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帝国海軍搭乗員装備〜フライング・レザーネック海兵隊航空博物館

2021-11-05 | 海軍

サンディエゴにある海兵隊航空博物館、
「フライング・レザーネック・エアミュージアム」の室内展示は
他の軍事博物館に比べると量的に微々たるものです。
その分フィールドの航空機展示が充実しているわけですが、
その少ない室内展示の中に、帝国海軍搭乗員の飛行服と
装備などがあったのでちょっとびっくりしました。

ちなみにタイトル画像は適当なのがなかったので
無駄に動感のある加工をほどこしてみました。

元写真


ガラスケース一つが全部帝国海軍コーナーです。
これにはちょっと驚きました。

考えたら、これまでわたしは海軍搭乗員の飛行服を
こんな近くで、まじまじと見たことがなかった気がします。
ブログ開設当初、飛行服の搭乗員を何人も描きましたが、
 その頃は搭乗員の写真という写真が全部白黒なので、
本当はどんな色なのかわかっていなかったのでした。

ここでこうやってあらためて実物を見て思ったのは、
まず色が想像より「茶色」だったこと。
もっとカーキというかオリーブドラブを想像していましたし、
パラシュートのハーネスもこんなグリーンだったのも意外でした。



どういう経緯でここに来た展示品なのかはわかりませんが、
おそらく今までで見た中で最も丁寧な解説がされています。
せっかくですのでABC順による現地の説明を中心として紹介していきます。

■ 第二次世界大戦の海軍フライトスーツ


【航空帽と飛行眼鏡】Flight helmet/flight goggles

タイプ30とあるので、サンマル式、1930年制式の航空帽です。
内側に毛皮がないので夏用です。
ラバウルなどの航空隊員の写真では暑いところなのに
毛皮のついた航空帽を被っている人が結構いましたが、
上空はどちらにしても寒いので冬用で通していたのでしょう。

航空帽の下に防寒用の毛糸の目出し帽みたいなのをつけていますが、
素材が綿なので、陸軍の「第二種航空覆面」(夏用)と思われます。

ちなみに海軍ではヘルメットのことを航空帽と呼びましたが、
何がなんでも違う名称にするため、陸軍ではこれを
「航空頭巾」
と呼んでおりました。(前にも書いたかな)
ゴーグルはどちらも「航空眼鏡」と一緒でしたが、
それは後期には同じ種類のものを装備していたからです。

ゴーグルのレンズ周りのステッチは
「眼鏡縫い止め糸」と名称があり、ゴーグルのフレームには
空気穴があけられています。



【航空手袋】Flight gloves

手首から先はスウェード、その他は表皮を使用しています。
海軍の手袋は名前を書くためのキャンバス布が手首部分に貼ってありました。

この手袋は状態が良く、一度も使用されていないように見えます。


【航空衣袴/こうくういこ】Flight suits

フライトスーツ=「衣袴」は陸海軍共通名称です。
衣袴なんて言葉、現在ではまず使われませんけどね。

フライング・レザーネック航空博物館(以後FLAMとする)の解説によると、

「初期のフライトスーツは硬くてしっかりとした生地で作られていました。
素材はウールギャバジンを分厚く織ったもので、
ツナギかあるいはツーピースというスタイルを採用していました。
戦争後期になると、日本でウールが不足してきたので、
製造業者はフライトスーツに
綿シルクや綿サテンを使いました」

物資欠乏は実用的な素材から始まったので、シルクやサテンなど、
夏用の贅沢素材を投入するしかなかったということです。

それから、海軍搭乗員はよくダブルの襟からマフラーを覗かせていますが、
このフライトスーツは救命胴衣で見えないものの、
どうやらシングルカラーのように見えます。

海軍と陸軍のフライトスーツの大きな違いはダブルかシングルかだったのですが、
戦争も末期になるとダブル襟のスーツはウールの不足もあってできなくなり、
シングルカラーになりました。
海軍のダブル襟が大好きなわたしにはなんとも残念な変更です。

右袖に旭日旗が付けられていますが、正式には
ここに付けるのは日の丸だったように記憶します。

不時着した航空機の搭乗員が、アメリカ兵と思われて
民衆にリンチに遭い、殺害されたという事件以降、
本土防衛にあたる搭乗員は日の丸をつけるようになったと。

日本人とアメリカ人の違いくらいわからないか、と思いますが、
ヘルメットやゴーグル、あるいはマスクなどで
顔や髪が隠されていると、一種のパニック状態になった民衆は
敵兵だと思い込んでしまったのかもしれません。

ちなみに、パイロットのことも、海軍は「搭乗員」
陸軍は「操縦者」と称していました。
何がなんでもおなじにしたくなかったのね・・。


「九七式縛帯(ばくたい)」Flight Harness Type 97

落下傘のハーネスのことは陸海軍ともに縛帯と呼んでいました。
この97式というのが紀元二千六百年であった1940年の3年前、
1937年制式であるということまでは流石にアメリカ人にはわからないでしょう。
97とはMk.97のことだと思っていたかもしれません。

「97式ハーネスは、本体に取り付けられたDリングから
二つのバネ付きフックを外すだけで、パラシュートパックを
取り外すことができたため、現場に大変好まれたタイプでした」

とあります。

【救命胴衣】 Navy Float Vest

「フロートベストは高品質の綿でできており、
22本のチューブ状のシリンダーにはカポック繊維が充填されています。
カポック繊維はパンヤとも呼ばれる落葉樹の実から取れるもので、
浮力を持たせるために最初のライフジャケットにあしらわれました」

こういう書き方をしているところを見ると、
アメリカ軍の救命胴衣は別のものを使っていたのかしら、
と思って調べたら、あちらも救命胴衣は「カポック」ですね。

もともとはインドネシア語による木の名前なのですが、
この頃の名残で、今でも自衛隊では救命胴衣のことをカポックと呼んでいます。

というわけで、海軍航空搭乗員も、陸軍航空操縦者も、
航空装備一式を身に付ける順序は、

1、航空衣袴(つなぎ)を白絹のマフラーと共に着用

2、その上に救命胴衣をつける
胴衣の背中部分から出ている布を股に潜らせ、紐を胴に巻いて前で結ぶ

3、縛帯をその上から装着する
両足から履いて上に引き上げ肩にかける

以上

うーん・・・これは・・・。
いったん装備してしまったらトイレに行けなくなること必至。
まあ、基本軍用機にはトイレなんてないですけどね。

■ 第二次世界大戦における日本軍の「ギア」



搭乗員服だけでなく、その他の装備も展示されています。


【フライトコンピュータ】Flight Computer Type 4 Model

写真にはあるのに、どこを見ても現物が写っておりません。
「このフライトコンピュータは大戦中のものとしては
最もよく使われていたもので、搭乗員のズボンの腿の部分に装備されていました」

とあります。

その後色々調べるうちに、たとえばこの海軍搭乗員コーナーも、昔は
これらのものとか、フル装備の搭乗員の写真があったみたいなんですが、
いつのことなのか、規模が縮小されて展示が減ったようなのです。



海外のサイトで扱っていた同じ海軍搭乗員用フライトコンピュータ。
飛行中にフライトやナビゲーションに必要な情報を入力するもので、
表面のダイヤルとスライドは裏面に沿って回転します。
対気速度アームは左右に回転し、ハンドルに沿って上下に動きます。


【二式落下傘】Parachute Type 2

二式、すなわち1942年、昭和17年式の落下傘です。
日本軍の落下傘は独占企業だった藤倉工業株式会社が製作していたので
陸海軍の大きな違いはなかったとされます。

「タイプ2のパラシュートは、手動で展開され、
開傘には2.5秒を要しました。
パラシュートパックのタグには、
『注意ーパラシュートは毎月一回たたみ直す必要があります』
と書かれています。
パラシュートの梱包履歴カードは、このラベルの下に保管されていました」



1ヶ月に一度は畳み直さないと、いざという時に
開かないという可能性が大いにあったのですね。

「空の新兵」という陸軍落下傘部隊のドキュメンタリーで、
傘を畳むところを教わるシーンがありましたが、
なにやら定規を使って超面倒そうな作業を、
「命に関わる」ということで超真剣にやっていました。



【九二式航空羅針儀二型】Compass, Type 92 Model 2

別のサイトで見た製造プレートには「横河電機製作所」とありました。
横河電機は現在では工業計器の分野で国内第一位、世界第6位の大企業です。

大正年間に創立され、戦前は計測器メーカーとしては国内最大手でした。
航空・航海計器に強く、大戦中、軍需によって急拡大した企業です。
戦後はコンピュータの分野に進出し、工業計器・プロセス制御機器メーカーの
巨大グループを形成しています。

この羅針儀は三菱AM6零式に搭載されていました。


日本海軍の航空機用に製作されたもので、直読磁気式。
大変立派な木製の収納箱に収められています。

コンパスレンズの5時の位置に、錆びて変形したつまみがありますが、
これは周りのガイドを0〜360度回転させるための調整ネジです。

パネルの下部にある2つのつまみを回してネジを外すと、
引き出し式のコンパスを照らすランプと、補正調整機構があります。



木箱は持ち運びのために堅牢な革ベルトが取り付けられています。
機体に取り付けた後の木箱は不要になったのでしょうか。



前面のスリットポケットにはコンパス補正カードを入れます。



零戦のコクピットに装備された羅針儀(赤部分)。
また、中島の九七式艦上攻撃機(魚雷爆撃機B5N2ケイト)にも使用されました。



【速度計三型】Airspeed Indicator Model 3

速度計のことですが、これも三菱A6M零式戦闘機装備のタイプです。
数字が二重になっていますが、針が一周したら、
つまり16以上は内側の数字を読むようになっているそうです。


【ティーセット】Tea Set

ammo、つまり弾薬を加工して作ったティーセットだそうです。
残念ながら現地に現物はありませんでした。


【徳利・箸】

現地の英語の説明はありませんでした。
誰が見ても酒瓶と箸であることはわかるからでしょう。

箸袋は皮の留め具がついており、手洗い可能、
しかも二箇所に二膳の箸が収納できるようになっています。
二食外で食べられるってことですね。

搭乗員は機上では箸も使わなかった(握り飯)でしょうし、
酒徳利はさらに持ち込むはずがないのですが、
これらがなぜここに展示してあるのかは謎です。


「航空時計」

これも説明なし。
よく搭乗員が首から下げているあの時計ですね。
ストラップになる白い紐がついています。
それにしても保存状態がいいですね。


秒針付きで、文字盤には蛍光塗料が使われています。

搭乗員が状況開始前、時計を合わせるシーンを映画で見たりしますね。
隊長が少し前からカウントを始め、ゼロで
「テー」と整合させるというあれです。

なんだかんだ言って、この航空時計の実物を間近で見るのは初めて。
しかもそれがアメリカのサンディエゴだったという(笑)


零戦の模型の向こうに見えているのって、
もしかしたら墜落した零戦の機体の一部なんじゃないんでしょうか。

現地にもHPにも説明がないので、ご紹介できなくて残念です。
しかも、この写真を撮ったときにはわたし自身にもわかっていなかったという。


続く。






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2 Comments

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搭乗員 (Unknown)
2021-11-06 08:51:16
>パイロットのことも、海軍は「搭乗員」陸軍は「操縦者」と称していました。
何がなんでもおなじにしたくなかったのね・・

パイロット(操縦者)以外にも航法士等「搭乗員」はいるので、陸軍にも「搭乗員」はいたと思いますが、海上自衛隊ではすべてひっくるめて「搭乗員」なので、海軍もそうだったと思われます。

>製造プレートには「横河電機製作所」とありました。横河電機は現在では工業計器の分野で国内第一位、世界第6位の大企業です。

残念ながら、横河電機の航空宇宙防衛部門は、沖電気への譲渡が決まりました。https://www.yokogawa.co.jp/news/press-releases/2021/2021-10-06-ja/
返信する
海軍航空被服 (お節介船屋)
2021-11-06 11:48:17
大正15年根本米次郎主計中佐が航空服の調査で欧米を訪問し、優秀な航空服を取り寄せ、搭乗員の意見を取り入れ試作、昭和4年11月制定されたのがアメリカのオーバーオール型がモデルでした。ファスナーも採用され電熱服も登場しました。
品目は航空衣袴、航空夏衣袴、航空帽、航空夏帽、航空防禦帽、航空眼鏡甲、乙、航空手袋、航空夏手袋、航空靴、航空作業靴、電熱衣及び袴、電熱胴衣、電熱袴下、電熱頭巾、電熱内手袋、電熱スリッパ等でした。材質は表が茶鼠色の防水クレバネット、裏が茶色のアストラカン織の毛皮模造織物でした。

昭和9年軽量化の大改正し、表地は茶色クレパネットで生糸を使用し、裏地は黒色富士絹とし、間のゴム引布を取り止め真綿を上質の和紙で挟んで綴じて、中入れの遮風材としました。

昭和17年一部改正されましたが昭和9年を踏襲していましたが秋ごろから前コメントしましたがセパレート型が支給され始めました。
昭和20年鮮明な日の丸をつける命令が出て、航空服右上腕部に10㎝平方、航空帽頂点より少し後ろに8㎝平方、落下傘帯の背面に12㎝平方の日章旗を縫い付け、救命胴衣には横7㎝、縦4㎝の軍艦機を塗料で描くか、布を貼り付けるかとなりました。

階級章を左腕に着けたのは手掛け足掛けが左にあり飛行機の乗り組む時左側からであり、指揮所等から搭乗員確認のため左となったと考えられます。

航空帽は南方でも、頭に密着具合の良い兎毛皮裏の冬用が愛用されました。
昭和18年性能が向上した無線電話機の採用でレシーバー内蔵の三式航空帽が採用されました。

航空眼鏡は普通の眼鏡と夏用の乙と探照灯照射時のため色眼鏡を重ねた「防眩眼鏡」が供給されました。玉は無色曲面安全ガラス、鷲の目型、縁は真鍮を燻したもの、顔に面した座褥にびろうどを付けていました。

襟巻は白い貸与品もありましたが私物を着用する搭乗員も多かったようです。何色でもよかったようです。夏用の貸与品は長さ180㎝、幅62㎝の絹製でした。恰好だけでなく防寒や顔面保護やマスクや止血のため等実用面がありました。

航空時計は黒い文字盤の夜光時計でしたが戦闘機搭乗員は腕時計、天測を行う偵察員は紐を付け首に掛けました。

靴は黒皮製の半長靴でした。

救命胴衣は表地が焦げ茶の平織木綿、チョッキ型、畝状にカポックを詰め、締紐と股吊がついていました。右胸の湾曲部の下に鉛筆入れ用の細い蓋つきポケットが付いていました。戦争末期にはこのポケットが省略されましたので写真はあるように見えますので末期型ではないようです。

戦闘機搭乗員は護身用拳銃をケースには入れず、首から紐で吊るし、この救命胴衣の締紐に挟んでいました。

落下傘は小型機では座席に置いてあり、縛帯と落下傘の金具を引っかけて連結し、クッションのように落下傘の上に腰かける。

エリス中尉の記述のとおり、搭乗員被服は格好良く、優先的に整えていましたが末期に物資不足となり、ファスナーがボタン留め、ダブル打合せはシングル、金属バックルはベークライト、布地も低質化してしまいました。

最末期昭和20年5月には粗末な略式航空服とまでなりました。ただこの略式は練習機に限っての使用とされたようですが?

参照並木書房柳生悦子著「日本海軍軍装図鑑」
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