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アメリカ海軍の航空パイオニア〜スミソニアン航空博物館

2023-04-06 | 飛行家列伝

前回は、実は史上初の大西洋横断を成し遂げていたのが
アメリカ海軍だったという衝撃の史実についてお話ししました。

行く先々に海軍艦艇を首飾り状に配置したり、もしもに備えて
3機のチームで臨んだり、さらには途中の島で修理やら何やらで23日費やし、
というのが「横断」というにはチートすぎて記録として残されていない、
ということも、ついでにご理解いただけたかと思います。

今日は、その頃の海軍航空のパイオニアを何名かご紹介しますが、
まずその前に、前回ご紹介するのを忘れていたスミソニアンの展示、
海軍大西洋横断チームの私物を挙げておきます。

■海軍大西洋横断チームの私物


●メダル・オブ・コングレス



ウッドロウ・ウィルソン大統領が議会を代表して、
大西洋横断初飛行のNC-4の乗組員と計画者に贈ったメダルです。

●コース&ポジションプロッター



直径7.3/8インチ、1/4インチセルロイド製グラフ、2本の目盛付きアーム。

「このコース&方位インディケーターは、最初に大西洋横断の際
通信オペレーターのロッド少尉がNC-4で使ったものである」

とこの裏には鉛筆の手書きで書き込まれています。


「TEC.」「Made in Germany」と書かれたステンレス製のプロッター。
1919年5月、A.C.リード中佐がNC-4の大西洋横断飛行で使用したもの。

司令官だったリード中佐から、NC-4の整備士であった
チャールズ・J・ボイドに作戦終了後プレゼントされたそうです。

●スイス製8日時計



「8日時計」とは日本の「8日巻き時計」のことだと思われます。

大西洋横断を水上機で行うというこのチャレンジにおいて、
正確な時間を知るための時計はナビゲーションのためにも必須でした。

やはりスイス製の時計はブランドとして信頼されていたんですね。

●『ウォブル』Wobble



「ウォブル」が何かはわかりませんでしたが、(ぐらつきとか揺らぎの意味)
わかっていることは、これは船のポンプとハンドルであり、
横断に失敗したNC-3が搭載していたものだということです。

NC-3のクルーは機関が不調になったとき、水分を排出するために
このポンプを使用しました。

●航空用眼鏡



グラス部分の劣化が凄まじいですが、本当にガラスなんでしょうか。
NC-4の司令官、アルフレッド・リード中佐が着用していたゴーグルです。

アルミフレーム、綿のアイカップ、フリースパッド、ガラスレンズ、
変色したキシロナイト飛散防止コーティング、ゴム紐も破損。

● 海上用フレア


八角形、蝋のようなもので満たされ、端に重りが付いています。
灰色で、上部に溝があるこの物体は、
海上に不時着を余儀なくされたNC-3の乗員が、
救助者に自分の位置を知らせるために焚いたものです。

●ケネス・ホワイティング提督の士官用儀礼刀


このコーナーには、NC-4とは関係ない海軍グッズも展示してあります。
この士官用儀礼刀は、ケネス・ホワイティングが所有していたもので、
真鍮製ハンドガード、キヨン(鍔の片側)にドルフィンが描かれ、
革製ハンドル、真鍮製ポメル(柄頭)には
星に囲まれた鷲のレリーフが施されています。

ケネス・ホワイティング中佐は海軍兵学校卒業時にこの剣を受け取り、
1922年3月の空母ラングレー(CV-1)の就役式で使用しました。



ホワイティングは1914年にオーヴィル・ライトに操縦を習い、
第一次世界大戦では初の海軍航空隊を率いました。

米海軍の初代空母「ラングレー」の建造にも携わったほか、
甲板からのカタパルト発進を初めて成功させたパイロットでもあります。

その後、空母「サラトガ」を指揮し、1940年に退役するまで
海軍航空部門の指揮官や指導的立場にありました。


再掲ですが

当ブログでも何度か「空母の父」としてご紹介してきましたが、
ゲイリー・クーパーが演じた映画「機動部隊」の主人公は
この人をモデルにしています。(確かにちょっとクーパーに似てますよね)

● 航空ヘルメット


頭のてっぺんの二重丸は何の意味が?
という不思議なデザインの航空ヘルメット。
こんなものをつけたところで事故にはあまり効果はなさそうですが。

茶色の革製飛行用ヘルメット、フットボールスタイル、耳あて付き、
裏地は茶色のフリース、上部に白い雄牛の目(bull eye)が描かれています。

このヘルメットは、やはり「ラングレー」のパイロットだった
アルフレッド.M.プライド提督が着用していたものです。

なんかこんな人自衛隊にいそう

アルフレッド・プライドについては、以前も当ブログで取り上げました。
海軍兵学校を出ずに提督になった人でもあります。

この人ですね

■ 「空母の父」ジョセフ”ブル”リーブス提督



「軍人飛行家」ばかり(コールマン以外)集めたこのパネルのうち、
海軍軍人は中段のリーブスとその右側のロジャースだけです。

ジョセフ・メイソン『ブル』リーブス提督
Joseph Mason ”Bull” Reeves(1872−1948)


もまた、初期の航空母艦の発展に寄与した海軍軍人の一人です。
前にも書いたことがありますが、彼の実体験から得た教訓は、
1930年代を通して海軍のドクトリンに大いに影響を与えました。

彼が艦長を務めたこともある海軍初の電気推進船であるコリアー船、
USS「ジュピター」(AC-3)が、1922年に
航空母艦USS「ラングレー」(CV-1)として再就役したことから
彼のキャリアは大きく変わることになります。

「ラングレー」はご存知のようにアメリカ海軍はつの航空母艦ですが、
既存の甲板の上に二階建てのように設置されており、
海軍軍人たちはこれを「幌馬車」と呼んでいました。

第一次世界大戦が済んでから海軍航空隊で教育を受け、大尉の時に
戦艦航空隊司令に就任し、「ラングレー」を旗艦として乗り組んだ彼は、
司令部在任中、空母航空戦術の発展に努め、
出撃率の向上と急降下爆撃の利用を模索し続けました。

彼はこれらのコンセプトを、海軍の年次艦隊演習(通称「艦隊問題」)
でのパイロットと航空機乗組員の成功によって証明することになります。

ちなみに「空母の父」多すぎかよ、と思われるかもしれませんが、
空母発展期に司令官だったのがこの人だったので、
この人が「空母の父の父」みたいな位置づけとされているようです。

雄牛というより山羊系男子だよね

あだ名の「ブル」に違和感を感じた人はわたしだけではないと思いますが、
こう見えて兵学校時代からフットボールで鳴らしており、
コーチとしてもアーミーネイビーゲームで6勝している凄腕なので、
それで付いたあだ名だったんじゃないかと思います。想像ですが。

■ ハワイ「無着陸」到達飛行?
ジョン・ロジャース中佐


リーブス提督の右側の写真の海軍軍人は、

ジョン・ロジャース中佐
 Commander John Rodgers (1881 – 1926) 

時代が遡りますが、最後にご紹介しておきます。
有名なジョン・ロジャース提督と黒船来航のマシュー・ペリー提督の曾孫で、
つまり「海軍一家の海軍軍人」ですが、ならばなぜ航空に?

それは中尉であった1911年、発足したばかりのアメリカ海軍航空計画で
たまたま人力凧を使った実験に参加させられたのがきっかけでした。

上官の命令でUSS「ペンシルバニア」(ACR-4)の甲板から
凧で400フィートの高さまで釣り上げられ、ケーブルに吊られた状態で
航行する船に引っ張られ、15分間、観測と写真撮影を行うという実験です。

「仮面の忍者赤影」状態と考えればいいのか。


参考画像

そしてなし崩し的にその後ライト兄弟から航空訓練を受け、
(ちなみにライト兄弟が訓練をした最初の人物となる)
海軍飛行士第2号となりました。

この頃彼は、ライト兄弟飛行場にあったライトフライヤー号を無断で借りて
こっそり飛んでいたところ、着陸の際に翼を壊してしまい、
ライト兄弟にめちゃくちゃ怒られたという逸話が残されています。

しかしその後、海軍が受け入れたライトフライヤーを、
アナポリスからワシントンD.C.のホワイトハウスまで飛ばし、
海軍としては最も長時間飛行をおこなったパイロットの称号を得ました。

ロジャースはこの成功に気を良くして、飛行機で両親を訪ねることを思い付き
連絡せずにいきなり自宅近くの野原に着陸して、

「アメリカで初めて飛行機で両親を訪ねた男」🎉

というタイトルも手に入れました。

でっていう。

第一次世界大戦が始まると、飛行機で遊んでいるわけにもいかないので、
潜水艦部隊の指揮官となり、コネチカットの潜水基地から出撃し、
北海での掃海作戦で功績を挙げて勲章を授与されました。

【ハワイへの初の無着陸飛行挑戦】

「ラングレー」で戦闘艦隊の航空機飛行隊を指揮していた1925年、
彼はカリフォルニアからハワイへの無着陸飛行の挑戦を指揮しました。

当時の技術を考えると、これは航空機の航続距離と航空航法の精度、
両方の限界を試すものでした。

海軍は同じ理由で大西洋横断飛行の挑戦もしていますが、
この遠征でもその時と同じ3機の航空機が参加することになっていました。

結局1基が間に合わず、2機での挑戦となり、
ロジャースは飛行艇PN-9 1号機を指揮することになりました。

そしてまたしても海軍は、(NC-4大西洋無着陸飛行編参照)
カリフォルニアとハワイの間に200マイル間隔で10隻の護衛艦を配置し、
給油や回収などを行う過保護体制でこれを支援しました。


2機のPN-9はサンフランシスコ近郊からを出港しましたが、
2号機は早々にエンジントラブルとなり、脱落。

ロジャースの1号機は機嫌よく飛行していましたが、予想以上の燃料消費、
予想以上の追い風のため、洋上給油が必要となります。

しかし、航法技術の限界と船員の誤った航法情報により、
給油船と会うことができず、飛行船は海で浮いているしかなくなります。

空中にいる間は機体の位置が分からず、
水上に浮いているときは機体の無線が送信できない。

こんな状態なので、海軍が総力を上げて数日間大規模な捜索を行うも、
ロジャース機は発見されず時間だけが過ぎていきました。
海は広いな大きいな。月が上るし日が沈む。

そしてロジャース一行は夜が明けると生還のために行動開始。
翼の布を使って帆を作り、数百マイル離れたハワイに向けて漕ぎ出しました。

うーんさすが船乗り。って感心してる場合じゃないか。

さらに彼らは、金属製の床材を使ってリーボード
(揚力翼、船が風下に向かないようにする装備)を作り、
航行中の飛行艇の操縦能力を向上させたりしています。

いや、冗談抜きでさすがは船乗りである。

そして9日後。

カウアイ島まで後15マイルというところで、ロジャースの1号飛行艇は
潜水艦 USS R-4に発見され、曳航されて島まで無事辿り着きました。


潜水艦に発見されるまでに、ロジャースと彼の乗組員は、
9日もの間、食料もなく、限られた水で生き延びていました。


でも、あれ・・皆なんかツヤツヤしてないか?

ロジャースは、9日間の漂流生活を経ても乗員の健康には問題がなく、
しかも『完全に自分たちの面倒を見ることができた』と言っていますが、
飛行艇が海軍組織で、命令系統が日頃の訓練から非常に潤滑だったこと、
おそらく指揮官の采配が良かったのと、全員が若い軍人で鍛えており、
また海軍だったので海に強く、体力があったことが功を奏したのでしょう。

これがもし民間あるいは陸軍の飛行機だったら、
おそらく飛行艇の操舵を改造するなどということも不可能だったし、
生きて帰ることはできなかったかもしれません。

帰還後、ロジャースと彼の乗組員はちょっとした英雄となりました。


全米が泣いたため映画化決定・・・映画「ハワイ・コールズ」

そして、ここからはちょっと、と思うのですが、
彼らのこの度の飛行は、空路でハワイに到着しなかったにもかかわらず、

「3206km水上飛行機の無着陸飛行距離新記録」

として正式にカウントされることになりました。

いやいやいや、それはない。
これ、飛行・・・してませんよね?
確かに着「陸」はしてない=無着陸だけど。


その後ロジャース中佐は、航空局の次長として勤務していましたが、
1926年、任務中の飛行機がデラウェア川に墜落して死亡しました。

享年45でした。

飛行機が不調に見舞われたとき、彼はもしかしたら一か八か、
かつて水上機でやった方法で、川への着水を試みたのかもしれません。

そして、やっぱりうまくいかなかったと・・・(-人-)



続く。