ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

プリズナーズ・オブ・ウォー(戦争捕虜)〜シカゴ科学産業博物館U-505展示

2023-04-30 | 歴史

冒頭写真のパネルにある一列に並べられた半裸の男たちは、
捕虜になった直後のU-505の乗員たちです。

わたしはこの写真を見た途端、映画「Uボート最後の決断」で
アメリカ海軍潜水艦の乗員が、全員Uボートの捕虜になり、
Uボート乗員の視線の中を全裸で歩かされるシーンを思い出しました。




捕虜になるだけでもアレなのに、
全裸で行進させられるというのは恥辱以外の何でもありません。

そういう辱めを与えるのが目的なのか、それとも
そのことによって抵抗力を削ぐのが目的かはわかりませんが、
いずれにしても捕虜を「押さえつける」手っ取り早い方法かと思われます。



さて、ボートを捨てて救命いかだで海に逃れたUボート乗員たちは、
Uボートもろともアメリカ軍に捕獲されることになりました。

しかしアフリカ沖を救命いかだで漂流し、味方に拾われる確率は
非常に低かったことを考えると、命拾いだったと考えていいでしょう。



ともあれ彼らはアメリカ艦船に救助された瞬間、
戦争捕虜(プリズナーズ・オブ・ウォー)となったのです。



ホースで水をかけられていますが、これはボートにいるドイツ兵たち
(汗まみれで色々と臭い)を乗艦させる前に洗浄しているのかと。
アフリカ沖で暑いので彼らにはありがたかったかもしれません。



というわけで、今日は博物館の展示からこちらを哨戒、
じゃなくて紹介します。



潜望鏡をのぞく艦長らしき姿。



■ 囚われの身

U-505の拿捕の際死亡したドイツ側の乗組員は、
「ゴギー」ことゴットフリート・フィッシャーただ一人でした。

彼は、最初のアメリカ軍による航空攻撃の際
甲板で銃弾を受けて死亡したとされます。

タスク・グループは残りの58人の乗組員を海から救出しました。
繰り返しますが、ほとんどのUボート乗組員が経験するよりも、
これは結果としてはるかに好ましい運命といえます。

USS「ガダルカナル」に乗せられた彼らはバミューダに輸送され、
ルイジアナ州ラストンでの捕虜収容所の準備を待つために
そこで数週間収容生活を送りました。


バミューダでのUボート乗員たち


ハンス・ゴーベラー二等機関士の捕虜調書。

怪我の状態を書く欄に「左手と人差し指に怪我」、
調書が取られたのは1944年6月13日と捕虜になってすぐです。

一番下にはドイツでの住所も書かれています。



こちらも両手の指紋を念入りに取ってあります。
ヨーゼフ・ハウザー中尉の調書。


捕虜になった時にアメリカ軍に接収されたハウザー中尉の鉄十字章

「勇敢かつ英雄的な戦闘指揮に対して与えられる」
この鉄十字章、アイアンクロスについては、ドイツ軍人の憧れとして
いくつかの映画に登場してきましたが、
ハウザー中尉、何とこれを授与されていたようです。



こちらもヨーゼフ・ハウザー中尉のヒトラー・ユーゲントバッジ。
最後の方はヒトラー・ユーゲントは全員参加となっていました。


「行方不明」扱いされたU-505の乗組員

U-505の捕虜のキャンプ・ラストンでの扱いは「非常に良いものだった」
と、当時のアメリカ側からはそういうことになっていました。

しかし、彼らには特別の事情がありました。

U-505の乗員だけが他の捕虜から隔離され、アメリカ海軍は
彼らの手紙を検閲以前にすべて没収するという扱いをうけたのです。

つまり彼らはいなかったことにされたのでした。

なぜかというと、アメリカ海軍は、U-505を捕獲したことを
ドイツはもちろん国内でも、同盟国に対しても秘匿したかったからです。

海軍作戦部長兼アメリカ艦隊司令長官、
アーネスト・J・キング提督からトップダウンで
これらの特別条件は決定され、通達されました。

しかも、いなかったことにされたどころか、
アメリカは、1944年8月までにドイツ海軍に対し、

「U-505の乗組員親族に、
彼らは既にに死んでいると通知すべきである」

と通達をしているのです。

これ、わたしがドイツ軍関係者だったら、怪しさMAXで疑うな。
なんだってわざわざこんな持って回った言い方してくるんだろう?
「撃沈した」と言わないのは、何かの事情があるんじゃないかって。

しかも、この捕虜の扱いは、1929年に締結された
ジュネーブ第三条約の捕虜の待遇に対する規約、

第 69 条〔措置の通知〕
抑留国は、捕虜がその権力内に陥ったときは、直ちに、捕虜及び、
利益保護国を通じ、
捕虜が属する国に対し、
この部の規定を実施するために執る措置を通知しなければならない。


第 70 条〔捕虜通知票〕
各捕虜に対しては、その者が、捕虜となった時直ちに、
又は収容所(通過収容所を含む。)に到着した後 1 週間以内に、また、
病気になった場合又は病院若しくは他の収容所に移動された場合にも
その後 1 週間以内に、
その家族及び中央捕虜情報局に対し、
捕虜となった事実、あて名及び健康状態を通知する通知票を
直接に送付することができるようにしなければならない。


に明確に違反していました。
どうすんだよアメリカ海軍。

とにかく、死んだことにされていたU-505の乗員は、
故郷に手紙を送ることも、生死を知らせることもままなりませんでした。

そして、これもジュネーブ条約によると、

第 71 条〔通信〕
1.捕虜に対しては、手紙及び葉書を送付し、
及び受領することを許さなければならない。
抑留国が各捕虜の発送する手紙及び葉書の数を
制限することを必要と認めた場合には、その数は、
毎月、手紙二通及び葉書四通より少いものであってはならない。

2.長期にわたり家族から消息を得ない捕虜又は家族との間で
通常の郵便路線により相互に消息を伝えることができない捕虜
及び家族から著しく遠い場所にいる捕虜に対しては、
電報を発信することを許さなければならない。

その料金は、抑留国における捕虜の勘定に借記し、
又は捕虜が処分することができる通貨で支払うものとする。
捕虜は、緊急の場合にも、この措置による利益を受けるものとする。



そこでU-505捕虜は、自分たちが捕まったことをなんとか知らせようと、
何度も無駄な試みを繰り返しました。

あるときの彼らの作戦は、セロファンの袋で風船を作り、
掃除用の化学薬品を混ぜて作った水素ガスを充満させた風船を作り、
「U-505生存!」と書かれた鉄十字の紙を貼り、
外に向けて飛ばし、誰かが拾ってくれるのを待つというものでした。

風船は収容所の境界フェンスの上に飛ばすところを目撃されましたが、
街中ならまだしも、ルイジアナの、「鉄道がある」というだけで選ばれた
なーんもない土地に飛ばしても、人が拾う可能性は微量子レベルでした。

こんなところですから

■ 捕虜たちの生活

一般的な捕虜にとって、ラストン捕虜収容所の生活は穏やかなもので、
バンドや合唱団から流れる音楽が常に空気を満たしていました。

芸術家は絵を描き、大工は家具を作り、
故郷の建物や記念碑のミニチュアを作る者もいて、彼らの作品は
現在でもラストンのいくつかの家に残されたりしています。

運動も奨励され、ドイツの囚人たちはアメリカに来て初めて、
野球やバスケットボールを習いました。

高学歴の囚人たちは、近くのルイジアナ工科大学から取り寄せた本を使って、
さまざまなテーマの授業を他の囚人向けに行いました。

収容所の運営に携わらない囚人たちは、地元の農家で働き、
木材を伐採し、公共施設を建設しました。
給料は「スクリップ」と呼ばれる収容所通貨で支払われ、食堂で使ったり、
洗面用具や雑誌、ビールなどを購入することができました。

多くの「囚人」は、一緒に働く地元の人たちと親しくなり、
「敵」とも一生付き合える関係を築いていったということです。


木材の伐採を行う収容所の作業隊
アメリカ人看守が枢軸国の囚人たちと気軽にポーズをとっている



収容所の囚人には、創造性を発揮するための材料すら与えられました。

この写真の、ナポレオンがライプツィヒで敗れたことを記念して作られた
「国戦記念碑」をはじめ、ドイツの有名な建造物のミニチュアを作ることが
囚人の「流行り」として盛んに行われていました。

しかしU-505の元乗組員たちは、一般の捕虜とも交流を遮断されていました。
他の捕虜からドイツ国内に情報が漏れるのを防ぐためです。


■ 捕虜の解放と帰還

U-505の捕虜は、終戦までキャンプ・ラストンに留まり、
終戦が決まってからドイツへの送還作業が開始されました。

ドイツの家族は、死んだと聞かされていた息子や夫が
生きていたことにさぞ驚き喜んだことでしょう。


先ほどのヨーゼフ・ハウザー中尉が、捕虜解放前に
フランスの収容所から母親に宛てたメッセージが残されています。

ドイツ人捕虜
住所:バイエルン ツヴァイブリュッケン・ルンダーシュトラーセ18

メッセージ:

2年が経ち、僕は再び西ヨーロッパの海岸にいます。
僕は健康で、すぐに戻れるでしょう。
前回からお母さんからも婚約者からも便りがありませんでしたが、
願わくばみなさんが今も元気で健在でありますように。

戦争で財産を失ったとしても、それに対して泣いたりしないで。

昨日僕は解放の通知を受けました。
「アメリカンゾーン2、移住地ミュンヘン」
これは解放されてからの目的地で、すぐにそうなると思います。

早くまたお会いできますように。
あれからのことを全てお話ししたい!

愛する母!僕の素敵な花嫁、兄弟、
ミュンヘンにいる全ての親戚。
彼らがいるところに残らず僕の挨拶を送ってください。
これは息子のセップからのお願いです。

ヨーゼフ・ハウザー中尉
LANT 50 GNA
C.C.P.WE.#23 c.o. P.W. I.B
フランス パリ

最後の捕虜は、1947年に帰国しましたが、博物館の資料として
1991年に行われたかつての捕虜へのインタビューが掲載されています。

■ ヴォルフガング・シラー元水兵へのインタビュー



Q.魚雷室での生活はどのようなものだったのか

もちろん、とても狭かったです。

魚雷の上には私たちの・・私たちのテーブルがありました。
魚雷に木の板をのせるんですが、私たちは寝台に座り、
魚雷の上に置かれたこの木の板で食事をしました。

寝床は、見張りのローテーションごとに交代して使いましたので
「ホットバンク」といっていつも暖かかった。
4時間ごとに誰か起きればすぐに次の人が寝るのです。
その度ベッドを交代しました。

最初に乗艦した人たちはとにかく
ザックの上やハンモックの上を取ってここで寝ていました。
Smutje(コック)なんかは、ほとんどここ。
魚雷の上の真ん中のところでしたね。
彼らは自分のベッドを持っていなかったのです。

「フリーウォッチマン」「フリーランナー」と呼ばれる連中は寝床がない。
しかし、私は自分の特別な寝台を確保していました。

リラックスすることなんてできません。
パイプのせいで仰向けにしか寝られないし寝返りも打てないんですから。
でもそれも当然、とにかく眠る場所さえあれば、って感じです。

海が荒れた時にはパイプの上ですから、滑り落ちないように
頑張って自分の体を支えなければいけなかったのですが、
ある日、あまりにも海が荒れていて、ベッドから振り落とされて
隣の人の背中に「落ちた」ことがありました。


Q.非番の時は何をしていたのですか?
読書?音楽?カードゲーム?


私は本の虫で・・今日もそうです。今日も英語の本を読んでいます。
当時は、できるだけ多くの本を読む努力もしました。
そのやり方で自分を楽にすることに大成功したのです。
自分の神経を保つために。

カードゲームですが、あれはワッチのシフトで
できない方がもしかしたらラッキーだったかもしれません。
(その心は、負けたらお金が減るから)

音楽や娯楽について補足すると、艦内にレコードプレーヤーがあり、
ドイツのレコードや歌を再生することができました。
だから、少しは音楽も聴きました。

アンテナでラジオを受信できたかどうかは、もう思い出せません。
もしそうなら、せいぜいアメリカかスペインのラジオが、
私たちがいたその辺りで受信できたはずです。
でも、今はもうどうだったかわかりません。

Q.読書は、楽しみのためだけだったのでしょうか、
それとも技術的なこと、つまり勉強のためだったのでしょうか?


覚えている限りでは、「宿題」もありました。
魚雷学校で学んだことを「知識を新たにする」という意味で。

潜水艦の中で、生活の中で、学んだことを活かして
実践的に仕事をこなしていくことが必要だと思いました。

各個人が自分のポジションを守り任務をするだけでなく、
他の人のポジションも満たすことが重要だったんです。

困ったときに助けてくれるように お互いに皆の分担を受け持ちました。
それは必要なことでした。

例えば何かの交戦中に誰かが倒れてしまったとしたら、
彼の持ち場をを引き継ぐことができなければなりませんでした。

その点で、私たちはとても充実していましたし、
そのことに興味を持ちましたし、目的を正しく理解して、
それぞれのやり方で行動できるようにしていました。

Q.音楽はオペラとかですか?

『リリ・マルレーン』とか、そういうのしか思い出せないんですけど、
軽音楽がが圧倒的に多かったかな。

若い頃、自分がオペラやオペレッタに関心があったとは到底思えません。
強いて言えば、ドイツ語で
 "am Hut haben"(「帽子の上に持っている」)
という表現があるんですが、それでいうと、
私たちはもっと軽い音楽を聴いていたと思いますよ。

その頃、ポップスはすでにすごく人気が出てきていましたし。
たまにアメリカやイギリスのレコードを聴く機会もありました。

『リリ・マルレーン』なんかは今の人でも知ってると思いますが、
それが自然と私たちの緊張をほぐしてくれていたというか。

Q.初めて潜航をしたときのことを教えてください。

ある潜水の場面で、私はたまたま中央司令室に立っていたのですが、
潜水艦がかなり鋭角に沈むと、中央司令室から艦首魚雷室が見えたんです。
まるでワインボトルを貯蔵したセラーを覗き込んでいるような感じでした(笑)

Q.どんな感じだったのでしょうか?
何を考えていましたか?

潜水艦がどれくらい傾斜を保てるか分からないので、
少し不安な気持ちになりました。
私たちはエンジンの力で潜水していたので、つまり、振動していたのです。

そして、「ダイブ!」の号令で、最初の潜水タンクが浸水し、
あっという間にこの角度になりました。
ジェットコースターみたいな感じで、とても不安な気持ちになりました。

Q.デプス・チャージ(深度爆雷)を落とされた時
の感覚はどんなものでしたか?


深海棲艦での体験はいろいろな種類のものがありました。

爆雷はあるときは近くに、あるときは遠くに落ちてきました。
私たちが捕虜になったとき、爆雷が私たちに当たったり、
近くに沈んだりして、艦のガラスが粉々になったことは実際に知っています。

他の深度爆雷はもっと遠くに落ちていました。
一つ覚えているのは水深40~60メートルの地点にいたときのことです。
攻撃されたとき、司令官から

「駆逐艦が向きを変えて、またこちらに向かっている」

と言われました。

その後、爆雷が落ちることはありませんでしたが、
ある安全地帯では常に深度計を増設していました。

当時はまだ、私たちが潜れる深さまで爆雷はセットできなかったんです。

Q. U-505が「不運艦」だったという話がありますが、
あなた自身そのような感覚をお持ちでしたか?


それについては、次のようなことしか言えません。

私はこの爆弾まみれの航海から生きて帰ってきましたが、はっきり言って
あの頃、我が国の潜水艦にできることはもうなかったんじゃないでしょうか。

U-505は、出撃準備が整っても、出発前にすぐにドック入りしました。

いざ出発というときになると、どういうわけか
オイルやその他のダメージが見つかり、また帰ってこざるを得ない。
4、5回、そんなことを繰り返して出撃したのです。
(不具合はフランス人潜水艦基地労働者の工作の結果だったとされている)

そんなだったので、U-505は不運艦だという噂が自然に生まれました。

でも、私たちは結局ラッキーでした。
だって、みなさんご存知のように、私たちは皆生き残りましたから。


Q. 総員退艦になってから、あなたは
ハンス・ゲーベラーと一緒に海に入ったそうですね。

はい。

一人で泳ぎながらどうするか考えていると、駆逐艦がやってきて、
米水兵が糸(釣り糸だったらしい)を我々に投げ始めたのですが、
私はその糸に引っかかりませんでした。

そこで、私はさらに泳いで、大きなボートに向かいました。
ボートにはすでに多くの人が座っていましたが、その中から

「まだ元気で助けを求めて泣いている奴のところまで泳いでいけるか」

と聞かれたので、こう答えました。

「誰か一緒に泳いでくれれば」

そのとき声を上げてくれたハンス・ゲーベラーとは、
いつも和気あいあいとした関係で、いい仲間だったんです。

そこで、一緒に泳ぎだしたんですが、慌てていたせいで
救命胴衣の紐を締めておらず、しかも短パンしか履いていなくて
剥き出しのふくらはぎに紐が擦れてしまい、それが痛くて・・。

でも最初何でなのかかわかりませんでした。
そこでハンス・ゲーベラーを振り返って、

「サメ?俺の後ろにサメがいるの?」

と聞くと、彼は答えました。

「Nein. Nein.」(いねーよ)

海中に太陽の光を通して、灰色の影のようなものが見えた気がして、
てっきりサメが私を狙っているのだと思ったのです。

彼が、

「大丈夫だから!」

と言ってくれましたが、念の為彼を後ろを泳がせました。
(サメがいた時のために 笑)


Q.ドイツの「スポンサーの街」について。

海軍の「スポンサーの町」はバート・ヴァイセ(ドイツ)でした。

今日、スキーヤーや人々がリラックスするために行くような、
湖の辺りに美しいホテルがあるとても素敵な町で、そこに招待されました。
「爆撃の航海」のすぐ後にね。

バイエルンでは初めて"スキーの海軍 "を見ましたよ。
海軍がスキーやるんだ、って驚きました。

もちろん、若かったので、歓待され、いろいろ体験させてもらい、
人々が私たちをいつも楽しませてくれたのが嬉しかったです。

その地域の別の町からパーティーに招待され、
そこで潜水艦の乗組員は党の大物たちと一緒に写真を撮ったんです。

Q. お偉いさんというのはどういう人かご存知ですか?
(インタビュー終わり)


インタビュアーは、ここで歴史に残っているような
ナチスの大物の名前がでてくることを期待したのだと思いますが、残念ながら
オーラルヒストリーはここまでしか掲載されていませんでした。


しかし、ドイツ軍捕虜というのは、思い過ごしかもしれませんが、
アメリカでは全く問題なく暮らしていたようです。



捕虜といえば、最後に私見的余談です。


アメリカ人がドイツと戦争しても、国内のドイツ人を
日系人のように強制収容所に閉じ込めることをしなかったのは、
ドイツ系がWASP、アメリカの支配層である

ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント
 (White Anglo-Saxon Protestants)


の一つの流れであり、イングランド、スコッチ系を含むイギリス、
オランダと同じ移民時のエリートだったからと言われていますね。

(ルーズベルトはオランダ系。JFKはアイリッシュ系で
プロテスタントではないカトリック系の初めての大統領であり、
選挙の際、ハンディを覆すためにケネディ家は
マフィアの力を利用して大々的に選挙不正をしたと言われている)

原子爆弾をドイツに落とす計画は最初から最後まで議論すらなかったのも、
結局はそういうことだったんだろうなあ・・・(とわたしは思います)。




続く。