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ロニー、ウィニー、ロージー・ザ・リベッター〜ミリタリー・ウーメン

2017-08-21 | アメリカ

戦艦「マサチューセッツ」内の展示、ミリタリー・ウーメンシリーズ最終回です。

航空、事務、医療、通信、暗号などの仕事で軍に直接関わった女性だけではなく、
戦地に出た男手が足りないのを補うため、軍事産業に携わる民間人女性がいました。

 

日本では世界大戦が始まってから、国家総動員法が制定され、
「国民皆兵」をスローガンに徴用が始まり、勤労動員として
軍需工場などに女性も働きに出ることになります。

余談ですが、朝鮮人徴用について少し触れておきますと、
国民徴用令が出されてもしばらく彼らは適用外とされていました。
しかし戦争が激化し、1944年8月に徴用決定後は終戦まで継続されます。
ちなみに日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月で終了しています。

徴用は宿舎を用意され、正当な報酬が支払われたため朝鮮人の間で人気があり、
三菱鉱業が朝鮮人対象に求人したところ倍率は7倍になったそうです。

戦後、賃金の一部が未払いであったことが問題になりましたが、
それも戦後、両国間の協定によって未払い賃金を含めた経済支援が韓国に行われ、
完全かつ最終的に解決された・・・・・はずなんですが、
今頃になって韓国が徴用を「強制」とし、大企業を訴えたりしてますね。

つまり「協定で解決済み」で終わる話なんですが、とにかく相手は
日本からの謝罪と賠償のネタを失いたくないばかりに、
ゴールポストを動かし続ける国ときていますから、最近も
「徴用工の像」なるものを作って嫌がらせにかかっています。


さて、国家総動員法が布告されたわけではありませんが、アメリカでも
同じように出征した男性の穴を埋めるために、それまでの男の職場に
女性が働き手として進出することになりました。

主婦を対象に働き手を募集することになったある企業のポスターには

「ミキサーは使えますか?それならあなたはドリルを操作することもできます」

という誘い文句が書かれていました。
家事がおろそかになるとそれに文句を言う(戦争に行かない)夫たちに対しても、
当の女性たちにも、彼女たちの労働が兵士たちを支援することになることに
誇りを覚えるようなプロパガンダが政府主導でなされたのです。

「ロージー・ザ・リベッター」はそのアイコンとなりました。

女性の働き手が国策によって男性の職場に進出しだしたのは真珠湾攻撃以降ですが、
彼女らを象徴的に表す「ロージー」の出現は、1942年になってからです。

この「ロージー・ザ・リベッター」と言う歌は、ナットキングコールやドリス・デイのために
作詞したこともあると言うレッド・エバンスとジョン・ロエブによって作曲され、
ビッグバンドなどがカバーして有名になり、流行しました。

歌詞で「ヒストリー」と「ビクトリー」の韻を踏んだり、

「彼女のボーイフレンド、チャーリーは海兵隊にいる
彼女は工場で働き、彼を守ることに誇りを持っている」

などといういかにも官製プロパガンダといった内容とはいえ、
そんな歌詞を流行りのスタイルに乗せた、ノリのいい曲です。

リベッターの『R』で「Rrrrrrrr」と舌を巻くのは個人的にいまいちですが。

最後には

「またキッチンに私たちを戻してね」=「早く戦争を終わらせてね」

とエプロンをした女性が呼びかけています。

 

戦時中の軍需産業勤労女性の象徴となった「ロージー」のモデルと言われる人物は
何人か名前が挙がっており、
サンディエゴのコンベア社(現在はジェネラルダイナミクス社に吸収)で
働いていた、ロージー・ボナヴィータであったとする説、
ケンタッキーのウィロー・ラン航空会社でBー24、Bー29を作っていた
ローズ・モンローだと言う説、

ローズ・モンロー

コルセアでガルウィングのF4U戦闘機のリベットを打っていた
ロザリンド・P・ウォルターであったとする説。

実際のところ、本物のロージーはなく、歌ができてから
「それらしいロージー」を仕掛け人たちが探し歩き、
見栄えのいい(モンローは映画出演も依頼されている)
ロージーを何人かでっち上げ?たというのが本当のところのようです。

日本ではあまり有名ではありませんが、アメリカではこのポスターを
例えば軍事博物館の売店などで見ないことはありません。

わたしもいろんなところでこれを頻繁にみるうちに、いつのまにか
これが「ロージー・ザ・リベッター」であると思い込んでいたのですが、
こちらはウェスティングハウス・エレクトリック社が依頼したポスターで、
よく見ると右襟には同社の身分証明バッジがつけられています。

つまり、これはロージーとは何の関係もなく、WE社が二週間使っただけで
ほとんどのアメリカ人は第二次世界大戦中このポスターを見たこともなかったのです。

ロージー・ザ・リベッターを広めるためにポスターを依頼されたのは、
実はあのノーマン・ロックウェルでした。

しかしこちらは、ロックウェルの著作権がガッチリと生きていたため、
戦後もそれほど有名になることはなかったということです。

”WE CAN DO IT! ”のポスターは長らく埋もれていましたが、1982年に再発見され、
当時はいわゆるウォーマンリブ、フェミニズム運動のシンボルとして使われ、
それ以降全米で有名になりました。

撮影年、場所は不明ながら、当時の”ロージー”たち。
頭につけた防具から、溶接の担当であったらしいことがわかりますね。

女性が、となるとどうしてもこういう、こんな美人がこんなことしてますよ、
というギャップで注目を集めようとする傾向が生まれるのはこれはもう
人の世の常というか、致し方ないことかもしれません。

モノクロ写真でもはっきりと彼女が当時の流行りの口紅
(パールハーバーでヒロインがつけていたような真っ赤)
をつけて溶接作業を行おうとしているのがセクシー。

ここで実際に「その他大勢のロージーの一人」に、当時のことを語ってもらいましょう。

ヘレン・マーフィ・オコネル・マーチェッティさんはこう語ります。

”金属加工の第二シートに配属されたの。
プレスをする仕事だけど、男の仕事をわたしができるか最初は不安だったわ。
でも、数週間経つと完璧に仕事をマスターしたの。

そう、わたしはやったのよ。

最初の日にボスのマクドナルドさんが私たちにやり方を見せてくれて、
そのあと実際に誰かやってみろ、って言ったのね。
エセルが14人いた女性の一番前にわたしを押し出したので、
そのおかげでわたしは、

「最初にここで仕事をした女性」

となったってわけ。
マクドナルドさんは

「あー、君はこのマシーンに興味があるみたいだね?

なんていうのでガックリ来ちゃったけど。
でも結局私たち全員、この仕事をちゃんとマスターできたのよ。

この機械はとにかく騒音がものすごくって、そうね、
最初に働き出した時には巨大なコーヒーミルの中にいるみたいだった。
全ての機械が「ガーッ!」「ガーッ!」「ガーッ!」これが一日中。
そして戦争が続いている間、これがずっと続いたのよ。”

また、エレノア・へガーティ・ウィリアムスさんは、当時の工場勤務の女性が
男性から受けた仕打ちについてこう語っております。

”男たちの私たちに対する扱いはいいとは言えなかったわ。
彼らは私たちを野次ったり、口笛を吹いたり、仕事ができなくて
困っている時にも助けるどころかあざ笑ったりしていたの。

誰一人として私たちが困難な目にあっても助けようとしなかった。
だから頼れるものは自分だけ。
造船所の旋盤の前でも、船の上でも、野外であってもよ。

わたしたちは重たい索をバルクヘッドから引いて来て手で引っ張ったわ。
死ぬほど辛かったけど、でも誰も男の手を借りにいこうとはしなかった。
彼らにそれを知らせることすらしなかったわ。

労働環境は最悪、だってもともと男が働くための施設なんですからね。
労働者にはサボタージュする者もいたし、強姦や窃盗すらあったわ。
だからそこにいる時には全身に神経を張り巡らせ、自分を守るの。
一人では行動せず、いつもパートナーと動かねばならなかった。

それはともかく、わたしがここで働いていてもっとも誇らしかったのは、
何と言っても重巡洋艦「ピッツバーグ」が進水した時だったかしら。
彼女の巨大な船体が水の中に進んでいくのを見ながら

「ああ、あのターレットやバルクヘッドの一部はわたしが作ったのよ!」

って・・・感無量だったわ。
わたしには兄弟が3人いて、一人は海兵隊、一人は海軍、
もう一人は沿岸警備隊にいたの。
彼らの乗る船も、わたしのような女性が精魂込めて作ったものだったのよ。”

さて、ここ「マサチューセッツ」が展示艦となっているフォーリバーには
造船所があったことを前にも「キルロイワズゼア」の落書きについて説明するついでに
お話ししたかと思いますが、この「ロージーさん」は、フォーリバーに関する蘊蓄を

「Ten Fast Facts」

として10項目教えてくれる係。

ざっとご紹介しますと、

1、クィンシーは、ジョン・アダムスが最初に海軍を結成した地です。
 議会は彼の提案を承認し、米国海軍がここに誕生しました。
 アダムスは生涯自分が海軍の父の一人であることを誇りにしていました。

2、米西戦争が起こった後、アメリカは鋼鉄製の船を必要とするようになり、 
 それまでの木製から鋼鉄製に船を造り変えていくために造船所を作りました。
 グラハム・ベルの電話の発明に関わって財を成したトーマス・ワトソンが、
 ここにフォーリバー造船所を造り、歴史に名を残しました。

3、フォーリバー造船所はあらゆるタイプの造船が可能な設計で、
 空母から戦艦、巡洋艦、そして潜水艦を全て作ることができました。
 民間船でもフルーツボートから豪華客船まで、作れないものはないというくらい。

4、海軍の船の艦名はどうやってつけているか?というよくある疑問について。
 戦艦(今は潜水艦)は州名、巡洋艦は都市名、駆逐艦は人名、そして
空母は大統領名か、戦争の時の提督の名前です。

5、「キルロイ・ワズ・ヒア」というのは、第二次世界大戦時に流行った落書きです。
 ジェームズ・キルロイはここクィンシーの検査官で、検査済みの箇所に
「キルロイ」のサインをチョークで入れたことから、海軍軍人を通じて広まりました。

(この写真の説明下部に”キルロイ”の例の顔が見える)

6、ガダルカナルの戦いでヒーローとなったレオナルド・ロイ・ハーモンの名前をつけた
 駆逐艦「ハーモン」はここクィンシーで建造されました。
 これは史上初めてアフリカ系軍人の名前がつけられた軍艦になりました。

 彼は同じ薬剤師の同僚を庇って「サンフランシスコ」艦上で敵の銃弾を受け死亡しました。

7、最初の原子力搭載艦はクィンシー造船所で建造されました。
 原子力ミサイル巡洋艦「ロングビーチ」とミサイル巡洋艦「ヴィンセンス」です。

8、第二次世界大戦の間、史上初めて女性が工廠の仕事をすることになりました。
 彼女ら※「ウィニー・ザ・ウェルダー」たちは偉大な労働者であることを証明し、
 戦時非常態勢において、その造船数は記録的なものになりました。

9、第二次世界大戦中にクィンシーで建造された船には、
日本側が三度も撃沈したと発表するもその度に生き返って姿を現したことから
「ブルー・ゴースト」とあだ名されていた空母「レキシントン」、

そして35回の戦闘において一人の人命をも失わなかった
戦艦「マサチューセッツ」などがありました。

「マサチューセッツ」の16インチ砲は、第二次世界大戦の最初と、一番最後に発砲されました。

巡洋艦「クィンシー」はDーデイの時に最初に砲弾を撃ちました。
彼女は現在もクィンシーセンター駅に残されている鐘を残し、解体されました。

JFKの兄であるジョセフ・P・ケネディJr.の名前をつけた駆逐艦も
ここで建造されました。
彼は爆撃機のパイロットでしたが、任務途中で戦死しました。

10、 USS「セーラム」も第二次世界大戦中にここクィンシーで建造が始められました。
しかし彼女が運用されたのは戦後で、一度の戦闘も行わずに引退しました。

彼女の名前「セーラム」には「平和」という意味があります。

 

 

また当時「ウィニー・ザ・ウェルダー」というロージーの別バージョンもあり、
カリフォルニアのカイザーリッチモンドリバティー造船所の労働者である
ジャネット・ドイルをモデルにしていたといわれています。

このほかにも、

ロニー・ザ・ブレンガン・ガール(Ronnie, the Bren Gun Girl)

と言って、カナダでブレン軽機関銃を組み立てていた女性を
カナダ系軍需労働女性のシンボルにするというムーブメントもありました。

彼女はジョン・イングリスという兵器工場の労働者で、名前は

ヴェロニカ・フォスター

組み立てたばかりのブレン軽機関銃を前に、タバコを一服やっているフォスター。
外は真っ暗。
夜遅くまで仕事して、しかもまだ帰れないらしいことがわかります。

ブレンガンガールのロニー、ウェルダーのウィニー、そしてリベッターのロージー。

国策でもてはやされた勤労女性の象徴の戦後はどのようなものだったのでしょうか。
先ほど体験談を語ってもらったエレノア・ハガーティはこんなことも言っています。


「戦争が終わって女性が解雇された時、複雑な感情だったわ。
男の人が戦争から帰って来て元の職場に戻るのは確かに喜ばしいことだけど、
わたしは途方に暮れてしまった。
『じゃあわたしはこの後ここからどこに行けばいいの?』って・・。


彼女らのアイコンであった「ウィ・キャン・ドゥー・イット」が、80年代に発掘され、
女性の人権を訴える運動のシンボルに担ぎ上げられたのは、何かの因縁でしょうか。

 


ミリタリー・ウーメンシリーズ終わり