ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「バグリーの3レンズカメラ」と「ゴダードの法則」〜スミソニアン航空博物館

2022-02-17 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン博物館の「The Sky Spies」軍事航空偵察のシリーズから
続きをお送りします。

【陸軍偵察航空】

■ジェイムズ・バグリー3レンズカメラ

第一次世界大戦の頃、航空機からの写真を撮るために、
こんなカメラが開発されたことがあります。


なんかこういうシェイプの海洋生物いるよね?って感じですが、
キモは先端に角度を変えて設置された三つのレンズ。

アメリカ陸軍のエンジニアだったジェイムズ・バグリー
1917年に普及させた、「スリーレンズカメラ」です。



ジェームズ・ウォーレン・バグリー少佐(James Warren Bagley 1881~1947)
は、アメリカの航空写真家、地形工学者、発明家です。

第一次大戦に招集されるまで地質調査所の職員だったバグリーは、
アラスカの地形を記録するため、他の二人の地質学者と共同で
このカメラのアイデアを考案しました。

これはどういうものかというと、垂直方向に1枚、斜め方向に
2枚の写真を撮影することで、それまでの単レンズカメラにはできない
広範囲の写真を画像に残すことができるというものです。


3レンズカメラによる地上写真。
上がそれぞれのレンズの捉えた写真で、下のように
「合成」して地形を把握します。

偵察写真を素早く現像するために、飛行機を降りたところに
「ポータブルラボ」なるラボラトリーがセッティングされることもありました。

現像用とプリント用に分かれた部屋を備えたテントは、自家発電機を備えており、
1時間に200枚のプリントを処理することができました。


偵察機そのものにポータブルラボが搭載されている例もありました。
これなら迅速に現像処理ができますね!

レンズを三眼使ったこの空撮用のカメラは、
アメリカ陸軍が関与してきて実験を指導したようです。

この3眼マッピングカメラを製品化したのが、
前回お話ししたフェアチャイルド航空カメラ社でした。
「T-1」「T-2」「T-2A」はいずれもこの製品化されたものです。

T-2Aは垂直レンズ1枚と35度に設定された斜めレンズ3枚で、
飛行方向に直角な120度の視野を確保していました。

陸軍が関与したせいで、バグリーは工兵隊の大尉に任ぜられ、
後に少佐になりましたが、1936年には中佐の位で軍を引退し、
地理探査研究所の講師に就任しています。

軍には便宜上所属したものの、それは目的ではなかったということでしょう。

その後彼はオハイオのライト飛行場のエンジニア部門の責任者となり、
軍事用途の航空写真の研究を重ねて写真測量の基礎を作りました。

このときに開発した「T-3A」5つのレンズを持つカメラで、
2点の距離が分かっている地質学者が残りの距離を計算すると
2次元の平面地図を作成することができる機能を持っており、
第二次世界大戦中に活躍しました。


5つのレンズ(四方と真ん中の写真)を持つT-3の画像。
3つのレンズでうまくいったからレンズを増やせばいいんじゃね?
的な発想で増やした結果です。
欠けたところは想像力で補っていたのでしょうか。

このT-3Aカメラでは、約640四方キロの範囲の撮影が可能です。
面積測定マップから作成された仮の地図から、標高を求め、等高線を埋めていく。
陸軍の地形大隊は1日に160平方キロ以上の
等高線の地図を作成することができるようになり、
戦場でのマーキングやターゲティングに欠かせない技術となりました。


ただしプリントされた5レンズのカメラの画像は、
体育館に並べていたようです。
これもう少しなんとかならなかったのかしら。
足の踏み場もないとはこのことだ。


スミソニアンには陸軍軍人がポータブル暗室を使っている模型もあります。
偵察機に搭載されたフィルムを迅速に処理するためのもので、
時には一刻を争う状態で情報が必要になる戦場では、
「写真通訳」が偵察任務に同行して、飛行中に現像されたフィルムを
直接目視で分析して無線を送るということもなされていました。



使われた年代は第二次世界大戦中。
偵察機に搭載され、フィルムを即時処理しました。
内部が「暗室」となっており、大きく穿たれた穴から両手を入れて作業します。



最終的にバグリー大佐はハーバード大学の講師となり、
そこでいくつかの論文と本を執筆する余生を送りました。
その時に執筆した記事の中で、こんなことを書いています。

「航空写真部隊は、軍事作戦中の空軍において、2つの目的を持っている。
第1に、敵地の軍事地図を提供すること、
第2に、敵の軍隊や装備の動きに関する詳細な情報を提供することである」

当たり前すぎて何を今更、という記述ですが、
バグリー中佐以前にはこの方法はなかったところがポイントです。

戦後は、この目的のために、より高高度から偵察する航空機に合わせて、
カメラはより大きなものが搭載されていくようになってきます。




■海軍・航空偵察の先駆 ジョージ・ゴダード准将



ジョージ・ウィリアム・ゴダード准将(George William Goddard 1889-1987)
もまた、航空写真の先駆者とされています。

イギリスに生まれて帰化したイギリス計アメリカ人で、
グレン・カーチスの飛行を目撃してから航空に興味を持ったそうですが、
陸軍信号隊の航空に入隊する前は、
フリーランスの漫画家をしていたという変わり種です。

コーネル大学で軍事航空学校の航空写真コースに入ったのは、
航空の興味と漫画家という前職が関係あるかもしれません。

機上でカメラを扱う彼に感銘を受けた 、あの
ビリー・ミッチェル将軍の勧めで空中写真の研究担当になった彼は、

赤外線や長距離写真、特殊な空中カメラ、写真機、携帯用野外実験装置

などを研究制作します。

1921年にミッチェルは、以前もここでお話しした、
航空機による軍艦爆破実験を行いますが、
この報道写真撮影を指揮したのは、他ならないこのゴダードでした。


また、1925年には夜間の偵察写真開発のために
80ポンドのフラッシュパウダー爆弾に点火して街全体を照らし出し、
世界初の空中夜景写真を撮影しています。


その時の写真がこれ。

夜間撮影されたとはとても思えないような鮮明さです。
この撮影はNYのロチェスター州の上空で行われ、
近隣の人々はそのフラッシュに驚かされた、と記録にあります。

ゴダードはこの時の夜間撮影の方法の特許を取り、
1950年代までこのシステムは使用されていました。

その後ゴダードは立体写真、高高度写真、カラー写真の先駆者となり、
フィルムストリップカメラを開発します。

ゴダード(左)Kー7カメラ(真ん中)


画面中央に写っている煙はカモフラージュのための煙幕ですが、
ゴダードの技術にあっては対空陣地の撮影はご覧のように可能でした。


【海軍に移籍】

ゴダードはまた偵察写真にカラー、動画のの手法も取り入れました。

彼とそのチームは100機のP-38ライトニングをF-4規格に改造しようとします。
んが、当時USAACの写真部長だったミントン・ケイ中佐と(個人写真資料なし)、
公的にも個人的にも激しく対立したゴダードは、中佐の策略によって
性病対策のセクションに追いやられてしまいました。

しかし海軍が、彼の開発したストリップカメラ(日本語ではスリットカメラ
カメラのレンズとフィルムの間にスリット(細い隙間)を設け、
撮影中にフィルムを巻き続けることでカメラの前方を通過する被写体を
1本のフィルムに連続的に撮影する手法)

が太平洋での水陸両用作戦に役立つと考えていたため、
ゴダードは引き抜かれる形で、この件以来海軍に転職することになるのでした。


海軍でゴダードは、F-8モスキートをレーダー撮影用に改造したり、
エドガートンD-2スカイフラッシュを使った夜間撮影の開発を支援しました。

そして自分を窓際に追いやった天敵に復讐することも
決して忘れていませんでした。


エリオット・ルーズベルト(ちなみに結婚歴5回)

当時同じ偵察隊にいたルーズベルト大統領子息の
エリオット・ルーズベルト大佐補佐して、
ストリップカメラを導入させることに成功した後は、大佐を巻き込み、
2人でケイ大佐をワシントンのポストから外すことを要求する手紙を大統領に送り、
そのせいで、ケイは昇格を目前にしてインドに左遷されることになりました。

ケイ大佐がその後も不遇を託つことになったのはいうまでもありません。

(-人-)合掌

「寄らば大樹の陰」あるいは「虎の子の威を借る狐」というべきなのか。
アメリカ軍も相変わらずドロドロしているようですな。

天敵を葬り去ったその後のゴダードのキャリアは順風満帆で、ついには
ハップ・アーノルド将軍の寵愛を受けることになりました。


パリが解放されると、ゴダードはパリに司令部を設置し、
戦地の米空軍の偵察開発を主導し始めました。

パリではF-6マスタングにステレオストリップカメラを搭載する実験を行い、
ドイツが占領されると、シュナイダー光学工場、カール・ツァイス社、
そしてショットAG社の工場を買収してデータや資料を押収し、
多くの光学科学者を説得して西側に移住させたりしています。

冷戦期、朝鮮戦争期間にも彼は夜間撮影システムの革新を試み、
悪天候下での低高度ジェット機の運用に大きな成果を上げて、
アメリカ写真家協会から写真学修士の名誉学位、
写真家としては最高の栄誉とされたジョージ・W・ハリス賞を受賞しました。

この賞は、航空カメラ、機材、技術の開発を監督し、
航空写真の芸術に貢献したことが評価されたものです。


ゴダードは自分で言ったのかどうか知りませんが
「ゴダードの法則」なるものを遺しています。
それは、

「偵察の優先事項において、焦点距離
(focal length)にとって代わるものはない」

これも何を今更、って感じですが、当時としては画期的な理論だったのでしょう。

続く。