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陸軍スポーツマン大隊とスパッドXIIIのエースたち〜 第一次世界大戦の航空〜スミソニアン航空博物館

2020-10-18 | 航空機

スミソニアン博物館では、第一次世界大戦に生まれた戦闘機の操縦士、
ことにその中でも技能に長けたエースを国家が英雄のように祀り挙げ、
それが国家のプロパガンダに利用されるようになった、

ということがその展示で明確に語られています。

この「スミソニアン史観」については、その客観性においてずいぶん
他の事象(たとえば原爆投下とか)とはスタンスを異にするように思いますが、

よく考えたら、第一次世界大戦とエースという存在の登場については
アメリカはほとんどそれに関与するような立場ではなかったので、
(つまりしょせんは他人事なので)このような解釈も出て来たのかなー、
と若干意地悪な目で見てしまったわたしです。

■ 陸軍スポーツマン大隊

さて、そのスミソニアン史観によると、戦闘機の搭乗員と違って、
地上の戦い、特に第一次世界大戦の塹壕戦での戦闘では、
「適切なヒーロー」が生まれにくかった、ということだったわけですが、
意外な方法でヒーローを「集めた」大隊がイギリス陸軍に存在しました。

戦場の英雄を称えるのではなく、別分野の英雄を戦争に送ってしまおうという考えです。

こちらは1915年のイギリスのポスターです。

スポーツマン大隊が

入隊を募る

ツェッペリン号を滅ぼしたいあなた

そして、ヴィクトリア勲章の欲しいあなた

彼についていこう

そして入隊しよう

スポーツマン戦隊に

中央の写真はロイヤルエアフォースのエースですが、
「エースをリクルートに利用する」というタクティクスを用いつつ、
彼が実はスポーツの世界で名を挙げた選手だった、ということを強調しています。

下に見えるゴブレットはドイツの航空隊において
戦闘に優れた業績を挙げたパイロットに贈られた賞らしいのですが、
出元というのははっきりしていないそうです。

それにしてもスポーツマン戦隊ってなんだ?

と思って検索してみたところ、
こんなわかりやすいポスターが出てきました。

The Sportsman's Gazette: Introduction

 

ボクシング、テニス、ゴルフ、ラグビー、クリケット、
ホッケーにビリヤード(スポーツなのか)ハンティングの人もいますね。

彼らは自分のスポーツ道具を足元に置いて背広に着替え、
軍服を着て銃剣を担ぎ行進していきます。
いまなら「軍歌の響きがー!」「青年たちのミライガー!」と非難されそうなポスターです。

スポーツマン大隊の徽章の中央にある

HONI SOIT QUI MAL Y PENSE

という文言は中世フランスの言葉で、イギリスでは
ガーター勲章のモットーとなっている

「それを悪だと考える人は誰でも恥ずかしい」

という意味で、通常「悪を考える人に対する恥」と訳されます。
当時でも、健全なスポーツマンを兵隊にすることについて
ネガティブな意見を持つ人が存在したという意味かな、
とわたしなど考えてしまいましたが、深読みしすぎでしょうか。

 

スポーツマン大隊は、第23大隊、第24大隊(第2スポーツマン大隊)
とも呼ばれ、第一次世界大戦の初期ごろ組
成されたイギリス陸軍の大隊です。

陸軍ではヒーローが現れにくいということから、おそらく陸軍上層部が
発想の転換によってひねり出したアイデアだと思われるのですが、
この特定の大隊は、その名前の通り、クリケット、ゴルフ、ボクシング、
サッカーなどのスポーツやメディアで名を馳せた男性の多くから構成されていました。

最初のスポーツマン大隊の結成式は、当時戦争省長官だった
ホレイショ・ハーバート・キッチナー卿の承認により、ロンドンに現在もある
セシルホテルで行われ、その後は1年半にわたりキャンプで訓練が行われました。

1915年11月にはブローニュに上陸し、その後西部戦線、ソンムの戦い
デルヴィル・ウッドでの戦闘
に参戦しています。
その中には数名の第一線のクリケット選手、ボクシングチャンピオン、
エクセターの元市長、そして作家も含まれていました。

SPORTSMAN BATTALION - RUGBY UNION FOOTBALLERS British WW1 ...

「ゲームをしている場合ではない」(ロバート卿)

ラグビー協会の選手たちは、彼らの義務を果たしている

90%以上が志願した

「昨年国際試合を行った英国に現存する全てのラグビー選手は
国旗のもとに集結している」1914年11月30日の記事より

英国のアスリートたちよ!
この栄光ある先達のあとに続かないか?

ラグビー選手をターゲットにしたリクルートポスターです。

■ スパッド XIIIのエースたち

SPAD XIII  スミスIV

FE8と並んでフロアに展示されているのがスパッドのスミスIVです。

スパッド XIIIは、伝説のフォッカーD.VIIやソッピースキャメルと並んで
第一次世界大戦で最も成功した速くて丈夫な戦闘機の一つでした。
本機は大戦中多数のエースを輩出しています。

前回ご紹介したジョルジュ・ギヌメールそしてルネ・フォンク(Fonck)

File:René Fonck en juin 1915.jpg - Wikimedia CommonsFonck

戦後は映画にも出演し、大西洋横断中に行方不明になった
シャルル・ナンジェッセ(Nungesser)

upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/...Nungesser

Coliというパイロットとともにその最後の飛行となる
大西洋横断に出発する直前の生きているナンジャッセの動画があります。

Nungesser and Coli attempt Atlantic crossing in 1927. Archive film 93571

眼帯をしているのがColiで、その前に出てくる若い人がナンジャッセでしょう。

フランス人の母、アメリカ人の父を持ち、アメリカ陸軍のために飛んだ
ラファイエット飛行隊ラオル・ラフベリー(Lufbery)

upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Ger...Lufbery

そしてアメリカのエースだったエディ・リッケンバッカー(Eddy Rickenbacker)

media.gettyimages.com/photos/captain-eddie-rick...

バリバリの現役時代の動画と、1956年にインタビューを受けるリッケンバッカーの姿。

1956 CAPTAIN EDDIE RICKENBACKER US WW1 ACE OF ACES SPEAKS

 

とにかく、この戦争で最も有名な「エア・ヒーロー」がスパッドXIIIに乗っていたのです。

スパッド航空機製造会社の設計責任者ルイス・ベシェローLouisBéchereauは、
19当時人気のあった空冷式ロータリーエンジンの設計限界を認識し、
はるかに優れた出力重量比、および多くの最新機能を備えている
イスパノ・スイザ・エンジンを搭載したスパッドVIIを設計し好評を博しました。

後継機のスパッドXIIIは、 VIIより革新的な改良バージョンであり、
大きな改良点は、2基の固定式の前方発射ヴィッカース機関銃と、
より強力な200馬力のイスパノ・スイザ・8Baエンジンです。

プロトタイプは1917年4月4日に初飛行し、翌月末までに生産機が前線に到着、
その堅牢な構造と高速での急降下能力、特に空戦においては
最高のドッグファイトが可能な戦闘機のひとつとなりました。

スパッド XIIIは1918年末までに、8,472機製造され、フランスの戦闘艦隊は、
終戦までにほぼ全てがこれを導入していました。

アメリカ遠征軍の一部であったユニットもこれを導入し、
リッケンバッカーやラフベリーのようなエースを産んだのです。

スパッドはまたイギリス、イタリア、ベルギー、ロシア軍にも使用されました。

しかし驚いたことに、それほど多数生産されていながら、現存する
スパッドXIIIは世界にたった4機だけで、NASMコレクションはその一つです。

ここに展示されている機体の「スミス IV」というのはニックネームで、
米陸軍航空サービスのレイモンド・ブルックス少佐の乗機でした。
命名の理由は、彼が代々愛機に「スミス」と名付けており、
この機体はその4番目だったからということです。

Arthur Raymond Brooks, A.E.F. file photo.jpgLt.Brooks

アーサー・レイモンド・ブルックス (1895-1991)の撃墜記録で
最も顕著な戦果の一つは、スパッドXIII
スミスIVを操縦して
ドイツ空軍のフォッカー(オランダ製)の飛行隊に単独で挑んだときのものです。

彼はヒストリーチャンネルの「ドッグファイト」で紹介されたパイロットの1人でした。

「 最初のドッグファイター 」と題されたエピソードは、
1918年9月14日、8機のドイツフォッカーD.VII航空機に対するブルックスの
ソロドッグファイトを描写しています。

この戦闘中、彼は僚機ハッシンガー中尉を失いながらも(ハッシンガーは、
行方不明になる前に2機フォッカーを撃墜した)
ブルックスは2機撃墜、
優れた降下技術を発揮して残った4機の敵機の攻撃から逃れることができました。

また、彼は、パイロットの位置とナビゲーション、および空対地通信に使用する
無線航法装置(NAVAID)の開発のパイオニアでもあります。

戦後は航空を旅客輸送事業として商業化するための初期の取り組みに参加し、
アメリカの航空郵便の輸送に関わった、最も初期の商業パイロットの1人でもありました。

ブルックス少佐のスパッドXIIIは、1918年8月に

「The Kellner et Ses Fils piano works」
(ケラーと彼の息子たちピアノ工房

によって制作されました。
なんでピアノ工房が戦闘機を作っているのか全くわかりませんが、
これについては何の説明もないので、大量生産の際、飛行機工場では
間に合わないのでピアノ工場も動員されたのかと思うしかありません。

まあ、当時の飛行機は木製部分が多かったので、ピアノ制作と
似通った技術でできてしまったということだったのでしょう。

我が国の日本楽器(現ヤマハ)河合楽器(現カワイ)なども
戦争中は軍需工場となり、日本楽器はプロペラ(陸軍機)、
河合楽器は航空機用の補助タンクなどを作っていましたしね。

ヤマハなどその流れで軍からの要請も多くなり、
昭和6年にはすでに金属プロペラを手掛けていました。
その流れで戦後は船作りーのバイク作りーの、
ついでにキッチン作りーの以下略、となったわけです。

ちなみに海軍のプロペラは住友金属が手掛けていました。

 

さて、その後、スパッドの機体は1918年9月に米陸軍航空第22航空飛行隊に割り当てられました。
航空機は、ブルックスが以前に墜落した同じタイプの別の航空機の代替品でした。
ブルックスはこの「スミスIV」で総撃墜数6機のうちの1機を撃墜しています。

戦後、アメリカ陸軍飛行隊が使用していたスパッド XIIIのうち二機が米国に送られ、
リバティ・ボンド(国債)奨励イベントの目玉展示として全米をツアーし、
その後、1919年12月にスミソニアン協会に移管されました。

スパッドXIIIは長年スミソニアンの倉庫で保存されていました。

その間、何のメインテナンスも行われず放置されていたせいで、
1980年代にはそ機体表面は腐ってボロボロになり、
いつの間にかタイヤがなくなっているという状態であったため、
飛行機は展示のためにあらためて修理に入りました。

1984年から2年間かけて完全に復元され、現在はこうして
博物館の第一次世界大戦の航空ギャラリーに公開されているというわけです。

 

つづく。