、このように深い信頼関係となり絆となって、
一貫して派遣部隊を支え続けたのです。
今年、米国で行われた日米両軍軍人による「賢人会議」では、
お互いの絆の深さを確認しあい、日米同盟の強固さを確認したと
書かれた関係者からのメールは、その最後、
「まさに恩讐を超えた絆なのでしょう」
と締めくくられていました。
最近では日米豪による太平洋の守りの強化など、ますます国際情勢には
日米、自衛隊と海軍の連携が必要とされています。
RIMPAC、MINEXなどの日米共同訓練始め、シスターシップ(姉妹艦。ひゅうがとGWとか)
交流などで、国際平和の維持、再構築のため、
より一層日米海軍は関係を緊密にしていくことと思われます。