ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

The Descendants Of Emily~二式大艇物語5

2013-05-01 | 自衛隊

皆さんは水上艇という乗り物に乗ったことがありますか?

エリス中尉は一度だけ、モルジブに旅行に行ったときに経験があります。
この国は1200もの島や環礁から成り立っている国で、
人が住んでいる島はこのうちたった200程度。
メインランドの首都のある「マレ」という島まで国際線で行った後は、
滞在する島に行くのに小さな水上艇に乗らなくてはならなかったのです。

「えー、やだなあ、怖い」

それを知ったときこのように言い、かつ不安を感じつつ乗り込んだのですが、
乗り込む前に飛行艇会社の人に「事故はないの?」と聞いてみたところ
「事故は絶対にない。起こったことが無い」と胸を張って言うのです。

本当に一度もないのか?

と、ついそのことについては疑わずにはいられませんでしたが、
言われてみると水上艇は、何かあったとしても降りるのが水上ですから、
地上に墜落するよりまだましかもしれないと言う気がしました。

このことについて、新明和の製作した水上艇PS-1の操縦士もこう言っています。

「他の陸上飛行機と違い、何かトラブルがあったときには
海上に着水すればいいので安心して操縦ができる」

なるほど。
制御不能になって墜落すれば海面も鉄板の硬さになり、生存はほぼ絶望的、
という話も聴いたことがあるけど、まあいいや。




飛行艇はいまでこそモルジブの島民がバス代わりに使う気軽な乗り物ですが、
しかしながら黎明期の水上艇には様々な苦労が伴いました。
その問題の最たるものが水上での安定性です。

我らがエミリーこと二式大艇は、関係各位の研鑽努力によって
この点をかなり払拭してはいましたが、いわば二式の後塵を押す形の米海軍飛行艇、
たとえば、戦後海上自衛隊に飛行艇隊ができることになった際、
米軍から自衛隊に供与されたグラマンのJRF-5のごときは、
離水のときにエンジンを全開にしただけで猛烈な飛沫を上げるため、

「まるで潜水艦だ」

と揶揄されていたほどでした。

現在、水上艇を軍で採用しており、また現行で作っているのは
海上自衛隊制作協力『US-2』というDVDによると世界ではほぼ日本のみ。
(ロシアとカナダも一応作っているらしいという情報を読者からいただきましたが)
また外洋救難飛行艇部隊(第71航空隊)を持つのは世界で日本国自衛隊だけです。




戦後、川西航空機と海上自衛隊はあくまでも飛行艇にこだわり、
PS-1救難艇US-1、そして現在のUS-2につながる
名作水上艇を生み出してきました。

海洋国家日本にとって、機動性と航続力を生かすという点において、
飛行艇の利用価値は非常に大きい、と考えているからです。

確かに戦時中、飛行艇の損害は大きく、それに伴う戦果という面では
決して有効であったとは言えませんでしたが、
それはは「使い方の誤りによるもの」であるというのが関係者の見解でした。


新明和工業の試験パイロットとなった、元海自の小金貢は、
かつて乙種飛行予科練出身で、実戦経験もあるベテランでしたが、
あるとき、PS-1での消火テスト(運んだ海水を炎上させた小屋に掛けて消し止める)
で見せた腕を「見事なものですな」を褒められたとき、

「実戦(戦争)では攻撃目標にされるが、それがないので、
命中させることだけに精神を集中すればいいから」

と言ったそうです。
平時の運用でありさえすれば二式飛行艇も、
その性能を最大限に有効活用できたということでしょう。

余談ですが、小金パイロットは、ともすれば自慢や武勇伝になりがちな
旧軍時代の話を滅多にすることはない控えめな性格の人間で、このときもそういった直後
「つい戦争中の話をしてしまって・・・」と恥ずかしそうに付け加えたそうです。


そしてその言葉通り、平和の世ならでこそ活用できる飛行艇の姿を追い求め、
川西航空機、改め新明和工業は戦後その第一線を走ってきました。

しかし、終戦直後からその道が平坦だったわけではありません。



戦後日本を支配したGHQは、戦争中苦しめられた日本の技術力、
ことに航空技術を何よりも怖れ、警戒し、その分野が復活することを
「航空機製造禁止令」によってサンフランシスコ講和条約まで阻止していました。
しかしこれは日本だけではなく、ドイツもまた航空産業において
日本と同じような状態に置かれていました。


そこで川西航空機は仕方なく雑用のような民需の仕事で糊口をしのいでいました。
飛行機に使うアルミで米櫃や衣装箱、アルミのチューブで煙草のキセル・・。
給食用の芋の粉で「あられ」を作ることもしたそうです。
まさにそれは忍従の日々でした。

(しかしこのころの『何でもやった』時期の経験とノウハウをもって民需転換がうまくいき、
今では天突きダンプ、じん芥車、水中ポンプ、機械式駐車場、理美容機器と、
航空機以外にもユニーク且つ多彩な製品を持つメーカーとして評価されています)


川西航空機が敗戦の低迷から抜け出したきっかけは
他の企業に同じく、朝鮮戦争の勃発により起こった特需でした。

この特需の中で、川西には飛行機そのものではありませんが、
ロケットフィンやジュラルミンの増槽、照明弾ケース、
そのような「航空機回り」の仕事が入ってくるようになります。

そして昭和27年、待ち望んでいたサンフランシスコ対日講和条約が締結。

川西興業(当時)は、海自のヘリのオーバーホールの仕事を手始めに、
航空機分野に再び大きく舵を切ります。
そして二式大艇の生みの親、菊原静男が計画を防衛庁に持ちかけ、
戦後初めての国産飛行艇の製造に乗り出したのでした。



ところで、戦後、戦勝国の権利として接収した二式大艇、エミリーをテストをし、
その高性能に感嘆していたアメリカ海軍ですが、その後の開発にこの試験結果を
つなげることができなかったらしく、飛行艇の開発には相変わらず行き詰っていました。
そこで飛行機作りを再び始めた川西に協力要請の連絡を取ってきたのです。

阿吽の呼吸、ツーと言えばカー、打てば響くといった調子でことは進み、
川西はまず、米国グラマン、マーチン社の飛行機を開発改良する仕事を請け負います。

そして川西自身も同時に、そのときの改良でアメリカに提案した波消し装置を付けた、
実験機UF-SXの製造に踏み出しました。


この実験機の進捗状態ははかばかしくなく、製作には非常に難航しました。
このとき、完成を試験飛行に「何が何でも」間に合わせるため、
当時の製作所長は機体の垂直尾翼の上にZ旗を掲げさせました。

「もう、後が無い」を意味する、帝国海軍の旗旒信号です。

 

現在かがみはら航空宇宙科学博物館に展示されているUF-SX

完成後の1962年から1966年までの4年に渡り、
データを取るために実験と調査を行いました。

この試作機のためには、アメリカから「たたき台」にするために
HU-16C/UF-1 アルバトロスが供与されています。

アルバトロス

このときに得られたデータをもとに、新明和は続いて防衛庁より
対潜哨戒機PX-Sの発注を受けることになります。

「3メートルの荒波でも着水できる飛行艇」

というのが開発に与えられた目的でした。

データによって期待される性能は、まず短距離離着水の実現。
プロペラ後流をフラップに沿って下向きに曲げ、かつフラップ背面から高圧の空気を吹き出して
高い揚力を発生させます。

そして、低速時の操縦安定性の確保。
わが国で初めてのコンピューターによる自動飛行安定装置を搭載しています。
また、離着水の飛沫を緩和する溝型波消装置は世界的に注目されました。
(これも昔ながらに『カツオブシ』と呼称されました)



このPX-Sというのは試作機としての名前で、
制式になったときにはPX-1と命名されました。

現在閲覧できる新明和工業のホームページでは、
このPX-1(PS-1)の開発についての歴史が見られます。


しかし・・・。

このPS-1が制式になった1970年から84年までの間に、
23機製作されたうちの6機が事故で失われ、さらに
多数の搭乗員が犠牲になったことについてはHPでは全く述べられていません。

碇義朗著「帰ってきた二式大艇」には、
1981年、岩国基地で起きた失速による墜落事故
(ウィキにはこの事故は海中に墜落とされているが、ここでは地上に墜落大破)
と、この事故のときに訓練の僚機を務めていたPS-1が翌年に海に墜落した、
という因縁めいた事故だけが取り上げられています。

この事故以来、PS-1は欠陥機ではないかと噂が立ち、国会でも話題になりました。
この後発の事故では12名全員が死亡しており、二事故の死者数だけでも23名に上ります。

しかもこの事故以前に、PS-1には4件もの事故が起こっているのです。
その中でも最も被害が大きかった1978年の事故は、これもウィキによると13名が死亡しており、
合算するとこれだけで36名。
「帰ってきた二式大艇」の記述によると、総死者数はさらに一名増えて37名です。


(ウィキペディアの「PS-1」のページによると死亡者数は30名となっていますが、
これはおそらく間違いでしょう。
30名であったところでそれが衝撃的な数には違いないのですが・・)


哨戒用として海自に採用されたPS-1ですが、残念ながら日本の電子分野は当時遅れていて、
(戦時中もレーダーが開発できなかったことが最大の敗因だったように)
潜水艦の哨戒のためにその都度着水して、ソナーを海中に垂らしていました。
これをディッピング方式といいますが、すでに世界的には時代遅れの手法というやつでした。



かたやこのころ、すでに米軍はロッキードの最新鋭機P-3Cで、
ソノブイを空中から投下し、無線で情報収集を行う極めて効率の良い方法で
対潜哨戒を行っていました。

日本にもこのとき一応ソノブイ式の発案はあったのですが、
いちいちブイを捨ててはもったいないということでこの方法になったのです。
日本の誇るべき美しい言葉、MOTTAINAI
だがしかしこんな場合に使うのもいかがなものかと思うがどうか。

しかし、当時の日本にとっては「本当にもったいなかった」のだから仕方ありません。
要するに貧乏だったんですね(T_T)



さて、このPS-1については、実際に操縦をしたパイロットたちの話によると、
10人中9人が

「操縦しにくかった」
「難しい機だった」
「スティックが斜めになっていてもまっすぐ行くので不思議だった」
「過激な着水をするので恐ろしい飛行機だと思った」


まさに二式大艇が「走り出す前にヒヒーンと鳴いて立ち上がる」
などと当時のパイロットたちにじゃじゃ馬扱いされていたことを思い出させる
コメントを残しています。

しかし、その難しい二式大艇に乗ったことを乗員が誇りにしていたように、
この「戦後のじゃじゃ馬」であったPS-1に挑んだことについても、
パイロットたちは誰も後悔しないどころか、心から誇りにしていたようです。
曰く、

「PS-1を操縦するとほかの機がいかに簡単かがわかる」
「着水できず、お前なんか帰れと言われたとき、こんな難しい飛行機なんか嫌いだと思った。
しかし自分が一生懸命やれば素直に答えてくれる。今では大好きな飛行機だ」
「ブイにつないで波の音を聴きながら寝たり、海面を泳ぐイルカを追いかけたり。
他の飛行機にはできないことがある」


そして第31航空隊(岩国のPS-1部隊)最後の航空司令、小林秀樹一佐は、
PS-1の生産が終わって行われた解隊式典においてこのような言葉を残しています。


「第三十一航空隊は昭和の一時代を担っただけでなく、
海上自衛隊がその叡智を尽くして築いてきたロマンあふれる部隊だった」


さて。

哨戒能力が時代に合わず、対潜哨戒の主流から潰えたPS-1ですが、
機体そのものは改良を重ね、順調に多用途飛行艇として実績を積みました。

実験機のUF-SXのところからいわば枝分かれして、
救難の分野に大活躍したUS-1について、次回はお話ししましょう。






参考:帰ってきた二式大艇 碇義朗著 光人社
    新明和工業株式会社ホームページ
    http://www.shinmaywa.co.jp/guide/us2_history03.htm
    かがみはら航空宇宙科学博物館ホームページ
    http://www.city.kakamigahara.lg.jp/museum/124/000814.html
    炎の翼二式大艇に生きる 丸編集部 光人社
    「US-2」 海上自衛隊第71航空隊~世界で唯一の外洋救難艇