ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

記念艦三笠~「三笠刀」と三笠製品

2013-05-16 | 海軍

記念艦三笠には砲弾で穴だらけになった雪見灯籠が飾られています。
これは被弾した部分を切り出してそのように作られたもの。



穿たれた穴にまるで花弁のように美しく広がって、
確かに意匠としては悪くありませんが、見るからに不穏な感じで
こんなものが庭に飾ってあったら、とても風雅に風景を愛でることなど
できない気もしますがそれはともかく。

それから、こんなものもあります。



三笠の廃材を使って作られた「花器」。

・・・・・・・花器?

え、これに花を活けるんですか?
というか、これ一人で持てそうにありませんね。

これは、三笠が日本海海戦で勝利をおさめ、日本に帰ってきて
まもなく、弾薬庫の暴発で沈没してしまったあと、引き揚げ、修理して
その際廃棄処分となるべき部分で作られたものです。

この爆発ですが、公にはなっていないものの事実上の原因は
「水兵の酒盛り」であった、ということになっています。

勝利の興奮のまま佐世保に意気揚々と凱旋した三笠の乗組員の面々、
一旦上陸して故郷でお祝いの膳を囲んで一晩過ごし、
後発組の上陸のために三笠に帰ってきて、艦内で祝宴となりました。

これは公式のものではなく、艦内いたるところでこっそり行われる、
「闇宴会」だったのですが、人目(というか上官の目)を避けたのが裏目に出ました。
かれらが選んだ場所は、火薬庫の中。

一説では煙草の火が引火した、また違う説ではアルコールに火をつけて、
何とか匂いを飛ばして飲んでいたというものもあります。

とにかく、その火が火薬に引火したのです。
当たり前です。

もしかして馬鹿ではないだろうか、と真剣に思ってしまうのですが、
「火薬には火気厳禁」ということが皆に徹底周知されていなかったのでしょうか。

そこに持ってきて、この火薬です。

聯合艦隊の勝因の一つに「火薬の威力」と言うのがありました。
下瀬 雅允(しもせ まさちか)という軍属の工学博士が発明した
「下瀬火薬」は、ロシア艦隊のみならず列強に怖れられるほどの威力を持ち、
製法が秘匿されていたゆえに日本の技術力に対する畏怖すら生み、
日本海海戦の大きな勝因ともなりました。

火薬は日本人の発明ではありませんが、
これもまた日本人が実用化し世界を席巻したということになります。
その後の世界の製造業界において度々繰り返される「黄金の法則」です。



しかしこの下瀬火薬。
火薬として優秀過ぎて扱いが難しかったのも事実で、この時も
簡単に着火、爆発して、ロシア艦には沈められなかった三笠が
あっさり着底してしまうのです。
このときの三笠の死者、699名。
日本海海戦の日本軍死者総数110人を遥かに上回る大惨事になりました。


で、その廃材を使っていろいろと作ってしまうという(笑)

雪見灯籠も、もしかしたら敵の弾薬ではなく、
このときの暴発によるものなのでしょうか?

どちらにしても、こんなに大量の死者を出した事故であるのに、
こんなものを作っている場合だろうか、
とつい首をかしげてしまうのですが、「事故で沈んだ三笠」よりも
「日本海海戦で勝った三笠」というファクトの方を、
こういうプロダクツを売り買いする人々は重視したのかもしれません。



さてこの「三笠刀」。

三笠刀である証拠として
「皇國興廃在此一戦」
と漢文で彫り込まれています。

これは件の爆発事故の廃材を使ったものではありません。
というか、そんな不吉なものを使って、花器はともかく刀など作るはずはありません。

三笠は、日本海海戦の一年前に行われた黄海海戦の際、
後部二連装主砲の一門を破壊されます。
この破壊された主砲残鉄はその後どこかに保管されていたのですが、
昭和3年に、三笠の殊勲を記念するために刀剣を造ろうという計画が
水行社などででもちあがりました。

そこで、室蘭の著名な刀自、瑞泉に依頼し、この主砲で短剣、長剣、
あわせて三千振りが製作されたのです。

私事ですが、先日うちのTOが急にメールをよこし、
(うちは夫婦忙しくて顔を合わせられないときにはメールでやり取りをします)
「室蘭に行きたい」
というタイトルを付けて、このような記事を添付してきました。

http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2012/11/10/20121110m_04.html

三笠刀のこともTOは興味を持ち、この記事にある
「日鋼室蘭」の工場見学をしたいものだなあ、と知人を通じて図ってみたのですが、
残念ながら「見学は受け付けられない」と言う返事。

「珍しいね。見学不可なんて」というとTO,

「ポスコの件みたいなのもあったからかな・・・・・」


このTOが見に行きたがっていた日本製鋼所室蘭工業所(現室蘭製作所)
瑞泉鍛刀所で昭和3年から7年までの4年にわたり、海軍刀が製作されたのです。

造られたのは三種類。

三笠長剣(229本)
甲種三笠短剣(973本)(皇国の~の彫刻あり)
乙種三笠短剣(451本)

これらはいずれも水行社を通じて販売されました。

大西瀧治郎長官もこの三笠で作った愛刀を持っていたそうで、銘は
「以軍艦三笠砲鋼 秀明作」でした。

三笠刀は海軍兵学校の士官候補生が設えるものとして人気があり、
その人気にあやかって日鋼と水行社の間で追加製作が決まるのですが、
肝心の製作者が

「数打ちは甚だ迷惑至極御免被りたし」

と言ったので、その後の三笠刀は弟子が製作し、
その際には秀明の銘は入れないことで合意しました。

そして、現在見学不可となっているここなのですが、
こんな話があります。

日本製鋼所室蘭製作所は海軍の強い影響下で設立されたため
(イギリスとの共同出資となったのはそのため)、
長い間陸軍関係者の出入りが制限されていました。

そのため陸軍大臣当時の東條英機が尋ねて来たとき、
日鋼が東条を門前払いしたという事件も起こりました。

うーん。

なぜ、東条英機が門前払いを。
ポスコの事件じゃあるまいし、陸軍が日鋼の技術者を引き抜いたり、
ましてや軍機を盗んだり、ってことはありえないと思うのですが・・・。

その後、東條が首相に就任するとさすがに追い返すわけにはいかず、
それ以後は陸軍関係者の見学も許可するようになったということですが、
それにしても東条英機、なんだってこうたびたび日鋼に用事があったのか・・・。

「三笠刀」みたいな軍刀を自分に作ってほしかった、とか?







日本海海戦~砲郭(ケースメート)後半

2013-05-15 | お出かけ




砲郭についての話、後半です。
この記念艦三笠内砲郭の模型について別角度から見ると、
右に弾を持った補充係がいます。
後の4人は全員弾薬庫まで走って弾を取りに行っている途中。
(と言う設定)

前半に続き、砲郭に勤務した下士官兵に焦点を当てた
映画「海ゆかば 日本海大海戦」を例に引きながらお話ししましょう。


ところでこの映画で佐藤浩市が演じる「ジャクリ狼」の大上三曹。
貧農の出身で、身売りする弟に思いを寄せるという過去があり、
軍隊内で金貸しのようなことをして皆に嫌われ、おまけにジャクっていた、
つまり出世が遅くて拗ねていた、という設定です。

しかし大上三曹、配置は砲員長の大役です。
三曹で砲員長。
これ、別に遅いわけではないんじゃないんでしょうか。
砲郭に配される兵を指揮するのは、冒頭写真を見ても
下士官であるらしいことはわかりますが。

大上三曹が「ジャクって」いたのは、本来ならばもっと出世するはずの、
飛びぬけて優秀な男だったのに、ということでしょうか。

いや・・・しかし、この下士官、
どうみても出世が遅れてジャクッているというわりには若すぎる。
だって、1983年当時の佐藤浩市ですよ?まだ22歳よ?

この若さで三曹とはいえ下士官。
この「下士官の出世と年齢」について調べてみたのですが、
将校についてはいくらでも資料があるのに、下士官兵については
ほとんどインターネットに上がってくる情報はありませんでした。

なので断言はしませんが、これ、ただ「ジャクリ」という海軍用語を
どこかに使いたかっただけではないのかという疑いが・・・。





「海軍の習慣を映画に盛り込むために意図して入れたシーン」。

ネッチング(ハンモックをロープで縛りあげる動作)を見せるためだけに、
沖田浩之にそのやり方を完璧マスターさせたと思われます。


ここは見たところ砲郭ではありませんが、実際には砲員は砲郭内にハンモックを吊り、
毎日こうやってネッチングで床を片付けました。
ネッチングしたハンモックはまた安全クッションのようにあちらこちらに配され、
砲弾の破片から乗員を守る役目に使われました。

まさに職住一体というやつ?



ネッチングしたハンモックの使用例。
あっちこっちにクッションと化したハンモックが巻かれています。
ひとつひとつが皆の寝床であったとは・・・・・。



そしていよいよ「三笠」が呉を出港するときのケースメートの皆さん。
なんと砲員は砲郭のスリットから外を見るだけ。
持ち場から離れることはできなかったということですが、いやいや、

君たちは、まだましだ。(笑)

なぜなら左舷砲郭が持ち場だから。

三笠には、あたりまえですが右舷にも砲郭があって、こちらが持ち場の砲員たちは、
見送りの人々すら全く観ることができないまま出港を迎えるわけですよ。

一番後ろの髭の砲員がぴょんぴょん跳ねながら外を見ているこのシーン、

「砲員は帽振れもさせてもらえないとは、なんて気の毒なことよ」

と哀れに思いつつ見たあの頃のわたしはフネについて何も知らなかったのでした。
まあ、今も知らないっちゃ何も知りませんが(真剣)




そのうち廃止になる運命だけあって、この砲郭というシステムには問題がありました。
即ち、戦闘になったときに稼働する砲郭は一方だけであることが多いのです。
もちろん両側から攻撃されたらどちらもが応戦するわけですが、
片面で攻撃しているときには反対側は遊んでいるという状態になってしまいます。

「坂の上の雲」では、敵前回頭の瞬間、砲員たちが道具を持って
反対側舷に向かって走っていく様子が描写されていましたが、
これは今回いくつかそれについて述べている文をあたったところ、
どうもそういうものではなかったとされる記述がほとんどでした。


日本海海戦の経緯からこのことを検証してみましょう。

両艦隊が遭遇した当初、聯合艦隊は左舷側をバルチック艦隊に向けて
そのまましばらく併走の状態が続いていました。
つまりこの時は左舷側の砲員は臨戦態勢で構えていたはずです。

しかし、次の瞬間、聯合艦隊はあの「東郷ターン」、敵前大回頭を行います。


この、海戦の常識を全く無視したターンに、バルチック艦隊は当初
「東郷は気でも狂ったのか」と驚き、ついで勝利を確信して喜び合ったと言われています
・・・・・・・が、その話は今はさておき。

三笠は、ターンすることによって右舷側がバルチック艦隊に相対することになります。
そして一斉砲撃を開始し、30分間にわたり右舷側での戦闘が続きます。

その間、左舷側の砲は沈黙しているわけですが、
つまり、そのときには左舷側砲郭は何もしていなかったということになります。


左舷側の砲員たちは暇なんだから、右舷側に行って加勢すればいいじゃないか、
と思われるかもしれませんが、フネの中には緩衝材として土嚢を積んであり、
決して簡単に行き来できません。

勿論、直撃弾が当たったりして万が一砲郭全員が戦死した場合は、
そこに補充として、人員を移動させるべく命令が下されると思われます。

しかし、基本的に軍艦というのは、持ち場の仕事は持ち場で最後までするので、
つまり移動や補充はあまりされなかったということのようです。

やっぱりこのシステムは合理的でないってことですね。
砲郭が姿を消した最大の理由はここにあったのではないかと言う気もします。


ところで。

このように書いて来て、わたしはあることに気付いてしまいました。


大上たちのいる砲郭は、出港のときに港を見ていました。
つまりそのとき彼らの持ち場は左舷にあったという設定です。

しかしながら、その後海戦が始まり、トーゴーターンが行われた後、
彼らのいた砲郭は戦闘に際し激しく砲を撃ち、
敵からの砲弾をまた受けて一人また一人と斃れていったのです。

・・・・つまり、

彼らはなぜか戦闘のときには右舷側にいた

ということに・・・・・。


うーん・・・・・。

良くできた映画だと思っていたけど、所詮映画。
大砲の下支えの件だけでなく、意外なところに落とし穴があったのね。


しかし、今までこの映画評やこれについて語ったもので、
このことを指摘した文章はひとつも見たことがありません。


・・・・もしかしたらこれが初めての指摘か?



しかし、矛盾だらけで、考証済みとしながら実にいい加減な戦争映画が巷に溢れる中、
これはまだましな方なんですよ。実際。






日本海海戦~砲郭(ケースメート)前半

2013-05-14 | 海軍

日本海海戦を扱った映画は、戦前戦後通じて4作あります。

「撃滅」1930
「明治天皇と日露大戦争」1957
「日本海大海戦」1967
「日本海大海戦 海ゆかば」1983

1930年の「撃滅」という映画がどのように海戦を表現したのか、
非常に興味深いですが、何の資料も見つかりませんでした。

「明治天皇と日露戦争」は、題名の通り日露戦争全般に触れていますので、
「日本海大海戦」とそのあとの「海ゆかば」が、
「日本海海戦を中心に語られた映画」としていいと思います。

「日本海大海戦」の方は、その中でも日本海海戦にのみ焦点を当てたもので、
東郷平八郎が三船敏郎秋山参謀役は土屋義男
広瀬中佐が加山雄三、ついでに平田昭彦(様)は津野田是重参謀を演じています。
(ところでつのだ・・・・って、誰だっけ)


「海ゆかば」の方は、この先発の「日本海大海戦」と視点を変え、
主人公を軍楽兵にしました。(沖田浩之
三船敏郎はここでも東郷平八郎を演じています。

というか、映画界に三船がある限り、東郷を他の役者に演じさせることなどありえない、
って状態だったんですね。


こちらは作戦参謀と高級幹部が脇役で、有名どころの俳優はおもに下士官、たとえば
カマタキ下士(ガッツ石松)や砲員長(佐藤浩市)を演じています。

わたしは個人的には、この「海ゆかば」の方を日本海海戦映画として評価しています。
海軍軍楽兵を主人公にしているため思い入れも深く、
このため一つの映画に対して4編ものエントリを制作してしまいました。


「別れの曲」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/661c676481f39b211e4d5c6803077742
「アニー・ローリー」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/9a90f4f25d5520d286d56b6ff0923bae
「家路」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/0512b41f6bebfc36cbeef3be05fbcb89
「行進曲軍艦」
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/40da1c83a2e511ce29bfd7ba50ae634d


このときにもその思い入れの理由を述べましたが、
主人公を軍楽兵にし、司令部、士官よりも下士官たちがどのように戦ったかを、
明治当時の風俗や、海軍の習慣についての説明を含め映像で説明した戦争映画は
これまでにない語り口のもので、画期的ともいえますし、
なんといってもストーリーの展開に添えられる各種音楽が興味深かったこともあります。

「当時こんな音楽が演奏されたはずがない」
と、突っ込み甲斐もあり(笑)

以前、記念艦「三笠」でこの砲郭における戦闘の再現人形を見たときには、
この映画をまだ観ていませんでした。
しかし、二度目の三笠訪問においてこれを見るとあらためて思うものがあったので、
今回、「日本海大海戦 海ゆかば」を想起しつつ「砲郭」について書くことにしました。

ついでに当時は気づかなかった映画の「これはない」にも突っ込んでしまうのだった。



さて、この映画における主人公のトランペット奏者、源太郎は旗艦「三笠」乗り組み。

軍楽隊員は要所要所の音楽演奏以外に、伝令を受け持ち、
戦闘に当たっては砲員補助、医務補助、そして伝令を受け持ちました。
我らが主人公の源太郎くんは、砲員補助の訓練を受け、砲郭に配置されます。


冒頭写真はこの砲郭の戦闘シーンを再現したもので、
実物大の人形を配して砲員の動きを説明しています。
映画でもこの砲郭のことを「ケースメート」casemateと呼んでいました。

一般に、

「火砲の操作員や機構を保護し、
かつ様々な方向に照準し発射できるようにする装置」


「砲塔」 (Gun Turret)と言います。
「ケースメート」とは

城郭や船体、車体に直接砲をマウントする形式のもの」

を言い、
砲塔の「前段階的装置」であったものを指します。

砲塔という概念の装備が普及する以前、
日本海軍の戦艦には、主砲に対して副砲は舷側に装備されていました。




記念艦「三笠」左舷。

この、一番喫水線に近い副砲の部分が「砲郭」、ケースメートです。 
展示に際してはスリットと呼ばれる舷窓は閉じられています。

これが源太郎や佐藤浩市扮する「ジャクリ狼」こと大上砲長の持ち場ですね。


なぜ副砲がこの部分に配置されているかというと、安定性の面から
重量のある副砲はできるだけ下に配置しなければならなかったからです。

しかしながら、喫水線に近いということは波の影響を受けやすく、
荒れた海では役に立ちにくいという問題がありました。

しかるに、船の動力が帆走から進化を遂げるにしたがって、
この「砲郭」は甲板上に設置する「砲塔」中心に切り替わっていくことになります。
甲板上にある砲塔ならば、荒天時でも安全に操作が可能な上、
より少数の砲で艦の両舷のどちらにも照準できるからですね。



砲塔の採用は1800年代には始まっていましたが、日本では
その砲塔を減らして、さらに大型の砲(35.6cm砲)を設置した
金剛型巡洋戦艦が、
この分野では画期的な進歩を遂げたということになっています。

ちなみに1913年当時、金剛型はスペック的にも世界最強とされていました。


同じ戦艦砲員の戦闘を描いた映画でも、日露戦争の「日本海大海戦」と
大東亜戦争末の「男たちの大和」では、絵面からして全く違いますね。
これがおよそ40年の間に軍艦の砲撃において起こった大きな変化なのです。



ここには、(おそらく)予算とスペースの関係で人形が全部で4体しかありません。
しかし実際は、持ち場に居るのは全部で8人で、このような状況でした。



しかし、この実物大の砲郭に8体人形を立たせるのは少し無理かもしれない。
だって、この人形、どういう理由か知らないけどものすごく大きいので・・・。

砲郭では8人一チームで、各々にはこのような役割分担があります。



三笠の人形が4体であるのは

「砲員長」「射手」「装填」「弾丸補充」

という役割を一人ずつにしたからですね。
射手の役割の中に苗頭(びょうどう)とありますがこれはどういう意味かと言うと、

「照準線を基準とする左右方向の修正量」

つまり、もっとさっくりと言うと弾道を定めるための基準らしいのですが、
現在の自衛隊ではこの定義を

「左右苗頭とは射弾を目標に導くため、
照準線に対して筒軸線のとらるべき左右の角度を言い、密位で表す」

としているそうです。
聞きなれない言葉ですが、苗頭とは稲穂が風にそよぐさまから来ているとの由。


ここで一番要となる重要な役割はこの「苗頭の調整」が任務である射手でしょう。
要するにこの一人の人間に攻撃の成否全てがかかっているのです。
しかし、射手がどんなに優秀でも、補充がスムースでなければ弾も撃てませんし、
全体を見ながら指揮をする砲員長の役目も重大です。
つまり、ここでも「チームワーク」が重要視されたわけで、彼らが同じケースメートで
家族より緊密な関係としていつも一緒にいたというのもこのためです。

そして軍楽隊委員の神田源太郎は、おそらく7、8番砲手として、弾丸の運搬か
補充を受け持っていたという設定ですね。
この砲郭には、軍楽隊からフルート吹きの少年も配置されていたということになっています。






砲郭のメンバー、8人。
ちゃんと一人ずつ配役されているあたりが素晴らしい。


写真は、軍楽隊の演奏する「家路」を聴きながら、故郷を思う8人。
源太郎とフルート少年は勿論演奏する側として。




ところで、このシーンの写真をあらためて観ていて、
前には見落としていたあることに気づきました。

この演奏会のシーンは「三笠」で撮られたのですが、
何人かが主砲の上に座って音楽を聴いていることになっています。
そこで彼らの座っている主砲の筒の下を見ていただきたいのですが、

この主砲・・・もしかして

動かないように固定されてしまっていませんか?



記念艦展示に当ってこのような「支え」を作ったのは、重量のある主砲部分が
経年劣化によって「下がってくる」ことを防ぐためではないかと思われます。


しかし、映画スタッフは役者は勿論監督も、
明日にでも火を噴こうかという主砲がこんながっつりと固定されて
びくとも動かなさそうな状態にされているのに誰も気づかなかったと。

まあもっとも、この支えが無ければ、映画の撮影とはいえ
こんなにたくさんのエキストラを上にまたがらせるということもできなかったはず。

そして、気づいたとしてもCG技術の無い当時では
前に人を配して隠すくらいしか方法はなかったと思いますが・・・・・。


というわけで、主砲に思わず突っ込んでしまいましたが、
砲郭についてのお話、後半に続きます。





鹿屋航空基地~頭上の敵機注意!

2013-05-13 | 自衛隊

しばらく日本海海戦特集をやります!
と書いたら「楽しみにしています」というコメントまでいただいたのに、
いきなり寄り道です(笑)

鹿屋航空基地の資料館を見学して、あと一日、
どうしてもお話ししておきたいことがあったのを思いだしました。
日本海海戦はまた明日からの特集になります。

どうぞお楽しみに。(-_-)

 

さて、鹿屋航空基地の資料館展示は、ホールからいきなり二階に上がっていき、
そのフロアの旧海軍資料を順に見て行きます。

わたしがここを訪れたとき、退官した元自衛官の方が説明してくださいました。
連れて行った下さった方が前もってそのように頼んでおいてくれたのです。

今までの例から言ってあまり思ったままの質問をすると

「関係者ですか」

と逆に聞かれてしまうので、最初の方こそおとなしくしていたのですが、
基本的に何かを説明されたら「へえ」とか「はあ」みたいな、
気の抜けたような返事をしては相手に失礼であるとの思いから、
つい一生懸命相槌を打ったり、ちょっとした質問などしたりしてしまい、
結局今回も

「ご家族にどなたか関係者がおられるんですか」

と聞かれてしまうはめになったエリス中尉でございます。

この解説付き見学というのも善し悪しで、そもそも展示には非常にちゃんとした
説明書きがされているのに、それをじっくり読んだり、一つのものの前で立ち止まったり、
細部を子細に眺めたり、そういう好き勝手ができません。

この日午前中、同行者と一緒に説明を聴きながらひととおり館内を回り、
午後になって皆は滝を見に行ったのですが、わたしだけまた鹿屋基地で降ろしてもらいました。
さあ、一人で思う存分見学するぞ!

と張り切って史料館に戻り、受付を通らずに一人で展示を観ていると、

先ほどの説明の方が追いかけてこられました。ORZ


・・・・非常にご親切はありがたかったのですが、
午後からは説明を自分で読みながら歩きたかったのに・・・。

結局旧軍の部分をもう一度、といっても先ほどよりは詳しく説明を聴くことになりました。
そして特攻隊の展示室まで来たとき

「説明はここまでにします。
ここはゆっくりと説明を読まれた方がいいでしょうから」

と、立ち去って行かれました。

・・・・・・実はそこまでの部分もそうしたかったんですが・・・・


というよりね。
後から思ったんですが、比較的「知っていることだらけ」の旧軍コーナーより、
一階の「自衛隊活動コーナー」の説明をしてもらえばよかったな。

救難ヘリの実物、P-3Cについての展示、海外派遣、
このあたりのことを誰よりもよく御存じのはずの元自衛官からなら
ずっと貴重なお話が聴けたのではないかと思いました。




というわけで、わたしとてちゃんと見たわけでもないので偉そうに言えませんが、
かろうじて全体の写真を撮ってきたので、今まで少しご紹介した以外の部分を
駆け足で通り過ぎた方たちのために、今日、アップすることにします。

言っておきますが、この部分は写真撮影可ですからね。

さて、冒頭写真はご存知、P-3Cオライオン。
海賊対策で派遣され、アデン湾で護衛哨戒任務にあたっているところです。
ここには当機の部隊、第一航空隊があるからですね。



先日、新明和の対潜哨戒飛行艇PS-1について、
「ソノブイ」を使い捨てできなかったため、(その心はMOTTAINAI)
やむなくディッピングという水中投下式のソナーを使っていた、という話をしました。

これがその、ソノブイです。

このころソノブイを使い捨てにするのが「もったいなかった」のは
アメリカから購入していたからで、つまり経費が掛かりすぎたということです。
その後、海自はソノブイの国内生産を始めました。


ソノブイとは、ご存知でない方のために簡単に説明しておくと、

対潜哨戒機からレーダーを海上に投下し、海中の音を対潜哨戒機に知らせ、
主として潜没中の潜水艦探知をするもの
です。

ソノブイは1942年(昭和17年)にはアメリカですでに実用化が完了し、
第二次世界大戦中にはもうすでに使用が開始されていました。
ここでも日本は「レーダー」関係で圧倒的に後れを取っていたのですね。


しかし、昭和34年に開発を開始して以来、国産の生産も始まります。
しかしながら、この方面、どうもいまだに日本の「苦手科目」らしい。


それどころか、日本の武器関係の開発は全般的に弱いと言われます。

たとえばこのソノブイ。
対潜哨戒機P-3C用のものは沖電気とNECが開発・生産しているのですが、
能力が低い上に値段は米国製の数倍かかってしまうのだとか。

このため海上自衛隊はリムパック(環太平洋合同演習)向けには
米国製のソノブイを輸入して使用しているというのです。



日本海海戦のときに、通信を英国からでなく国産に求めて、
対価を削減したうえに性能も優秀であった三六式無線というのがありましたが、
明治時代の海軍がやってのけたことを、どうして現在世界でも屈指の技術大国の、
軍である自衛隊ができないのか不思議に思われませんか?


先ごろ量産型が公開された10式戦車ですが、
ゲリラ・コマンド(少人数で密かに浸入し破壊活動、後方攪乱等を行うこと。
略してゲリコマ)対策を謳っているものの、実際は防衛大綱でも想定してない
大規模機甲戦に特化した時代遅れの戦車だという評判です。

しかも諸外国の戦車が防御力を最重視するなか、10式の防御力はおざなりで、
火力と機動力を重視している「冷戦型のレガシ-戦車」となってしまっています。


そして、わたしが個人的に大好きなヘリコプターOH-1ですが、
これは当初250機調達される予定だったのに、現在35機どまりとなっています。

なぜかというとOH-1は開発費を含めれば一機当たりの値段がなんと60億円、
他国の偵察ヘリのなんと10倍の値段になってしまったからだと言われています。

つまり、この「モノづくりの国、日本」の苦手科目はレーダーのみに非ず。
武器兵器全般がレベルの割に値段が高過ぎ、となってしまっているらしいのです。


その理由ははっきりしていて、

 実戦の経験が無い(これは仕方ない)
■ 基礎研究や開発にお金がかけられない(これも仕方ない)
■ 国内製造における競争が全くない(まあ、仕方ない)
■ 武器輸出できないのでユーザーからのフィードバックが得られない(仕方ない?)


つまり、武器輸出三原則がある限りこれが足かせとなって輸出できないので、
戦闘機、ミサイル、艦艇、全ての装備品が
自衛隊のためだけに開発製作されるということになり、
当然ながら利益を追求することができないため、高価にならざるを得ません。

日本の武器生産産業が発達しない原因はそこにあるのです。



おっとお、ついこんな話になると我を忘れてしまうぜっ!

それはともかく、そのソノブイ海上に投下中。
小さいパラシュートを付けています。



ちゃんと写真撮れなくてすみません。
投下した後、海中でどうなるかが図解で示されていたのに、
一番肝心の「投下完了後」が欠けてしまった・・・。



時間はなかったけどザトウクジラの声だけ聴きました。

ソノブイには、潜水艦などのスクリュー音を察知するパッシブタイプと、
ソノブイ自身が音波をだし、その反射音によって潜水艦を探知する
アクティブタイプの二種類があります。


次にP-3Cの対潜武器を。






ハープーンミサイル。もちろん実物です・・・よね?

魚雷いろいろ。
しかし、言ってはなんですが意外とザツな作りなんですね。
フィンなんかデコボコしています。
オレンジの魚雷のところには「キケン」と一言。
なぜここだけ危険?




退役していったオライオンの銘盤もこのように展示されています。
それはいいんですが、

5009号のプレートが重みで落ちてますよ~~~。

いかん。実にいかん。
かつて護衛艦プレート工場で

「自衛隊は落ちる、曲がる、凹む沈む(だったかな)をとても嫌います。
プレートが凹んでいるのは絶対だめです」

といってプレートを有無を言わさず直させた話を聞いたのですが、
その自衛隊ともあろうものが、

展示プレートそのものを落としている
しかもそれは「落ちる」を最も忌むべき飛行機の銘盤である

まあ、ほとんどの人が駆け足で通り過ぎ、P-3Cの銘盤プレートなんて、
おそらく誰も目に止めないのかもしれません。
旧軍部分なら解説の方もしょっちゅう目にするので、何かあれば気づきますが、
この部分は館員ですら見逃してしまうのだろうなあ・・。

野外の実機展示解説札「ちどり」の説明が事実と違いますよ、と指摘したあとで
粗探しみたいになってしまって恐縮なのですが、
もしこれを関係者がご覧になっていたらちょこっと直しておいてください。


さて。(全くどうでもいいことばかりこだわる見学記である)

P-3Cの後継機、P-1、この三月に開発終了し厚木にも配備されたそうですが、
(それを見に行ったのに厚木基地にすらたどりつけなかったエリス中尉である)
どうも開発は難航したようですね。単なるうわさですが。

そして、国内調達派と開国派(米機輸入)の間になにやら政治的な対立が
あったとかなかったとか。単なるうわさですが。

どちらにしても今後海自はこれを導入しP-3Cを切ってしまうおつもりらしい。
現行で使い続けている国がたくさんあるのだから、必ずしも寿命のせいでもなさそうです。

内部事情はよくわからないので、うかつなことはいいませんが、
使えるうちは使う、修理してでも使う、じゃだめなんでしょうか。
それこそ「Mottainai」の精神ですよ。




さて、P-3Cの退役問題はさておき、こちらはすっかり退役済みの
P-2J 哨戒機。
ここにはこの機体の操縦席部分が展示されています。



ちゃんと操縦席に上がって観るための手すりつき階段が
史料館用に造られていました。



コクピット。
このコクピットに何があるか把握し、まったく見ずに操作したり
逆に計器だけを見て飛行させることもできるのですから、
訓練されたパイロットというのはすごいなと改めて思います。



パイロットといえば、ここには航空学生の入隊式の写真も展示されていましたよ。
うむ。凛々しいのう。
むかしでいうところの予科練ですね。
七つボタンは桜に錨。

厳密に言うと、今は「七つボタンは錨で襟は桜」なんですが、まあよろしい。

こういうものを着ると誰でもこうなるわけではありませんが、
これから入隊する青年たちだというのに、この制服の似合いっぷりは・・。
やはり大和男子というのはこういう格好が無条件で似合う。

異論は認めません。




制服と言えば、ここには自衛隊の制服が展示されていました。
ああ、階級章の見本もあったのね。(今写真を見て気づいた)
これ、写真撮ってきたかったなあ。



いちおうどの方も皆海軍式敬礼をしようとはしているようです。

幹部冬服はしゃんとしていますが、非常にラフな敬礼をしているひともいるようで。
幹部夏服は「まま、抑えて抑えて」
むこうの海曹は「よ!げんきだった?」

水兵さんと飛行長はもう手を降ろす気満々です。



いちばん態度がラフだった飛行長。
帽子も斜めに被ってるし(笑)



ここには「自衛隊精神」をパネルで表すコーナーもあり、
国旗掲揚の様子や



儀仗隊の写真がありました。
これらに付けられたキャプションが

「使命の自覚」

祖先より受け継ぎ、これを充実発展せしめて次の世代に伝える日本の国、
その国民と国土を外部の侵略から守る

自由と責任の上に築かれる国民生活の平和と秩序を守る



それにしてもこの儀仗隊の隊長の遠目にもわかる敬礼の決まりっぷり。
さすがに展示人形の敬礼とはわけが違います。
昨日今日ではまずできない、年季と使命感に支えられた本物の敬礼。

そして本当に姿勢がいいんですよね。自衛隊の人は。
腰から上になにか一本線が入っているような立ち方をするというか。

最新刊の「ライジング・サン」によると、

かかとをつけてつま先は60度
背筋を伸ばし胸を張り顎を引く
手は握り腕は真っ直ぐ体につける
「心臓も止めるつもりで立つ」

これが自衛隊の「直立不動の姿勢」だそうです。
日頃からこれを叩き込まれていれば、そりゃ姿勢もよくなるでしょう。



さて、P-2Jのコクピット再び。
飾られているヘルメットは盗難防止で紐が付けられています。

ここに座ると、向こう側に海面の写真パネルが貼ってあり、

「気分はもう哨戒」?(元ネタ大友克洋)

その気になれば椅子に座れたのかもしれませんが、
残念ながらとてもその時間はありませんでした。



通信士の席でしょうか。
まるでうちにあるファックス電話機みたいなものがあります。

このまわりの壁、緩衝材が貼ってあるらしいのですが、
なんでまたこんなドット模様が規則正しくあるのでしょうか。




この天井の低いコクピットに上るところにある注意書きに
おそらく本日の入館者の中でたった一人、エリス中尉だけが気付いたと思われます。

「頭上の敵機 注意」



これから鹿屋航空基地を訪れる予定のある方。
何度も言いますが、ぜひ時間配分をして、
一階のフロアをじっくり観ることをお勧めします。
ところどころにこのような海自の遊び心を発見することができます。

いつになるかわからないけど、わたしももう一度ここを見に行くことにします。
指摘した部分が直っているかチェックするため…

…ではありません。

 

 


記念艦三笠見学~ヴァリャーグの舵輪

2013-05-12 | 海軍

横須賀フレンドシップデーのときに見学した三笠の写真をまたもや挙げます。
冒頭写真は記念館内に飾られていた巡洋艦ヴァリャーグの舵輪。
よくよく見ると

ROSEBANK IRONWORKS
BROWN BRO & Co. LT

などという文字が刻まれていますが、このフネが、アメリカは
フィラデルフィアの船会社によって造られたものだからです。


ヴァリャーグは日露戦争初日の仁川沖海戦で被害を受け、自沈しました。

この時の艦長はフセヴォロド・ルードネフと言い、彼はこの時の戦闘の
勇敢さを評価されて勲章を授けられ、明治天皇からも勲章が送られましたが、
日本式の「敵ながらあっぱれ」というこの惻隠の情も、
ロシア人にはあまり通用しなかったのか、
ルードネフ大佐は受け取ったこの勲章を身に付けることはなかったそうです。

まあ、気持ちはわからんでもない。

 ルードネフ少将ご尊顔。

ソ連時代の切手です。

日本が「敵ながらあっぱれ。勇将には栄誉を与えるべく勲章を取らせる」
というまるで戦国時代みたいな調子であったのに対し、
ロシアの方はそういった「ブシドー」には全く無理解だったようです。
のみならず東洋の小国に負けたことがよっぽど悔しかったらしい。

戦後日本に進駐してきた真っ先にソ連が要求したのはこの三笠の「廃棄」でした。

狭い!心が狭いよ、ソ連さん。

っていうか、よっぽど彼らのトラウマになってたんですかね。日本海海戦。


ヴァリャーグは自沈後、引き上げられて修理を受け「宗谷」と言う名の練習艦として
聯合艦隊の所属になりました。



引き上げられているヴァリヤーグ。
練習艦になったのは、アメリカ製で日本海軍には使いにくかったためです。

11年後、第一次世界大戦がはじまったので「宗谷」は返却され、
再び「ヴァリャーグ」と言う名前に戻りました。

♪ ロシアにいるときはヴァリャーグと呼ばれたの
日本じゃ宗谷と名乗ったの
ウラジオストックに戻ったその日から(中略)
昔の名前で出ています♪

ということですね。
別に替え歌にしなくたっていいんですが、覚えやすいでしょ?
この舵輪は宗谷として修復した際、新しいのに取り替えたため残されたのでしょう。

ちなみにヴァリヤーグはせっかく昔の名前に戻ったのに、
返還後わずか3年で漏水のため着床してしまい、解体となりました。

合掌。



舵輪と言えば、ここにも。
勿論昔こんなところにあったわけはありません。

観艦式で「ひゅうが」に乗ったとき、電気系統が予備も含めて全部だめになったら、
「そのときは手動で動かします」
と操縦室の自衛官が説明していました。

手動。

そのとき、フネについてはとんと素人のエリス中尉は、「手動」と言われても、
全員がオールでフネを漕ぐの図しか思い浮かばなかったのですが、(←)
これがすなわち「手動用の舵輪」。

「三笠」においてもこの「いざとなったときの操舵」のための設備は
ちゃんと用意されていました。
動力と操舵性を失ったフネはただの「浮かぶ鉄」。
勝つことは勿論、母港に帰ってくることすらできないのですから当然
それを確保するために二重の保険をかけておかねばなりません。

というわけで、この舵輪は舵取り機械が故障した時、
手動でこの巨大な艦を操作するためのもの。
操舵、航行能力の維持のためのいろいろは前部艦橋にありますが、
もしそこが攻撃されダメになったときのために、この舵輪は
後部の舵機室(だき、で変換したらちゃんと出てきた@@)にありました。

何しろ人力でこれだけの巨艦を繰ることができるものですから、
艦橋にある舵輪よりもずっと大きなものになっています。



三笠には上甲板に20門の7,6cm速射砲が配備されていました。



何度も出してきますが、「三笠」HPからの写真。
これを見ると「三笠」のままであったのはフネの形だけ、
見事なほどに何も残っていません。

三笠復興運動のために声を挙げたイギリス人、ルービンが
「まるでカバのような・・・・・」
とこれを見て涙したといいますが、構造物全て、当然ながらこの
「武器関係」など、とっくの昔に影も形も無くなっています。

何しろ「日本人の心から『誇り』を根絶やしにして、復讐のための敵愾心を
あらゆる方法で連合国は殺ごうとしていたからです。


ルービンはこれを見て「日本人の誇りはどこに行った」と憤ったそうですが、
このさい言わせてもらえば憤る相手が間違っている。

それは日本人が「誇りを失った結果」そうなったのではなく、アメリカのGHQであり、
ルービンの故郷であるイギリスをはじめとする戦勝国が、日本人から
誇りを奪い取るためにしたことだったのですから。

それは連合国、ひいてはアングロサクソンが、日本の潜在能力に対する
怖れというものを根深く持っていたということの証左でもあります。


敗戦後、それでなくても生きていくのが精いっぱいであったこの時期。
かつての栄光と民族の誇りの象徴たる海軍の戦艦など、
はっきりいってどうでもいいというのがほとんどの日本人でしたし、
さらなる戦勝国のこのような「精神殲滅」にかかっては、
日本人の心から武士道的な誇りが危うく姿を消してしまう危機さえありました。

幸運だったことは、武士の精神を社会の手本とし、「士(さむらい)の心」を
拠り所にしてきた日本人からそれらを全て消し去ることは占領政府にもできず、
かろうじて国体とともにその精神的支柱が失われず残ったことです。

もっとも、このころから意図的に与えられた「自虐」は日本をかなり蝕みました。
ことに「教育」の分野で占領軍がなした「改革」は、実にうまく行ったと言えます。
その結果、「日本を嫌いな教師」がその思想を子供たちに教え込み、
卒業式に国旗国歌に反逆するという示威的行動を許し、
それをマスコミが擁護するというとんでもない構図を生むまでになりました。


これに限らず、近年に至って国民から「国を愛する」という背骨が失われ
危機的状況に陥ってしまった末、民主政権の誕生とその三年で
危うく壊滅的ともいえる国家崩壊が起こるところだったわけですが、
わたしはとりあえずこれからは決して悲観したものでもないと思っています。







同じ写真ですみませんが、下段の「副砲」に対し上層に見えているのがこの
40口径7,6cm単装速射砲です。

おもに相手の甲板上の兵員や構造物を狙うための砲で、
日本海海戦では大活躍しました。



速射砲についていた固定輪。
ここに胴体を入れて、艦の動揺や衝撃に耐えるのだと思いますが、
これ、ちいさいんですよ。

ちなみにTOは恥ずかしながらここに胴体を入れることができませんでした。
わたしは勿論入りましたが、胴の位置が異様に低く、脚を曲げなくては入れません。
「昔の人って、どんだけ小さかったのよ?」と驚いてしまいました。

その小さな人たちがあの大きなロシアを破ったわけです。

これは、どう考えても快挙というやつでしょう。
アジアのみならず全世界の被支配民族がこのニュースに狂喜し、
「日本にできるなら我々にもできるかもしれない」
という希望を抱いたことは紛れもない史実です。

こういうのを左翼は「歴史の美化」なんぞと言ったりするわけですが、
美化も何も、これが民族独立への大きなうねりへの最初の一歩、
「小さな人たちの偉大な一歩」になったことは確かではないですか。

大国の立場でいうと、この日本の勝利の日に、それまで存続してきた「支配する世界」
が終焉に向かい始めたということです。
旧ソ連はじめ、GHQが日本に進駐してきたとたん、その象徴である三笠を
このように蹂躙したのは、つまりそういうことなのです。



外は海。
海は海でも人波、というやつですね。
米海軍スプリングフェスタに参加しようと列を作る人たちの波。

しかし、この構造を観ると、この「ベルト」は、体でもって砲口の砲口を
変えるためのものだったのではないかと思われます。



その気になって照準で狙ってみる。
M字型の向こうから山形の照準が見えたとき、ファイアー!



この引き金を引いて
「射(て)-っ!」
とやるわけですね。
この速射砲は一人で操作したのでしょうか。



左手ではこのハンドルを操作します。
これを回すと、

 

砲口が上下します。
このハンドルで上下、体の向きで左右と目標を狙うというわけ。

きゅるきゅると回していると、下を歩いている人がたまに
「あれ?動いてる」
と立ち止まって見上げるのが面白いので(左画像下の人)
結構いつまでも遊んでしまいました。




隣はスカッパー。
何のことはないゴミ捨て場です。
ここを開けて豪快に海にごみを投棄します。
今なら到底エコロジー的に許されない行為ですが、当時は
地球環境なんて問題は存在しなかったので、これも無問題。

ま、今でも存在していない(ことにしたい)国も近くにいくつかありますが。

「流し場のあと」というプレートが見えますが、もしかしたらこのスカッパーは
三笠がすべてをはぎ取られ「カバのように」されていた状態のときも昔のままの、
つまりこのフネの構造物の中でも希少な

「日本海海戦を知っているスカッパー」

なのかもしれません。






記念艦「三笠」見学ふたたび

2013-05-11 | 海軍

米海軍スプリングフェスタと軍港めぐりツアー、そして海軍カレー。

横須賀に一日遊んでしつこくしつこくこれらについてご報告してきましたが、
実はもう一つ、三笠公園の記念観「三笠」の見学もしたエリス中尉です。

あれはまさに震災前日の2011年3月10日。
初めての三笠公園探訪をし、三笠見学をしましたが、その頃、
NHKの「坂の上の雲」は、前半が終了し、後半を制作中という時期。

すでにその日も平日の昼間でありながら中高年の見学者が多く、
「これも坂の上の雲効果か」と思ったものですが、
記念艦三笠を管理する横須賀市と三笠保存会は、
これからさらに増えるであろう三笠の見学者のために、
はりきって三笠の改装を行っていました。

 

ブルーシートで覆われていた部分は勿論、甲板のほとんどを見ることはできませんでした。
この翌日震災が起こったので、おそらく工事はしばらく中止になったのでしょうが、
あれから2年。
すっかりリニューアルした三笠を、この日、もちろん初めてのTOと見てきました。



このような年齢層の方々がこの日もたくさん。
やはり米軍フェスタを覗いたついでという感じでした。

しかし、この年代の人たちってこういう場所に入るとき
「我先に」って感じで人を押しのけていくことが多いですね。
一人に譲ったからといって大した問題でもありますまいに、
なぜ先を急ぐ。

・・・・・・・・・・先が短いから?



舷門から階段を上がる前に、このような案内図を渡されます。
希望者には音声ガイダンスが貸してもらえます。



前回は先ほどの階段を上がったとたん、通行止めで、
勿論このような景色を見るのは初めて。

人が歩いている部分が上甲板です。
甲板の定義とは

「艦船内を上下数階に分かちたる各階の言い方」

この部分は上甲板(upper deck)のさらに上にある甲板なので

「最上甲板」(flying deck)

という部分ですね。



おそらく建造当時から全く変えられることが無かった部分。
上甲板の隅です。
何度もペンキを塗り重ねられて金属の境目もはっきりしなくなっています。



煙突。
以前一度三笠が退役してからの歴史についてお話ししましたが、
戦後、連合軍が進駐し三笠はソ連からの廃棄要求を受け、それを逃れたものの
その後、存続の条件として上部構造物を取り払われ、水族館とダンスホールが建てられます。

http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/kouhai.html

記念艦三笠HPより、戦後の興廃。

ですから、ここに見える煙突などの構造物はすべて戦後造られたレプリカ。
戦争に負けるということは、ある意味「過去の歴史をも奪われる」ことかもしれません。



勿論戦艦「三笠」の主砲の上にはこんなテント状の屋根はありません。
映画「海ゆかば 日本海海戦」ではこのアングルから、日本海海戦前
伊地知艦長が将兵に向かって

「わしも死ぬから諸子の命をくれ」

というようなことを訓示し、皆が万歳をするシーンが撮られました。

そのころはこのテントは無かったようです。
もっともあったとしても撮影のために撤去していたでしょう。



そこで疑問が。

上部構造物がすべて取り払われていたのなら、当然このようなものも
どこかに霧散していたのだと思うのですが、それではこれは
いったいどこから来たものなのでしょうか。

もしほかの艦の機材を使ったのなら、説明があるべきですが・・・。



黄海海戦は日清戦争にもありましたが、これは日露戦争のです。
ロシア側は宗室艦多数でしたが、日本側は沈没艦無し。

しかし雌雄が決される直前に三笠に直撃弾があり、5人が戦死しました。
これは後部最上甲板艦尾側です。

三笠が最初に記念艦になったのは大正15年のことです。
このプレートは他の構造物に比較すると古く、
どうもその頃からあったものではないかと思われます。

ことがことだからか、日本語の小さなプレートの存在を誰も気にしなかったのか、
ダンスホールが建てられたときにも手つかずでここにあったのかもしれません。




これも最上甲板。
艦橋部分に人だかりがあるのがお分かりでしょうか。



これなんか、今回の改装で新しくなった部分!って感じですね。
どの程度史実通りに艦内を口承し再現しているのかはわかりませんが、
一つ言えることはこうやって新たに付け加えれば加えるほど、
三笠とは「全く別の博物館」になっていくという気が・・・。

最も、連合軍によってズタズタにされてしまったり、上部構造部分の鉄が
アヤシイルートで捌かれてしまった時点で、もう全く「別のもの」になってしまったので、
今さら、という気もしないでもありませんが。



艦尾側の軍艦旗。
これを毎日掲揚降納しているかどうかはわかりませんでした。

おそらくしていないんじゃないかなあ、と思ったのは、
この軍艦旗がご覧のようにボロボロだから。
記念艦だから、しょせん「ムード」なんですよね。
それはわかりますが、海賊船じゃないんだからこのような破れ旗は
三笠乗組員の将兵の霊に対して少し失礼ではないか、と苦言を呈してみる。

それにしても、三笠の向こうのマンション、すごいですね。
毎日三笠を、いやこの軍艦旗を観ながら生活しているのか。ここの人たちは。

九条信者や特定日本人の皆さんはこれが「お札」みたいなものですから、
ここには決して住めませんね!

 

羅針儀。(と覗き込むおじさん)
羅針義は前部最上甲板にもありました。
これらもどこから調達してきたのでしょうか。



最上後甲板にあるマスト・・・・なんですが、わたしのいる部分からこのマストは
ぎりぎり手を伸ばしてやっと触れることができるところに立っています。

おそらく昔はこの場所からではなくこの階段下の上甲板から
マストに上っていったのだと思われますが、ラッタルをご覧ください。
人がこれに飛びついて登らないように、針金がぐるぐる巻いてあります。

これ・・・・たとえ針金がなかったとしても、柵を乗り越えてこのマストに取り付くのは
よっぽど身軽でないと至難の業だと思うのですが・・・・いたのでしょうか。
過去、ここからマストに上った「お猿さん」が。

そこまでいかずとも手を伸ばしてマストに指でお絵かきしようとした跡が無数に・・・。



ここに立ってマストを見上げてみました。
すでに金属が腐食して穴が開いています。

因みにこの後部マストは日露戦争のときに被弾し、
(おそらくプレートに書かれた死者が出たときの直撃弾で)消失したそうです。



金属に穴、といえば(笑)

艦内には当時は無かったゆかりのものが展示されていますが、これ。
まるで花弁のように開いた穴がたくさんあいた模様の灯篭。

日本海海戦で被弾し、射抜かれた三笠の艦材を使用して、
なんと雪見灯籠を作ってしまいました。
風流だのお・・・・。

呉鎮守府から、伊藤博文公に贈呈され、その後伊藤家から
また三笠に返還されました。

このほか、三笠の廃材を使って「三笠刀」なども作られています。
三笠刀についてはまたいずれ。




観ての通り機械水雷。
機械水雷、つまり機雷です。
このころの嫌いですから当然触発機雷だったのだと思います。
ロシアは当時機雷の研究に力を入れており、19世紀末にはもう実用化しています。
このロシアの敷設した機雷で、日本の「初瀬」「八島」が撃沈されました。

因みにこの機雷を敷設する掃海艇が史上初めて使用されたのは、
近代的な機雷戦が行われるようになったこの日露戦争からです。

ごんべが種まきゃカラスがほじくる。
ロシアが機雷撒きゃ掃海艇が始末。

というわけで、日本海軍は艦載艇や大型ランチに係維掃海具を搭載し、
ロシア海軍が敷設した機雷を掃海したということです。



日本海軍の掃海艇。
(日露戦争当時のものではないそうですが)
それまでも機雷掃海は行われていましたが、専用の掃海艇ではなく
掃海具を普通の艦船に必要に応じて搭載していました。

掃海を目的とした専用の掃海艇が作られたのは、大正12年のことです。





来年、米海軍スプリングフェスタに行こうと思っている方はご参考になさってください。

記念艦三笠の前にある広場にはこのように、コーンパイルで順路がつくられており、
数キロにわたって並んでここまで進んできてここでまた延々と往ったり来たり。
ちなみにこの写真を撮ったときには、われわれは1時間半並んで基地に入り、
1時間滞在して出てきて三笠に入ったときですから、昼の1時ごろ。

帰っていく人がこんなにいる一方、これから入ろうという人がこんなにいるという。



今回の三笠見学では、前に見学した2年前に比べると驚異的にわたし自身
海軍とその歴史に対する知識が増えていたため(当社比)、
前には気付かなかった、あるいは興味もなくただ見て終わった部分が
今回は興味を惹くということがいくつかありました。

海軍記念日は5月27日。

今年の日本海海戦108周年記念企画として、今日から27日まで、
集中して日本海海戦にまつわる記事をお届けします。

どうぞお楽しみに。





開設1000日ギャラリー「民主党外交時事漫画編」

2013-05-10 | 日本のこと



竹槍事件に海保流出事件を見る

http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/c67ecb74617da9519b5d97839cb7fe8a

2010年、尖閣諸島沖で中国船が海保の巡視船とバトルし、
船長が逮捕された事件。
あのとき海保側のビデオをyoutubeに流した海保職員への
仙谷官房長官(当時)の私情挟みまくりの措置に対する指示。

この一連の事件を、戦中起こった「竹槍事件」と並べて
その不思議な共通点を併記してみました。

いや、懐かしいですね。
今にして思えばこの事件が民主党というゲテモノ政党に政権を取らせ、
それまでは鳩山の「トラストミー」なんかで「なんか変」と思っていた国民が、
はっきりと「異常」であることに気が付いた事件だったと思います。

この事件の後の国会を見ていて、仙谷の「柳腰外交」という詭弁を聴き
リアル気分が悪くなったことを思い出しました。

ところで、この件で画像検索していて、わたしがこのとき製作した画像と
瓜二つの構図のパロディ(こちらは写真による)を発見しました。
仙谷由人の写真の選択、「胡錦濤友情出演」というのまで同じ。

皆考えることは同じ!と一瞬感激したのですが、よくかんがえたらこれ、
わたしがどこかで見てネタを拝借したんでした。てへぺろ





このビデオ流出事件のさなか、海保職員一色正春氏のハンドルネーム
「sengoku38」に楽しげに反応した石破茂の法悦の表情を、
お絵かきツールで描いてみました。

仙谷由人はこのハンドルネームに激怒したそうですが、
一色氏は今に至るまでこの意味を明かしていません。

「sengoku38」で投稿した意味については捜査当局、家族、弁護士にも話していないとし
「事件が忘れられてしまうので、謎が残った方がいい」
「まあ、1つくらい秘密が残った方が事件が忘れられない感じになる。
『あんまり気にしないでください』と言えば、逆に気になるでしょうけど、
それが狙いなので」と話したということです。

「事件が忘れられてしまう」というのは、どうでしょうかね。


「わたしは弁護士としてあばずれ」



http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/95f101bd7322bd864cc2a8c1286f21da

このころ、民主党の「影の総理大臣」と言われていた仙谷由人。
無能で口を開けば
「何々先生の言っていることを聴いていますと何か~~~のようにおっしゃいますが」
というワンパターン答弁で、己の自己弁護するしか能の無かった、
ある意味「口下手」な管直人を差し置いて呼ばれもしていないのに勝手に質疑に答え、

「官房長官には聞いていません!」

と何度質疑者をキレさせていたことか。(懐かしいなあ(-"-))

今にして思えばこのころの仙谷はその政治人生の頂点にあったようです。
学生運動のときは「4列目の男」として使い走りをしていた「運動家上がり」が、
ここぞと自衛隊に対し「暴力装置」呼ばわりしたのも、
「日本はとっくに中国の属国だ」と自民議員に向かって言い放ったのも、
左に甘く右に厳しい戦後日本の世論において、あくまでも、そしてこれからも
サヨクな自分は安泰だと勘違いしていたからであろうと思われます。

この「私は弁護士としてはあばずれ」という不可解で不気味な発言は、
まあ一言でいうとこんな時期に調子こいて口から滑った、駄弁というやつです。

「柳腰外交」といいこの「あばずれ弁護士」といい、
仙谷由人の言っていることを聴いていますと何か、(←菅直人の口調で)
こんな図が浮かんできてしまい、つい絵に描いてしまいました。

満月の欠けたることも無しと思っていたのは勿論本人と民主党だけだったので、
先の衆議院選挙では見事に落選し、比例復活もならず、
元官房長官、かつての陰の総理は晴れて無職老人となりました。

つい最近、無職の分際で、というか日本を無茶苦茶にした分際で、この人間は
「アベノミクスは無茶苦茶だ」などと発言したそうですが、
さっそく天敵の産経新聞がこれを揶揄してこのように書いています。


気持ちはよくわかる。
民主党の無為無策で、1ドル75円台にまで跳ね上がった円相場が
安倍政権になるや否や急速に円安となり、今や100円近くまで戻った。
株価も当時の野田佳彦首相による「衆院解散宣言」からわずか4カ月で、
日経平均株価が5000円近くも急騰した事実を
前政権幹部として認めたくないのだろう。

残念ながら「むちゃくちゃ」だったのは、3年以上続いた民主党政権の方だった。
経済政策は言うに及ばず、外交も日米関係は危うくなるわ、
あれほど中国に媚(こ)び続けてきたのに日中関係も戦後最悪になるわ、

何一つ結果が出なかった。



在任中、産経新聞憎しで訴えると息巻いてみたり、
「キャバクラの広告をそのうち載せるんじゃないか」なんて言うから、
すっかり引退後に仕返しされているじゃないですか(笑)



「百枚の予算案」



http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/5e2954e5421e843c2e3f11b0d7b8c57f

内閣として自民党が今までできなかったことをした。
朝5時に起きてやった。
しかし、それは国民に伝わっていないだけである。


つい先日フランケン岡田が全く同じことを言っていて、デジャブか?と
思ったのですが、これは在任中の菅直人の意味不明な自画自賛です。

それにしても民主党は国民の審判を突きつけられてなお、全く反省しとらんのう。
川口環境委員長の解任問題で、幹部は

「国益とかいうが、そういうことを我々が判断する立場にない」

と言い放ったそうですし。
結構結構。
国益を考えることができない議員は日本には必要ありません。
そのまま順調に墓穴を掘って参院選で消滅してください。


ところで、菅政権の退任の原因は、万人が認めるあの原発対応の拙さであった、
と教科書に記されることになったそうです。

菅直人がその政権末期、退任を引き伸ばして一日でも総理の座にあろうとした
そのわけは、本人曰く「歴史に残りたい」という願望(というより執念)だったそうですが、

いやー、よかったね。これで歴史に残ったじゃないの。菅くん。


それにしても、この絵に描いた鳩山政権の頃、
菅直人が財務大臣だったんですね。
官僚に基礎知識を国会でレクチャーされるという無様な姿に、
思わず亀井さんも福島さんもドン引きしていましたね。

この鳩山内閣の閣僚って、今にして思えばすごかったんですね。

法務大臣、極左で火炎瓶投げてた千葉景子。
外務大臣、「中国に許可を取ったんですか」の岡田克也。
厚労大臣、消えたミスター年金、長妻昭。
農水大臣、「赤松口蹄疫」の赤松広隆。
国交大臣、「焼き肉外人献金」の前原誠司。
国交委員長、テロリストにチャーター機で観光させ、皇室に暴言、中井蛤。
文科大臣、事務所の公費でキャミソール購入とキャバクラ、川端達夫。

そして経済政策担当、財務大臣は、「乗数効果」という言葉を知らなかった、
菅直人。
「国というものがどういうものかわからない」「日本は日本人だけのものではない」
の総理大臣、鳩山由紀夫。


綺羅星のごとく売国議員オールスターそろい踏みとなったこのラインナップ。
こんな(中韓にとって)頼もしい政権は、日本の憲政史上またとありますまい。

これだけでなく、この後彼らを上回る筋金入りの売国奴が
入れ代わり立ち代わり日本をボロボロにしてくれましたからね。


こんな政権が3年半続いて、それでも壊滅や外国の侵略を許さなかった日本。
壊滅寸前でしたが、ある意味それだけの底力があったという証明ともなりました。


表題は、幼いときに読んだ童話「100枚のきもの」のパロディです。
詳細は本エントリで(興味があれば)お確かめください。



最近、朝日新聞の記者が本当に確固たる思想をもって
「偏向」をしているのかどうか、三橋貴明氏が語っているのを見ましたが、
実はそうではなく、「社内の空気」というものに添った記事を作っていると
自然にそうなってしまうらしい、ということでした。

若い記者など、いくつかのキーワードで社内のデータベースを検索し、
それをテンプレートに似たような記事を書いていればOKがでるのだそうで、
そのうちそれが見事に「朝日カラー」として記者を染めてしまうのだとか。

しかし、もっと根が深い問題であると思われるのは、
彼らにはほとんど「自省する」ということができないらしいということです。

つまり、今世間の朝日新聞に対する目は厳しい。
しかし、「自分は大新聞の記者である」という選民意識のなせる業か、
自分たちで「朝日はどうしてこんなに叩かれるんだ」という話になっても
イデオロギー的にそれは問題があるんじゃないか、という結論にはならず、

「朝日が一流企業だから叩かれるんだ」
「朝日を叩けばほかのメディアが売れるから叩くんだ」

こんな風にしか考えないらしいですね。

怖いですね。もはやカルト宗教みたいです。

先日も朝日は、春の例大祭に大量の国会議員が靖国参拝したことを
天声人語蘭において

毎度お騒がせの閣僚や議員の参拝がどこか薄っぺらに見えてくる」

と揶揄していました。
何たる傲慢。というか毎度中韓をお騒がせしているのはどこの新聞社?
だいたいこの「靖国問題」はいわば朝日が作り出し、育てたようなものではないですか。

その経緯が週刊新潮の記事に書かれていましたので抜粋します。


「朝日」が立派に育てた中国「反日暴徒」

おそらく、中国の反日デモを目の当たりにした朝日新聞の胸中には
複雑な思いが去来したに違いない。
日本大使館に石を投げる人民の主張は、朝日が口を酸っぱくして繰り返した
「歴史認識」とすっかり 重なっていたからだ。ならば、胸を張るがいい。
中国共産党と力を合わせて種を蒔き、水をやった努力が今、
「反日暴徒」の実を結んだのである。

ジャーナリストの水間政憲氏が解説する。

「そもそも、日中間で政治問題化した歴史認識問題、
つまり靖国参拝や教科書などを記事で大きく取り上げて、
中国で火がつくように仕組んだのは朝日新聞でした。
朝日が大きく報道し、中国政府がそれに反応して大騒ぎする。
この構図の中で、中国は、国民に根強い 反日感情を植え付けてきたのです。
つまりここ3週間に起きたデモは、朝日が繰り返し、
日本は誤った歴史認識を持っていると報じた結果、
若者達に高じた反日感情がベースで、
朝日のとった親中路線を進めた結果の出来事なのです。」

朝日新聞が編み出したのが、中国共産党と一心同体となった
「御注進ジャーナリズム」と呼ばれる手法だった。
OBの稲垣氏が説明する。
「御注進ジャーナリズムとは、中国が反発すると予想できることを
朝日が大々的に報じて、中国政府に 反発という反応をさせ、
また、その反応を大々的に報じて増幅させる手法です。
私は朝日は親中というよりも、中国に媚びている″媚中〝だと思っていますが、
この媚中メディアの書くことは 外交カードになるということを
中国に知らせてしまった罪は大きかったのです。」

『週刊新潮』 2005年4月28日号


「アサヒる朝日」



http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/70d54a080e6c81b39cb225ca58895a98

いつも日本人には厳しい目を向ける朝日が、この
習金平次期国家主席にはお追従の提灯持ちで
生脚を見せているのさえあばたもえくぼ、(ちょっと違う?)とばかり
褒め称えていたので馬鹿にしてみました。

勿論習金平をではなく、朝日新聞を、です。

しかし、これを読んだある方が、偉大な習金平さまについての逸話と大人物ぶりを
アツくコメント欄にてレクチャーしてくださっています。

つまり朝日新聞と同列に位置する立場からの貴重な証言です。
この記事を書いてから9か月経ちました。
この「期待すべき人格者」が国家主席になってから、日中関係は悪化する一方。
不思議ですねー。(棒)





「拍手が一切なかった」
とこの日の観閲式整列部隊の中からこんな声も出た、
2010年陸上自衛隊観閲式。

「照準!菅直人のでこのほくろ!」

ってやっちゃってもいいのよ、って意味ではありません。
でもこのときやっちゃっていたら、日本は震災のとき、
もう少しダメージが少なかったであろうことはほぼ確実。

それを思うと、このカリカチュアはシャレになりません。

因みに、このとき観閲式で菅の後ろに立っている「官房副長官」。

彼は、公報で明らかになったところによると朝鮮系の帰化議員で、
帰化人である事を公表せずに議員となり、民主政権下では
外国人地方参政権付与の強力な推進役となっていました。

こんな人間が日本の行く末を決める日本政府の中枢に位置して
この日、日本国自衛隊を段の上に立って観閲していたということです。


なんとも言えませんが・・・・危なかったなあ・・・・。

よく三年半、耐えたよ。日本。






「梓特攻」~銀河搭乗員の乾杯

2013-05-09 | 海軍

前回二式大艇の記事でこの写真を掲載したところ、
読者の方からこのようなコメントを戴きました。

射撃を受ける大艇の写真ですが、あの姿勢のまま海に突っ込んだと思われます。
撃墜されたのですね。
文林堂の「世界の傑作機・二式大艇」に
同写真の鮮明なものが出ていますが、解説によれば801空の79号機との事です。
おそらくPB4Yが装備する数基の旋回銃塔の指向可能なもの、
数にして12.7mm機銃7~8丁の集中射撃を浴びたのでしょう。
同書には他にも77号機の同様な写真が有り、
日本側・米軍側の それぞれに出撃時と撃墜時の様子が残されていて、
これらは割合静かな?感じが漂う様な写真なのですが、
それだけに現実の厳しさを感じます。
機番号が判っているこれらの遺族の方々はどうされているのかとも思いました。

また、この二式大艇の「天敵」である米軍機について、
http://www.militaryfactory.com/aircraft/compare-aircraft.asp

12.7mm機銃を8丁も突き出している、見るからに凶暴な機首。
ご存知でしょうか?
大戦時末期のアメリカ軍B25爆撃機の襲撃用に特化したとも言える、
武装強化型です。
ドーリットル隊の東京空襲に参加した機首が爆撃手席で
ガラス張りの鳥かご型の、成れの果ての姿です。
この箇所以外にも機首胴体両側面に12.7mm機銃を
3~4丁ずつカバー付きで装備していたかも知れません。

ひどいでしょう!!えげつ無いと言うか、品が無いというか、アメリカ的というか、
機首前方に十数丁も機銃 が集中射撃出来るのですよ。反則ですよね!
日本機には無い意地汚さ。
大戦末期の日本側輸送船団を構成 していた艦艇は、
この型の攻撃に大損害を受けてます。
写真で良く見かける、艦艇のマストをスレスレの低空で交わして行くB25はこの型らしいです。
二式大艇の乗員達も、これには出くわさない様に冷や冷やだったそう、
というか悲しい事にかなり墜されているそうです。



さて、しばらくの間川西航空機製作の名作飛行艇、
二式大艇について集中してお話しした来たわけですが、
このとき読んだ何冊かの本の中に、
同じ詫間の飛行隊の中の隊長と、予科練出身の兵曹長が
同じシーンについて記述しているのを見つけました。

他でもない、二式大艇三機が出撃を命じられた
昭和19年3月11日発動の第二次丹作戦が下命される瞬間です。

何度か二式大艇について話す過程で出てきたこの別名「梓特攻」、
どのような背景のもとに発令されたのでしょうか。

宇垣纏中将の「戦藻録」からわかりやすくまとめると

19年春、メジュロの米軍根拠地を奇襲攻撃しようとした

丹作戦部隊を編成して訓練中、台湾沖航空戦に注入されて部隊が全滅

再び丹作戦部隊編成し、トラックに進出しようとしたが暗号解読されてダメ

仕方なく丹作戦部隊を鹿屋に移してウルシー片道攻撃を計画


国内は九州方面に度重なるB29の攻撃を受けており、
日本近海を敵機動部隊が我が物顔で往来していました。
 
ここにおいて、敵の機動部隊を叩くには、かれらがウルシーに停泊するのを待って、
これに内地鹿屋から片道攻撃をかけることしか残されていなかったのです。

戦後一般に「片道特攻は無かった」という説も存在し、あったとしてもそれは
死の覚悟を示す単なる象徴的な表現で、実際には充分な量の燃料を積んで
出撃していたはずである、という話もあるようです。

しかし目的地が遠ければたとえ満タンにしたところで帰って来られないのですから、
結果的に片道になってしまった作戦もあるというのが実のところです。

そして、この第二次丹作戦はその、「片道特攻」でした。

編成は次の通り。

攻撃隊 銀河24機
天偵機 二式飛行艇1機
誘導機 同2機

二式大艇に課せられた任務は、ウルシーまでがあまりにも遠距離で、

双発最新鋭機の銀河といえど航法能力の限界を超えているので、

二式大艇2機がこれらを誘導すること。

そして、天偵の一機は本体の4時間前に発信して、天候状況を報告すること。

つまり銀河隊は行程の二分の一を過ぎてしまえば、たとえ天候不良であっても
燃料片道であるから帰投することはできません。
その場合二式大艇は市販されているいかなる地図にも載っていないような南洋の小島を
発見し全機を誘導させるという任務を与えられたのでした。

二式大艇には突入の命令は出されていません。
しかし、特攻機を誘導し戦果を見届け、また長路帰投することが
ほとんど不可能であることも事実です。

命令が発せられたとき、隊員たちが自らの覚悟を決めたのも当然でしょう。


以前、丹作戦下命の瞬間について、隊長であった海兵64期の日辻常雄少佐が
このように書きのこしていることをエントリで挙げました。

「今回、当隊は三機を以て神風とけ別攻撃隊を
編成することになった。梓部隊と命名される」
一瞬室内がシーンとなった。
食器室の蒸気の音までがぴたりとやんだ。
「万歳ッ、その命令を待っていたんだッ、やるぞーッ!」
歓声とも怒声ともつかぬ叫びが飛び交った。

いままでにはなやかな攻撃隊のかげに、
捨石となってただ黙々と戦い、
そして莞爾と死んでいった大艇隊員。
やはり神風の命名を待ちわびていたのだ。

ついで総員が指名を申し出た。
散るさくら、残るさくらも散るさくら―
思わず心のなかにこの一句をよみながら、
わたしは心の迷いを吹き消して三機を指名した。

「有難うございます!」杉田中尉の大声とともに、
「わーっ」という大歓声が深夜の士官室を揺るがした。


いつ伝わったのか搭乗員室には「総員起こし」がかけられ、
三機のクルーを中心に割れかえるような歓喜の渦が
巻き起こったのである。

私はただひとり呆然として感涙にむせんでいた。

(大いなる愛機「二式大艇」奇跡の飛行日誌 日辻常雄)


日辻少佐はこの作戦について自らが司令部から下命されたとき、
「今回の作戦の指揮官は銀河攻撃隊の隊長であるから、
日辻隊長は 行ってはならない」と念を押されていました。

少佐は一晩苦悩しました。
それは勿論部下に対する憐憫からなどではなく、軍隊統率の神髄は
戦場において部下を敢然として死地に赴かせることにあり、
自らがその至難の重責を、
はたして自分が残って部下だけを死地に追いやるというこの状況で
果たせるかどうか、ということに対してのものだったと思われます。

ともあれ、このような形でそれは払拭され、隊長は感激した、
ということなのですが・・・・・。

もう一冊の本は
「二式大艇空戦記」。
長峰五郎という八〇一空搭乗員で、飛曹長であった人物の記述です。

壇上の飛行隊長はおのれを励ますような口調で語をついだ。

「その三機の梓隊員は神風特攻であり、諸子からの志願によって選抜し、
命令せられるべきであるが、全員が志願するであろうと確信されるので
こちらからそのペアを発表する」

隊長がしばらく言葉を切った。
500名を超える整列した総員、粛として咳一つなく数秒のときが流れた。


せいぜい5,6秒の間であったろうが、命を捧げる運命の岐路に立つ
我々には、ずしんと重く応える長い時間であった。

そのとき私は、さあっと、頭から顔面から血液が下がって行くの覚え、
同時に膝から下の感覚が失われていき、膝頭が小さく震えた。
膝頭が震える、というのは、私は一種の比喩だと思っていた。
だが、私以外のなにものかが私のなかにあって、
膝の震えを制御できないのをはっきり覚えた。

異様な緊張感から、咳一つなかった総員の間に、ふうっとため息をつく者、
顔を見合わせる者、声を発しないざわめきが総員の胸に押し寄せた。
私は隣の河野兵曹を見た。
百戦錬磨、偵察の至宝と言われる彼の浅黒い顔も、
蒼白になってひきつれゆがんだ。



長峰氏は戦後、往った戦友のために慰霊をしながら、
水産会社の経営をした人物です。

戦後出版された神風特攻に関する出版物の多くが、指揮、命令者の書いたもので、
従って「彼らは進んで志願し、死生を超越し、笑いながら淡々と往った」
というような一面的な記述では彼らの実相を伝えていない、とこの著書で述べています。

いかに立派な態度であった者も、その苦しみは等しく同じであり、
出撃のそのときまでそれを訴え現わすことなく、救国の大義に殉じたことを
理解するべきだ、と。


二人に語られた八〇一航空隊の梓特攻下命の瞬間の様子にも、
微妙に温度差があるのに気づきます。

勿論、日辻少佐が深夜に特攻を命じたのは准士官以上で、
長峰兵曹長が下命されたのはその後、下士官以下の集まりであることが
人数の記述により明らかではありますが、日辻少佐の言うように

「総員起こしが掛けられ、出撃するクルーを囲んで歓喜の渦が起こった」

ということが実際にあったとはどこにも書かれていません。


しかし、これはどちらが間違っていてどちらが正しいというものでなく、
おそらくどちらの記述もお互いにとっては正しいことだったのでしょう。

下命する者とされる者、いかに「散るさくらと残るさくら」であったとしても
その瞬間見える光景はまるで違うものになっていて当然です。

長峰氏はまた、隊長の日辻氏の記述では全く触れられなかった
(もしかしたら知らなかったのかもしれませんが)「逃げた者」についても書いています。

誘導一番機の某は、編成が発表されるやすぐに腹痛を訴え、
仮病を使って医務室に入室し、編成から外されました。
この隊員の代わりに、彼よりずっと年下の隊員が命じられます。

「代わりに私が行くことになりましたので、よろしく」

彼は温厚な青年でにこにこしながらこのようにあいさつしました。
長峰兵曹が憤慨し、仮病を使った隊員を殴りに行かんとするのを
かれはいつものように微笑みを湛えながら

「いいんです、いいんです」

と押しとどめたそうです。

この仮病を使って特攻から逃げた隊員は、その後内地に戻り、
空襲の直撃弾を受けて死んだということでした。




そしていよいよ出撃のときがきました。

長峰兵曹乗り組む二式大艇は、ウルシーに向かう航行中、
司令長官豊田副武からの無電を受け取りました。

「皇国の興廃懸りてこの壮挙に在り、
全機必中を確信す、GF司令長官」

これを見た二式大艇の搭乗員は歓喜しました。
長峰兵曹が銀河隊もこれを受信しただろうか、と編隊を振り返りると、
後続の銀河は、傍受した無電の感激を翼いっぱいに表し、
編隊を詰めて寄合ってきていました。

長峰兵曹が持っていたサイダー瓶を風防ガラス越しに差し上げると、
銀河からこちらに顔を寄せてきていた三人の搭乗員が、
やはり同じようにサイダー瓶をこちらに向かって上げるのが見えました。


中央席の操縦員は私より年長に見えるが、やや丸顔で眉きりりと引き締まり、
鼻筋の通った美しい顔立ちだった。
彼は毅然とした姿勢の中で、体をこちらに乗りださんばかりにして、
右に操縦桿、左にサイダー瓶を捧げながら、満面に笑みを湛え、
口をパクパクさせて話しかけてきた。

私も大口を開け「がんばりましょう!」と答え、再び乾杯をした。

飛行帽の中の、凜とした彼ら三人の純粋無垢の笑顔!
それは何時間かの後に800キロ爆弾を抱いて真っすぐに
敵艦に体当たりしていく者とは到底思えぬ、すがすがしい笑顔であった。


長峰氏は戦後、仕事を犠牲にしてまでも梓隊の英霊供養と、
予科練戦没者の慰霊顕彰に努力を捧げつづけました。
それは、ウルシーの夜空に上がった9本の火柱と、このとき
サイダーで乾杯を交し合った搭乗員の微笑みの記憶が、
生き残った長峰氏のそれからの人生観を支配してきたからなのです。



「特攻を憐れむな」

というのはわたしが昔「彼らに捧げる言葉」というエントリで主張したことですが、
逆に笑って往ったからといって彼らが「死生を超越して喜んで死んでいった」
などという美辞麗句で謳いあげるのもまた間違っていると言えます。

彼らも自らの死に対する恐怖から、心の底では懊悩したでしょう。
本来未来があるべき健康な青年の肉体は、本能が死を拒否したでしょう。
心の底から喜んで死ぬ人間などいるわけはありません。

そして、彼らの家族もまた、遺書に託された「泣かないでください」
という言葉の後ろに隠された綴れない言葉、家族にだけわかる思いを受け取り、
愛するものを失う悲しみに、人知れず涙を流しあるいは慟哭したことでしょう。


しかし、やっぱり、彼らは笑って往ったのです。
終生長峰氏の記憶の中で乾杯をし続けた銀河搭乗員のように。
笑うことによって自らの死の意味を最後まで肯定しながら。









自衛隊音楽隊話(付録・似非応援ソング批判)

2013-05-08 | 自衛隊



自衛隊音楽隊のコンサートはいまやプラチナチケットと言われ、
大変手に入れにくいイベントとなっているようです。
わたしもいつかは、とくにサントリーホールのコンサートや陸海空合同のものを
聴いてみたいを思っておりますが、コンサートチケットも手に入れられない人のために
やはり我らが自衛隊音楽隊は、いろんなフリースペースでの公開をしています。

昨年観艦式が行われたとき、全国からの音楽隊が一堂に集結する形で、
みなとみらいのクィーンズスクエアでのコンサートが行われました。
各音楽隊がきっちり30分ずつのステージをつとめ、午後いっぱい演奏が続きましたが、
驚いたのはこれを聴くために訪れた人の多さ。
しかも演奏している姿が全く見えないところにもぎっしりと人が並び、
いつまでも人が減る様子がありません。

ほとんど一日立ったままでこの日の演奏を聴き、
あらためて自衛隊音楽隊の人気と、人気のわけを知ることになりました。

このコンサートのあと書いた二編のエントリのために
冒頭、二タイプの音楽隊の制服姿のイラストを描いたのですが、
この頁はいまだに閲覧数の上位によく上がってきます。

わたしは折あるごとに音楽隊の演奏を聴くためにyoutubeをクリックしているのですが、
このエントリ人気のわけは、この右側の女性が、
海上自衛隊の女性歌手三宅三曹に少し似ているからかな、と思っています。


今日はその後、ある読者の方からいただいた自衛隊音楽隊についてのコアな情報と、
お奨めの自衛隊音楽隊演奏の曲URLをご紹介します。


■ 横須賀鎮守府のピアノ

海上自衛隊の横須賀地方総監部田戸台分庁舎(横須賀市田戸台)には、
大正期に購入されたのグランドピアノが長らく保管されていました。
いつまで現役で使われていたかはわかりませんが、とにかく
そのころからここで演奏されてきたピアノです。

このピアノの修復作業が3月の12日完了し、ミニコンサートが開かれたそうです。
以下、「カナロコ」の記事より。

ピアノは本体に記された製造番号から1925年に、
ドイツ・ハンブルクの「スタインウェイ」社で造られたと判明している。
だが、田戸台分庁舎に運び込まれた経緯については
明確な記録が残っておらず、
謎に包まれたまま。
ただ、当時、日本海軍の従軍カメラマンがロシアで購入して持ち帰り、
1929年に海軍へ寄贈されたと伝えられている。

海自は15年前に一度、同社から部品を取り寄せ、
約250万円をかけて修復にあたったが、湿気などによる部品の劣化が激しく
使われないままになっていた。
昨秋から再び文化的価値も高いピアノの修復話が持ち上がり、
約50万円を投じて現代によみがえらせた。

コンサートで演奏したのは東京芸術大学出身の
海自東京音楽隊、太田紗和子2等海曹(34)。
ショパンやモーツァルトの独奏、
海自横須賀音楽隊とのアンサンブルも披露された。

近隣住民約60人も招かれた。
太田2等海曹は「鍵盤のタッチの反応が(現代のピアノと)少し違った。
ピアニストとして光栄に思います」

と感慨深そうだった。


古いピアノはそれだけでタッチが全く違いますからね。
わたしはアメリカでよく楽器店の練習室のピアノを時間貸ししてもらい、
練習するのですが、たいていが見たことも聞いたこともないメーカーのピアノで、
まともなタッチのピアノを置いている楽器店は皆無です。
向こうではヤマハは超ブランドなので、そんなところではまずお目にかかれません。
そんなピアノのタッチは、まるで鍵盤の底が抜けているのではないかと思われるほどで、
古ければ古いほどこの傾向は顕著になります。

それにしても、横須賀鎮守府の歴史的なピアノ。
どんな弾き手が、どんな曲を奏でたのでしょうか。

当時軍楽隊の一番のエリートは横須賀鎮守府に集められましたから、
かなりの弾き手がこのピアノで名曲を奏でることもあったのかもしれません。
いろいろ空想に耽ってしまいますね。


■ 自衛隊ピアニスト 自衛隊ボーカリスト

以前この自衛隊専属歌手について書いたとき、彼女のことを
「海上自衛隊音楽隊の最終兵器」と位置付けてみました。
彼女とは、自衛隊史上初の専属歌手、三宅由由香利三等海曹
横須賀鎮守府のピアノを弾いた太田紗和子二等海曹とともに
そのユニークさで注目を集めています。

とくに三宅三曹はわたしの観たコンサートでもひときわ注目を集めており、
youtubeでも熱心なファンが声援を送っている様子がわかります。

このお二人についての情報です。

太田紗和子二曹は、入隊前にはすでにプロのピアニストとして活動中でした。
オーボエ奏者の伴奏ピアニストとして、管打楽器コンクールなどに参加するなどの
経歴もありましたが、公募によって、技術海曹・2曹で入隊しています。

横須賀教育隊での新入隊員教育では、特別扱いを受けるどころか、
高卒大卒の若い新隊員に交じって、ピアニストの命でもある手に血豆を作りながら
カッター訓練にも参加したとのことです。

なんとびっくり、旧軍音楽隊では当然のようになされていたカッター訓練、
今でも健在なんですね。
水泳訓練で遠泳などもすると聞いたことがありますが、
艦艇乗り組みの任務中、何か事あって、いざというときに泳げなかったり
ボートもこげなかったりでは、海上自衛隊という組織に属している「軍人」として
失格、ということなのでしょう。

太田2曹の階級は入隊したときから2曹です。
しかし自衛隊員としては全くの新参者。

芸大高校ピアノ科を卒業後、芸大を経て芸大大学院院を卒業、
海外コンクール参加経験もありという経歴もひけら かすことなく、
率先して当直に立ち、ピアノを準備するときも自らイスを運ぶなど、
普通のソリストのように特別扱いされることを避け、あくまでも自衛隊の
「一隊員」として音楽隊の任務を果たしているのです。
そんな後ろ姿が、他の隊員にも無言の範を 垂れることとなり、
良い影響を与えているようです。


自衛隊歌手である三宅3曹は普通の新入隊員として2士で入隊。
出身の日大芸術学部では
空手部員として様々な試合に出ていた猛者なので、
体育でもダントツ好成績で教育隊を卒業 したということです。


■ 自衛隊作曲家

自衛隊は隊の委託作品をたくさん持ち曲にしていますが、
自衛隊員が作曲した曲もまた多くあります。

東京音楽隊長の河邊一彦2佐は初の音大出(武蔵野音大)隊長で、
海上自衛隊ならではの多くの オリジナル作品を発表しています。


河邉二佐の作品をいくつか紹介しましょう。
艦上で使用されるラッパ譜を散りばめた「イージス」

単純なラッパ譜に複雑な和声を伴って重なってくるブラスのメロディが、
次第に広がりを持ちつつうねりを見せながら展開していくさまは、
壮大な宇宙すら感じさせ圧巻です。

護衛艦に乗っている自衛官がこれを聴いて感動しないわけがありません。

「イージス」~海上自衛隊ラッパ譜によるコラージュ

http://www.youtube.com/watch?v=VvqbizExUbQ




「遥かな海へ ~ Beyond the Sea, far and away ~」

夜明け前の海の描写に始まり、艦艇が出港し勇壮に海原を駆ける様子から、
やがて航海­が終わり入港するシーンまでが描かれた曲。
最初の方には打ち寄せる波の音さえ表現されています。
護衛艦の「掛け声」が盛り込まれ、あらゆる意味で自衛官にしか書けない音楽といえましょう。


http://www.youtube.com/watch?v=JIawQxZQbY0



河邊一彦2佐
は宮崎県出身。
新燃岳の火山灰被害や口蹄疫などで苦しんだ故郷を応援するために
組曲「高千穂」を作曲しました。
壮大でありながらまた抒情的で美しく、高千穂の地を訪れたわたしとしては
「進孫光臨の聖地」であるこの地にとって最高のテーマソングであるといえます。

また、断言してもいいですが、これは演奏する者にとって非常に「気持ち良くなれる曲」でしょう。


組曲「高千穂」

I. 「天の逆鉾」

http://www.youtube.com/watch?v=3N2dTfcKeEg

II. 「仏法僧の森」

http://www.youtube.com/watch?v=SLaUIKkm8gA

III. 「神住む湖」

http://www.youtube.com/watch?v=847ssyxVaxY

VI. 「紺碧の空、雲流る」

http://www.youtube.com/watch?v=P7wgT_ns9UY&feature=endscreen&NR=1



東日本大震災の犠牲者を弔い、被災者を応援するために作曲 された
「祈り」

http://www.youtube.com/watch?v=DRG3WEelkj8

前述の太田二曹と三宅三曹のコンビが奏でる鎮魂の調べ。

「どこぞの局がまき散らしている支援ソングと称する『似非名曲』
よりずっと心がこもっている」

というコメントをこの曲の紹介と共にいただきました。

そうなんですよ。

今年の始め空挺団降下初めに参加したとき、海上にBGMで流れていた
「アイラブユーふーくしーま~」♪
という「東北応援ソング」。
わたしはこの曲に対し、「聴いていてイラっとする」と苦言を呈しました。
なぜかというと、理由は簡単。

「下手だから」。

音楽を音楽として評価するより先に「鎮魂」「応援」とすれば、
「気持ちがこもっているからケチが付けられない」
またそれに胡座をかく曲は、はっきりいって「音楽的に卑怯」だと思っています。

問題は、音楽にはそれそのものの持つ力があるので、たとえ音楽的に稚拙でも、
その状況に置かれて耳にした人が感情移入し、その結果
「いい曲」「名曲」と認定されてしまうことです。


昔「千の風になって」という曲についてそのようなことを言ったことがあります。

英語を翻訳したベタな日本語(素人仕事)に付けられた安直なメロディ。

「死んでなんか~いません~」♪

というラインには音楽関係者の末席を汚すものとして、
歌詞、メロディ共におもわず殺意を覚えるくらいです。

同じ題名を持つ曲でも、英語の原語で書かれたいくつかの「千の風になって」の方が、
総じて音楽的にもずっと完成度も高く、評価できるのですが。

しかし、実際世の中には日本語の「千の風になって」を聴いて涙する人がたくさんいる。
大切な人たちを失くした傷心の心に、この歌は文句なしにしみいるからです。
そんな人たちに向かって「この曲は稚拙ですよ」なんて言えるでしょうか。
本当の意味の「確信犯」、つまり

「心の底からいい曲だと信じきっている」

(音楽的に言えば犯罪ってことになりますが)人たちに向かって。
こういう「文句のつけようがない」シチュエーションで音楽を作る、つまり

「音楽的卑怯」

とはこういうことを言うのです。

参考までにメアリー・エリザベス・フライ原詩による
『千の風になって』Do Not Stand At My Grave And Weep
を三種類貼っておきますので、ご存知ない方は聴いてみてください。
歌詞は同じですが、全く違う曲です。

リベラ
http://www.youtube.com/watch?v=A0gQEymR9PQ

キャサリン・ジェンキンス
http://www.youtube.com/watch?v=jynpGNaSAMA

作曲者不明
http://www.youtube.com/watch?v=abydD4StrZo

そして、この方のおっしゃるNHKの「似非名曲」について。
こちらがなぜ評価できないかというと、
それは

「狙っているから」

の一言に尽きます。

今回、この曲についての音楽的な観点からの感想を求められました。
何度か申し上げたようにうちにはテレビが無く、NHKを観ることもないので、
これがどんな曲なのかちゃんと聴いたことがなかったのですが、
この機会にyoutube検索をして聴いてみました。

「はるかぁぜぇかー おる」(「かぁぜぇ」が不自然)
「あのまちをおもいー だす」
「だーれかのーえがおー がみえる」(ここが一番おかしい)
などの歌詞のぶつぎれからは、曲が先行して、
歌詞が後付けなのかと思ったりもしますが、たぶんそうではないでしょう。

というのがメールを下さったこの方の感想です。
これはですね。
「おかしい」と思われる原因すべてが、

「作曲と作詞が、全く独自に行われた」

ということから来ていると思われます。
この「歌として不自然」な歌詞とメロディの「合わなさ」は、
まずこの曲を歌に合わせてではなく、器楽を念頭に置いた旋律で書いたことにあります。

「歌いやすさ」
ということをもし考えたら、作曲者は「はるかぜ かおる」「おもいだす」
いずれのフレーズも、跳躍しつつ下の第三音まで行ってしまう、
というような「器楽的終止」はしないのが普通です。

そして「誰かの 笑顔が 見える」ではなく
「誰かの 笑顔 が見える」となってしまっているのも、
最初に曲があり、字数のあう言葉を当てはめたからでしょう。

一般に歌曲を書くときは、言葉のイントネーションさえ逆にならないようにするのですが、
この曲に関してはなぜこうなってしまったかというと、つまり

「宮城県出身の作曲家と宮城県出身の作詞家」(いずれもNHKお抱え)
に、被災者応援ソングを書かせ、それを大物に歌わせて感動させる

という企画がまずあって、そのうえで「狙って作ったから」だと思われます。
昔、同じような胡散臭い「We Are The World」という、ボブ・ゲルドフによって
企画された「似非チャリティソング」がありましたが、そのたぐいですね。


「千の風に乗って」は素人仕事ゆえ稚拙な歌詞に簡単な旋律ですが、
こちらはどちらもが一応「プロレベルの仕事」をしています。
これはお互いほとんど連携も取らずしゃんしゃんで一丁上がり、
つまり「プロの臭み」という意味です。

このあたりの齟齬が不自然な節回しとなって表れているのでしょう。
「みんなに歌ってもらうために作った曲」と思えないのはそのせいなのです。


わたしもまたこの方のように、この曲がプロの仕事であるからこそ
厳しく言いますが、これを歌としてこれは全く「ダメ」な方だと思います。
「千の風になって」より、ある意味悪質です。


いい曲でしょ?悲しいでしょ?こんな大物たちが皆無償で協力して凄いでしょ?
こういうあざとさが見えるからです。

このような商業的な巧みは企みにも通じます。
とくにこのテレビ局、震災のための義捐金を、民主党の安住を通じて
着服していたと言われるこの局がいくらこんなことをしても、
胡散臭い、偽善的、鼻につく、そんな感想しか浮かんできません。

「商業的下心」「技術的に稚拙」
そんな音楽が不幸に遭った人々の心につけこんである程度は騙せても
気付く人は気づくのです。


翻って自衛隊の音楽家たちの演奏について考えてみましょう。

彼らの創る音楽にはこのどちらの要素も存在しないし、またする理由もありません。
なぜなら、彼らの演奏は金銭に換算されるものではないからです。
そして、理論的にも技術的にもしっかりとした基本に支えられています。

自衛隊音楽隊の演奏、そしてその存在にこれほど皆が注目し、
またその音楽に惹かれるのも、某局の「似非応援ソング」のような音楽が持つ
胡散臭さとは対極のものがそこに感じ取れるからかもしれないと思ってみたりします。









祝!世界遺産登録~富士山を観るホテル

2013-05-07 | お出かけ

皆さまはどのように連休をお過ごしでしたか?
今年の大型連休は、間に平日が挟まれていたため、
海外よりも国内旅行に行く人が多かったそうですが、
我が家も近場への外出で過ぎでしまいました。

一泊だけ旅行をしたのですが、それがこの「富士山の見えるホテル」、
日本平ホテルです。

 

新幹線静岡駅に到着。
このルノアールの彫塑(後ろから見るとなんだか間抜け)の前で待っていると、
ホテルのシャトルバスが迎えに来てくれます。
この日、連休の混雑でホテルまでは40分くらいかかりました。



海沿いを走っていると、苺の栽培農家がこのようにたくさんあります。
どこもシーズンなので「イチゴ狩り」をやっていました。

そういえば読者の方がこの日の朝「今からイチゴ狩りに行きます」
というメールを下さっていました。
「もしかしたらここに今おられるのかしら」などと思いながら、
右手に広がる駿河湾を眺めていると、バスは海沿いを離れました。

日本平というところは、駿河湾を見下ろす高台のことで、
くねくねした山道を登っていくと、そこには昔からあるような展望台のある
見晴らしのいいパーキングがあります。
さすが連休で、「満車」の札がでていました。
そこを通り過ぎてさらに進むと、



こんな怖い廃墟がありました。
どうやらかつては美術館だったようなのですが、なぜお城の形?



それからすぐにホテル到着。
このホテルは去年の秋に全面新改装をしてピカピカです。



この日、台湾からの宿泊客がいた模様。
風が全くなくてなびいていませんが、左が台湾の旗です。

「台湾からの客なら大丈夫」

何が大丈夫かわかりませんが、このように思いました。

「これが中国の国旗だったらどうしてた?」

宿泊をやめる、とは言いませんが、あまりいい気持ちはしないのは事実。
温泉ホテルで彼等と遭遇すると、訳もなく(訳は実はありますが)

「損をした」

という気分になるのも残念ながら厳然たる事実。

TOは仕事で大阪のホテル(普通のシティホテル)に泊まって、朝食ビュッフェで
彼らが「後ろに並んでいるのにお構いなしで食べ物を根こそぎとっていく」
のにあきれたことがあるそうです。
取るだけ取ってテーブルに食べ残しが山盛り。
持って帰れるパンなどは平気でバッグにつめこんでいくとか。 

最近どこかで読んだ中国人自身の弁明によると、

「中国人は人一倍『損をしたくない』という気持ちが強い民族」

だということですが、だからといって部屋の備品を根こそぎ盗っていくのは犯罪ですからね。
文明国においては。



ロビーに一歩入って、皆感嘆の声をあげます。



ロビーから見る外の景色。
このホテルはそれが売りなのです。



清水港とともに富士山がここまで美しく見えるホテルもそうありますまい。
この眺めのために、極限まで視野を確保した作りです。



そこここにセンスの良さを感じるアレンジメント。
しかし、と言っては失礼ですがこのホテル、改装前はこのような仕様でした。

 

このころは大浴場のある従来型の巨大温泉ホテル風だったようです。
それなりではありますが、今となってはアウトオブデイト感満載。

 

しかしホテルの仕様が移り変わっても変わらないもの、それが富士山。

到着したとき、時間はちょうど12時。



お昼は同ホテル内の和食レストランで、お寿司を食べました。



夕食に備えて軽めのコースを。
ここはなんといっても清水港から取れたての海の幸が味わえます。



にぎりにはすべて板さんが醤油や桜塩などを付けて出すので、
一度も醤油を自分で差しませんでした。



一番おいしかったのはこのシラス。
そういえば静岡の名物に

「夜のお菓子うなぎパイ」というのがあるのですが、シリーズで
「昼のお菓子しらすパイ」(だったかな)があります。
しらすもまた駿河湾の名産。



メダイの炙り製作中。





お昼ご飯を食べてから外に出てみました。



以前こそあのパンフレットのようなものでしたが(失礼?)今回の改装で
すっかりリゾートホテル(しかもハイエンド)に生まれ変わりました。
この奥に見えるのは座敷の宴会場で、若干その名残があります。
池には菖蒲が植わっていて、季節を演出しています。



お天気はいいのですが、ずっと富士山には雲がかかっていました。
風が強くなり、寒いので早々に中に戻りました。



結婚式を挙げた一族が富士山をバックに記念写真撮影中。
ここでようやくチェックインができる時間(2時)になりました。

 

TOがチェックインしている間、フロント横のモニターでやっていた観光案内、
桜の季節、このホテルはさぞかし混雑したことでしょう。
そこでふと、

「ここでお正月を迎えて初日の出を拝む、ってよさそうだねえ」

と思いついたのですが、ああ、日本人の考えることは皆同じ。
お正月は予約可能な一年前から満室なのだそうです。
つまり、元旦に宿泊した客が、その日のうちに一年後の予約をしてしまうと。



とても広いエレベーターホール。



とても広い部屋でしたが、我が家はいつもエキストラベッドを入れるので、
部屋がこんなことになってしまいます・・。



左壁はすりガラス採光をしており、明るくて気持ちのいい洗面所。



部屋から望む清水湾の眺め。



庭を見下ろすと、皆がそぞろ歩いていました。
芝生には富士山に向かって二列の石が配してあり、
皆ここで記念写真を撮っています。





絵に描いたような部屋からの眺め。
陽が沈んできたころです。

この日、ちょうど富士山が世界遺産になるとのニュースが報じられました。
そのせいなのかどうか、今回、部屋の予約が当初全く取れず、
依頼したカードデスクが旅行会社の枠までを当たった結果、ようやく一部屋空いていたのだとか。

冒頭の古色蒼然としたパンフは、旅行会社がいまだに改装前のものを
周知せず使用していたということのようです。



陽がかなり陰ってきました。
夕方から、スパでマッサージをしてもらう予約をTOがいれてくれていたので
一人でスパに向かいます。



眺めのいいセラピールーム。

「写真撮っていいですか」とカメラを出すと、
セラピストがカメラを見て「いいカメラですね」

なんでも彼女は写真を趣味でしているとのこと。
彼女のカメラはニコンの一眼レフだそうです。

実はわたしも「一度一眼レフ使ってみたいなあ」
という欲望が芽生えてきたところで、ちょうどこの日、
キャノンから今までの半分の重量の一眼レフが発売されたというニュースで
盛り上がっていたところです。
彼女とセラピー中にそんな話をしていたのですが、
あまりの気持ちよさにいつのまにかついうとうとと・・・。

セッションが終了したら、外はすでに真っ暗でした。



ほどよくお腹が空いたところで夕食です。
スパから直接ダイニングに行って家族と待ち合わせ。



テーブルにはTOが手配したお花が。
いつの間にか過ぎてしまったわたしの誕生日のお祝いディナーです。



前菜とサラダ。



ムール貝を乗せたスープ。
ムール貝は家族全員苦手です。
全員が残してしまいました。ごめんなさい。(←貝に言ってる)



とても美味しかったパン。
奥のパウダーは、クミンなどが入ったスパイス。
オリーブオイルに浸した後、これをを付けていただきます。



真鯛。
トッピングされているのはアルファルファのフライです。
この食感が良かったので、いつもは苦手な白身も、まあまあのお味に。



フルコースだったので、肉も魚も少しずつ出てきました。



デザートのお皿には、キッチンからのお祝いメッセージが。
この後ケーキも出ましたが、さすがに食べられず、部屋に運んでもらいました。



明けて翌日朝の富士山。
今日はご機嫌がよさそうです。

 

昨日のレストランに朝ごはんを食べに行きました。

トマトを生絞りしてくれたり、パンケーキやワッフルを注文ごとに焼いてくれたり、
お粥も和食惣菜もたっぷり、お粥にかける醤油ダレなるものがあったり、
なにかと凝っているのにもかかわらず、TOがこれに先立つこと2か月まえ、
所属クラブの旅行では、同行のおじ様たち、「納豆が無い!」とぶーぶー言っていたそうです。

「経営者が納豆嫌いなんじゃない?関西人とかで」

関西人だから納豆嫌い、ってことは決してないんですが。
うちは夫婦とも大好きですし。



皆、食事が終わった後外を歩いたりしていました。



部屋から見た散策中の家族。
まるでコマーシャルフィルムのようです。



芝生の広大な庭には、散策用の小道がありますが、
ここを歩く人はほとんどいません。

わたしたちは家族それぞれが仕事があり(笑)
部屋に帰ってコンピュータをしながら外を眺めたり、
下の売店で買った「ゴボウ茶」を飲んだりしながらチェックアウトまで過ごしました。

そして、また再びバスで静岡駅まで帰ってきたのですが、



ここで、ひよこに「しずおかどうだった?」と訊かれてしまいました。

これは、最近静岡のみやげ界で台頭しているらしいお菓子で、
このすぐ近くで試食をしていたので食べてみました。
パフの中にクリームの入ったもので、お味はそれなり。
はっきり言ってひよことの関連性はあまりわかりませんでした。

でも、このひよこが可愛らしいので、家族全員この看板の写真を撮りました。



さらにひよこ、ひよこの分際で「つまらないものですが・・・・」と謙遜しています。
つまらないものなら売るなよ!というツッこみは無しで。

「どうして外国人のように『これは美味しいの』と胸を張って渡さないのか」

なんてしたり顔して日本人を批判するの一時流行りましたが、
それが民族性から来る習慣なんだから仕方ない、ほっといてくれ。

ここは富士山の町。すなわち日本人の心である日本一の山の街。
つまらないものだと謙遜するのもまた日本人の美徳なのです。

とむりやりこじつけてみる。



というわけで、ただ富士山を見て帰ってくるだけの旅。
でも、この富士山、不思議と見るだけで心が満たされるような
不思議なパワーを持っているんですよね。

先日靖国神社についてのエントリで、山もまた自然神となる、という
日本ならではの宗教観についてお話ししたわけですが、
そういう宗教観をはぐんできた日本で、最も人々の信仰を集めてきた
富士山のような山が持つ霊験はあらたかです。


この日本一の山の姿を目の当たりにして、
日本人に生まれてよかった、とまたあらためて思いました。

なんでも、世界遺産に登録されたら、これからは観光客が増えるらしいのですが、
これもよくわからない理屈です。
だって、世界遺産であろうがなかろうが、富士山の価値には全く変わりなし。
今までと同じように、これからも富士山は日本一の山なのです。


これを祝う動きはあちこちであり、
構成資産「富士山本宮浅間大社」(富士宮市宮町)では、
馬に乗った射手が弓矢で的を射る恒例の「神事流鏑馬(やぶさめ)式」が行われ、
同じく構成資産「冨士浅間神社」(小山町須走)では同日、
年に一度の例大祭が行われ、世界遺産登録を寿いだということです。

ともあれ、世界遺産登録おめでとうございます!」(富士山に言ってる)







「That Others May Live かけがえのない命のために」~救難救急隊

2013-05-06 | 自衛隊

鹿屋の航空基地資料館には、旧海軍資料と復元零戦だけでなく、
自衛隊の資料もワンフロア展開されています。

この日は確か週末だったと思うのですが、そもそも史料館の見学者が
ほとんどいない状況で、いたとしても皆特攻隊関係の資料を観終わると、
一階にあるこのフロアはほとんど駆け足で、展示を横目で見ながら
通り抜けるという感じでした。

鹿屋の特攻記念資料館が映画の影響かすごい人出だったのに対し、
(大型観光バスが駐車場にずらりと並ぶ状態!)
この状況はいったいどうしたことでしょうか。

このフロアには、二機の海自航空機が部分展示されています。
P-3Cの操縦席部分と、救難ヘリS-61A



冒頭のウィキペディアの写真は南極観測船「ふじ」に艦載されていた
同型のヘリ。
S-61AのSはシコルスキー・エアクラフトのSです。
対潜哨戒機としてはやはり同型のHSS-2/S-61Aが、
こちらは三菱重工業のライセンス生産によって生産され、こちらは
「ちどり」と名付けられました。
「ヘリコプター群」の日にもお話ししたように、この鹿屋には
屋外展示されています。






海自はS-61Aを3機導入していますが、2008年には退役し、
館山航空基地でさよなら式典?が行われ、一般にも見学ができたようです。

鹿屋の屋外展示に添えられたパネルでは、まだ退役過渡期であるとされていたので
そのことを当ブログエントリ内で指摘させていただいたのですが、
それを見てある読者の方がこの件を鹿屋基地に確認してくださったそうです。

基地の返事は
「先日より塗装を掛けなおし、展示パネルも随時確認していっている」
ということだったそうなので、おそらく今では訂正されていると思われます。

いやー、なんでも気付いたことや疑問は書いてみるものですね。(感動)


ところでこの退役の式典。
2008年に行われたということですが・・・・・今なら万難を排してでも見に行ったのに・・・・。
ヘリが見たい、というより(それもあるけど)、そういう自衛隊の正式なセレモニーを
一度この目で見てみたいじゃないですか。


それについては少し朗報があって、エリス中尉、最近
「そういうイベントにしょっちゅう招待を受けている民間関連会社の人」
とお近づきになったのです。
ですから今後、注意していれば少しはそういった機会が増えるかもしれません。

富士総火演とか自衛隊コンサートとか・・・・・・・・えっ?


・・・・えー。

それはともかく、ここに展示されているS-61Aですが、ご覧のとおり、



フロアーに入りきらないので、尻尾がブツ切りにされています。
そして、救難の際に海上に投げ入れられる救難ボート。
そういったものが、雑然と展示されているわけです。

本当に雑然過ぎて何が何だか・・・。

まあ、自衛隊が予算の範囲でやっていますのでね。
この素人くささに文句を言っては罰が当たる。たぶん。



この展示、ステップを上がって中を見学できるのですが、
二階の特攻隊の部分でほとんどの時間を使い果たしたと思しきほとんどの見学者は
中に入ってみることもなく、そそくさとこれらを見ながら通り過ぎるのみ。

おかげでゆっくり見学できた・・・と言いたいところですが、
実はエリス中尉も待ち合わせの時間が迫っていて、あまり時間が無かったのです。
一階フロアを駆け回り、いい加減にシャッターを押しまくったものの、



いくら時間が無かったと言ってもフラッシュ撮影モードにくらい変えろよ!

と後から自分で自分を思わず罵ってしまった写真。




というわけで暗くてすみません。
奥に展示されているパネルも、時間があったらもう少しちゃんと撮りたかったのですが。

それにしても「ヘリ内部、とくに救難用ともなると、内側の保護がすごい。
床を同じようにクッションで覆えばもうほとんどトトロのネコバスです。



海上自衛隊の救難飛行隊にはこの機体ではなく、
昭和43年までS-62が採用されたそうです。

ここで少し、海上自衛隊の救難飛行隊についてお話しすると。



自衛隊の救難隊は航空救難団(JASDF Air Rescue Wing)といいます。
先日救難艇US-1について熱く語ってみましたが、離島に対する救難は、
基本ヘリと飛行艇の二本立てで行います。



日本国内で災害が起きたとき、出動はまず

民間の災害・・・・消防

山岳事故・・・・警察、消防の山岳救助隊

海難事故・・・・海上保安庁

という組織が優先されますが、これらの救助機関ができなかったり、急患の移送、
あるいは大規模災害のときは自衛隊が地域や縦割り行政を超えて出動します。

これらの救難ヘリには、
機上救護員(メディック)という海自独特の職種である隊員が乗り込みます。

メディックは、航空自衛隊の救難員とは違い、
機上においてのみ医療行為を行うことができる職種。
海自内の看護員から選抜され、准看護師程度の職業訓練を受けた後、
ここ鹿屋基地にある第211教育航空隊で約3ヶ月の訓練を受けて
機上救護員として勤務します。


自衛隊から緊急救命のためにヘリが出動するには
自衛隊法に基づいて、
都道府県知事の要請に基づく「災害派遣」という名目があった場合つまり


公共の秩序を維持する必要がある場合(公共性)、
差し迫った必要性があること(緊急性)、
他に適切な手段がないこと(非代替性)


これらの条件を満たす場合に出動が許可されます。


ちなみに、1999年に起こった玄倉川水難事故で、
中州に取り残され膝まで水が浸かった被害者が、テレビカメラに向かって
「ヘリコプターを呼べ」と身振り手振りで指示していましたね。
ショッキングな映像でしたが、あのときの遭難者は

「(自衛隊の)ヘリコプターを呼べ」

と要請していたのではないかと想像されます。

もし低気圧の二次災害が予想されなかったとしても、
あの段階では自衛隊ではなく、警察か消防のヘリが先に出動することになります。

しかし、警察や消防のヘリよりもさらに特化された訓練を行い、
不可能と思われる現場の救出をなしとげられるのは自衛隊救難隊である、
という思い込みを普通の日本人が持っていても不思議ではありません。

実際、海自の救難ヘリ隊は24時間非常時に備えて待機しており、
また練度も非常に高いものですが、それでもやはりあのように、
ほぼ確実に二次災害が予測される場合に派遣されることはなかったでしょう。

このとき神奈川県知事が陸上自衛隊に出動要請し、救難隊が派遣されたのは、
18人全員が川に流されてから実に5時間後のことでした。


また、東北地方太平洋沖地震では、航空自衛隊から百里救難隊
浜松救難隊が派遣されています。
震災の被害に遭った松島救難隊は津波により動航空機を失いましたが
隊員は百里救難隊に配置され、その後、被災した自らも救難活動に当たっています。



海上自衛隊の救難隊は、地震発生翌日、石巻湾において
漂流している船舶から、11名をヘリコプターUH60Jで救出しています。

このUH-60JのコールサインはHERO


今まであまり一般に存在があまり知れていなかった救難隊やメディックの活躍を
最近世に知らしめるきっかけとなったのは
「よみがえる空 Rescue Wings」(アニメ)
そして
「空へ~救いの翼 Recue Wings」(実写映画)かもしれません。
この映画に関しては航空自衛隊や海上自衛隊が製作に協力しています。

どちらも取り寄せて観ましたが、等身大の普通の若者を主人公にし、
彼らがHEROとなる瞬間を描きつつ、救難隊への理解と告知、そして
人命を救うという尊い任務に憧れを誘うに十分な内容となっています。


映像作品の持つ宣伝の力ですね。

そういえば最近、某民放放映の、ブルーインパルスのパイロットだった自衛隊員を
主人公にしたドラマが話題を集めているらしく、なぜか当ブログへのアクセスが
放映の日には大変増える(笑)という波及効果すらもたらしています。

このような内容のドラマは今まで自衛隊を語ることや讃美することがある意味
タブーのようになっていたがゆえ(それどころか『野生の照明』のようなとんでもない
『反自衛隊』映画が堂々と公開されていたり)非常に関心を持たれやすく、
国民の自衛隊に対する周知理解を深める効果は絶大です。

テレビを観る人が減った、と言われますが、結局その原因は制作側の怠慢と偏向にあり、
このようなテーマを取り上げて妙な意図を加えずに普通に制作すれば、
日本人は関心を持って観るということに、なぜメディア制作者は気づかないのでしょうか。

日本に住んでいる日本人であれば、賛成するにしろ反対するにしろ、
自衛隊という組織に無関心でいられるはずがないのですから。


やはり、防衛省としては、政権交代した今、このような制作物で、
国防ひいては自衛隊に対する理解と関心を深める努力をもっとしていただきたい。

テレビ関係者、特にNHKに言っておきますが、というか何度も言いますが、
日本のテレビ局なら日本の国民に向けてこういった番組をこそ作るべきです。
「お隣の国」のインチキ歴史ものなど、日本人は誰も望んでいないのよ。



各自衛隊とも、ひとたび救難要請された場合、
要救助者にわずかでも生存の可能性が有れば、
隊員の命を賭しても救難・救助を行うことを宣誓表明しています。

命を賭してもという言葉の通り、自衛隊救難隊の殉職者は多数です。
1963年、北陸豪雪の際出動した芦屋救難隊の、ヘリ墜落による最多人数10名の殉職始め、
1994年は、奥尻島の急患輸送に向かうヘリが墜落し4名死亡するなど、
現在までに関係航空機6機の事故により30名の自衛隊員が殉職しています。


空自のエアレスキューはこのようなモットーを掲げています。

That others may live
(他の人を生かすために)


任務に当たっては自らの危険を顧みずかけがえのない命を救う。
消防隊や海上保安庁、警察の救難隊とともに、
彼らはまさに国民ひとりひとりにとってのヒーローなのです。


 


「坂の上の雲」NHKの胡乱な創作

2013-05-05 | 日本のこと



NHKはいったいどうなってしまったのだろう。

ここ何年か折あるごとにそんな疑問を感じてきました。
うちにはテレビが無いので逐一放送をチェックすることはできませんが、
インターネットのニュースに触れている限り、
何か日本人でない勢力が内部に入り込んで、その力が
近隣諸国視点の報道をこの局にさせているのではないか、
と思われる事象が近年あまりにも目についてきたからです。


震災のあと、わたしは実家のある関西のホテルにおり、
NHKを情報収集のために観ていましたが、
あるとき、海外から救援隊が到着した、というニュースをやっていました。

「海外からの救援隊が・・・」とアナウンサーが読み始めたとき、
混乱していたらしいスタジオで、マイクがディレクターの声を拾いました。


「韓国!韓国!」


そしてアナウンサーは改めて、韓国からの救援隊の到着を報じたのですが、
他にも来日した救助隊の国名はまったく報じられないままニュースは終わりました。

(その後、韓国からの救援隊は実質ホテルから出ることもせず、
結局何もせずに帰ったことについて、どのメディアも報じなかったと記憶します)


また、出先にあったテレビで流れていた昼の情報旅番組。

「昼どきなんとか」というタイトルの、日本の各地に行って名産などを紹介するもので、
もうどこの何かは忘れましたが、その地の名産品をレポーターが紹介したとき、
アナウンサーが何の前ふりもなく、

「韓流スターのイ・ビョンホンさんもこの何々が好きなんですよ!」

と叫んだので思わず画面を見直してしまいました。
(レポーターも返答しようがなく、反応はありませんでした)


毎朝の連続ドラマ。

わたしは「カーネーション」以来全く観ていませんが、
インターネットでは、今放映中のドラマで、主人公の父親の乗るタクシーが
「ヒュンダイ」製であったということが一時話題になりました。
ビールの瓶でさえラベルを隠す「企業宣伝絶対禁止」のNHKが、その時は
なめまわすようにタクシーの車体をロゴまで映したそうです。


スポーツ試合の放映においては、荒川静香のトリノオリンピックの優勝時、
なでしこジャパンのワールドカップ優勝時にも日の丸、君が代をカットされました。


そして、日本の過去を捏造までして誹謗する意図で制作された
「ジャパン・デビュー」では、ついに訴訟が起こされるに至っています。


民放のようにパチンコ屋やサラ金の会社がスポンサーになる可能性もない、
日本国民の視聴料で成り立っているこの公共放送局に何が起こっているのでしょうか。



わたしは一度、「真珠湾からの帰還」という、真珠湾攻撃に参加したった一人生き残って
捕虜第一号となった特殊潜航艇の乗組員を描いたドラマについて取り上げ、
この局の思想誘導と捏造、自虐史観について糾弾したことがあります。

ある程度歴史に造詣がある人でさえ「いいドラマだ」などと思ってしまうほどに巧妙で、
ゆえに思わず危機感を覚えるくらい、このドラマに隠された意図は悪質なものでした。



で、「坂の上の雲」です。


勿論いろんなところで「司馬の原作とは全く違う表現が多い」
などと言われており、わたし自身も

「娯楽作品としては上質なのは認めるが、これを史実と思ってはいけない」

という警告を僭越ながらさせていただいたことがあります。
その時にも少し書きましたが、

「史実にも司馬史観にもない、いわばNHK(つまり左翼)史観を
エピソードの合間に混入させてくる」

とわたしが断じた部分について、今日は少しお話しします。



先日記念艦「三笠」の見学をした際、帰りに入った海軍カレー専門店で放映されていた
「坂の上の雲」を見て、TOが俄然日露戦争と日本海海戦に興味を持ち出し、
「これ、まとめて借りておいて」
と頼んだのでレンタルで取り寄せ、わたしももう一度観ました。

せっかくなので、この機会に第一部から第五部までの「混ぜ込み部分」、
「印象操作」の意図が感じられた部分を抜き書きしてみることにしました。

お断りしておきますが、わたしは司馬の原作との精緻な照合をしたわけではないので、

「いや、これは原作にそう書いてあった」

というものである可能性もあります。
もしそうであったら、ぜひご一報ください。
賠償はいたしかねますが、謝罪はいたします。


■ その1

英国旗を揚げていながら清国兵を搬送していた高陞号
東郷平八郎艦長の「浪速」が交渉決裂のあと撃沈させた事件。

戦闘の火ぶたを切る合図と同時に轟音。
次のシーンは清国兵たちの記念写真があたかも彼らの死を悼むように映し出される。
(清国軍に、日本海軍のような団体写真を撮る習慣があったかどうかは謎)

若い辮髪の兵士たちは皆さわやかに微笑んでいて、とても当時の中国人とは思えない(笑)
その写真にナレーターはこう被せる。

「イギリス人の船長以下数名は救出されたが、清国兵は全員溺死した」

あと、やたら何度も清国海軍の丁提督を「偉大な」と持ち上げ、その死を何度も悼んでみせる。
はっきりいってくどい。しつこい。


■ その2

正岡子規が大陸に新聞記者として派遣が決まり、喜び勇んで家に帰ってくる。
母親(原田美枝子)が

「日本はずいぶん親しかったお国と戦っておるんじゃのう」

はっとする子規。
続けて母親、唐の掛け軸、陶器、そして漢字の偉大さを称え、
「(漢学者の祖父が言うには)夢のようなお国じゃということじゃった」
と遠い目をする。

それまでの気持ちがしぼみ、悄然となる子規。
てか、息子が喜んでるのにわざわざ水差すなよ。母親。


■ その3

戦闘でかわいがっていた部下を失くした秋山真之
そのショックがいつまでも尾を引いている。
兵学校先輩の広瀬武夫に向かって


「戦(いくさ)は・・・・恐ろしい」
「さっきまで隣におったやつが一瞬にして死んでしまう」

さらには

「わしは、やっぱり軍人に向いとらん」
「わしがあの時命令を出さんかったらあいつは死なずに済んだ」


とまで言う。
(これ、秋山真之本人が聴いたらさぞ怒るだろうなあ(笑)

秋山、これに懲りず、子規と妹のリツに向かっても同じ話をし、
戦争の恐ろしさを彼らに訴えてみせる。



(まあ、本人を知っているわけではないから断言はしませんが、
当時の軍人はたとえ内心どう思っていても、ましてや同じ軍人に向かって
「向いとらん」だの「恐ろしい」だのとはまず言わんのではないかと)



■ その4

従軍で大陸に渡った正岡子規。
駐留している村で、日本兵が中国の村人から略奪しているのを目撃する。

村人が皆怯え、あるいは睨むように日本軍を見ている中、
年老いた中国人が中国語で日本兵に向かって

「わしらの村にはもうなにもなくなった。
どうやってわしらは生きていけばいいんだ。
(幼児を指して)この子の親はおまえらに殺された。
いまにこの子が大きくなって仇を取る」

というようなことを叫ぶ。
日本軍の曹長は子規が

「この老人は何を言っているのか」

と尋ねるのに対し

「日本の兵隊さんありがとうと言うとるんじゃ!」

と居丈高にうそぶく。
子規は、そんなはずはないと食い下がるが、逆に曹長から
(森元レオ)罵詈雑言を浴びる。



■ その5

そんな子規を救うのが軍医、森林太郎、鴎外
二人は文学の話で意気投合する。
(ちなみにこんな史実はありません)

「今回の戦争の戦死者のほとんどは病気だ。たとえば脚気・・・」

と、森鴎外をディスってみせる。
(脚気に関しては森は軍医としてその蔓延の責任を後年問われている)

母親や曹長のセリフによって戦争を疑問に思い始めた子規は、鴎外に尋ねる。
鴎外は

「勝った日本軍の誰それが、清国に
『日本の文明開化と明治維新を手本に戦後の復興をせよ』
と手紙を書いたらしい。
不思議な親切、というやつだ」

という。さらに、朝鮮についても

「その不思議な親切は朝鮮にも向けられてる。
朝鮮の人々にとっては(併合は)余計なお世話だろう」

などと朝鮮人の立場に立って嘆いてみせる。
いきなり鴎外が朝鮮の人々の心情を代弁するのも、
はっきりいって余計なお世話というしかない。

というか、仮にも軍医が戦場でこんな反政府的なことを言いますかね。
ちょっとは常識で考えろよNHK!
そりゃ単にあんたがたの考えだろうが(゜Д゜)、ペッ!!



■ その6


閔妃暗殺についての見逃せない(悪質な)表現。
ナレーターはシリアスな音楽に乗せてこう言葉を継ぐ。

「王妃、閔妃が三浦日本公使三浦梧楼率いる日本人に暗殺されたのである」

さらにこれを「ありうべからざる事故」とする。




いや、ひどいですね。

どれもこれも、「現代の価値観」から創作した、ちょっとしたエピソードなのですが、
ちゃんとしたドラマの間にこういうのをちょいちょい混ぜてくる、これがタチが悪い。

とくに閔妃暗殺について、これを「日本人が犯人」とするのは問題ありです。
まるで日本の放送局の視点で作られたとは思えません。

最後に少しこの事件についてお話ししておきましょう。



現在の韓国は閔妃を「皇后」と称しますがこれは大間違いで、「王妃」です。
李氏朝鮮国王の高宗の妻ではありますが、高宗はそもそも皇帝ではないので。


いきなり結論を言うと、やったのはなんのことはない国王である高宗。

「王妃を殺したのは、私の部下だ」

と自分で証言しているんですね。
また、現場にいた王子の純宗は、

「殺したのは、禹範善だ」

と証言し、後に刺客を放ってこの禹範善を暗殺しています。
犯人とされる兎自身が、「自分の犯行である」と言ったという証言まであるのです。

なんで殺しちゃったかな、命令しといて、って話ですね。


この事件にかかわった何人かは、命令をしたとされる高宗によって訴追され、
犯人ならびにその家族に至るまで全員が処刑されました。


その反面、当時も疑いを掛けられていた日本は国際世論の非難を恐れ、
本件事件に関与したといわれる人物を逮捕・拘留し、調査しましたが、関与は確認されませんでした。
つまり、この時点で日本すでにシロ、無罪だったのです。

それにしても、この事件、ダンナが奥さんを殺したんですよね?部下を使って。
夫が命じて、自分の部屋から奥さんを連れて行かせ、凌辱させて殺したと。
そして、その部下に罪を負わせて家族まで殺してしまったと。

うーん、これは酷い。



じゃなんでこんなことになったのか。

そもそも夫の高宗は閔妃を結婚当初から放置してやりたい放題放蕩し放題。
放置されていた閔妃は「自分探し」のために(たぶん)政治にのめりこみます。
彼女は夫の一族を追放して、自分の一族をポストに据え、
(今でも韓国ではしょっちゅう大統領関係でそんな話がありますが)
実権を握るようになったわけです。

(ロシアのエカテリーナ二世と全く同じパターンですが、エカテリーナと違って
閔妃は夫を始末してしまわなかったので、これが結局自分の命を奪います)

閔妃は、「頭はいいがとても国を統べる能力などなかった」と言われ、
ましてや人望も全くありませんでした。
日本から軍事顧問を呼び、日本式の近代軍隊を作ったのはいいとして、
いままでの軍を放置してこちらに全く歳費を回さなかったため、まずこの旧軍軍人に恨まれ、
その開化政策にも不満を持った彼らに暗殺されそこなっています。

閔妃はまた贅沢好きで、その資金のために日本が出費していた鉄道の利権を
勝手にロシアに売却して問題になったこともあります。
日本はこのあと、巨費を投じて権益を買い戻すことになりました。

そのほかにも自分の地位を利用してただ私腹を肥やすことに執心したため、
敵対勢力からは勿論、民衆からも憎まれていました。
朝鮮はこの頃、この敵対派と閔妃一族、真っ二つに分かれていたのです。

閔妃を殺害したのは要するにこの「敵側」であったということです。

つまり最初から最後まで全く日本関係ないじゃん!
ってことなのですが、どっこいそうはいきません(笑)

この、皆に嫌われていた贅沢王妃の閔妃をわざわざ「国母」と崇め、日本人が殺したとし、
(日本版ウィキは編集合戦になっている)
それを反日のための「核心的逸話」として初等教育にまで使っている国があるのです。

はい、韓国という国ですね。


というわけで、いまだに何かにつけて「韓国推し」をして視聴者から
「いったいどこの国の放送局だ」
と糾弾されているところのNHKが、国民に注目度の高かったドラマ「坂の上の雲」
において「日本人が殺した」と韓国の言い分を主張するのは何の不思議もないと。

いったいどこの国の放送局だ。


しかし、これ本当に日本人だったとして、その目的は何だってことになってるんでしょう。
これ、韓国はどう説明しているんでしょうね。
まあ、日本を糾弾するに「理屈」も「根拠」も必要としない国ですから、
「なぜ」という問いに答えなどないのかもしれませんが。


このドラマにおいても「ありうべからざる事件」とかいっているわりに、
NHKは日本がなぜ閔妃を殺さなければならなかったかには触れていません。

しいて言えば、その前後で遼東半島を日清戦争の勝利で得たのに、
三国干渉によって手放さなくてはいけなくなった日本が、それゆえ
ロシアの南下を防ぐ意味もあって朝鮮半島に手を伸ばした、という
ことを述べて事件と関連付けるような印象操作をしています。



この閔妃殺害は、非常に惨たらしいものであったと言われ、
その遺体が辱めを受けていたのが日本人に対する韓国人の憎悪を
いっそうかきたてているようです。

しかし、この事件の前、先ほども述べた王妃暗殺未遂事件、
つまり旧軍によって起こされた壬午軍乱で、
閔妃は自分が逃亡するときに、身代わりとして王宮に侍女を残したのですが、
この侍女は気の毒にも朝鮮人の手によって、
まさに閔妃と同じような残虐な方法で殺されているのです。


控えめに言いますが、女性に対してこの種の残虐な殺戮をやってのけるのは
少なくとも一般的な日本人ではないように思われます。

南京で日本兵のものとされている殺害方法を見ても思うのですが、「感覚が違う」のです。


さて。

一言で言うと閔妃殺害は朝鮮内の権力闘争の結末であったにすぎませんでした。

しかし、ただでさえ歴史を自分たちの望む方向に創造する傾向のあるこの民族、
日本との歴史会議において、日本側の学者が提出した詳細な歴史資料を投げ出し、
「韓国に対する愛はないのか!」と叫んだ民族が、
この閔妃暗殺に関する現実を素直に受け入れることはありえない気がします。



「韓国、韓国!」

と某ニュースのスタジオでマイクが拾ったあの声が象徴するように、
「中国、韓国への気配りと配慮」だけはいたるところになされる現在のNHK、
日本を貶めるためなら平気で当事者の証言さえ改竄、歪曲するこの「公共放送」にかかっては、
「坂の上の雲」のような、おそらくほとんどのスタッフが志をもって作っているドラマに
こういったことを巧みにねじ込んでくるなど朝飯前なのでしょう。


そういえば、中国への配慮も抜かりなく、この局は、クローズアップ現代という番組で
かつて天安門事件の死者は一人もいなかった、と言ってのけています。



「坂の上の雲」はトータルで見ると素晴らしいと思います。
観ていて引きこまれるドラマ作り、丁寧なプロット、お金をかけたセット。
題材が「日本海海戦の日本軍の勝利」で、司馬遼太郎という巨人の原作であるため、
なによりも物語の骨子は文句のつけようのもありません。
何よりもキャスティングが良く、さらに映像的時代考証もきちんとなされている。


それだけに、こういった胡乱な創作がわたしには許しがたいものに思えるのです。






淡々と写真を貼るシリーズ~シャングリラホテル東京

2013-05-04 | お出かけ

東京駅前が見る見るうちに再開発され、新しくなっていっています。
新駅舎ができ、今まで「格調高い丸の内側、庶民的な八重洲側」だったのが
日に日に様変わりしていっているのです。

郵便局だったビルは「KITTE」(キッテ)という商業ビルに変わり、
東京駅近くで何か食べようと思ったら無尽蔵に候補が上がるほど、
このあたりは飲食店が多く、さらに今現在もいくつかのビルが建築中。

いったいこのあたりはどうなってしまうのか、とつい思ってしまうほどです。

そんな東京駅のビルの中に、シャングリラ・ホテルがあります。
お正月の旅行で訪れて、台南のシャングリラのレベルの高さに
感心したのですが、東京のシャングリラには行ったことがありませんでした。

先日、TOがどなたかの紹介によって宿泊費が半額になることになったので、
一泊してきました。




インテリアはオリエンタルモダンですが、いたるところがこのように
「キラキラしたもの」で飾られています。
半世紀くらい前のサイケデリック全盛のころの「ミラーボール」のように
このシャンデリア始め、エレベーターの手すりまでがキラキラです。



この右側がクラブハウス。
月当たりが部屋です。



チェックインはこのクラブラウンジで行いました。
ご厚意によりクラブラウンジを手配していただいたのです。
奥のテーブルにはちょっとしたリフレッシュメントが置いてあり、
小さな菓子や果物をつまむことができます。
勿論お酒も飲み物もここで飲むのなら無料。



部屋は天井が意外なくらい高く、廊下の雰囲気より明るくさわやか。



このベッドサイドデスクの引き出しの取っ手が皮。
リボンのように見えるこのデザインがお洒落です。



部屋から下を眺めたところ。
これは八重洲側のですが、モダンなビルの合間に
昔のままの「雑居ビル」という感じの古いビルが雑然と立っています。
こんなビルもほどなく消え、すべてが建て替えられるのかもしれません。



驚いたのが女性向けのアメニティセット。
このようなバニティケースに、化粧品やコットン、
ストッキングまでセットされていて、すべて持って帰れます。

女性用なのに、宿泊客の人数分用意されていました。

「これ、持って帰ってもいいの?」
「心配なら聞いてみたら?」

一応聞いてみましたが、全部お持ちくださって結構ですとのこと。

わーい、と喜んで全部トランクに詰めましたが、良く考えると
こんなもの三つも持って帰る必要あったかしら。



このホテルの20階(くらい)から下を見ると、
東京駅がこんな風に見えます。
丁度新幹線がホームに停車している状態、



線路越しに丸の内側を望む。
左が丸ビル。右が新丸ビルです。




新しくなった東京駅舎。
本当に美しくて、ため息が出ます。
この駅舎にある「東京駅ホテル」に泊まるのが今の目標。



食事は同ホテル内のイタリアンレストランに行きました。
マネージャーはフランス人で、日、仏、英が堪能です。
最初に通された席があまり良くなかったので言うと、
マネージャーの権限で一番いい席に変えてくれました。



こういうところで
「自分は特別の客として扱われている」
と客に思わせるのが、早い話マネージャーの仕事。
いい席に変えてくれた上

「これはワタシからのプレゼントです」

と生ハムを持ってきました。



前菜のムース。



トマト、アスパラガスとグリンピース。



野菜の蒸したの。
カブが美味しかったです。



ニョッキ。
わたしが頼んだのではないので、一つもらいましたが、
「うーん」な感じのお味でした。
日本人はこのようなものを見るとどうしても「水餃子」みたいなものを想像するので、
このようなつるっとしていない食感で、分厚い皮の
もごもごした食べ物はあまり受けないと思うの。



メダイのグリル。
白身魚はどんなレストランでも「失敗」という感じで
「まずい身をソースでごまかしているの巻」
になりがちなので、わたしは極力頼まないようにしているのですが、
この時はほかに食べたいものが無かったのです。




息子の頼んだポーク。



TOのビーフ。
これも味見したくなるほどではなかったので食べませんでした。



というわけでようやくデザートのお時間。
この苺のムースは美味しくないことはなかったですが・・・。

なんだかここのお料理、全般的に盛り付けがいまいちな気が。
ムースの上に混沌といろんなものがせめぎ合っているの巻。



これは・・・・なんだっけ。
まずそう、とは言いませんが、決して美味しそうに見えないのが・・。



さらに謎の盛り付けデザート。
この何とも言えない不安な感じをさそう構図。
このチョコレートムースの形も何だか妙だし、
なぜこんな風にチョコレートを立て掛けるのかも謎です。

皆さん、これ、変ですよね?
へんだと思うの、わたしだけじゃないですよね?

さて、ご飯が終わって部屋に帰ってきました。



ミニバーの引き出しの写真を撮ってみました。
青いお酒がある!

さて、次の日、初めてのホテルなのであちらこちらを探検。
ここにはプールがあると聞き、行ってみることにしました。



思ったより長いコースのプールです。
うちはマンダリンホテルとフォーシーズン、丸ノ内ホテルが
東京でのお気に入りホテルなのですが、そのどれにも
プールが無いのが残念でした。



観ているうちに泳ぎたくなって、家族で水着を借りました。
高層階のビルを眺めながら光を浴びて泳ぐ。
都会のホテルならではで、なかなかの愉悦です。

「いいねえ」
「ここの会員になったら、いつでもプール入れるよ」
「モンダイはどれくらい来られるかだけどね」

窓の下部分にはたくさんのキャンドルが並べられ、夜にはこれに
火が灯されるらしいのですが、キャンドルライトで泳ぐのもまた
気持ちがよさそうだなあ・・・。



誰もいないのでカメラを持って入りました。
ジャグジー風呂と、隣はミストサウナ。

プールの後お風呂と楽しんで部屋に戻り、
パソコンをしながらテレビの「ディスカバリーチャンネル」を流していると、



こんな番組が始まりました。



ドイツ軍の飛行機をこれだけ落としてやったぜい!
と得意になっているイギリス空軍の(たぶん)エース。
わたしは全く知らないのですが、有名な人に違いありません。



フォッケウルフ。
これなら知ってるぞ。
しかし、本当のドイツでの読み方は「フォッケブルフ」ですよね。

日本人は外来語を読むとき、自分たちの読みやすい方を採用するので、
カールツァイスはアメリカ人のようにカールザイスにならないんですね。

それはともかく、このフォッケウルフの技術者であったクルト・タンクは、
戦後日本人技術者がそうであったように飛行機の設計を禁じられ、
国内に見切りをつけてアルゼンチンに渡り、ファン・ペロン大統領が
失脚するまでそこで働いたそうです。
クーデター後、タンクが呼んだフォッケウルフの技術者たちは
ほとんどがアメリカに渡ったようですが、タンクだけはなぜかインドに
その後の活動の場を求めたということです。

戦争に勝ったら、とりあえず敗戦国の技術力の芽をつむため、
技術者の活動を封じるというのはデフォルトだったんですね。



先日鹿屋の展示飛行機の話をしていて「テキサン」が映画で扮した飛行機の中で
このP-47サンダーボルトがあった、という話を書いたのですが、当初
エリス中尉はPとRを読み間違えてR-47などと書いてしまっていました。
そのサンダーボルトでございます。



それにしても、たまにホテルで観ると衛星チャンネルはやはり
こういうのをやっているから面白いですね。
どうして日本のテレビ局は視聴者が喜ぶこういう番組を作ったり流したり、
「観てもらおう」という努力をしないのか・・・。

最近なんか、日本人視聴者を敵視してケンカ売っている、
としか思えない番組作りをしていませんか?

単純に、そりゃ逆だろ、っていう。



わたしの好きな光景。
東京駅を新幹線が発着する様子。



北方向から臨む東京駅舎。

さて、この日はホテルをチェックアウトしてから息子と二人で
銀座に買い物に行きました。
買い物の途中で少し休憩。

マリアージュ・フルールのティールームでお茶を戴くことに。
ここは一階がショップで、二階三階がティールームになっています。

 

三階の誰もいないコーナーに座りました。
紅茶を一つ、ケーキを二つ頼もうとしたら、

「お客様おひとりにつきお飲み物を一つご注文下さい」

といわれてしまい、ジュースを頼みました。
紅茶はポットでたくさん出てくるので、それを分けられては
紅茶専門店の沽券に係わる、ってことでしょうか。違うかな。



というわけで頼んだ紅茶とケーキのセット。
マンゴーのムース味のケーキと、紅茶
「ウェディングインペリアル」。
チョコレートのような濃厚なバニラのフレーバーの紅茶です。



息子が頼んだフルーツのタルト。

昨日のホテルのケーキに比べると、味も見た目も、
こちらの方がかなり上かな、という感じがしました。


というわけで初めて泊まったシャングリラ。
確かに悪くないホテルでしたが、全体的にややツーマッチ、
という重さが若干気になりました。

でも、あのプールに入るためになら、もう一回行ってもいいかもしれません。









靖(靖)國神社とは。

2013-05-03 | 日本のこと

サブタイトルにその名称を使用しておきながら、今まで
あまり國神社について語ったことがありません。

ところでタイトルが文字化けしてますよ、という(脳内)指摘ありがとうございます。


これは環境依存文字である「靖」を出すためのコードなのですが、
本文にはご覧のように「靖」と出るこの文字が、
タイトル部分だけはコードのままで表記されてしまうのです。

お気づきいただいていないと思いますが、
これを機にサブタイトルも正式名称の通りに変えました。
(が、文字が小さくてあまり意味をなしていませんorz)




それはともかく、先日ある会合主催による靖國神社の昇殿参拝をしてきました。
皆が参拝する拝殿での参拝は今までしたことがありますが、
そこでの参拝後、奥にある本殿で参拝したのは初めてです。

この次の日、史上最高数の国会議員が春の例大祭に参拝し、
それからというものの特アと日本のご注進マスゴミはこれを非難。
先日お話しした徳永エリのように、拉致被害者家族会のコメントを捏造までして
国会で糾弾しようとする民主党議員まで湧くしまつ。

ご存知のように、中韓、そして日本のマスコミだけが大騒ぎしているわけですが、
国民はもううんざり、といった態で、むしろ冷やかにこれを見ている感があります。

それにしても、中国より「侵略されたことのない」韓国の方が激化しているのが面白い。
やっぱり組閣と経済対策で無能認定された女性大統領の「目そらし政策」ですか。




2月ごろ来たときに、大量の白バトを見ました。



木の枝で憩っているのを見たのも初めて。



このときはまだ木の枝に新芽が出ていない状態で、
まるでところどころ白い花が咲いているようでした。

この白バトは、靖國の御霊を慰めるために年一回、
8月15日に放鳩されて現在三百羽いるそうです。

ちなみにこの白いハトが生まれるのは一万羽に一羽だそうです。



さて、例大祭の前日、昇殿参拝したことについて。

現在の本殿は明治5年(1872)の建立と言いますが、その中にいると
年月の建った建物にもかかわらず、清浄でかつ厳かな祈りの気が満ち、
おのずと背筋が伸びるような気持ちがしました。

日本を守るための戦争に散った英霊のうち少なくない人数の人々が、
かつてここで祈りを捧げ、そのあと自身が祈りの対象としてそこに祀られたのでしょう。

徳永エリが「祈る気ならどこでも祈れる」などという、無教養で歴史を知らず、
おそらく靖國について何も知らないのだろうと思われる発言をしていましたが、
「どこでも祈れる」ではないのです。
靖國神社でないと、そこに英霊はいないのです。



タイトルで標榜しながら自分自身あまり知らなかった靖國神社について、
今日は少しわかりやすくお話ししてみることにします。



戦前、神社というのは国家の宗祀(そうし・尊びまつること)とされました。

靖國神社の歴史は明治2年、「東京招魂社」として始まります。

明治2年。

この年号はこの創建に大きな意味を持っています。
明治維新の歴史的大改革の過程には戦いが起こり、
その戊辰戦争において多くの尊い人命が失われました。

明治天皇は国家のために命を捧げたこれらの犠牲者の霊を慰めるために、
九段の地に「招魂社」を創建されたのでした。

この招魂社は山口や京都などにもあり、それらは「護国神社」と改称しますが、
九段の「東京招魂社」は創建後の明治十二年、

「靖國神社」

とやはり明治天皇によって改称されました。
靖國の意味は「国を靖(安)んずる」。
あくまでも世の平安を願い、国家のために一命を捧げた人々の霊を慰め、
その実績を後世に伝えることが目的です。

つまり、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められているのです。

今でこそ「宗教法人」という法的位置づけですが、創建時から靖國神社は
「宗教施設」ではありませんでした

あくまでも国民にとっては民族固有の儀式、礼典、道徳的崇敬の対象であり、
法的にも宗教行政の対象ではない公法人(私法人ではない)だったのです。

これは、「同志を祀る」という観点から陸軍の働きかけによって兵部省の管轄となりました。



そして敗戦。

ご存知のように、昭和20年の12月にはGHQの指導により、神道指令が布告され、
神社の国家管理の廃止が命じられました。
同時に宗教法人令により、ここで初めて靖國神社は宗教法人となります。

そして現在に至るのですが、ゆがんだ自虐史観が
(それもまた、GHQによる日本精神の殲滅を狙った占領政策)一部の言論の肥大を生み、
利権や民族的対立や、特定団体の思想の拠り所となった結果、
先般のように中韓に不当な干渉を許すに至っているというわけです。



神門の扉には中国人が放火し、それを韓国の司法が
「政治問題である」という判断を下したという事件がありました。
対馬からの仏像盗難を「犯罪」としなかった事案においてもそうですが、
韓国という国は「法治国家」ではなく「人知国家」であると改めて表明する事件でした。

国内においては、朝日新聞始めメディアが国会議員の参拝を取り上げては
「中国、韓国の厳しい視線が予想される」などと煽り、火を点け続けて
すっかり「靖國」を政治カードに育ててしまったという経緯があります。


しかし日本国民に責任がない話ではありません。

もし国内の靖國神社に対する認識が、これまで述べたように
「平和な国を護るために、国に命を捧げた人々を神様として祀る」というもので、
世界に対して何の疾しいものではないと特に政治家が胸を張って言明できる社会であったら、
ここまで問題はこじれることはなかったでしょう。

そして、メディアが問題を焚きつけ「ご注進報道」を繰り返すことにこそ
国民の厳しい目が向けられてしかるべきだったはずです。

つまりそのような不条理な言論を許すほど、戦後のGHQの占領政策による
自虐史観は日本人と日本を深く広く蝕んでいたということでもあります。




「靖國は宗教施設ではない」というのは戦前からの認識でありました。
しかし、「手を合わせ額づく対象」をまた神と呼ぶのならば、国難に殉じた人々は
「神になった」ということになります。

靖国に祀られている「御斉神」とは具体的にこのような御霊を言います。


戊辰戦争(ただし新政府側のみで旧幕府側除く)戦死者
明治維新(新撰組含む)殉難者
西南戦争戦死者
台湾出兵以降、大東亜戦争までの対外戦争戦死者




日本にはご存知のように自然の中に神の存在を見るという宗教観のもと、
「八百万(やおよろず)の神」がいるとされます。
貧乏神や、歌にも歌われた厠の神すらいる、という「神の国」なのです。

日本で「神」と認められる対象は次の通り。


造化神・・・・・古代、世界を創造したとされる神
  ex、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) - 至高の神
    高御産巣日神(たかみむすひのかみ) - 征服や統治の神
    神産巣日神(かみむすひのかみ) - 生産の神

自然神・・・・・自然物・自然現象、もしくは神格化された自然
  ex、天空、大地、山、海、太陽、月、星、木々、森、動物、火、水、石

人格神・・・・・擬人化、あるいは人間の人格を神格化した神
  ex、祖先、天皇、現生で功績のあった人物



人格神の中には、本居宣長(国学者)菅原道真などの学者、
豊臣秀吉、徳川家康などの施政者、権力者、
あるいは一揆を率いた指導者や、うちの先祖(笑))のように
「不当な死を迎えたものの鎮魂」から神になるというパターンがあります。

このような「人格神」の延長として「国難に殉じた人々」があり、
靖國神社の歴史はそのような神々を戴いてきた
神道の歴史の延長上にあるということなのです。


日本は戦争に敗れました。
神道をこれすべて「天皇を神として崇める絶対的な一神教」であるという
とんでもない勘違いをしていた節もある占領政府ですが、
案の定「戦死者を崇める宗教」の総本山?である、と靖國を認識する一派が
焼き払ってしまうという案を出してきました。

しかし、腐ってもアメリカは文明国でした。
GHQとマッカーサーは独断でそれを決定せず、オブザーバーに意見を求め、
占領政策に支障をきたすことのないような解決策を模索した結果
靖國は廃止せず存続させるという結論を出したのです。

そのとき、次のような経緯がありました。


GHQは、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、
内外から賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。

そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあった
ブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter)とパトリック・バーン(Patrick Byrne)
両神父に
意見を求めることになった。

ビッテル神父は

「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、

敬意を払う権利と義務があると言える。
それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、

「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」

とまで言ったという。
そして次の言葉で締め括った。

「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、
排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。
我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、
いかなる宗教を信仰するものであろうと、
国家のために死んだ者は、全て
靖国神社にその霊を祀られるようにする
ことを、進言するものである」

この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという。





中国、韓国人に今さらこのような史実を踏まえて理解できる能力など期待していませんが、
少なくとも日本人を自称しながらその成立の経緯も知らず批判している特定日本人の
徳永さんや有田さんは、このような歴史を知り、一度靖國神社に昇殿参拝して、
そのうえで何も感じるものがなければ、いかようにでも抗議なり批判なりをなさればいいと思います。







The Descendants Of Emily~二式大艇物語6

2013-05-02 | 自衛隊

前回最後のお話ししたPS-1は、対潜哨戒機という用途でありながら、
肝心のレーダーにおいて採用した手法が陳腐化していたため、
大量導入されず、そのうち技術が進歩して航空機にレーダーを装備する
ことができるようになったため、その役目をP-3Cに譲って姿を消しました。

しかし、新明和はPS-1の製造打ち切りに先立って、この機体を改良し、
救難救助艇として開発することを決めていました。

新明和は自社の飛行艇製造の歴史をつなぎとめ、
「エミリーの系譜」を後世に伝えるべく方向転換を図ったのです。

そして、その結果生み出されたのが日本初の水陸両用飛行艇、
「US-1型救難飛行艇」でした。




対潜哨戒を目的とされたPS-1との大きな違いは、
水にも陸にも降りられることでした。

救難が目的なので、陸に降りられること(医療機関へのスムーズな搬送が可能)が必須だったのです。


US-1開発に当たってはランディングが可能な脚を取り付けることが、
なんといっても大きな山となりました。
技術者は足の形状と取付け部分についての試案を数十通りも出し、
苦心の末、ランディングギアと、それを収納するバルジを開発し、
1974年には試飛行を完成させます。

そしてその努力実って1975年に防衛庁の納入をすることになったとき、
公開飛行をしたパイロットは関係者の前でエプロンを「脚を出したまま」低空飛行しました。

「皆の苦労の結晶であるこの脚を見てくれ」

と言わんばかりに。
技術者がそれを見て胸を熱くしたのはいうまでもありません。


通常の任務では、出動要請を受けたUS-1は
P-3Cなどの哨戒機とペアを組んで基地を出発、
現場で救助対象を特定すると、それをカメラで撮影し基地に送ります。
同時に目印のマーカーを海面に投下します。

US-1の利点は海上は勿論のこと、
飛行場のない離島にアクセスできること、
さらにヘリコプターよりはるかに長い航続距離
(我らがエミリーが長い航続距離で米軍を驚かせたことを思い出してください)
そしてヘリや船舶よりも圧倒的に速いことです。


US-1が防衛庁に納入された次の月の1976年には、
海上自衛隊の救難飛行艇部隊、第71航空隊が新編されました。


そして開隊からわずか2週間後、救難第一号となったのが、
右手首を切断したギリシャ船員の救助でした。

それから数えきれないほど貴重な人命の救助に、
時には自らの危険も顧みず携わってきた第71航空隊、US-1。


世界中が報道した、(しかし日本ではほとんどニュースにもならなかった)
第71航空隊救難艇のある救出劇を書いておきます。


1992年1月。71空は
「米空軍戦闘機が銚子東方海上で墜落した」
との知らせを受け、出動します。
墜落機はF-16ファイティング・ファルコン戦闘機。
現場では遭難したパイロットはパラシュートで脱出後、
ラフト(小型浮船)で漂流中でした。

パイロットは米空軍のジョン・ドラン大尉。
三沢からハワイに向け飛行中にエンジントラブルに見舞われ、
イジェクトしたものです。
ドラン大尉はまだ28歳で、子供が一人。
妻のお腹の中には当時赤ちゃんがいました。

万全の準備を整え、遭難海域に到達したクルーは、
荒れる波の合間に、わずか10分でラフトを発見しました。
スモークを投入後、US-1がバンクをしながらラフトの上を
超低空でパスすると、ラフトの中からこれに応えて
手を振っているのが見えました。

着水し、激しい動揺の中、機上救助員がボートに乗り込み、
ドラン大尉を引き上げ、機内に収容し、離水。

この間、わずか20分ジャスト。

この時のストーリーは、アメリカのエア&スペースというHPで
観ることができます。

when he was barely conscious,
Dolan saw a large, four-engine aircraft
—a ShinMaywa US-1A
bearing the Rising Sun
of the Japanese military
—slowly circling his raft.

意識ももうろうとして来たとき、
ドランは巨大な、四発エンジンの飛行艇を見た。
―日本軍の日の丸を帯びた新明和US-1Aが、
ゆっくりと旋回しながらラフトに近づいてくるのを。

“From ejection to rescue was a whole series of miracles.”
No other aircraft in the world inventory
could have gotten to him in time in the sea conditions
he was experiencing.

 「脱出から救助までは奇跡の連続だった」
あの状況下で時間内にかれを救助できたのは世界中の全ての種類の
航空機を探しても有り得なかった。


この救出に対して、US-1A9081号機のクルーに米空軍から勲章が授与され、
勲章授与式でドラン大尉と隊長の喜田秀樹三佐は固く抱き合いました。

今日に至っても彼らの交流は続いているそうです。

ちなみにこの英語サイトでは二式大艇の歴史にさかのぼり、日本の
飛行艇製作技術について詳しく述べられています。



さて、話はいきなり先日のニュースに飛びます。

政府が、海上自衛隊に配備している水陸両用の救難飛行艇
「US-2」をインドに輸出するための手続きに着手したことが
23日、分かった。
インドは日本側に救難活動や海賊対策で
US-2を導入する方針を伝えてきており、
製造元は現地事務所を設け、インド政府との交渉に入った。

US-2は機体から特殊な装甲や電波などによる
敵味方識別装置を外せば「武器」とは認定されないが、
自衛隊が運用する航空機だとして輸出はタブー視されてきた。

だが、一昨年12月の武器輸出三原則の緩和で
「平和貢献・国際協力」に合致するものであれば
「武器」も輸出を容認したことに伴い、政府はタブーを取り払い、
防衛産業の発展と防衛費の効率化を図る。

輸出にあたり、製造元の「新明和工業」(兵庫県)は
防衛省以外に納入するための
「民間転用」の手続きをとる必要がある。

インド政府は3年ほど前から日本政府に
US-2を購入したいとの意向を伝えていた。
昨年6月に海自とインド海軍が相模湾で初めて共同訓練を行った際、
海自はUS-2も投入、
インド海軍幹部は性能の高さを直接確認したという。


冒頭写真はエリス中尉が昨年参加した観艦式でのUS-2の勇姿。
このときはなぜか海面着水はしませんでしたが、別の日の訓練展示においては、
この巨体がわずか数秒で軽々と海上に浮き上がる様子に、観客の嘆声が飛んでいました。

「その気になれば不忍の池にも着水できる」

というこのUS-2、開発名称US-1改。
改、はそのまま「KAI」と読みます。
まさにその昔川西航空機が生んだ紫電「改」の改です。

この「改」造にあたって、新明和は

「離着水時の操縦性改善」
「搬送者の輸送環境の改善」
「洋上救難能力の維持向上」

という、新開発をするにも等しい苦労を重ねたそうです。

そして8年の開発期間ののち、2003年に完成したUS-2は、
世界のどこにもない性能を持つ飛行艇として、
今やあちらこちらから熱いまなざしを向けられているということです。

そして、武器輸出三原則の緩和後、初めて日本から海外に輸出される運びとなり、
その第一号がこのインドへの輸出となったわけです。


ところで先日安倍総理が戦没者慰霊のために父島を訪問しましたが、
それを報道するこのyoutube画像をぜひ見ていただきたいと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=t55z4GYhx18

http://www.nicovideo.jp/watch/sm20611477

総理はこのUS-2に乗って父島まで行きました。
冒頭着水から滑走、スロープを上って地上に上がるまで、
結構長時間にわたって観ることができます。

ニコニコ動画のアカウントをお持ちの方は下をどうぞ。
US-2のシーンでコメント欄が「二式大艇だ!」と大騒ぎになっています(笑)
この飛行艇の人気がおわかりになるでしょう。




二式大艇、エミリーがこの世に生まれておよそ70年後。

戦火の中に生まれ、戦闘のために飛んだ偉大な彼女の系譜は、
彼女を愛した技術者たちの手によって人の命を救うための救難飛行艇、
US-2に姿を変えながら、その栄光の血脈を受け継いで今日に至ります。





参考
Air & Space
http://www.airspacemag.com/military-aviation/giant_amphibian.html
新明和工業株式会社ホームページ
http://www.shinmaywa.co.jp/guide/us2_history05.htm
帰ってきた二式大艇 碇義朗 光人社
産経新聞ニュース