女性が軍と関わることになった原初的な理由は、看護師の必要性でした。
戦闘によって必ず出る負傷者の手当は女性にもできるからです。
南北戦争の時も、例えば彼女、メアリー・ウォーカーズ博士は医師の資格がありながら、
軍医ではなく、看護婦として従軍することを余儀なくされましたが、それは
看護婦以外の女性の従軍が許されていなかったからです。
南北戦争時、「民間人によるボランティア」という形で活動していた看護隊ですが、
その後1908年になって、アメリカ海軍は初めての看護部隊を編成しました。
それが彼女ら、「聖なる二十人」といわれた看護師たちの部隊です。
説明がなかったので詳細は不明ですが、ヘルメットの形とガスマスクから、
第一次世界大戦時に撮られた写真であることは間違い無いでしょう。
前線にいるわけでは無いのですが、ガスマスクを支給されたので
ちょっとつけてみました的な・・・?
この戦争では看護衛生以外、例えば彼女たちのように
メッセンジャーの役割で従軍していた女性たちがいたようです。
これも艦内の壁をくり抜き、ガラスをはめて展示してあった割には説明がなく、
どこで使用されていた鐘かは不明なのですが、装飾してある木製の台を見ると、
アスクレピオスの杖かな?と思われる紋章が入っているように見えます。
このマークはアメリカ陸軍医療部隊のものです。
蛇足(文字通り!)ですが、医療のシンボルとされるアスクレピオスの杖は、
蛇が一匹だけ杖に絡みついているものを指します。
こちらはアスクレピオスの杖ではなく、蛇が二匹で上に翼がついており、
であるというのが正解です。
ケリュケイオンの杖は、医療ではなく「商売や職業や事業」を表すもので、
これを医療部隊が使うのは「誤った認識によるものである」(wiki)のですが、
ケリュケイオンの効能?の中に
「眠っている人を目覚めさせ、目覚めている人を眠りにいざなう
死にゆく人に用いれば穏やかになり、死せる人に用いれば生き返る」
というものもあるので、あながち間違いと言い切れないような気もします。
赤十字の看護師を募集するポスターには、まるで映画の一シーンのように、
傷つく兵士を抱きかかえる美人の看護師が描かれ、
「戦う男たちには看護師が必要だ」
という直裁な誘い文句が書かれています。
ここに展示されているのは、いずれも医療関係の女性軍人の制服ばかり。
左から解説していきますと、
(黄色のシャツドレス)第二次世界大戦時
コットンのシャツドレスはアメリカ赤十字の女性たちが製作したもの。
ドレスにはプリンセスシームとダーツがあしらわれ、
女性らしいラインを強調するデザインになっています。
ポケットは飾りではなく実際に使用することができ、カフス、襟と
看護帽の前を白くしてデザインのポイントと看護着らしさを表現。
(グレイのシャツドレス)第二次世界大戦後
このコットンドレスも、病院のメンバーと赤十字のメンバーが
レクリエーションとして縫ったものと言われています。
このタイプはのちに「グレイ・レディス」と呼ばれていました。
白のカフスとエポーレット、そして看護帽前部が白というもので、
これがナーススタイルの典型とされたスタイルです。
結局このタイプは十五年間くらい使用されていました。
(黒のケープ)第二次世界大戦中
グレイ・レディスの上に着用している黒のライトウールのマント、
これは非常にレアなものだそうです。
マンメイド、つまりカスタムメイドではなく特注となり、
値段もお高かったので、誰でも持っているというものではなかったのです。
言われてみると、スタンドカラーといい、裏地にグレイという
凝った作りといい、いかにも手がかかっているような感じ。
ケープそのものもスリーパネルのはぎ合わせで、裁断も素人には無理そうです。
赤十字の人が余暇に作ることはできないでしょうから、
おそらくテーラーに注文して手に入れるものだったのでしょう。
それでもどうしても着たい!ってことで作っちゃう
おしゃれな(そしてリッチな)看護師さんもいたんだろうな。
(グレイ・ドレスジャケット)第二次世界大戦中
チャコールグレイの上着はウールで、裏地はダクロン・ポリエステル製。
バックにはダーツが入っています。
ラペルのブルー刺繍がポイントのこのジャケット、左袖には
二つのパッチが縫い付けられ、非常に珍しいものだそうです。
右袖にはこれを寄付した人物が所属したところの、
陸軍第7大隊のマークがついています。
(グレイ・ベルト付きコート)第二次世界大戦時
エポーレットには緑のパイピングが施されています。
シングル打ち合わせのコートはこれも裏地がダクロン製。
ウィングチップのカラー、ショルダーパッド入り、
背中はハイキックプリーツのベント。
エポーレットとマッチするように、カフスにも緑があしらわれています。
アメリカ赤十字社は1881年、南北戦争に従軍し、
「戦場の天使」「アメリカのナイチンゲール」
と言われたクララ・バートンによって設立されました。
戦時、赤十字はアメリカ軍のために様々なサービスを行うわけですが、
最も重要と思われるのは、家族と戦地を結ぶ緊急連絡をとりもつことです。
また退役軍人の団体などと緊密に協力し、彼らにきめ細やかなサービスを提供しています。
ただし、戦争捕虜は国際機関である国際赤十字委員会の所掌となっています。
赤十字の活動の中に、前線の後方で女性がコーヒーとペストリーを兵士に配る、
(彼女らはボランティアで志願)というものがありましたが、彼女らは
「Doughnut Dollies」(ドーナツ・ドリー)
という愛称で兵士たちに親しまれていました。
こちら、赤十字社の創立者、クララ・バートン女史でございます。
南北戦争が起こった時、志願して従軍した彼女は、負傷者の手当だけでなく、
物資の配給や、患者の精神的ケアも行い、いくつもの前線を体験しました。
彼女はこの戦争で前線の病院の責任者に軍から任命されています。
4分くらいから彼女が登場し、妙にロマンティックなストリングスのBGMの中、
天使と言われた彼女の活動が描かれます。(おヒマな方用)
南北戦争後、彼女は多くの家族や親戚から戦争省あてに
兵士の行方を問い合わせる手紙が来ていることを知り、
無名兵士の墓などに埋葬されてしまって行方が分からなくなっている兵士の
身元調査を行う活動の許可を、リンカーン大統領直々に願い出ました。
その後起こった普仏戦争にも従軍した彼女は、帰国してから
アメリカに赤十字を設立する運動を開始し、その8年後の1881年、
設立が成った赤十字会長に自らが就任しました。
時にバートン、60歳。
普通なら男性でも仕事を引退してそろそろ楽隠居という年齢です。
しかもそれから23年もの間、実際に被災地に赴くなど精力的に活動を行い、
会長の座に君臨し続けたのでした。
しかしさすがに83歳になったとき、
「公私混同を非難され」
引退を余儀なくされた、となっています。
自分で作った組織という意識が老いの頑迷さも手伝って、
専横な振る舞いに繋がってしまったということかもしれませんが、
まあ・・・83歳ですからね。
それまで無事にやってこられたってのが逆に不思議なくらいです。
こちらのアーミー・フィールズコートは、女性用外套です。
バスローブのような打ち合わせの、裏地のついたコートですが、
目を引くのは全面に縫い付けられた無数のパッチ。
負傷などで入院していた兵士たちが全快して退院するとき、自分がここにいた記念と
お礼を兼ねて、置いていった自分の所属部隊のパッチを縫い付けたものです。
このコートはマーガレット・クリスト大尉(写真)の所有で、
彼女はイギリスの第155陸軍病院に勤務していました。
公式に陸軍に看護部隊ができたのは1901年のことになります。
第二次世界大戦時、2万人以上の女性が看護師として海外に赴き、
後方にあった1000もの病院の勤務に就いていました。
多くの戦場で、彼女たちは最前線にごく近いフィールドテントにも詰め、
そこで傷ついた男性の治療に当たることもありました。
これは「モア・ナース・ニーデッド」(もっと看護師が必要です)
と書かれた陸軍看護師募集のポスターですが、
こちらを見ながら渋く語っているらしいイケメンの
「The Touch Of The Woman Hand...」
という言葉にグッとくる女性を狙ってのことでしょうか。
そもそもこの男性が医者なのか患者なのかもわからないわけですが。
白い肩パッドの入ったテーラードスーツ、タイトスカート。
海軍のナースの制服のなんと凛々しく美しいこと。
南北戦争時代、「レッドローバー」という病院船があり、
それに看護師が乗っていたという記録はありますが、
冒頭写真の「聖なる二十人」の誕生する1908年まで、
海軍には正規の看護部隊はありませんでした。
彼女らが先鞭をつけることで、第一次世界大戦の頃には看護師の数は拡大し、
海外、フィリピン、サモア、グアムなどの海軍病院や訓練学校に配属されていきました。
そうと聞いても驚きませんが、彼女らにとってもっとも困難だった仕事の一つは、
海軍病院の部隊で教官となったとき、女性から命令されることに反発する
男性の訓練生の指導であったということです。
第一次世界大戦時、海軍の看護師部隊は、基本的にイギリス、フランス、
アイルランド、スコットランドなどに派遣され、前線近くの
陸軍基地に、一時的に陸軍のために仕事を行うこともありました。
1918年から1919年の間に12万人の水兵や海兵隊員が犠牲になったといわれる
スペイン風邪のパンデミックのときには、彼女らの中に数名の殉職者を出しています。
真珠湾攻撃の時、海軍の看護師たちは、海軍病院で何百人もの負傷兵の治療にあたりました。
そういえば、映画「パールハーバー」のヒロインは海軍のナースでしたね。
トリアージをするのに、自分の真っ赤な口紅をバッグから出して、
負傷兵のひたいに「緊急」「後回し」「死ぬ」など印をしてましたっけ。(悪意あり)
そして、
「あんたの破れた血管を手でつかんで血を止めてやったのは誰?」
とかいって入院していた兵隊を脅迫し、自分の恋人の居所を聞き出すとかね。
・・・・・ろくなもんじゃねえこの看護師(笑)
さて、そのような戦後の映画が作り上げた架空の人物のことはどうでもよろしい。
最後に、看護師の職に準じたある若い女性をご紹介しましょう。
フランシス・スレンジャー Frances Slanger(1913-1944)
彼女はヨーロッパ戦線で最初に亡くなったアメリカの看護師でした。
彼女はポーランド生まれのユダヤ人として生まれましたが、
迫害を逃れ、家族とともにマサチューセッツ州ボストンに移住していました。
その後ボストン市立病院の看護学校に通い、1943年には陸軍看護師団に入隊。
ヨーロッパに派遣され、D-Day侵攻後、ノルマンディーフランスで医療活動にあたりました。
そして任務の済んだある夜、宿舎となったテントでこんな文を含む一通の手紙を書きました。
「銃の背後にいる人、タンクを運転する人、飛行機を操縦する人、
船を動かす人、橋を建てる人 ・・・・・。
アメリカ軍の制服を着ているすべてのGIに、私たちは最高の賞賛と敬意を払います」
これを書き終わって一時間後、彼女はドイツ軍の狙撃兵に撃たれ、戦死。
わずか33年の生涯でした。
その後、彼女の名前は、陸軍の病院船” Lt Frances Y. Slanger "に遺されました。
続く。