ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

"彼らを飛ばすために": 整備士と爆撃指揮官〜国立アメリカ空軍博物艦

2024-03-30 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の展示より、
第二次世界大戦時の爆撃機に焦点を絞って紹介しています。
今日は爆撃機の本領である爆撃についての色々です。

■ Keep Them Flying


爆撃機乗組員の生死は、地上作業員の技量と勤勉さに依存していました。

 彼らは大型で複雑な爆撃機を常に完璧に整備し、戦闘による損傷を修理し、
航空機をより効果的に飛ばすための改造を担いました。


兵器課の爆弾装填手は、爆撃機の致命的なペイロード(爆薬搭載)

爆弾を組み立て、運搬し、機体に搭載するという危険な任務を担いました。 



ダンプから1,000ポンドの薬莢を取り出す爆弾装填手。 



薬莢には尾翼を付け、機首と尾翼の信管を付けてから航空機に積み込みます。


B-17の爆弾倉に吊り上げる前に、
500ポンド爆弾の尾翼とアーミングワイヤーを装着する兵器兵たち。

下士官技術専門職のパッチ
左から:
気象、エンジニアリング、通信、兵器、写真

爆撃作戦の成功は、何万人もの高度な技術を持った専門職に依存しています。

 1943年から、航空兵は自分の専門を示すパッチをつけるようになりました。



イギリスの第8空軍基地で、雪の中でB-24のエンジンを交換する地上作業員。 

季節や天候に関係なく、ほとんどの整備は屋外で行われました。



足を泥から守るために缶の上に立ち、B-17エンジンの整備をする整備兵。
イタリアの第15空軍基地にて。


泥にめり込んでしまうんでしょうか



作業ではしばしば事故が起こり、大惨事となっています。

■メットフィールドの「デッドリー」(致命的)アクシデント

1944年7月15日、イギリスのメットフィールド飛行場で、

米軍兵器担当者が高火力爆弾を運搬車から下ろしていたとき、
爆弾が誤爆発し、それが1,200トンの爆弾を誘発させました。



この大爆発で5人が死亡し、20機以上のB-24が破壊され回収不可能になり、
数機が損傷するという大惨事になりました。

爆発音は40マイルにわたって聞こえたといい、
数マイル離れた村の窓ガラスを粉々にするほどの威力でした。



博物館に展示されている爆発の際出た金属片は、かつて薬莢だったものです。
1970年、歴史家のロジャー・フリーマンが、
メットフィールドを訪れた際にこのねじれた薬きょうを発見しました。

薬莢の端には、靴底らしきものが巻き込まれています。
それを履いていた人は、おそらく亡くなったでしょう。


一番下に、この「メットフィールド爆発事件」と書かれていますが、
この石碑、三つの全く違うものを記念してあります。
まず、

「第353戦闘機群」

メットフィールドに最初に駐留したアメリカ軍、第353戦闘機群は、

リパブリックP-47Dサンダーボルトを装備する部隊で、
1943年8月12日にヨーロッパで作戦を展開開始しました。

メットフィールドを根拠地として、対空任務、
西ヨーロッパに展開する爆撃機の護衛、
フランスと低地諸国上空での対空掃討作戦、
フランスの標的を急降下爆撃しました。

そして石碑中央は、

The Carpetbaggers
(カーペットバッガー)

Carpetbaggerとは、もともと南北戦争後に南部諸州にやってきた、
日和見主義的(お花畑ともいう)な北部の人々、と意味を持ちます。

カーペットでできたバッグを持った人たち、という意味があり、

「その土地に縁がないにもかかわらず、
純粋に経済的または政治的な理由で新しい地域に移り住む人々」

という意味の名称になっています。


南北戦争後の北部人でいうと、かわいそうな黒人たちに知識を授け、
貧しい南部を栄えさせ活性化できると信じてやってくる人々。

いずれにしても、褒め言葉としては使われていない感じです。

「The Carpetbaggers」というと、ハワード・ヒューズをモデルにした
邦題「大いなる野望」なる映画がありますが、
こちらは1964年作品なので、この時代には全く関係ありません。

この石碑で記念されているのは、

「Operation Carpetbagger」
カーペットバッガー作戦

に参加した人たち「The Carpetbaggers」ということになります。

コードネーム「Operation CARPETBAGGER」は、
パルチザンの戦闘員たちに夜間に物資を密かに空輸する作戦でした。

1944年8月に第492爆撃群と改称されたこの特殊部隊は、

The Carpetbaggers として知られるようになります。

彼らはB-24リベレーターに、"レベッカ "と名付けられた
指向性空地装置を受け、 "ユーレカ "と呼ばれる送信装置を使って
ナビゲーターを地上のオペレーターに誘導します。

射程距離に入ると、「Sフォン」と呼ばれる特殊な双方向無線機で

地上のパルチザンに連絡し、最終的な降下指示を受け、
地上部隊がドイツ軍ではなくパルチザンであることを確認します。

B-24のボール砲塔が本来設置されている場所をハッチにし、その通称
「ジョー・ホール」からパラシュート降下兵「ジョー」が効果していくのです。
(ジョーが出てくるからジョーホール、ってそのまんま)


サーチライトを避けるため、光沢のある黒に塗装されたB-24で、

カーペットバガーズはイギリスからフランスへの最初の任務を決行。

パルチザンへの物資調達は、間近に迫ったDデイ侵攻への準備でした。

彼らの最も多忙だった月は1944年7月で、少なくとも4,680個のコンテナ、
2,909個の小包、1,378束のビラ(真の目的を偽装するため)、
そして62名の「ジョー」を投下しています。

いうまでもありませんが、彼らの任務は常に危険に曝されていました。

ドイツ軍の夜間戦闘機や対空砲火による危険に加え、

カーペットバガーズは、低空からレジスタンス軍に降下する際、
常に丘の斜面に墜落する危険もありました。

1944年1月から1945年5月までに、最終的には
1,000人以上のジョーがB-24のジョー・ホールから敵地に降下しました。

損害は25機のB-24、さらに8機が修理不可能、
人員損失は当初、行方不明と死亡が208名、軽傷が1名とされましたが、
行方不明者の多くはレジスタンス部隊の助けを借りて帰還しています。





爆撃機が戻ってこないときの地上勤務員の心情を表現した戦時中の詩が

爆弾の写真の上に貼ってありました。


『帰還』
ベール・マイルズ

今朝、21機が出撃した
そして太陽は私の目の前にあった
私が見ていると彼らは弧を描いた
空の中に消えていく前に

今朝、21機が出撃した
陽光が彼らの翼をとらえ
彼らは小さな雑木林を横切っていった
ブラックバードがいつものように囀っているところを

鳥のように朝に向かって
彼らは飛んだ どこへかはわからない
でも私の心にはその日一日小さく
そして微かな祈りがあった

今朝は21機が飛び立った
空を華麗に駆け抜けた
でもまだ彼らの姿は見えない
もうすぐ日が暮れるのに

そして突然、時空を超えて
翼の上に陽の光がある
私の心臓の鼓動の上に
エンジンのうなりが聞こえる

太陽はまだ輝き続けている
しかし私の世界は恐れで暗くなっていく
今朝、21機が飛び立った
しかし帰ってきたのは17機だけ


続く。