観桜会開始までの時間、地方総監部の中をご案内いただけることになり、
冷たい雨がしとしとと降る中、わたしたちは外に出ました。
鎮守府庁舎の正面から見ると左側に廊下を抜けた出口に時鐘があります。
掃海艇「ははじま」JDS Hahajima, MSC-660、MCL-724 の時鐘です。
「ははじま」は「はつしま」型掃海艇の12番艇で、掃海艇から掃海管制艇に
変更したため、艇番号が二つあります。
「鳴らしたりするんですか」
「ここでは鳴らしません」
当然ですね。知ってたけど聞いてみたの。
時鐘は艦艇のシンボルなので、退役した後もよすがを偲ぶために
海上自衛隊のそこここに残すのが慣例なのでしょう。
今日は本来ここでお花見が行われるはずだったわけですが、
その場所はこの時鐘のある出口から外に出た向こうだそうです。
グーグルアースで見てもよくわからなかったのですが、
招待客1000人+自衛官が集まることのできる場所があるのでしょう。
出口付近にはもうもうと湯気が立ち込めていました。
どこから来るのかと思ったら、今から見せていただく地下からです。
はいみなさん、ここが噂の「鎮守府時代の防空壕の入り口」でございます。
解説によると、この地下壕は結構早くから作られており、大戦末期には
ここから地下につながっている地下司令室で鎮守府長官以下軍人たちは退避したとのこと。
鎮守府庁舎は一度キューポラめがけて爆弾が落とされ、半壊していますが、
その時には庁舎には誰もおらず、皆壕に入っていたものと思われます。
(基本的に連合国は占領先のことまで見据え、歴史的洋風建築物は爆撃しなかったのですが、
鎮守府のキューポラだけが狙われたのは、そこに菊の紋章があったからではないか、
とわたしは勝手に推理しています)
壕の入り口に立つと、直接階段が地下までまっすぐつながっています。
(案内の方が懐中電灯で中を照らしてくれたので写真も撮りましたが自粛)
さて、今回なぜ防空壕を見せて頂くことになったかなんですが、
決して史跡戦跡マニアのわたしが頼み込んだからではありません。
今までこういう史跡のあることは外から見学した一般の方にも知られており、
特に防空壕についてはその筋の人々の興味を掻き立ててきたと思われるのですが、
やはりいろんな事情があり、海上自衛隊としてはここに地方総監部が置かれて以来
こういう戦時の遺物についてはあってもないかのように扱ってきたのです。
しかし、今呉地方総監部は、この歴史的遺産を公開することを計画しています。
わたしはその準備段階をプレ公開していただいたということのようです。
現在の進捗状況としては公開に先立ち、すでに、
今まで倉庫のように使われていた部分から荷物を退けることは終わっており、
70年以上何の手も加えずにほったらかしてあった場所なので調査して
安全性を確認した上、できれば夏に一般公開にこぎつけたいということでした。
呉というのは海軍の街として栄え、今も海軍遺産が街のそちこちに残り、近年は
通称大和ミュージアムやてつのくじら館と共に観光資源ともなっています。
今回JR呉駅の広島行きの電車発射じゃなくて発車音が、
「ソーソッソドーミッドレッソソー ラソファ ソドミソシードシドッソー
#ソーラーソファソーミー ファーミレミードー
ミラシッミラシッミラシミーラシ(繰り返し)#ドー」(移動ド)
であったのには結構驚きましたが、まあそういうところなのです。
「呉」をイメージするものといえばまず真っ先に旧鎮守府庁舎であることは
議論を別たぬところであろうとは思いますが、だからこそ
この歴史的建造物を現在も使用し続けている自衛隊が、より(文字通り)深いところを
一般に向けて公開してくれることは、呉市と歴史研究家にとって朗報と言えましょう。
そして、戦後誰も手をつけてこなかったことにあえて取り組む呉地方総監部に、
わたしは国民の一人として心から敬意と感謝の意を表したいと思います。
さて。
案内してくれる副官氏(仮名)は、こんなものどこで売ってるんだと
思わず見つめてしまった質実剛健な感じの黒い🔦を二本持っています。
これってもしかしたら一本はわたしが持って歩くためのもの?
壕の入り口から下へは(繰り返しになりますが)急な石段がずっと続いています。
「降りてみられますか」
「はい!」
そう言って暗い穴底に向かって続いている長い階段をずずいと踏み出した瞬間、
わたしは突然、本日のいでたちが観桜会に出席するためにクリーム色の、しかも
裾の長いプリーツスカートであることを思い出したのでございます。
思い出すのがもう少し早ければせめて裾を持ち上げるとか何とかしたのですが、
相変わらず好奇心が先行して後のこと考える前に足が動いてしまい、
(靴だけは編み上げの平底ブーツだったのでセーフ)
白いスカートの裾が泥で真っ黒になってしまってからそうと気づくというお間抜けぶり。
「ああああ」(絶望の声)
「・・・・・降りるのやめますか」
たかがスカートの一枚や二枚、軍事遺産を一般公開に先駆けてこの目で見るという
チャンスの前には実のところ汚れようが破れようがどうでもよかったのですが、
そんなわたしもさすがにこの後の観桜会に泥まみれで出席する勇気がなく、
「やめましょう」
と力なく呟くしかありませんでした。
ちなみにこのスカートですが、会場入りする前に呉阪急ホテルに寄ってもらい、
そこの洗面所で水洗いしたら跡形もなくキレイになりました。
「こんなにキレイになるのだったら、やっぱり中に入っていけばよかったかな」
などとと考えた全く懲りないわたしです。
壕に入るのを諦め、その階段を降りて行ったらつながっているという
地下司令室に行く前にまずこの階段の上に立ちました。
折しもつい先日、この階段について
「海に向かい、表桟橋からまっすぐ上がってくるという意味の階段」
だと思うところを述べたのですが、ここでも念のために聞いてみました。
副官氏はわたしはあまり詳しくないのですが、と断った上で、
階段を降りてまっすぐ行ったところが桟橋であることを教えてくれました。
なるほど、今は芝生のグラウンドで遮られているのですが、
階段から海に続く道の延長線上が桟橋に繋がっているのがわかりますね。
桟橋があるのは海際に見える小屋の左側です。
「それでは下の防空壕入り口をお見せしますのでこの階段を」
「え、この階段を降りるんですか」
思わずたじろぐわたし。
スカートがどうのではなく、この階段って実用にはしないんじゃなかったの?
それに階段、登るのはいいけど降りるの苦手・・・。
「坂を下って行ってもいいですが回り道になります」
「構いません」
歩き出すことになって、それまでずっと傘をさしかけてもらっていたので
「わたし自分の傘さしますから(それお使いになってくださいの意)」
と折りたたみを開こうとしたら
「自衛官は雨の日でも傘さしてはいけないことになっていますから」
と自分は傘の外で濡れながらおっしゃいます。(´;ω;`)
「ああ・・・そうでしたね」
そんなに雨量は多くなかったとはいえ、そうやってずっと雨の中歩いているのに
制服があまり濡れている様子がなかったのは実に不思議でした。
やっぱり自衛官の帽子も制服も、そして自衛官自身も特に雨に強い仕様のようです。
ところどころには明らかに昔から遺ると見られる構造物あり。
ここも地下道に繋がる入り口だったのでしょうか。
階段の左手の道を海に向かって下って行く道沿いにも・・。
「手前の小屋は戦後できたものだと思います」
赤煉瓦の建物は今でも被覆倉庫などに使われています。
窓から扇風機が見えているので、ここも使われているのは確か。
アーチの形をした部分はかつての入り口で、その右側に
いつかはわかりませんが穴を開けた部分は今は窓になっているようです。
上にコンクリートのひさしが出た部分も地下道への入り口だそうです。
上空からはわかりにくいように作ってありますね。
これが地下司令室となっていた壕の入り口です。
昨年度の殉職自衛官慰霊式のとき、ここから儀仗隊が出てきて、
儀礼終了後はここにまた入って行ったので、てっきり中は
どこかに繋がっているのかと思ったのですが、
入り口には閉鎖されている木の扉があるだけでした。
公開前ということで写真をアップすることは控えさせていただきますが、
扉の脇のガラス越しに中をのぞいて見ました。
真っ暗ですが、副官氏がスイッチを押すと中の電灯がつき明るくなりました。
扉の中には一間くらいのスペースがあってその向こうにもう一つ扉があります。
「中の構造調査をしたのですが、その結果から、
見学の際にはヘルメット着用になる可能性もありそうです」
安全工事を根本からやるにはやはりお金がかかってしまうとのこと。
わたしが富豪ならいくらでも寄付させていただくんですが・・。
ところで、グーグルマップで呉地方総監部を見ると、地下への入り口を防護する
この写真で見るところの頑丈なコンクリート建造物は、
その下に地下道への入り口があるとはわからないような設計になっています。
さらにマップではわたしがスカートを引きずった防空壕の入り口も全くわかりませんし、
空から、つまり敵の飛行機からわかりにくいように工夫されていたんだなと
改めていろんなことを考えさせられました。
わたしがお願いをする形で桟橋まで連れて来ていただきました。
このチャンスを逃したら、自衛隊基地の中を見て回る機会はいつ来るかわかりません。
「建物そのものは変わっていると思いますが、昔からこの場所には
出港を待つための待機所がありました」
この入り口には「艦隊桟橋待機所」と木の看板がかかっています。
かつてはここで呉鎮守府長官はじめ海軍軍人たちが出港を待ったのです。
昭和20年2月、「北号作戦」に戦艦「日向」「伊勢」を率いて向かう
第四艦隊の指令、松田千秋海軍少将。
昭和20年3月、坊ノ岬沖での特攻作戦を伊藤長官に説得するため
「大和」に乗り込んだ草鹿龍之介中将も、きっとその前には
ここでしばしの時間を過ごしたのに違いありません。
鈴木貫太郎、野村吉三郎、山梨勝之進。
嶋田繁太郎、豊田副武、南雲忠一。
これらの歴史に名を残す軍人たちが、呉鎮守府長官だったときにも
同じ場所からランチに乗り込んでいったはずです。
画面右側はここと端っこで繋がる呉教育隊の敷地になり、
港には重油船や水船などの支援船が繋留されています。
教育隊の訓練用のカッターが吊られたデリックはこちら側にあります。
このデリックに隠れて見えませんが、向こう側には陸橋があって、
地方総監部と教育隊は外に出ずに行き来できるのだそうです。
「今日は妙に水位が低いです」
いつもは藤壺のあたりくらいまでは潮が来ているものなのだそうです。
ご案内くださった副官氏が潜水艦徽章をつけておられたので、
「潜水艦出身ですか」
「何に乗ってらっしゃったんですか」
と防空壕そっちのけで潜水艦の話に突入し、「せきりゅう」引き渡しを見たこと、
「はくりゅう」の中を見学させていただいたことなどを話しました。
横須賀におられたこともあるというので、
「今年のカウントダウンも見に行きました。
潜水艦が電飾で年号をセイルに書いていて・・・」
すると、
「外側に当たった潜水艦はあれをやらないといけないので
〈ぴーーーーーーーー〉なんです」
「あー、大変そうでした。年が明けた途端年号を変えたりして」
そうかー、あそこに年末繋留することになった潜水艦の人は内心
〈ぴーーーーーーーーーー〉だったんだ・・・(しみじみ)
あと、うかがった中で一番面白かった話は、潜水艦の天敵の話でした。
「そうりゅう型某潜水艦を見学したとき、対哨戒機の訓練のことなど
聞かせてもらったのですが、そのとき確か
『Pー3Cは天敵!』っておっしゃってまして、
『この後総監にお会いになるんですよね。このことは言わないでください』
(呉地方総監はP-3C操縦)なんて・・・」
とわたしがいうと、副官氏は頷いて
「実際、同じ自衛隊の飛行機なのに、潜水艦の人間はあれを見ると
〈ピーーーーーーーーーーーーーー〉という気分になるんです」
ま、まじですかい。
「同じ自衛隊の味方なのに」
そういう彼の表情には、あながち冗談とは言い切れない何かがありました。
航空機の中でも特に対潜用に特化されたのがP-3C です。
一般的に潜水艦対航空機は、航空機の方が優位だと言われます。
潜水艦には航空機を撃ち落とす手段がほとんどなく、はるかに高速であり
広い水域から潜水艦を発見することも可能。
おまけにソノブイを投下して潜水艦を捕捉したり、 MAD(磁気変動探知機)で
磁力の乱れから潜水艦の存在を探知することができ、
さらにはその情報を水上部隊や陸上基地と共有して四方八方から追い詰めてくるのです。
しかし「そうりゅう型」の人たちは訓練でそれら全てに勝った!
と誇らしげにいっていたので(詳細は残念ながら忘れた)、
よほどこの潜水艦は優秀だったということだったのでしょう。
というわけで、
「幹部候補生学校を卒業した人は、江田島には行くのも嫌だ」
「潜水艦の人はPー3Cが嫌い」(逆もまた真なり)
というのは都市伝説ではなかったらしいことが、最近の呉訪問で
図らずも証明されることになったのでした。
さて、呉地方総監部では、例年7月に行われる納涼花火大会に、今までと違い
広く市民に呉地方総監部の内部を公開するという方針が決まったということで、
防空壕の公開もそのときに間に合えばという方向で調整しているそうです。
海軍時代の歴史遺産である防空壕内部公開に関心をお持ちの方には、
どのような形で公開になるかも含め、呉地方隊のホームページを随時チェックして
情報を得られることをお勧めして、今回の見学ご報告とさせていただきます。
続く。