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秋の花火〜海上自衛隊オータムフェスタ

2019-11-12 | 自衛隊

オータムフェスタのためこの日江田島の第一術科学校を訪れた一般人は、
国旗掲揚台に国旗降下のために整列し静止している科員に注目しています。

自衛隊においては太陽の出入りに伴って毎日行われるルーチンワークですが、
一般人にとっては非日常的なアトラクションみたいなものです。

わたしを含め、その場の人々は今か今かと発動の瞬間を待っていますが、
待っているものにとっては大変長く感じる時間となります。

掲揚された旗の索を掲揚台から外し、立っている海曹のもとに、
もう一人、違う腕章をつけた海曹が木箱を捧げ持って近づきました。

これは降下した国旗を明日の朝まで収納しておく収納箱です。
今まで気がつきませんでしたが、竿の根元にはこれを設置する専門の台があります。

掲揚台足元に二人がそれぞれ索を手に立ちました。
江田島の国旗掲揚竿は長いので、護衛艦などの自衛艦旗掲揚降下とちがい、
揚げ下げのペースを思いっきり早くしてやっと間に合うという感じです。

自衛隊の旗掲揚降下は何度もみていますが、ラストサウンドがきたときに
ぴたりと上に揚っている状態にするために、索を繰る速度については
あれでなかなか遣うものではないかといつも思います。

自衛隊のことだから、早すぎても遅すぎても厳しく指導が入るでしょう。

右側の海曹が索を引き、左がその補助と言う形です。
これも海自のことなので右側が先任だったりするのかもしれません。

左の海曹は索が地面を擦らないように、まとめて持っています。
細部の細部までその行動に意味のないことは全くない、それが海上自衛隊。


ところで、わたしはこのオータムフェスタがすんでから、わけあって再び
江田島第一術科学校に訪れ、朝の国旗掲揚を見る機会がありましたが、
そのときの掲揚は喇叭隊なし、君が代は放送、旗を降ろすのも一人でした。

毎日この形で行われているわけではないことを改めて知った次第です。

緊張感の漂っているのは隊員のいるところだけで、
人々は完全にリラックスムードでこの様子をみています。

別にどんな格好でも構わないと思いますが、国旗掲揚台のすぐ脇で、
シートを広げて座って国旗にお尻を向けたままというのは、
いくらなんでも、と言う気がしないでもありません。

「時間」

この号令で国旗降下発動です。
航海科からなる喇叭隊がラッパを構えました。
左端の自衛官は敬礼のためにちょうど右手を挙げたところです。

索を取るために大きくクロールのように手を動かす自衛隊独特の動き。

海軍兵学校の時代から国旗掲揚台は変わらずこの場所にありました。

このときふと思ったのですが、戦後役10年間、つまり昭和31年に
術科学校がここに帰ってくるまで、この掲揚台に日本国旗ではなく、
占領軍の国旗が揚がったことがあったのだろうかと。

終戦後、広島・呉地方にはアメリカ軍ではなく、イギリス連邦軍が
アメリカの補助という形で(というかソ連などの介入を防ぐため)
駐留しており、その本部があったことは前にもお話ししました。

このイギリス連邦軍とは、

オーストラリア・ニュージーランド・イギリス・カナダ

の四カ国からなります。
その場合、軍隊駐留地での国旗掲揚はどうであったかというと、

こうなるわけですね。

これは呉からイギリス連邦軍が撤退する日の写真です。

呉鎮守府庁舎を接収した連合軍が、自衛隊音楽隊が演奏する
イギリス国歌に合わせて四カ国の国旗を降下しているシーンですが、
これによると、占領期間、庁舎前
には国旗掲揚台が5竿あったようなのです。

4カ国なのに竿が一本多いのは親玉であるアメリカのためだろうと思われます。

というわけで、おそらく兵学校跡においても、イギリス連邦軍のために
掲揚竿が5本あったと想像されるのですが、それらしい写真はありません。

実際のところ、連邦軍は昭和23年以降はほとんど兵力を減らし、
実質この地方に進駐していたのは
オーストラリア軍だけだったといいますから、
もしかしたらここ江田島の象徴的な国旗掲揚竿には、

31年まで豪州旗が揚げられていたという可能性もあります。

 

話を戻しましょう。

索を引いている右側の海曹が国旗を手にします。

ラストサウンドのあと、行動の終わりを意味する

「ドッミド〜」

まで、国旗を胸に抱えるような位置で保持し、そのあとは
丁寧に旗を畳んで箱に収納し、その場を引き上げます。

じつにいいものを近くで見せてもらいました。

さて、続いてはいよいよ江田島名物秋の花火です。

赤煉瓦の前の芝生にもシートを敷いて花火大会の場所をとっている人多数。
手前では子供が地面に転がってるし。

いつもの江田島しか知らないみなさん、この光景にびっくりでしょ?

花火大会は夕刻6時30分から開始されます。
なにしろグラウンドは広いし、どこに座っても確実に見えるので、
よくある有名な花火大会前の殺伐とした雰囲気は皆無。

訪れた人々はのびのびと芝生の上でくつろぎながら始まるのを待ちます。

招待客のためにパイプ椅子が並べられています。
この席も例の席次表によってきっちりとどこに座るか決められています。

花火大会の頃には帰ってしまう来賓もけっこういたので、
かなりの空席が見られました。

序列を大事にする海自の決めた席次ですので、花火の見物席も
最前列は学校長と政治家だったりしますが、

はっきりいってどこに座っても見え方はまったく同じです。

ところで、この日花火があるとわかっていながら、二泊三日の旅行で
間に慰霊式をはさみ荷物が多い移動とあって、わたしは
花火撮影には必須である三脚を持ってくることを全く考えませんでした。

しかたがないので、設定をバルブにし、あとはできるだけ
カメラを動かさないように、脇を閉めて胸の前に持ち、
ファインダーも全く覗かないでMEKURA撃ちすることにしました。

そして撮れたのが案の定こんな写真です。
手ブレは防げていても端っこが欠けているというね。

まあそういう次第ですので、真剣に撮った写真だと思わず見てください。
花火は江田の沖に浮かべた船の上からあげられ、どこにいても
江田島名物の真っ直ぐ伸びた松の木がこのようにシルエットに入ってきます。

会場には、小さい女の子が花火が上がるたびに

「たまやー」

(かぎやはなし)

と叫んで、周囲の暖かい笑いを誘っていました。 

夜には風が強くなるので、花火の煙がすぐに消えて空がきれいになるのも
この季節に花火を行うメリットの一つかと思われました。

しかし、去年は海側から強風が吹いてきて、花火の煤や殻が、
皆グラウンドの方に流れてきて、次の日掃除がたいへんだったとか・・。

今年はその点でもベストな状態だったのではないでしょうか。

小花の開く花火は、打ち上げられてからいっぺん沈黙?して、
忘れた頃ぱっと花開くので、わたしの前の第一術科学校校長は

「失敗したのかと思った」

と幹部候補生学校長に話していました。

赤一色の小花。
こういうのを「千輪菊」というそうです。

ところで、なぜここではオータムフェスタに花火が行われるのでしょうか。

その理由は、昨年夏西日本を襲った水害でした。
例年江田島ではサマーフェスタで江田内の花火を売り物にしてきたのですが、
豪雨災害の復旧作業に呉の自衛隊が全出動し、さらに被害の大きさに
イベントは全て自粛され見送られて花火大会もなくなりました。

しかしご存知のように、花火というのは賞味期限?があるので、
夏にやるつもりで調達していた花火は早く使い切る必要があるから
オータムフェスタにそれを上げてしまおうということになり、
昨年初めて「秋の花火大会」が行われたのでした。

ところが実際にやってみると、夏場より参加者は快適だし、
陽が落ちるのが早く、そのため早く開始でき早く終わるので、
参加できる人も増え、おまけにもう花火などどこでもやっていないので
オリジナリティという意味でも名物になりそう、といいことだらけ。

というわけで、今年から江田島ではオータムフェスタに花火大会を行う、
ということに決まったということでした。

花弁がひらひらと散っていくところが表現されています。

吹いてくる風の冷たさのせいでしょうか。
秋の花火は夏とはまた違う切なさをはらんでなかなかの風情でした。

というわけで花火大会は無事に終了。
皆が一斉に外に向かいます。

夜の第一術科学校の中は、関係者でもないと
まず立ち入ることはできないのではないかと今まで思っていたのですが、
江田島市民にはその特別な景色をみる特別な場が提供されていました。

ただし、この後現場から帰り着くまでが長かった。

まず、一つしかない出口からたくさんの車が出るのに、
歩いている人優先で車が堰き止められ、校内から出るのにたっぷり30分かかり、
さらにはフェリーが終わっているので、皆が同じ道を
同じ方向に進むしかなく、一本しかない道が大渋滞。
呉のホテルに帰るのにたっぷり1時間半かかってしまいました。

しかし、さすがは自衛隊だけあって、人と車を捌くのも非常に慎重ながら
手際がいいせいか、現地での混乱のようなものは全く起こりませんでした。

当たり前のことのようですが、事故もなくこれだけのイベントを
無事円滑に運営できるのも、自衛隊という組織ならではです。

というわけで今年も自衛隊記念日一連の行事に無事参加できました。
ご招待をいただきました海上自衛隊の皆様には心よりお礼を申し上げます。

 

自衛隊記念日シリーズおわり。