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記念艦「三笠」見学ふたたび

2013-05-11 | 海軍

米海軍スプリングフェスタと軍港めぐりツアー、そして海軍カレー。

横須賀に一日遊んでしつこくしつこくこれらについてご報告してきましたが、
実はもう一つ、三笠公園の記念観「三笠」の見学もしたエリス中尉です。

あれはまさに震災前日の2011年3月10日。
初めての三笠公園探訪をし、三笠見学をしましたが、その頃、
NHKの「坂の上の雲」は、前半が終了し、後半を制作中という時期。

すでにその日も平日の昼間でありながら中高年の見学者が多く、
「これも坂の上の雲効果か」と思ったものですが、
記念艦三笠を管理する横須賀市と三笠保存会は、
これからさらに増えるであろう三笠の見学者のために、
はりきって三笠の改装を行っていました。

 

ブルーシートで覆われていた部分は勿論、甲板のほとんどを見ることはできませんでした。
この翌日震災が起こったので、おそらく工事はしばらく中止になったのでしょうが、
あれから2年。
すっかりリニューアルした三笠を、この日、もちろん初めてのTOと見てきました。



このような年齢層の方々がこの日もたくさん。
やはり米軍フェスタを覗いたついでという感じでした。

しかし、この年代の人たちってこういう場所に入るとき
「我先に」って感じで人を押しのけていくことが多いですね。
一人に譲ったからといって大した問題でもありますまいに、
なぜ先を急ぐ。

・・・・・・・・・・先が短いから?



舷門から階段を上がる前に、このような案内図を渡されます。
希望者には音声ガイダンスが貸してもらえます。



前回は先ほどの階段を上がったとたん、通行止めで、
勿論このような景色を見るのは初めて。

人が歩いている部分が上甲板です。
甲板の定義とは

「艦船内を上下数階に分かちたる各階の言い方」

この部分は上甲板(upper deck)のさらに上にある甲板なので

「最上甲板」(flying deck)

という部分ですね。



おそらく建造当時から全く変えられることが無かった部分。
上甲板の隅です。
何度もペンキを塗り重ねられて金属の境目もはっきりしなくなっています。



煙突。
以前一度三笠が退役してからの歴史についてお話ししましたが、
戦後、連合軍が進駐し三笠はソ連からの廃棄要求を受け、それを逃れたものの
その後、存続の条件として上部構造物を取り払われ、水族館とダンスホールが建てられます。

http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/kouhai.html

記念艦三笠HPより、戦後の興廃。

ですから、ここに見える煙突などの構造物はすべて戦後造られたレプリカ。
戦争に負けるということは、ある意味「過去の歴史をも奪われる」ことかもしれません。



勿論戦艦「三笠」の主砲の上にはこんなテント状の屋根はありません。
映画「海ゆかば 日本海海戦」ではこのアングルから、日本海海戦前
伊地知艦長が将兵に向かって

「わしも死ぬから諸子の命をくれ」

というようなことを訓示し、皆が万歳をするシーンが撮られました。

そのころはこのテントは無かったようです。
もっともあったとしても撮影のために撤去していたでしょう。



そこで疑問が。

上部構造物がすべて取り払われていたのなら、当然このようなものも
どこかに霧散していたのだと思うのですが、それではこれは
いったいどこから来たものなのでしょうか。

もしほかの艦の機材を使ったのなら、説明があるべきですが・・・。



黄海海戦は日清戦争にもありましたが、これは日露戦争のです。
ロシア側は宗室艦多数でしたが、日本側は沈没艦無し。

しかし雌雄が決される直前に三笠に直撃弾があり、5人が戦死しました。
これは後部最上甲板艦尾側です。

三笠が最初に記念艦になったのは大正15年のことです。
このプレートは他の構造物に比較すると古く、
どうもその頃からあったものではないかと思われます。

ことがことだからか、日本語の小さなプレートの存在を誰も気にしなかったのか、
ダンスホールが建てられたときにも手つかずでここにあったのかもしれません。




これも最上甲板。
艦橋部分に人だかりがあるのがお分かりでしょうか。



これなんか、今回の改装で新しくなった部分!って感じですね。
どの程度史実通りに艦内を口承し再現しているのかはわかりませんが、
一つ言えることはこうやって新たに付け加えれば加えるほど、
三笠とは「全く別の博物館」になっていくという気が・・・。

最も、連合軍によってズタズタにされてしまったり、上部構造部分の鉄が
アヤシイルートで捌かれてしまった時点で、もう全く「別のもの」になってしまったので、
今さら、という気もしないでもありませんが。



艦尾側の軍艦旗。
これを毎日掲揚降納しているかどうかはわかりませんでした。

おそらくしていないんじゃないかなあ、と思ったのは、
この軍艦旗がご覧のようにボロボロだから。
記念艦だから、しょせん「ムード」なんですよね。
それはわかりますが、海賊船じゃないんだからこのような破れ旗は
三笠乗組員の将兵の霊に対して少し失礼ではないか、と苦言を呈してみる。

それにしても、三笠の向こうのマンション、すごいですね。
毎日三笠を、いやこの軍艦旗を観ながら生活しているのか。ここの人たちは。

九条信者や特定日本人の皆さんはこれが「お札」みたいなものですから、
ここには決して住めませんね!

 

羅針儀。(と覗き込むおじさん)
羅針義は前部最上甲板にもありました。
これらもどこから調達してきたのでしょうか。



最上後甲板にあるマスト・・・・なんですが、わたしのいる部分からこのマストは
ぎりぎり手を伸ばしてやっと触れることができるところに立っています。

おそらく昔はこの場所からではなくこの階段下の上甲板から
マストに上っていったのだと思われますが、ラッタルをご覧ください。
人がこれに飛びついて登らないように、針金がぐるぐる巻いてあります。

これ・・・・たとえ針金がなかったとしても、柵を乗り越えてこのマストに取り付くのは
よっぽど身軽でないと至難の業だと思うのですが・・・・いたのでしょうか。
過去、ここからマストに上った「お猿さん」が。

そこまでいかずとも手を伸ばしてマストに指でお絵かきしようとした跡が無数に・・・。



ここに立ってマストを見上げてみました。
すでに金属が腐食して穴が開いています。

因みにこの後部マストは日露戦争のときに被弾し、
(おそらくプレートに書かれた死者が出たときの直撃弾で)消失したそうです。



金属に穴、といえば(笑)

艦内には当時は無かったゆかりのものが展示されていますが、これ。
まるで花弁のように開いた穴がたくさんあいた模様の灯篭。

日本海海戦で被弾し、射抜かれた三笠の艦材を使用して、
なんと雪見灯籠を作ってしまいました。
風流だのお・・・・。

呉鎮守府から、伊藤博文公に贈呈され、その後伊藤家から
また三笠に返還されました。

このほか、三笠の廃材を使って「三笠刀」なども作られています。
三笠刀についてはまたいずれ。




観ての通り機械水雷。
機械水雷、つまり機雷です。
このころの嫌いですから当然触発機雷だったのだと思います。
ロシアは当時機雷の研究に力を入れており、19世紀末にはもう実用化しています。
このロシアの敷設した機雷で、日本の「初瀬」「八島」が撃沈されました。

因みにこの機雷を敷設する掃海艇が史上初めて使用されたのは、
近代的な機雷戦が行われるようになったこの日露戦争からです。

ごんべが種まきゃカラスがほじくる。
ロシアが機雷撒きゃ掃海艇が始末。

というわけで、日本海軍は艦載艇や大型ランチに係維掃海具を搭載し、
ロシア海軍が敷設した機雷を掃海したということです。



日本海軍の掃海艇。
(日露戦争当時のものではないそうですが)
それまでも機雷掃海は行われていましたが、専用の掃海艇ではなく
掃海具を普通の艦船に必要に応じて搭載していました。

掃海を目的とした専用の掃海艇が作られたのは、大正12年のことです。





来年、米海軍スプリングフェスタに行こうと思っている方はご参考になさってください。

記念艦三笠の前にある広場にはこのように、コーンパイルで順路がつくられており、
数キロにわたって並んでここまで進んできてここでまた延々と往ったり来たり。
ちなみにこの写真を撮ったときには、われわれは1時間半並んで基地に入り、
1時間滞在して出てきて三笠に入ったときですから、昼の1時ごろ。

帰っていく人がこんなにいる一方、これから入ろうという人がこんなにいるという。



今回の三笠見学では、前に見学した2年前に比べると驚異的にわたし自身
海軍とその歴史に対する知識が増えていたため(当社比)、
前には気付かなかった、あるいは興味もなくただ見て終わった部分が
今回は興味を惹くということがいくつかありました。

海軍記念日は5月27日。

今年の日本海海戦108周年記念企画として、今日から27日まで、
集中して日本海海戦にまつわる記事をお届けします。

どうぞお楽しみに。