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第一共和国の崩壊とアンシュルス(併合)〜ウィーン軍事博物館

2019-11-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

さて、一連の自衛隊記念日行事のご報告も終わりましたので、
もう一度ウィーン軍事博物館展示の紹介に戻ります。

 

「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台であるザルツブルグ滞在をきっかけに、
あの映画でモデルにされていたフォン・トラップ少佐(映画では大佐)が
K.u.K海軍の潜水艦乗りであったことをお話しするついでに、
作品の背景であるアンシュルスについても少し触れてみました。

ここからは、ウィーン軍事史博物館の第一次世界大戦後の世界からで、
ドイツと合邦となるアンシュルス成立まで存在していた

第一共和国とアンシュルス

について関係資料とともにお話しします。

ちなみに「アンシュルス」とは「接続」という普通名詞で、
同時にこの時代行われたオーストリア併合を指す固有名詞です。

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国は大きく変わりました。
68年間の長きにわたって帝国を統べてきたハプスブルグ家の皇帝、
フランツ・ヨーゼフ1世が戦争中の1916年死去したのです。

元はといえばサラエボ事件を受けてセルビアに宣戦を決めた当人が
まだ戦争が継続しているうちに亡くなったことになりますね。


当初3ヶ月で終わると信じて政府を支持して戦ってきた帝国内の諸国民も、
多民族国家で言葉の統一さえできていないKuK軍が案外弱っちくて、
いきなり初戦でセルビアに負け、あとはドイツに頼るのみ、みたいな
情けない状態に陥ったこともあり、すっかり倦厭のムードが蔓延していました。

そのムードを決定的にしたのは、1917年のアメリカ参戦でしょう。

なぜ、アメリカは第1次世界大戦に参戦したのか?

超イケイケの新興国、歴史はないが基礎体力は余りまくりの
アメリカが参戦したことで、戦争は大きく終焉に向かいました。

アメリカの参戦についての建前は、自らを民主国家と位置づけたうえでの

「封建主義との戦い」

でしたが、封建主義と名指しされたKuK諸国民自身も、アメリカの快進撃を前に、
帝国主義ってもうダメじゃね?な自虐とともに厭戦気分が高まり、
国家は民主的連邦制に向けて大きく舵を切らざるを得なくなったのです。

カール・ヨーゼフ亡き後、最後の皇帝となったカール1世
彼は、サラエボ事件で暗殺された兄の代わりに、望まぬことながら
皇太子に指名されていましたが、皇帝の崩御に伴い皇帝の座につきました。

 

当時、オーストリア=ハンガリー帝国は、戦時中特例として議会を廃止し、
皇帝が大権を発動する体制になっていたのですが、戦時下の国内では
これを不満として、あるいは直接的には生活の困窮により、
労働者の大々的なデモが発生することとなります。

そのことが不承不承皇帝の座についた(と思われる)カール1世を
決定的にメンタルダウンさせ、戦後まもない1918年には、
彼は皇帝としての権利を放棄し亡命してしまうのです。

その瞬間、何世紀にもわたって続いてきたハプスブルグ帝国は崩壊します。

そして生まれたのがオーストリア第一共和国でした。

ウィーン軍事史博物館の次のコーナーは、このオーストリア革命後の
共和国時代の展示です。

この一番下のポスターをご覧ください。
新しく生まれた赤ちゃんを夫と子供に見守られながら抱く女性。

良い子には平和とパンが必要です

だからこそ女性たちよ、選択してください!

 

国内で厭戦気分が蔓延していた頃、ロシアではボリシェビキ革命が起きました。
別名十月革命のそのモットーが「パンと平和」でした。

共和国となったばかりのオーストリアには、このような
十月革命をお手本にしたようなメッセージが溢れていたのです。

右上の社会労働党のポスターも、実にソ連っぽいですね。
いわゆるオーストリア革命後、国政の主導権を握ったのがこの社会労働党です。

ここでわたしのこれまでの浅薄な知識では予想外の?ことが起こるのです。

この政権下では、かつて帝国下にあった諸国が独立してしまい、
これではオーストリアだけで一国を更生するのは難しいとして、
指導者たちはやはり敗戦したドイツとの合邦(アンシュルス)を目指したことです。

これって、併合を目指すのは右左でいうと左派だったということですよね。
民族主義と労働党というのはなんとなく無関係のような気がしていたので、
しばらくこの関係を把握するのに時間がかかってしまいました。

それはともかく、案の定国内は一枚岩ではなかったので、ナチス政権が誕生すると、
オーストリアは合邦の是非で真っ二つに割れることになります。

 

当時の二大政党は、左派の社会民主党と保守系のキリスト教労働党で、
大統領はキリスト教労働党出身のエンゲルベルト・ドルフスでした。

くどいようですがもう一度書いておくと、社会民主党が併合賛成派、そして
ドルフスのキリスト教労働党は反対派ですので念のため。

こちらは博物館所蔵の肖像画。
肖像画なのでちょっと割増しに描かれているようです。


写真だとこんな人物でした。

・・・・もしかしたらこの人ものすごく背が低いんじゃね?

と思ったら、要求される最低身長に2センチも足りずに、
軍隊に志願するも入隊できなかった悲しい過去があることがわかりました。

この写真はのちに別の手で入隊を果たし、堂々と誇らしげに軍服を着る
ドルフスの姿です。


さて、一足飛びに結論からいうと、彼はドイツとの合邦に反対だったため、
その後オーストリア・ナチスの手によって暗殺されています。

それがきっかけでオーストリアはアンシュルスに向けて舵を切ることになります。

ここになぜかドルフスの暗殺された日を記した石碑があり、
そこには、

連邦首相 博士

エンゲルベルト・ドルフス

+1934年7月25日

新しいオーストリアの憲法を正義の精神において制定す

と書かれています。

この憲法というのは実はイタリアファシズムに倣ったものなのですが、
この碑文からはそのようなことは読み取れません。

 

ナチスに暗殺され、その後オーストリアがアンシュルスに傾いたことから、
ドルフスは独裁と戦った民主主義者
と勘違いする人も多いようですが、決してそうではなく、彼もまた、

オーストロ・ファシズム

と呼ばれる独裁体制で共和国を統一しようとしていたのに過ぎません。

戦後のハリウッドが、あのフォン・トラップ少佐を自由陣営側に祀り上げ、
悪のナチスの独裁と対峙したかのように、いかにもアメリカ人らしい
善悪二元論で描いた映画「サウンド・オブ・ミュージック」について
わたしは、

「フォン・トラップ少佐はオーストロ・ファシズム支持の側であり、
ナチスとの合邦に反対した理由は、ナチスと共和連邦政府、
この間で行われた独裁者同士の『てっぺんの取り合い』に負けた方、
つまりやはりファシズムを支持する同じ穴の狢」

とツッコんだのを覚えておられるでしょうか。

ドルフス政権の思想は、やはり独裁体制のムッソリーニのファシスト党と
大変近かったわけですから何をか言わんやです。

 

ただし、ここでお断りしておきたいのは、「独裁」という言葉の定義です。

現在の価値観ではヒトラーとムッソリーニ、スターリンのせいで独裁が悪となっていますが、
NHKの映像の世紀でも言っているように、帝国主義が崩壊したこの時代、

「世界的に人々は強い指導者=独裁者を求めていた」

という背景を念頭におく必要があるでしょう。

現にドイツの経済をV字回復させたヒトラーを、国民は強く支持していたのです。

 

 

 

 

続く。