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オーストリアの英雄 プリンツ・オイゲン〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-02 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しています。
展示は三十年戦争に始まり、テーマごとに部屋が分かれています。

次の戦争は「大トルコ戦争」。
全く聞き覚えがありませんが、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアの
「神聖同盟」とオスマン帝国の間に起こった戦争で、この結果、
オスマン帝国が衰退していったというものだと理解しておきましょう。

ご覧の鎖帷子はかなり位の高い武人のものらしく、
いたるところに宝石まで飾りとして縫い付けられています。

帽子からオスマン帝国軍かなと思ったのですが、説明が読めません(T_T)

このトルコ戦争で神聖同盟のハプスブルグ帝国軍を率いたのが、かの

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

日本ではプリンツ・オイゲン(ちゃん)の名前で有名です。
この博物館の子供向けキャラクターが「オイゲンくん」であることからも、
この人物はオーストリアで最も有名な武人であることがわかります。

三番目の展示は、このプリンツ・オイゲンに関する資料です。

博物館はこの「高貴なシュバリエ」に敬意を評し、ホール全体を
プリンツ・オイゲンにまつわるもので埋め尽くしているのでした。

まず、プリンツ・オイゲンを描いた巨大な肖像画が現れました。

絵の右下にカツラが飾ってあるので、もしかしたらプリンツ・オイゲン着用の
カツラなのか?と思ったのですが、単に消火器カバーのようです(´・ω・`)

さて、ここでせっかくの機会ですので、なぜプリンツ・オイゲンが、
オーストリアならずヨーロッパ全土で英雄と呼ばれているのか、
どういう経緯でヨーロッパ史上最高の軍事司令官と讃えられるのか、
兼ねてから気になっていたところをちょっと調べてみることにしました。

 

日本の我々、特に艦これ関係の方は、プリンツ・オイゲンがドイツ人だから
その名前がドイツの巡洋艦に付されたのだと思っているかもしれませんが、
実は彼はフランス生まれで、19歳までフランスで育っています。

フランス語読みによる名前は

プランス・ウジェーヌ=フランソワ・ド・サヴォワ=カリニャン。

ウジェーヌ=オイゲン(ユージーン)は1663年、パリに生まれました。

貴族の生まれですが、一説にはルイ14世の落とし胤という噂もあるそうです。
ぜなら、彼の母オランプ・マンチーニはルイ14世の愛人という噂があったからです。
彼はルイ14世の宮殿で8人兄妹の末の男の子として育ちましたが、

その貧弱な体格と立ち振る舞いのせいで

小さい時は聖職者にでもなれれば儲けもの、といわれていたそうです。
当時の聖職者って、そういう職業だったんですかね。

彼の父親となったソワソン伯は「勇敢だが魅力のない男」だったそうですが、
落胤の噂が噂に過ぎなかったすれば、彼は父親似ということになるのでしょうか。

彼の容貌についてある夫人はこう評しました。

「彼は決して容姿が優れているとは言えませんでした。
眼は決して悪くありませんでしたが、鼻がそれを台無しにしていましたし、
大きな二本の前歯がいつも口から見えていました」

Savoy.PNGのPrinz Eugene

確かにわたしもプリンツ・オイゲンの肖像画を見て、ここだけの話、
勝手にがっかりしたことがあるのですが、大出世してからの、
フォトショ以上に修正の可能な肖像画でこれだとしたら、おそらく本物は、
不器量に加え、今でいう隠キャで坊主になるしかなさそうな()
冴えない少年期を過ごしたのでしょう。

ちなみにわたしが一番お気に入りのオイゲン像はこれ。
確かに本人ですが、随分とかっこいいではないですかー。

ちなみにこれが描かれたのは1700年のことで、おそらく
これはその三年前、ゼンタの戦いにおけるオイゲンだと思われます。

「Portrait of Prince Eugene of Savoy (1663–1736) c. 1700. Flemish School」の画像検索結果

もひとつついでに、これはカツラで顔を隠しすぎたで賞。

 

さて、19歳の時、彼は軍人を志すことを決めました。

ところが、ここに彼のお騒がせカーチャンが、ルイ14世の愛人、しかも
自分が紹介した愛人を毒殺しようとしたというスキャンダルが持ち上がったのです。

Olympia Mancini by Mignard.pngオランプ・マンチーニ

ルイ14世はそのスキャンダル以降、彼女や彼女の子供たちにも冷淡で、
ウジェーヌが直々にルイ14世にフランス軍に入隊したいと言いに来た時、
請願に来た時の態度が、

「請願の内容は控えめだったが、彼の態度は控えめではなかった。
誰もわたしに対して向けたことがないような無作法な目でわたしを見た」

というものであったこともあって、フランス軍への入隊を許可しませんでした。

 

しかし結果的にこの時の太陽王ルイ14世の判断は、20年後、彼とフランスに
しっぺ返しとなって返って来ることになります。

スペイン継承戦争におけるベレンハイムの戦いで圧倒的な軍事力と政治力により
フランス軍を打ち負かしたのは、彼が追い出したウジェーヌ=フランソワ改め、
ハプスブルグ帝国軍司令官オイゲン・フランツだったのですから。


フランス軍への入隊を王直々に拒否されたウジェーヌは、オーストリアに移り、
ハプスブルグ帝国の軍人となって忠誠を誓いました。

フランス人だった彼がある日突然オーストリアで名前の呼び方を変え、
言語を変えてかつての祖国と戦うという感覚は、現代に生きる人間、
ことに非ヨーロッパ人にはわかりにくいですが、そもそもヨーロッパは
ハプスブルグ家を中心に全土に血縁を築いてそういう意味では
国境というより血族、といった概念が成立しており、オイゲンの家、
サヴォイ家も、スペインやイギリス皇帝の孫の血が流れていたので、
自分が何人かということは問題にしていなかった可能性があります。

あと、気になるのは言語です。
彼はいきなり異国に行って、言葉は困らなかったのでしょうか。

実際に彼はマザータングであるフランス語を好んではいましたが、
レオポルド1世はフランス語を話すことができるのに決して話さなかったため、
なんとイタリア語でコミニュケーションしていたそうです。

そして、軍人としての彼は、全てをドイツ語で行いました。
機能的で軍隊の指揮には向いていると言われるドイツ語を習得するのは
彼にとって極めて簡単なことであったようです。

彼がオーストリア軍人になったのは1683年、二十歳の時でした。
初陣はトルコ戦争でしたが、すぐに軍人としてめきめき頭角を現し、
若くして隊長に任命されるや、その才能は開花しました。

彼がどんなに優れた軍人であったかは、

22歳で少将、24歳で中将に任命された

ことにも表れています。
ある軍人は、

「この若者は必ずいつか世界の偉大な軍人の列に名を残すだろう」

と称賛しました。

そしてその統率力が最大に発揮されたのは36歳の時。
同じトルコ戦争の1697年「ゼンタの戦い」で若き帝国軍司令となった彼は、
神聖同盟の総指揮官としてオスマントルコ軍に対し目の覚めるような勝利を挙げたのです。

ウィキはこの結果を「神聖同盟の圧勝」と記します。

レオポルド1世のもとで彼は重用されました。
オイゲンは生涯結婚せず子供も成しませんでしたが、その理由はともかく、
かつて隠キャ扱いされたその容貌は、レオポルド1世の「陰鬱な」宮殿では逆に
禁欲的で軍人らしいとむしろその評価を高めていたといいますから、
人生何が幸いするかわかりませんね。

オイゲンも、その新たな忠誠心をこのような言葉で誓いました。

「私は、全ての力、全ての勇気、そしてもし必要とあらば
最後の一滴の血に至るまでを皇帝陛下に捧げます」

彼は軍人として名誉の負傷もしています。
1688年、ベオグラードの包囲中、膝にマスケット銃の球を受け、
1年間戦線を離脱することになりました。

冒頭写真のような膝頭まで覆う鎧を着ていれば防げたかもしれません。

ゼンタの戦いは彼を英雄にし、有名にしました。

皇帝から与えられたハンガリーの土地は彼に多額の収入をもたらし、
彼はそれによって芸術と建築の趣味に磨きをかけることができました。

しかし、彼は裕福となっても家族とのつながりとは無縁でした。
彼の4人の兄弟は1702年までに全員早世していましたし、
3人の姉妹のうち生きていた二人も、オイゲンは全くつながりを持とうとせず、
結局悲惨な暮らしの中に死んだといいます。

 

1701年からオイゲンはスペイン継承戦争の指揮をとることになります。
スペイン継承戦争はその名の通り、スペインのハプスブルグ家が
断絶しそうになっているところにルイ14世が色気を出し、
権力争いにヨーロッパ中が巻き込まれたというもので(簡単すぎてすまん)
これも実に14年間も続いています。

ここでオイゲンはかつて自分が志望したフランス軍と戦うことになりました。
苦戦が続きましたが劣勢からトリノでの包囲を破ってフランス軍を倒し
彼はこの功績によってミラノ総督に任命されています。

その後も、彼はスペイン継承戦争の結果オーストリア領となった
ネーデルラントの総督となり、後にはイタリアにおけるオーストリア領の副王、
晩年までオーストリア軍の将軍として生き続け、その功績により
政治的にも大きな発言力を有していました。

彼が没したのは1736年、72歳というのは当時の政治家として長命でしょう。


彼のもう一つの顔は、芸術の庇護者となったことでしょう。
潤沢な資産をベルベデーレ宮殿などの建築に投じ、パトロンとして
学者を応援し、膨大な美術品をコレクションしていました。

オイゲンは相続人となる子をもうけなかったので、莫大な財産と
美術コレクション、建築物はすべてハプスブルク家の所有になったということです。

戦火に生き、いくさをその住処とし、生涯戦場に生きた男。
ヨーロッパ史上最高の名将とその名を謳われたプリンツ・オイゲンは、
血族を信じず、血縁を断ち切って、たった一人でこの世から去りました。

彼の唯一の愛は、彼をプリンツ・オイゲンたらしめたオーストリアと
その帝国、そして皇帝への忠誠の中にしかなかったということなのでしょうか。

そこで世間には当然、彼が同性愛者であったという噂も存在するわけです。

近年の歴史家には、パリ時代の彼が、まるで同世代の有名な女装の男、

フランソワ・ティモレオン・ド・ショワシー

Abbé de Choisy.jpg

のように少女の格好をしていたという説をあげていますし、
同年代の男性で有名人、超優秀な軍人、お金持ちでありながら、
女性との話が一切なかったというのは怪しいといえば怪しいかもしれません。

オルレアン公爵夫人という当時のウジェーヌを知る人の証言によると、

「他の不良王子、『マダム・シモーヌ』とか『マダム・ランシェンヌ』などと
あだ名のある若い人たちと女装をし、彼の役は『下品な売春婦』だった」

うーん・・・これは一体どういうことなんでしょうか。
女装趣味があったということですが、失礼ながらあまり似合っていたとは
お世辞にもいえなかったのでは・・ってそういう問題じゃない?

そして彼はどんな女の子よりも同性を好み、その不品行ゆえに
聖職者になることを拒まれていたというのです。

なんと。

フランス軍に入る以前に、聖職者もダメ出しされてたんじゃないですかー。

しかし、そんな彼が今やオーストリアで一番有名な武人なのですから、
むしろ同性愛はこの世界では歓迎される要素なのかなと(苦笑)

このホールにはプリンツ・オイゲンが実際に着用していた衣装が展示されています。
右のコートのようなガウンのような服は、下半分が欠損していたので
博物館の方で修復し展示しているものと思われます。

ナポレオンは彼を歴史の7人の最高司令官の一人と見なしました。
異論を唱える人もいるようですが、少なくとも彼は間違いなく
オーストリア史上最高の将軍でした。

 彼は、戦闘の優位性と、攻撃を成功させる適切な瞬間をつかむのに
天性のカンを持っており戦略家、および戦術家としては天才と言われました。

しかし、天才にありがちなこととして、彼は後継を育てるということに
一切興味がなかったらしく、これだけ長く軍のトップにいながら、
将校を育てる教育機関を作ろうとはしませんでしたし、軍隊そのものを
機能的に動かすためのシステムづくりにも不熱心でした。

つまり、全て自分がやればいいとでも思っていたのか、
自分なしで
機能する軍隊を残して行かなかったのです。

 

彼は戦場において無為な残虐行為は拒否しました。
戦場で部下に要求したことはただ勇気のみ、あとは彼ら自身の判断に任せました。

彼の下での昇進は社会的地位は全く関係なく、いかに彼らが
戦場で命令を遂行するのに勇敢だったかに尽きました。
評価してくれるカリスマ指揮官のもとで、彼の部下たちは
彼のためなら
死も惜しくはないという戦いぶりを見せたに違いありません。

ただし、帝国戦争評議会の大統領としての彼ははあまり評価されていません。
得意分野はあくまでも戦場での采配だったということでしょうか。

 

ウィーンでわたしが見たプリンツ・オイゲンの巨大な騎馬像には
彼の功績を記念して、こんな言葉が刻まれています。
一方の台座には三代にわたる皇帝に仕えた彼を称え、

「三人の皇帝の賢明な顧問へ」

もう一方には

「オーストリアの敵の栄光を征服したる者へ」

 

 

続く。