ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海上自衛隊東京音楽隊第48回定例演奏会 前半の部

2013-09-15 | 自衛隊

「一度ちゃんとした海自音楽隊の演奏をコンサートホールで聴いてみたいものだ」

と思っておりましたが、早くもその機会が訪れ、冗談抜きで天にも昇る心地で
東京音楽隊の定例演奏会に参加してきたエリス中尉です。
いつもであれば、どうやってこのようなプラチナチケットを、しかも最近、
専属歌手や専属ピアニストの採用によって一般にも非常に関心の高い
東京音楽隊のコンサートチケットをどうやって手に入れたのか、
繰り返しますがいつもであれば嬉々としてここにご報告(ついでに自慢)してしまうところですが、
今回はいろいろと配慮すべき面がございまして、そのあたりはさっくりと割愛いたします。

ただ、このコンサート鑑賞実現に対しご高配賜った関係者の方には感謝してもしたりないほど、
素晴らしい一夜となったことに対し、せめてこのブログで海自音楽隊の素晴らしさを
喧伝させていただくことでせめてものお礼に代えさせていただきたいと存じます。


 

さて。

2013年9月14日、すみだトリフォニーホール。



開場は一時間前。

わたしは万が一のことがあってはと早めに現地に到着しました。

手配していただいたのは「招待券」でしたので、窓口で何の苦も無く
座席指定券と交換していただけましたが、一般応募の方は
当日窓口で座席指定券と交換ということをするシステムのようです。

実は、このコンサートには息子を二人分の席を用意していただいていました。

人数が少ないため高等部のミュージカルに応援のためにチェロ演奏で駆り出されて、
最近より一層音楽好きになった息子は、非常にこのコンサートを楽しみにしていたのですが、
当日に急にそのミュージカルの練習が入ってしまったのです。
本人も泣く泣くあきらめ。結局わたし一人の参加となりました。

兼ねてからお世話になっていて、歌手の三宅由佳莉三曹にも興味をお持ちの方を
ぎりぎりになってお誘いしてみたのですが、さすがにぎりぎりすぎて
(会場に向かう車からメール)「今東京にいないので無理」との返事。

わたしは全く気付いていなかったのですが、三連休の初日だったんですね。世間的には。

一般申込客は上の写真のように、一時間前から座席交換のために列を作り始めています。
開演10分前に所用で外に出たら、列に並ぶ人たちに、整理係の自衛官が

「ただ今満席状態で、ここにお並びの方は入場できない可能性もあります」

とアナウンスしていました。
普通のコンサートのようにチケットを利用しなければそこは空き席になってしまうのかと、
非常に心苦しい思いをしていたわたしはこの光景を見てホッとした次第です。



すみだトリフォニーホールは初めて来ましたが、ホテルが併設されており、
例によって(笑)立派すぎるほど立派なホールでした。
中村紘子氏が「全国どんな地方にも不思議なくらい立派なホールがある」
と感嘆したところの、日本のハコもの地方行政の成果とでも言いますか。
(非難してるんじゃありません)



この日、息子のチェロの練習の譜読みにずっと付き合っていたので、
昼ごはん抜き状態のおなかにホールの併設バーでサンドイッチを入れました。

不思議なくらい美味しいサンドイッチでした(笑)

やるなあ、すみだトリフォニーホール。
もしかしたら隣の東武ホテルの経営かもしれません。



食べ終わっても開演まで時間があったのでロビーで売っているCDを見に行きました。
やはりここにもある自衛艦旗。



このデスクではこのような東京音楽隊の広報パンフを配っていて、
前に立つと、自衛官が

「お持ちください。CDも付いています」

何っ?!



本当だ。
さすがは親方日の丸の自衛隊音楽隊。
入場が(当たり前ですが)無料であることや、CDを来た人全員に配るというのも、
他の団体主催のコンサートではありえません。

改めて思うのですが、こういう活動というのはすべて、
税金という形で彼らを支えている国民への還元という意味があるのですね。

ちなみにこのCDですが、写真にも少し見えるように、「君が代」に始まり「軍艦」で終わる、
海自音楽隊ならではの選曲となっています。

以前このブログでご紹介した音楽隊長の河邉一彦二佐の作曲した「イージス」や、
今超話題の三宅三曹の「われは海の子」、そしてなんと、ベルリオーズの「幻想交響曲」から、
「断頭台への行進」「ワルプルギスの夜」が収録されており、お値打ちです。




プログラムから転載、音楽隊長、指揮者であり作曲家でもある河邉二佐

驚いたのは、入隊後、三年に亘って一般音大で指揮の勉強をしていたこと。

そういえば、昔、横須賀に集められたいわゆる「エリート音楽隊員」は、
東京藝大で芸大生と席を並べて研修をした、という話をエントリに書いたことがあります。
河邉二佐の場合は少し特殊な例だったのではないかと思われますが、
旧軍と同じやり方で、こうやってスキルを高めることを今でもやっているんですね。



開演前のホール客席。
正面に据えられたパイプオルガンは地方ホールの「実力」の証です。

ご覧のように、一階の20列、という、音楽を聴くにはベストともいえる席です。
そして少し左側、つまりピアニストの手許が見える場所。
しかも、前が通路で前列に座高の高い人が座って視線が遮られ、
わずかにイライラすることもまずない、完璧な場所です。

どれくらい完璧かというと、もしどこでもいいから好きな場所に座りなさい、
と言ってもらえたら、わりと迷うことなくこの席を取っていたというくらいです。


客層は年配の男性がいつもより多い気がしました。
しかも彼らの多くが客席で「お久しぶりです」というような挨拶を交わしあっていて、
やはり元、そして現海自関係者が招待されているのかなと感じました。


さて、コンサートが始まりました。

セルゲイ・セルゲービッチ・プロコフィエフ ピアノ協奏曲第三番ハ長調作品26
ピアノ独奏 太田紗和子二等海曹



最近、当ブログに来る方の検索ワードで一番多いのが、この
太田佐和子二曹の名前だったのですが、その理由は、
このコンサートで彼女がプロコフィエフのピアノコンチェルトを演奏するからだったらしい、
ということに遅まきながら気づいたエリス中尉でございます。


この日のコンサートの前半は、太田二曹のプロコのPコンのみ。
そして後半がいかにも自衛隊らしいビッグバンドのレパートリーや、
河邉二佐のオリジナルだったわけで、もうこれは東京音楽隊のコンサートでしかありえない、
レアな演目だったといえましょう。

この、プロコフィエフという作曲家は、特にピアノが「打楽器」であることを
改めて認識させられるような曲を書く人で、このコンチェルトもその典型であると思うのですが、
だからといって聴く方に難解というわけではなく、この曲もその打楽器的な部分が、
複雑なリズムに慣れた現代人には、むしろ「面白い」と認識されるのではないでしょうか。

そんなに長大ではなく、しかも見た目にもヴィルトオーゾ好みのいわば派手な演目なので、
ピアニストにも人気があり良く取り上げられる曲です。

このプロコフィエフという人は、革命の後ロシアからアメリカに亡命しているのですが、
その亡命の経路が、シベリアから日本を通過するというもので、つまり彼は
日本にしばらくの間滞在していたということになります。


このピアノ協奏曲第三番の最終楽章には、「越後獅子」が流用されたと言われる部分があり、
たしかにイ短調の三拍子のメロディはそう聴こえないこともありません。
コンサートのプログラムには必ずこのことが書かれ、
この日の東京音楽隊のプログラムにもそう書いてはありますが、実はこれは
はっきりと日本の民族曲を採用したプッチーニの「蝶々夫人」などとは違って、
単なる「噂」である、とされる説もあります。

音列は完璧に一致していませんし、もしかしたらプロコフィエフが「日本で聴いたあのメロディのような」
というイメージだけを取り入れた可能性はあるかもしれないとは個人的に思いますが。


長々と解説しましたが、この曲を選ぶとは何と意欲的な、と思ったのは、
この曲はピアノ協奏曲と言いながら、オーケストラが非常に密度が高いことで、
つまりどういうことかというと、ピアノとオケの力配分がほぼ同等であるからです。

しかも、東京音楽隊は本来弦5パートが付随しているオケ部分を、
ブラスバンドの編成でやってしまっているあたりが、凄いと思いました。
プログラムによると、この編曲をしたのは川上良司一等海曹

そう、つまり自衛隊内ですべてをまかなってしまっていると。

とてつもなく下世話な疑問ですが、たとえばこのような快挙(とわたしは思います)を
成し遂げた川上一曹には、編曲代は別に出るんでしょうか。
ついでに言えば、ピアノコンチェルトを弾いた太田二曹には?

さて、その太田二曹ですが、実物を見ると非常に小柄な女性で、もし外国人なら
「こんな小さな女の子が・・・」
と真面目に言いそうなくらいのキュートな体格。

しかし、彼女の演奏家歴を見ても、この曲を弾きこなすに不足はなく、
現に、成熟したテクニックで難なくこの難曲を聴かせて聴衆を沸かせていました。


ただ、この日ここにいた聴衆が「日ごろクラシックのコンサートには行かない層」であるらしいことを、
コンチェルトの楽章ごとにいちいち巻き起こる拍手が表していました。
昔、あるオケの地方公演に事情があってついて行ったことがあるのですが、
そこがいわゆる「僻地」であればあるほど、この「楽章間の拍手」は普通に行われ、
それがその土地の「文化習熟度音楽の部」を知る一つの目安となっていたものです。

楽曲というのは楽章全部で一曲なので、特に演奏者は、その間も緊張を維持しますから
これを嫌う人は実は多いのです。

太田二曹は、正統派のクラシック畑を歩んできた人ですが、自衛隊に入隊した時点で、
彼女の音楽を聴く「層」が微妙にスライドしていることをどのように考えるか、少し気になるところです。

しかし、それは第三者から見ると「クラシック界」というフィールドから、より多くの層に向かって
開かれた世界の架け橋になっているということでもあり、それはとりもなおさず
太田二曹がそうなることを自ら希望した選択の結果でもあったのでしょう。

以前このブログで「率先して当直に立ち、特別扱いされることなく、一隊員であることを優先」
と彼女のことを書いたところ、「クラシック畑」の方からはこの事実自体が不評だったようです。
そういう「苦労話」を喧伝することが演奏家の扱いとしてはいかがなものか、
という観点からのご意見ではなかったかと思います。

しかし、歌手の三宅三曹についてもいえることですが、太田二曹の「価値」というのは
純粋な音楽家としてのそれに加えて、彼女が「自衛隊員」であるということなのです。

ソリストなのにカッターの練習をし、譜面台運びもして、その名には必ず階級付けで呼ばれ、
そして、ピアノコンチェルトを演奏するというのに、いかにも肩の動かしにくそうな、
自衛隊音楽隊の演奏服を着ることしか許されない、(ですよね?)つまり、
「自衛隊付き」の音楽家として、彼女は初めて評価されているわけです。

もしかしたら彼女には失礼な言い方になるかもしれませんが、
その「タイトル」を取ったところに、今現在彼女に向けられる「注目」はなかった、
と、わたしは厳然たる事実を以て断言します。

もちろん(ここからが本題ですよ)、その世界の中で彼女がこれからどう伸びていくか、
それは彼女次第であるし、自衛隊員というフィルターなしで演奏そのものが評価されるかどうかも、
全て彼女の実力次第であると思われます。

そして、この日のプロコフィエフは、そういう彼女の意気込みが感じられる選曲でした。

ただ一つ。

ピアノとオケのバランスがときおりピアノを埋没させてしまう結果になっている気がしました。
これは決して彼女の演奏が線が細いというわけではなく、編曲の限界というか、
弦を使わないオーケストレーションのため、どうしてもこうなってしまうのかと解釈しましたが。


ともあれ、溌剌とした演奏は、自衛隊音楽隊の演奏を言う枠にとらわれず、
聴衆に与える喜びだけでない、可能性の広がりを感じさせて秀逸でした。

つまり一言でいうと、よかったです(笑)



長くなってしまったので後半については次回お話しします。 






 


旅順港閉塞作戦~広瀬武夫の「最後の言葉」

2013-09-14 | 海軍

旅順港閉塞作戦で壮烈な最期を遂げた広瀬少佐と杉野兵曹長の像が、
東京秋葉原の万世橋、以前交通博物館のあったあたりに立っていました。



それがこの写真と同じ意匠のものです。

万世橋駅と周辺

この東京絵葉書によるとかなりおおきなものだったようです。
この像は終戦後になってGHQによって撤去されてしまいました。
当時「軍人を称える」ということがGHQ的にはアウトだったので、
このようなものが次々と消えて行ったわけですが、戦後70年、
「坂の上の雲」で人気が出た?こともありますし、広瀬中佐の偉業は
むしろ「人を思いやって命を失った」ということにありますから、
戦後レジームからの脱却が成ったあかつきにはこの広瀬中佐像も
もう一度復活させてもいいのではないでしょうか。

秋葉原に置くのですから、せっかくなら「萌え」風で・・・・(顰蹙)


さて、今日は改めて広瀬中佐の最後についてお話ししてみます。




防衛省資料室に残る戦死状況報告書。

軍船朝日第五回戦闘詳報附録
福井丸決死隊員死傷及び救助の状況

一 戦死の状況
      軍艦朝日水雷長海軍中佐 廣瀬武夫

右は福井丸に指揮官として本月27日午前4時15分頃
旅順港口に突入し同船を予期の位置に沈浸せしめ
部下一同を率い、同船を退去せんとするにあたり
兵曹長杉野孫七在らざるを以て船内を三度捜索したるに見当たらず

而して海水は暫時進入し仝船(どうせん)上甲板を浸入し至りたるを以て
瑞艇(ずいてい)に移乗し艦長と相並(あいならび)て位置を占め
港外に向かて退去の途中に墜落し、救わんとしたるも及ばず
戦死せられたり


というのがこの報告書に見える文言です。
これだけだと、確かに巷間伝わる「広瀬中佐の最後」そのままです。

これをもう少し詳しく補足していきます。


広瀬武夫海軍少佐の乗った閉塞船「福井丸」には、
ロシア艦隊の駆逐艦「シーリヌイ」の魚雷が命中し、
徐々に沈み始めていました。



「福井丸」の乗員は広瀬少佐含む18名。

閉塞船を沈没させた後は、乗員は手漕ぎの短艇(カッター)で港の外まで脱出し、
第三船隊に救出される予定となっていました。

広瀬少佐は総員退去を命じ、短艇に乗り込んで点呼を行ったところ、
杉野孫七兵曹長がいないことが判明します。

広瀬少佐は船内に戻り(報告書によると三度短艇と船内を往復した)
杉野兵曹長を捜索しますが、探し当てることはできませんでした。

しかし沈んでいく「福井丸」の甲板にはもう海水が迫ってきており、
ロシアの攻撃は地上の砲台からも、海上の駆逐艦や水雷艇からも、
「福井丸」に集中し、このままでは全員の生命も危険です。

やむなく広瀬中佐は短艇に乗り移り、「福井丸」から離れるように命じました。

その直後。

敵の陸上砲台の放った一発が、広瀬少佐らの乗った短艇を襲い、
何人かに負傷を負わせ、広瀬少佐を直撃します。

この時の負傷者は報告書によると

海軍大機関士 機関長 栗田富太郎
海軍一等機関兵 中条政雄

の二名。
別の記録によると負傷者三名」ということなので、
前回問題にした、報告書で死亡扱いになっていた「小林吉太郎一等機関兵」
は、負傷者でしょう。


これによると、福井丸に乗り組んでいた階級の
上位から三人全てが戦死あるいは負傷したことになります。

これは、短艇に乗り込むときに彼らが「階級の順列」に則っていた、
ということの証明でもあるかと思われます。

 

またまたこの写真を出してきます。
真ん中の簀巻きがどうも栗田機関長のようです。
もう二人の負傷者は、軽傷だったのかこの写真からはわかりません。

右の写真には囲み写真がありますが、広瀬少佐にはどうしても見えません。
アップにしてみると、軍帽が士官のものに見えないのですが、着ているのは
どうも通常礼服のようですし・・・。

このころの写真は修正しまくるので、人相が変わってしまったのかもしれません。

そして、右の写真を左と比べると、囲み写真の下に人影が見えます。
彼らを揚収した第三艦隊の水兵であろうかと思われます。
棺と広瀬少佐の肉塊を入れるための小箱はすぐさま用意されたのでしょう。

負傷者が病院に収容されていないこと、そして小箱を持った兵の表情から、
これはまさに27日中に撮られた写真であるらしいことがわかります。

さて。

皆さんは「坂の上の雲」の「広瀬、死す」をご覧になりましたか?




短艇上の広瀬がふと空を仰ぐ。
彼の命を次の瞬間奪うことになる砲弾が空を切ってくる気配に。

最後の瞬間、彼の脳裏をかすめたのがこの光景だった。

「あれはなんていうの?」
「・・・アサヒ」

二人の手が重なったとたん、広瀬の体と、その記憶は消滅する・・・・。



好いシーンでしたね。

今までの、たとえば加山雄三が演じた広瀬爆死のシーンは、
淡々とその事実を描くことに終始していましたが、
この「坂の上の雲」の場合、広瀬はほとんど準主役のような位置づけですし、
この、ロシア海軍の将軍の娘であるアリアズナとの淡い恋愛が、
いわばこのドラマの白眉ともいえる部分ですから、念入りに感情表現がされたわけです。


だがしかし(笑)


事実は若干趣の違うものであったようです。
第二回作戦に参加した高橋吉太郎、旧姓小林吉太郎
(報告書で死んだことになっていた人)
が、その後語ったところによると、


総員退去し、短艇を漕ぎだしたとき
頭上を飛び交う砲弾の音の凄まじさに

誰もが顔をこわばらせていた。

そんな水兵や機関兵の顔をみた広瀬少佐、

「睾丸握れ。睾丸。皆睾丸は二つあるか」

皆の気持ちを落ち着かせるべくこう言ったのであった。


・・あれ?


このエピソードも、確か「坂の上の雲」には登場しましたが、
作戦前に、広瀬が皆に檄を飛ばすシーンでしたよね?

しかし、小林機関兵の証言によると、実際はこうです。

広瀬少佐のこの言葉に、皆が勇気づけられる思いでカッターを漕ぎ出した。
次の瞬間、砲弾が直撃して少佐は爆死してしまった。


つまり、


「これが広瀬武夫の人生最後の言葉」


だったということなのです。

ロシアに遺してきた永遠の恋人との美しいひとときを走馬灯にめぐらせたのではなく、
「二つあるか」が実は広瀬少佐の「遺言」であったと・・・・。


確かに「坂の上の雲」のこのシーンは美しく、切なく、
この手の「狙った感じ」には非常に冷淡なエリス中尉ですら、
思わず涙がじわりと浮かんでしまったのですが、案の定NHKは
こういうシーンを「お約束仕立て」していたんですねー。


しかし、実際に部下の心を落ち着かせるために言ったこの人間臭い言葉こそが
廣瀬武夫という人の最後に相応しいとは言えませんでしょうか。
少なくともNHKの創作したきれいごとなどより、わたしはこのような真実にこそ胸を打たれます。

もし、「坂の上の雲」映像化に当たって伝わっているこの話どおりに廣瀬の最後を描いてみせていたら、
きっとわたしはNHKをいろんな意味で見直していたと思います。

そんなことには今後も決してならないのはわかっていますが。





 


旅順港閉塞作戦~「広瀬中佐は死したるか」

2013-09-13 | 海軍

「坂の上の雲」の放映によって、主人公の秋山兄弟以外に注目されたのが
なんといっても広瀬武夫中佐(戦死後)でしょう。

海軍から派遣された留学先のロシアでロシア軍人の娘と恋に落ちたこと、
現地で最も愛された日本軍人であったこと。
そしてその魅力的な人間性と、軍人としての死にざまが今日も共感を呼ぶのでしょう。

本日タイトルの「広瀬中佐は死したるか」
この言葉は、二曲作曲された軍歌「広瀬中佐」の有名でない方から取りました。

因みにこの軍歌はこのようなものです。

1.
一言一行いさぎよく
日本帝国軍人の
鑑を人に示したる
広瀬中佐は死したるか

2.
死すとも死せぬ魂は
七たびこの世に生れ来て
国のめぐみに報いんと
歌いし中佐は死したるか

この軍歌、この後も情景を語りつつ14番まで(!)延々と続きます。
巻末に残りを記しておきますので、興味のおありになる方は読んでみてください。



広瀬を演じた役者の配役の妙もこの傾向に輪をかけたと思われます。
(今調べて、この藤本隆宏が元オリンピックの水泳選手だということを知り、
驚いてしまったわけですが)


さて、近代になっての最初の軍神が、この広瀬武夫です。

日本の軍神と呼ばれる軍人たちの死にざまを見ると、
敵を壊滅させたり大戦果を挙げた人物ではなく、たとえ佐久間大尉のように
事故における死において、指揮官として恬淡と、莞爾とその途に就いた者、
加藤健夫少将のように技量もさることながら非常に人徳があり慕われていた者、
何と言っても象徴的な犠牲となった者(真珠湾の九軍神、関行男、松尾敬宇
そして決死隊と自らなった者(肉弾三勇士)、そしてこの広瀬武夫のように

「自らの命を顧みず、部下を案じ気遣った」

つまり、That others may live を地で行くような、
他のために殉じた死に軍神の名が与えられています。
他の国の軍神が(あるのかな)どんな場合に認定されるのかわかりませんが、
このあたりが実に日本的であると思われます。



さて、冒頭写真ですが、記念艦三笠に保存されている広瀬中佐の直筆の手紙。
「松島」艦長の川島令次郎大佐に、第一次作戦と第二次作戦の合間、
おそらく第二次作戦の決行のために訓練をしていた福井丸船上でしたためられています。

第一次作戦に続き、第二次作戦に参加する心境を綴ったものですが、
文中自分のことを「武夫ハ」、川島大佐のことを「大兄」と称していることから、
「朝日」の副長であった川島と、乗り組み士官の広瀬は、もしかしたら
兄弟のような親しい付き合いをしていたのかもしれません。

この書簡は3月22日、第二次作戦の5日前に記されましたが、
最後となる3月27日の作戦決行前、福井丸に乗船する際家族に宛てて書かれた絶筆には

「再び旅順港閉塞の挙あり。
武夫は茲(ここ)に福井丸を指揮して武臣蹇々(けんけん)の徴(しるし)を到さんと欲す。
所謂一再にして己まず、三四五六七回人間に生まれて
国恩に酬いんとするの本意に叶ひ、踴躍(ゆうやく)の至に不堪候。
今回も亦天佑を確信し。
一層の成功を期し申候。


七生報国 七たび生まれて国に報ぜん

一死心堅 一死 心堅し

再期成功 再び成功を期し

含笑上船 笑みを含みて船に上がる

時下、母上様、叔父上様始め、各位のご自愛を望み、一か親籍の

倍倍の繁栄を祈り居申候也。

再拝 武夫」


と書かれています。

含笑上船、を自分で四文字熟語にしてしまっているあたりに、
諧謔が垣間見え、自分の死を恬淡とこのように語ることで
家族に心配をかけぬようにする気遣いすら見えて、

「崇高な義務心に満ち満ちた玲瓏玉のごとき快男児」

(広瀬と親交のあった帝大の政治学者小野塚喜平次博士の広瀬評)

という広瀬の人間性がこの文章と、のびやかで美しい筆致から覗えます。




これは作戦に参加する人員名簿。

第二閉塞隊は指揮官広瀬武夫を筆頭に名が連なっていますが、
名前のあとのカッコ内は所属の艦船が書いてあります。
さらに、あの杉野孫七上等兵曹は、指揮官附き、つまり
広瀬のアシストのような役目を帯びて乗船していたことがわかります。

そして皆さんもご存知の通り、自沈させる福井丸を、部下である
杉野孫七兵曹の名を呼びつつその姿を探し求めた広瀬は、
部下に促されて船艇に乗り移りますが、砲弾の直撃を受け、
「一片の肉片を残して姿を消した」とされます。


ここで、当時の資料の間違いらしき部分を発見してしまったエリス中尉です。



この作戦の四名の戦死者は広瀬、杉野のほかは、この資料の
3月30日、つまり作戦3日後に朝日艦長によって作成された報告書の資料によると

「菅波政次 二等通信兵曹」
「小林吉太郎 一等機関兵曹」(赤で囲んだ一番左)

となっています。
防衛庁資料室所蔵、『第二回閉塞作戦ニ関スル報告書』より)

しかし、「坂の上の雲」ではどうしたわけか、
この最後の一人、広瀬の乗っていたカッターでやはり砲撃されて戦死するのが

「小池幸三郎 二等機関兵」

となっていました。
NHKの考証係が間違えたのか、
それとも原作の「坂の上の雲」がそうなっているのか、と思ったら・・・・・



この写真。
以前、やはり記念艦三笠でその写真を撮ってきて、
説明が無かったのでてっきり日本海海戦後の写真だと思っていたのですが、
棺の上に書かれた戦死者の名前をご覧ください。

海軍一等機関兵小池幸三郎の棺

海軍一等信号兵曹長菅波政治の棺

菅波政治は閉塞作戦の戦死者の名前です。
そう、これは紛れもなく広瀬の乗った福井丸の乗組員の、
寄港直後の写真なのです。

そこで、棺の名前が「小池幸三郎」で、報告書とは違うということがわかります。
福井丸の乗員が戦死者の名前を間違うことはありえないので、
朝日の艦長が戦死者の姓名と傷病者を間違えた、と考えるのがよさそうです。

ところで。

この写真、以前、第一次記念艦三笠見学記において
「目も上げられないほど、戦友を失った悲しみに打ちひしがれている」
と、全くモノを知らない状態であったエリス中尉、このような
適当なことを書いてしまったわけですが・・・・。

ここに写っているのは真ん中で簀巻きになっている者を合わせると13名。
両端の棺に入っている人を加えると15名。
広瀬少佐と、杉野上等兵の体は、ここにはありません。

しかし、福井丸に乗り組んだ下士官兵たちは、何とか二人を写真に加えようとしました。

それが、前列右側の目を伏せる兵が両手に持つ、ちいさい白木の箱です。

彼の左手の箱には作戦前に遺した杉野兵曹の遺髪が、そして右側には
広瀬少佐が船艇に遺した「一片の肉塊」が入っているのだそうです。


そう思うと、この兵のみならずここに写っている全員の、悲壮な表情の意味は
随分と重いものを伴って胸に迫ってくるのを感じずにはいられません。


広瀬中佐のことについて、もう少し話をつづけることにします。



広瀬中佐

3.
われは神州男子なり 穢れし露兵の弾丸に
あたるものかと壮語せし ますら武夫は死したるか

4.
国家に捧げし丈夫の身 一死は期したる事なれど
旅順陥落見も果てぬ 憾みは深し海よりも

5.
敵弾礫と飛び来る 報国丸の船橋に
わすれし剣を取りに行く その沈勇は神なるか

6.
閉塞任務事おはり ひらりと飛乗るボートにて
竿先白くひらめかす ハンカチーフに風高し

7.
逆まく波と弾丸の 間に身をばおきながら
神色自若かえり来し 中佐の体はみな肝か

8.
再度の成功期せんとて 時は弥生の末つ方
中佐は部下ともろ共に 勇みて乗り込む福井丸

9.
天晴れ敵の面前に 日本男子の名乗して
卑怯の肝をひしがんと 誓ひし事の雄々しさよ

10.
かくて沈没功なりて 収容せられし船の内
杉野曹長見えざれば 中佐の憂慮ただならず

11.
又立ちかえり三度まで 見めぐる船中影もなく
答うるものは甲板の 上までひたす波の声

12.
せん方なくて乗り移る ボートの上に飛びくるは
敵のうち出す一巨弾 あなや中佐はうたれたり

13.
古今無双の勇将を 世に失ひしは惜しけれど
死して無数の国民を 起たせし功は幾ばくぞ

14.
屍は海に沈めても 赤心とどめて千歳に
軍の神と仰がるる 広瀬中佐はなほ死せず


シリコンバレーのレストラン~「猿も木から落ちる」の謎

2013-09-12 | アメリカ

アメリカやイギリスには美味しいものはない、なんて誰が言ってるんでしょうか。

食べ物で評判の悪いイギリスですが、イギリス人の知人二人が結婚し、
築1000年の古城で結婚式を挙げたのに出席をしたとき、
泊まった田舎のホテルのレストランでは、とんでもなく美味しい鳥料理を出しましたし、
逆に何を食べても美味しかったフランスで、とんでもなく不味いものを出す店もありました。

どんな国にも、探せば美味しいものも不味いものもあるということなんですが、
アメリカ、とくにここ西海岸はジャンクフードも溢れている代わり、
カリフォルニア産のおいしい野菜や果物がふんだんにありますし、
センスのいい料理店も、雰囲気のいいレストランも山のようにあります。


わたしたちはアメリカ滞在中ほとんど外食しません。
美味しいレストランは高いのが当たり前ですし、さらにチップを加えると、
日本のちょっとした食事と
全く変わらない値段になってしまうので。
(その点安くておいしいものがあって、しかもチップなどで「評価」しなくていい日本は
あらためていい国だと思ったりします)


というわけで滞米中の外食は日本からTOが来たときと、現地の友人に会う時だけです。
まだこのシリコンバレー地区には土地勘すらないので、通りすがりによさそうなレストランを見つけては
入ってみただけなのですが、そのどれもが「アタリ」でしたのでご紹介します。



クラシックなリッツとは対極のモダンな雰囲気は、
「フォーシーズンズ・シリコンバレー」。
東京丸の内のフォーシーズンズとはわりと雰囲気が似ています。
こちらは東京の5倍くらいの面積はありそうですが。



夕方まだ明るい時間だったので、誰もいません。
机が一列に並んでいますが、団体の予約が入っていました。
いかにもIT企業の社員、という雰囲気の団体でした。





インテリアも実にシリコンバレーっぽい。
息子はリッツの「古臭い」雰囲気よりこちらが好きだそうです。





待ち時間にipadを見なければいけない用事があったのですが、
アメリカのほとんどの飲食施設と同じく、wifiはフリーです。
キャッシャーに行って、フロントのお姉さんにパスワードをもらいます。



前菜の「桃のサラダ」。

これはサラダというよりデザートではないのか、と思ってしまいそうですが、
食べると甘くないのでやっぱりサラダなんですね。

息子はラテックス・アレルギーで、桃を食べると耳がかゆくなるのですが、
にもかかわらず食べてしまいました。
我慢してでも食べたいくらい美味しかったようです。



これは冷たいスープ、ビシソワーズです。
白い塊は甘くないクリーム。
しつこそうですがそれが実にあっさりとしたお味で絶品。

アメリカ、とくに東海岸でレストランに入ると、サラダと言えば日本の5倍の大きさで出てくるので
とても食べきれない、ということが多々あるのですが、ここシリコンバレーでそのような
「野暮」なお料理の出し方は決していたしません。

このお皿のくぼんだ部分に、少ししか盛り付けられていないので、まさに一口サイズ。
ちなみに浮き身のように見えるのは、ジャガイモなどという無粋なものではなく、
なんとブドウでございます。

アメリカ人は果物をほとんど野菜のように扱う傾向があります。



これも前菜。
グレープフルーツの乗ったイベリコハム。
生ハムと果物って合うんですよね。



メインはこれもほんの少しのニョッキ。
たしか中身はカニだったような。



もう一つのメイン、イカ墨のスパゲティ。



そして、家族三人で一皿だけ頼んだデザート。
これも桃がメインのブラマンジェかムースです。
見た目が美しい。

「リッツよりセンス良くない?」
「俺こっちの方が好き」(息子)
「さすがはIT長者なんかが利用するホテル」



食事が終わってロビーに出ると、ジャージの団体がうろうろしていました。
背中に書かれた字を見て

「ユベントスって・・・・・聞いたことあるけどなんだっけ?」(エリス中尉)
「サッカーチーム」
「どこの?」
「イギリス」

お恥ずかしい話ですが、サッカーに全く興味のないわたしは
ユベントスと言われてもすぐにはぴんと来なかったわけですが、
なにしろそのユベントスの選手がここに泊まっていたというわけです。



もしかしたらこのジャージの男が世界的に有名な選手なのか?



この二人も、サッカーファンならサインをねだってしまうのか?

しかし、実際に実物を見て思ったんですが、サッカー選手って意外なくらい
皆背が低いですね。

昔一時の気の迷いで通っていたトータルワークアウトで、
トレッドミルの上をものすごいスピードで延々と走っている背の低い男性が
あの「キング・カズ」であると知った時には

「わたしと背丈が変わらないんじゃ・・・・」

とびっくりした覚えがあります。
ついでにここにはやたら有名人の客がいるジムだったのですが、
一度、あの清原選手もお見かけしました。
この人はなにしろでかかったです。
体面積が無駄にでかい、という感じで、圧迫感ありまくりでした。

それはともかく、ユベントス、親善試合にでも来ていたんでしょうかね。
ちなみにアメリカ人は総じてサッカーには全く興味を持ちません。


さて、ここスタンフォードで、一度朝ごはんを紹介した、
「メイフィールド・カフェ」。

スタンフォードの教授らしい人たちが両側に座っていたあのカフェですが、
去年初めて行って以来、あまりにも美味しくて雰囲気も気に入ったので、
今年は朝、昼、晩と三回別の日に行ってきました。

時間によって全く雰囲気が変わり、出すものも変わります。



夜に行ったとき。
去年夕食を外で食べて寒さに震えあがったので、今年は室内をリクエストしました。



ここの自慢は生産者と契約して送ってもらう美味しい野菜と自家製のパン。
この野菜は日本ではあまり見たことがありませんが、アメリカではポピュラーで、
「アルグラ」という香草です。
癖があって好き嫌いもあるせいか、このようにアルグラだけで出すところはあまりありません。
しかし、ここのアルグラサラダは、桃のコンフィと合わせて出してきて絶品でした。

向こうはカボチャのスープです。



わたしが頼んだ、「今日のおすすめ」、
アトランティックサーモンのグリル。



そして、家族三人で一つ頼んだデザート、パンプディング。

これは美味しかった!

さすがはベーカリーカフェ、もともとのパンが美味しいのですから、
こういうものが美味しいのも当然かもしれませんが、
何しろ、何を食べても甘すぎるアメリカで、奇跡のように「甘さ控えめ」の日本人好みの味。


ところで、このお食事の時、TOはまだ日本から来たばかりでした。
さあ食べよう、というころ、ちょうど日本はビジネスアワー。
しかもちょうど食事が始まったころ、日本から仕事の電話がかかってきてしまいました。

美味しいお料理が、外で国際電話をし続けるTOの席でどんどんと冷めていきます(´Д`;)

「テイクアウトの箱に詰めましょうか?」

お店の人が見かねて気を遣ってくださる始末。
結局、ぎりぎりになって戻ってきて、いったんつめた箱から出して温めてもらい、
それを食べていました。

いくらなんでもこれでは全く味が落ちてしまったと思われるがどうか。



さて、もう一度ここに訪れたのは、アメリカの友人がLAから会いに来てくれた時です。
このときはランチタイムでした。



にぎわう店内。



お昼には外で食べる人もたくさんいます。



ここはなんといっても「ベーカリーレストラン」という名前が付いているだけあって
パンが自慢。



隣にはパン屋さんが併設してあります。
ランチの後デザートにケーキを買って帰って部屋で食べました。
ケーキは少し甘すぎだったかな。



「TISAN」というのをメニューに見つけました。
フランス語では「チザーヌ」と言いますが、これは生のハーブティーです。
農薬が使えないので、オーガニック農家と契約しているところしか
こういうものを出すことはできません。

ところで、友人と話をしながらわたしは店内を忙しく動き回る一人のウェイトレスの脚に
目が釘付けになってしまいました。



彼女の脚線美に、ではありません。
彼女が左足に入れていたタトゥーです。
それを見た途端

「これは写真に撮るしかない!」

彼女に気づかれないように、カメラをさりげなく向けるのですが、
客のアテンドをしているためなかなかじっとしてくれません。



こんな感じで何枚も隠し撮りをしていたら、知人が、

「もう頼んで撮らせてもらったら?『あなたのタトゥー、クールね』とか言って」

 しかし、この日、日曜日のブランチタイムで外に何組も客が待っている状態、
それをさばくのに文字通り脚を止めるのも時間が惜しいという風情の彼女に
声をかけることは、気の弱い日本人にはとてもできませんでした。

そして、幾多もの失敗を経て、ようやく・・・・。



なぜ彼女がこの文句を選んだのか。
彼女にこのタトゥーを奨めた彫り師は、何人で、意味をちゃんと説明したのか。
なぜこの文句なのに図柄が桜の花なのか。


日本人としては聞きたいことが山ほどありましたが、
日本人だからこそどうしても聞けませんでした。 


 

おまけ*ホール・フーズの日本食品コーナーで見つけたなごみ商品。

中身によって招き猫の色が違う・・・・。

 

おまけその2*
ホールフーズで見つけた豆腐コーナーのサイン。
牛や豚肉みたいに、「部位別」の名前がかいてあります。 



 



 

 


開設1000日記念漫画ギャラリー第四弾

2013-09-11 | つれづれなるままに


陸戦の「神様」中村虎彦




海軍陸戦隊で、陸軍が手をこまねいていた適地を攻略し、
あっぱれ陸戦の神様と称えられた海軍将校がいました。

日中戦争のおり、蒋介石軍に届く物資の流れを阻止するために
日本軍は南シナ海の要所を占領する作戦に出ました。

その陸戦に駆り出されたのが陸軍三個師団と海軍一個師団。
おそらく陸海軍間の、たぶん

陸「今回の作戦はフネ使わないんだから海軍からも陸戦隊出せ」
海「なにおーぅ」

みたいなやり取りののち、(たぶんですよ)
陸戦隊を出すことになった帝国海軍。
こんなときの常としてノーと言えない若い大尉に指揮が任されました。

これは漫画としてストーリーを勝手に弄ったものではなく全くの実話で、
中村大尉が
「(この命令を受ける代わりに)司令部の名刀を貸せ」
と条件を付けて背中にこの大刀を指揮刀代わりに背負っていたのが、
幸いしたと言えば幸いしたのでした。

馬鹿でかい真剣を目の前ですらりと抜かれた日には、
命令をよく聞かずに飛び出してしまっても仕方ないかもしれません。

「人の命令最後まで聞けよ!」

と可愛い部下の身を案じて後を追った中村大尉が振り向くと
残り全員必死の形相でついてきていたので、そのまま突撃し、
めでたく敵基地を攻略してしまったと。

中村大尉はこの大戦果を以て「神様」にまつりあげられたのだそうですが、
これだけなら神様とは少し違うんじゃないか?
部下の勘違いが一番の要因だし、と思ったあなた。
確かにわたしもそう思いました。

しかし、中村少佐(のち)は実はその人格を部下に慕われる名隊長でもあったのです。
なので、これらの人物評価も相まって「神様」といっても誰からも文句が出なかった、
というところではないかと解釈しています。




「海軍望楼vs.都留大佐」




都留大佐は海軍内のいわゆる名物男でした。
日露戦争のときこの人物、陸海軍が合同で当たった作戦中、
陸軍軍人に対してあまりにえらそうなので、陸軍さんたちは
この人物を偉いのかそうでないのか判じかねて「上官待遇」していたら、
式典のときに階級章を見たらなんと中尉。

「あんにゃろー!中尉の分際でエラそうにしよって」

陸軍の中尉以上の軍人さんたちは皆心の中で地団駄踏んだのですが、
実は都留中尉が中尉に昇進したのはその一週間前。

中尉ではなく、少尉だったんですねー。
もしそれを知っていたら陸軍さんたちの怒りは倍増したでしょう。


そんな都留大佐、海軍時代の逸話は数知れず。
今日に残っているだけでも結構ありますから、さぞ現役時代は
何かと言うと酒の肴にその武勇伝が語られたのに違いありません。

勿論ヘル談(ヘル=ヘルプ=助=助平、つまり猥談)にも事欠かないのですが、
そこは海軍、「面白い」のポイントがなかなか上品なものが多い。

この漫画に描いた逸話も、ただの会話なら面白くもおかしくもないのですが、
このやりとりを海軍の公務として通信手にやらせると言うあたりがウケたのでしょう。


ちなみに望楼とは、海峡などに設けられた「見張り所」です。



「オペラ格下指揮者事件」




たまたまこの頃観に行ったオペラの主演歌手が当日キャンセル、
しかも、代理の歌手が一幕で崩壊してしまった事件に立ち会い、
「こんな場合に訴える人っているのかしら」
と調べてみたところ、法律関係者の間では有名な
「オペラ格下指揮者事件」
という案件があることがわかりました。

代理でドタキャンした指揮者の代わりに振ったのが「格下」だったから、
というのがその訴因だった、という案件です。


少し説明すると、わたしが観に行ったこの日、主演が
娘の病気で講演をキャンセル。
ところが代打で登場した歌手は、
おそらくプレッシャーで崩壊ともいえるミスをやらかしてしまいました。

しかし(笑)

その歌手の間違いにほとんどのこの日のNHKホールの客は
気付いていなかったのでございます。

この聴衆の音楽レベルの悲しい現実を見たエリス中尉は、

「こういう場合はコンマスが指揮者の代理をするから、
もしそうと通告されなかったらたとえ前に掃除のおじさんを立たせても、
観客のほとんどはわからなかったのではないか」

と、「訴える人」をちょい皮肉ってみました。
ちなみに「格下識者事件」ですが、この裁判は原告敗訴となりました。

というか、よくこれ不起訴処分にならなかったなあ。




「取り締まられ」





たまたま二回立て続けに「取り締まられ」たので、
うっぷん晴らしに(←嘘)漫画にしてみました。

丁度この頃APECがあって、首都圏を他府県ナンバーの
パトカーが走り回っていました。

皆パトカーを見ると急にスピードを落とし、
追い越さないように左車線にはいったりしてやり過ごすのですが、
そのとき見たパトカーが沖縄県警だったので
安心して追い越しました。

追い越す瞬間、上のような妄想をしてしまったので
それをそのまま描きました。


「善行賞」




まだ海軍の階級にあまり詳しくなかった頃、
善行章について調べたことをそのまま書いております。

軍隊ってのは階級社会ですからね。

しかも、その階級も単純に年功序列だけでもない、
だからといって、「何年海軍の釜の飯食ってるか」
みたいなことが実はモノを言ったりする社会なわけですから、
そのヒエラルキーの中で兵隊さんたちはさぞかし
現実の厳しさみたいなものを思い知ったのではないでしょうか。

まあ、階級社会の厳しさを言うなら
戦前の軍隊に限ったことではありませんが。

この漫画は、特別善行賞(何か表彰の対象になることをした)
一本の下級兵、つまり目下に向かって、
しなくてもいい敬礼をしてしまったいかつい兵隊さんの
悔しさを表現してみました。

何がそんなに悔しいのか、と傍から見ると思いますけど、
軍人さんにとってはとても大事なことだったんですよ。たぶん。










Puttin' On The Ritz Half Moon Bay

2013-09-10 | アメリカ

ここのところエントリを一つ制作するのに時間がかかるものばかりで、
さすがに少し息切れしてきたので、この辺でこのブログの「夏休み」を取らせていただきます。

というわけで、カリフォルニア滞在中、
必ず一度は家族で訪れる我が家お気に入りのホテル、
リッツ・ハーフムーン・ベイの写真と、お料理の写真を淡々と貼っていきます。 

ちなみに表題の「Puttin On The Ritz」は、フレッド・アステアの曲です。

この世で最もタキシードの似合う男、アステアの、画像処理なしの
超絶技巧タップとステッキ捌きをご覧ください。

 Puttin' On The Ritz   Fred Autaire

それでは参ります。

 

このホテルには去年も訪れて買ったばかりのソニーRX‐100で写真を撮り初めしたので、
もしかしたらご記憶の方もおられるかとは存じますが、今年の画像は、ニコン1によるものです。

ここには住んでいたころから何度も訪れており、帰国してからは二度ほど宿泊もしています。
最初に来た時にはまだできたばかりで、この中庭にはほぼなにもありませんでした。

「プールでも作ればいいのに」

などと、この辺の気候を熟知しない我々はとんでもないことを言っていたわけですが、
ここは真夏でも昼間に暖炉をたくような、まるでスコットランドのような気候なのです。



この眺めがまたそれっぽい。

リッツは、ここにホテルを作ろうと考えたとき、この地形とこの気候を最大に生かし、
「まるでスコットランドの海岸沿いにあるゴルフコースのような世界」
を再現したのではないかと思われます。



連なっているゴルフコースがホテルの真正面に。
向こうに見えているのはゴルフのクラブハウスと、室内プールのある棟です。

リゾートホテルですからプールは不可欠なのですが、 外気温が年間を通して
20度を超えることがないため、 (そのかわり冬は10度くらいでそう寒くない)
非常に豪勢な室内プールを持っています。



バレー(配車係)の制服が、クラシックなゴルフスタイル。
ハンチングにアーガイルのベスト、ニッカーボッカーという本格的なものです。



わかりにくいので去年の画像を引っ張ってきました。
またそれが似合ってしまうんですね。アメリカ人には。






建物もイギリス風。

中庭では皆が火を囲んで憩っています。
ここは昔はそうではありませんでしたが、要望が多いせいか、今回来たら
注文して軽食が取れるようになっていました。



去年の画像。
椅子だけです。



今年はテーブルが置かれていて、鳥さんたちが大喜びしてます。
客が立ち去るのを待ちかねて、残り物をついばみます。





この鳥はすずめのようなちょんちょん歩きではなく、千鳥のように走るみたいですね。



ホールにはリッツカラーの旗が立っています。

コースの真ん前にこのような中庭があって人がたくさんいるので、
ものすごく下手な人が客のど真ん中にボールを打ち込んでしまうかもしれないという危険性もあります。
何かとそういうことに対してディフェンシブな日本ではまずこういう仕様にはしないと思われますが、
そこはアメリカ。

「そんなに下手なら来なくてよろしい」

って感じで、さらにもし何かあってもうちとこは関係ありませんからね、という態度です。

どちらにしてもこのホールでは、中庭の客の目が自然とプレイに注がれてしまうので、
あまり下手だと恥ずかしくてそもそもこういうところには来られないようにも思います。

さて、わたしたちはゴルフをしませんので、ここでの楽しみはなんといっても食事です。



隣の「ナビオ」は予約でいっぱい。
こちらのカフェでは少し待てば予約なしで入れました。

ここに来ると、その年のアメリカ人の消費傾向みたいなものが読めるようなところがあります。

何年か前までは「こんなので大丈夫か」というくらい人がいなかったのに、
去年あたりからまた人出が増えてきて、さらに今年は近年まれにみる賑わいでした。
これもシェールガスのおかげかしら。


そんな無粋な話はこっちに置いておいて。

リッツに来て、この「ブルーグラス」が並んでいるのを見ると
今から楽しい時間の始まり!という予感でいつも胸がわくわくします。



わたしの頼んだハリブー、つまり「オヒョウ」ですね。
アメリカでシーフードを出す店に行くと、必ずと言っていいほどこの
Halibutがメニューにあります。
白身だけれど適度に脂がのっているので、わたしの好きな魚です。

それがチーズリゾットの上に乗って出てくるのですが、ここでなぜかさらにその上に
ブドウを乗せてくるというあたりが少し日本人にはないセンス。



息子の頼んだクラブハウスサンドイッチ。
正式な?アメリカンクラブハウスサンドイッチとは、
トーストしたパンにチキン又は七面鳥、ベーコン、レタス、
トマト、卵焼きの5つをはさみます。

ここではターキーハムが使用されており、卵焼きはありませんでした。



パニーニサンド。



そしてデザート。
去年これと同じものを頼んでえらくおいしかったので、もう一度頼んでみたのですが、

 

去年の画像。

・・・・・もしかしてこの一年でかなり簡略化されてますか?
フィリングのリンゴの量とか、パイケースのたたみ方とか、
そもそもそのパイケースの層(レイヤー)も薄くなっている気がするし、
仕上げの上に乗せられた金箔とか、ソースとか。


今年もおいしいことはおいしかったのですが、去年ほどの感激はありませんでした。
残念ながら。

 

気を取り直してほかのデザート。
これは確かタルトの上にアイスが乗っていたような・・・。



このチョコレート・フォンダンはフォークを入れると暖かいチョコレートが中から
とろりと溢れてきて、大変結構なお味でした。
息子が頼んだのですが、親子三人一口ずつでおしまいです。

いずれにしてもデザートはおいしいものを少量いただくのがいいですね。

 

食事が終わったので少し外で海を見てから帰ることにしました。



この芝生の部分では奥のガゼボを利用してときどきウェディングが行われます。
なにもないときにはこうやってクリケットの道具が置いてあります。

これもまた「イギリスらしさ」を醸し出すための演出の一つでしょう。



こんな遊具もおいてありました。
両側にボールの付いた紐を投げて、バーに引っ掛けるだけ、
という単純なものですが、これが面白そう。

この男の子はわたしたちが観ている前でこの青い紐を
見事にひっかけて見せてくれました。
思わず拍手して歓声を送ったら、その後はこちらを意識して緊張してしまったのか
一つも成功しなかったので、少し悪いことをしたかなと思っています。



今回も相変わらずのリッツ健在で、わたしたちとしては非常に満足したのですが、
ただ、できた頃から知っているものとしては、あまりにも雰囲気が最近変わってしまったなあと・・・・。

そう、理由は、あふれかえる中国人。
横を見ても、前を見ても、どこにいても目に入る中国人の団体。

そして彼らはどこでもここでもこんな感じで「記念写真」を撮りまくり、
団体で行動して騒ぐので、あまり言いたくはありませんがおかげで「雰囲気ぶち壊し」なんですの。

一流ホテルに宿泊や食事に来ているはずなのに、
全然着ているものとか雰囲気とかだいたいたたずまいがイケてないんですよ。
だいたい、いつも一流ブランドを買い漁っているくせにどうしてこういうところに着てこないのか?
と不思議で仕方がありません。
画像にも見えていますが、こんなところにいい大人がパックパックで来てたりしますからね。

・・・・あ、これ、もしかしたら一流ブランドなの?




まあしかし、それもこれもそのときの「アメリカの顔」。

さて、来年はどんな顔を見せてくれるのでしょうか。


 


目黒・防衛省~山本五十六の「遺書」

2013-09-09 | 海軍

今回の幹部学校訪問では所蔵するすべての書を見たわけではありません。
どうも、わたしが案内していただいたのとは違う階にもいくつか展示があって、
勝海舟や島村速雄などのものは見ることができなかったようです。

わたしとしては東郷平八郎「聯合艦隊解散之辞」さえ見せていただければ
もう目的は果たしたと言った感があったのですが、もう一つ、
この山本五十六の「辞世」も、なかなか感慨深いものがありました。




征戦以来幾萬の忠勇無雙(そう)の将兵は

命をまとに奮戦し護国の神となりましぬ 


あゝわれ何の面目かありて見(まみ)えむ大君に


将又逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし

身は鉄石にあらずとも堅き心の一徹に


敵陣深く切り込みて日本男子の血を見せむ 


いざまてしばし若人ら死出の名残の一戦を


華々しくも戦ひてやがてあと追ふわれなるぞ

昭和十七年九月末 述懐



七五調でつづられたこの内容は、

「開戦以来、幾万もの比類なき忠勇の将兵たちは
命を的に奮戦し、護国の神となっていった
ああ、私は天皇陛下に面目が立たぬ
将官たちや戦友の家族に告げるべき言葉もない

我が身は脆いものだがこの堅い一徹な決心で
敵陣深く切り込んで日本男児の血をみせてやろう
若者たちよ、死を覚悟した最後の戦いをしばし待つがいい
私もまた華々しく戦って後を追うから」


エリス中尉の現代語訳ではこのような内容となります。

うーん・・・・。

確かに言いたいことは痛いほどわかります。
この実質的に「遺書」とされている山本五十六の言葉にを
あれこれ言うのは実に心苦しいのですが、それを割り引いても
なんだか・・・・・言わせてもらえば、陳腐な文章じゃないですか?

七五調でおさめるにももう少し気の利いた文章というか言葉選びがあるような・・・。
内容そのものも当たり前すぎて、つまり「わたしも後を追う」という一言を言うために
ありがちな文句をつなぎ合わせただけ、と言った感があります。

名文として名高い「聯合艦隊解散之辞」の後にこれを見ると、
まるで大人と子供くらいの文章としての成熟度の違いを感じてしまいます。
(と最初は思った、というマクラとしてお読みくだされば幸いです)

それはともかく。

そもそも、この書ですが、どういういきさつで世に出たのでしょうか。

幹部学校によって付記された説明によると、これは
「旧海軍関係者より寄贈された」となっています。



山本五十六聯合艦隊司令長官は、1943年4月18日、
ブーゲンビル上空で乗っていた機を米軍機に撃墜され戦死しました。
この戦死を「海軍甲事件」といいます。

いきさつを簡単に述べておくと、海軍が1943年4月7日ソロモンで行った「い」号作戦が一応成功し、
山本長官は自らショートランド島方面に視察と激励に行くことになりました。

その際、前線の各基地に、4月18日の分単位の視察計画が暗号電報で通知されたのです。
その暗号はアメリカ軍によって解読されていました。


・・・・しかし、後からなら何でも言えるとはいえ、いくら暗号でも「分単位」の計画を通達。
スケジュール通り襲ってくださいと言わんばかりの迂闊さに、今さら唖然としてしまいます。

一人くらい暗号が解読されている危険性を考える関係者はいなかったのでしょうか。
と思ったら、一人、城島高次という航空戦隊司令官が、

「前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか」

と当時から憤慨していたということで、少し安心しました。
わたしがいまさら安心してもしょうがないですけどね。

しかも、海軍の微笑ましいまでのうっかりさんぶりはこれにとどまらず。
最近アメリカの資料で分かったことによるとこの暗号を討つ二週間前、
海軍は暗号を変更していたのにもかかわらず、
この長官の行動だけが変更前の古い暗号で打電されていたというのです。

だとしたら、これははっきりと打電を命じた「武蔵」の責任者と、新しい暗号を使うのが面倒で?
古いのをそのまま使った通信関係者の責任ということになりませんか?



ところで少し余談ですが、今回あるサイトで、

「アメリカは山本司令長官を真珠湾の立案者として憎んで処刑した」

と、何やら非常に感情的な復讐劇のようにこの撃墜を記述しているのを見ました。
まあ、確かにアメリカは真珠湾を「スニーキーアタック」として、国民にも憎しみを掻き立て、
戦意を高揚させていましたから、「憎んでいた」というのもあながち語弊では無いと思います。

しかし仮にも軍の戦略行動に対し「憎んで処刑した」はどうでしょうね。

憎むも憎まないも、前線に敵の最高司令長官が来ているというニュースが伝わり、
さらにある日、詳細な視察計画が暗号解読されたとしたら、
戦争している相手が、これを襲撃しようとするのは当たり前だと思うのですが。


ニミッツは「い号」作戦の前線視察の際にこの電文を受けて

「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。
どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」

と言って殺害計画を進めさせたと言います。
もっとも戦争というのは国家の憎み合いには違いはないのですが、戦争の作戦遂行にいちいち
「憎んでいたから」と解釈を付けて意味づけする必要があるのかって話ですね。

このサイトはある地方大学の教授がまとめているようでしたが、この真珠湾攻撃の部分は
やたら「プライドが」「誇りが」「憎んで」「復讐」などという煽情的な文言が多く、
分析というにはあまりにもアメリカ側の「感情」に立ちすぎた「感想文」としか思えませんでした。
少なくとも「歴史」じゃないだろ、っていう。


というのは全くの余談ですが、戦艦「武蔵」の電信員あたりがこの件の
「戦犯」ではないかと思われる徹底的なミスを犯したせいで、山本長官は戦死しました。


海軍はこの件を当初秘匿していました。

鈴木貫太郎がこれを聞いて驚き、嶋田繁太郎海軍大臣に
「それは一体いつのことだ」
と聞いたところ、嶋田が
「「海軍の機密事項ですのでお答えできません」
と官僚のような答弁をしたもので、普段温厚で寡黙な鈴木が
俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!
大声で嶋田を叱責したという話があります。


このことから想像するのですが、むざむざ司令長官を殺された責任を誰が取るのか、という点で
海軍内ではいろんな思惑が乱れ飛び、政治がそれを回避するために、
情報を抑えたり、あるいは報告の際、微妙に調整されたりしたのだと思われます。

そのため、山本長官の死亡状況すら軍医の検視結果でも明らかにされず、
報告が本当にそうだったのかすら歴史の謎になってしまい、いまだに

「即死だった」
「しばらく生きていた」
「第三者に撃たれた」
「自決した」
「機上戦死を演出するために遺体が撃たれた」


など、諸説が生きているありさまなのです。

その一因として、現場における検証で遺体の軍服を脱がせることすらさせなかった参謀がいたり、
軍医も粗雑な書類で単なる形式処理しかさせてもらえなかったという事実がありました。

日本の官僚的縦割り社会の悪いところが集約されているような話ですね。


さて、山本長官戦死後、遺品の整理のために「武蔵」の長官室の机の引き出しが開けられ、
そこから親しい者たちに宛てた「遺書」が見つかりました。

しかし、それがこの書であるかどうかは全くわかりません。

山本は、三国同盟締結の頃、つまり海軍次官の頃にもこの「述志」を認(したた)めており、
それが5年前、同級生の堀悌吉の子孫の家からみつかったという話もありました。
この頃は、三国同盟に反対し、国内での暗殺の危険があったためとされますが、
つまり、山本五十六は、海軍での人生を通じ、

しょっちゅう遺書を書いていた

ということのようです。



おそらくこの筆から数々の「遺書」は生み出されたのでしょう。

三国同盟の頃、つまり昭和14年に書かれた「述志」は、
この「述懐」より少し文言に装飾がみられます。



述 志

一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ、

豈戦場と銃後とを問はむや。

勇戦奮闘戦場の華と散らむは易し、

誰か至誠一貫俗論を排し斃れて後已むの難きを知らむ。


高遠なる哉君恩、悠久なるかな皇国。

思はざるべからず君国百年の計。

一身の栄辱生死、豈論ずる閑あらむや。

語に曰く、

丹可磨而不可奪其色、蘭可燔而不可滅其香と。

此身滅す可し、此志奪ふ可からず。

昭和十四年五月三十一日  於海軍次官官舎 山本五十六


これに比べると、冒頭の遺書には言いたいことだけを言うという
切羽詰まった感じが表れていると言えないこともありません。

なかでも、

将又逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし

という一説は、山本がいつも戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、
場合によっては自ら墓参に訪れたり、空母「赤城」艦長時代に、
艦載機1機が行方不明となった時は食事も通らず涙をこぼし、
搭乗員が漁船に救助されて戻ってくると涙を流して喜んだという逸話を知ると、
ただ単にありきたりの言葉を選んだだけではないということがわかります。

山本はまた、戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していました。
手帳には万葉集、歴代天皇の詩歌や自作の詩がぎっしりと書き込まれており、
戦死者への賛美と死への決意で満ちていたということです。

終始一貫、この人物は戦争で死なせた部下たちのためにもいつかは自分も死ぬ、
と覚悟を決めていたのでしょう。


その死に対し、山本五十六を知る周りの人間は、愛人であった河合千代子なども、総じて
「敗戦を見ず、軍事裁判にかけられることもなく死んだのは本人にとって幸い」という評価でした。

たしかにもしこのとき戦死しなかったとしても、終戦後の極東軍事裁判でアメリカは、
おそらく司令長官として山本に、真珠湾の責任を命で償うことを要求したでしょう。

いずれにしても死は免れないと知ったとき、すでに「何度も死んでいた」山本五十六は
ためらいなく自ら命を絶ったのではないだろうかという気がします。















空母ホーネット~「F-14のグローブベーン=DAR-SOCK」

2013-09-08 | 航空機

前回冒頭にトムキャットのメンテ中の写真を挙げたのですが、
今日のはもうちゃんと直っている、と気づいた方、あなたは鋭い。

実は、あれからもう一度行ってまいりました。
休暇でうちの所帯主が一週間来たときにホーネットのことを話すと
「ぜひ行ってみたい」
と言ったから・・・・・ではありません。

「今日、ホーネットにもう一度行きたいんだけど。
この間はツァーに参加できずに艦橋が見られなかったから。
あ、それとあのとき売店で見たDVDやっぱり欲しくなったから買いに行きたい」

我が家唯一の国際免許保持者のこのような有無を言わさぬごり押しによって、
その日の観光はいつの間にかホーネットになったのでございます。

そして、念願の「艦橋ツァー」に、途中まででしたがとりあえず参加できました。
このペースではいつになるかわかりませんが、そのうちアップしますのでお楽しみに。

ただ「欲しかったDVD」というのが・・・・・・・・。

実は、こちらのテレビ番組で「ゴーストハンターズ」という、廃墟や噂の霊スポットに
「ゴーストハンターズ」を名乗る数人の男たちが(女もいたかな)乗り込み、
ビデオを撮ったり音声を録音してあれが見えたのこれが聞こえたのと、
本当かウソかわからない幽霊探しをするという番組があるのですが、そのホーネット版があったんですよ。

前々回、
「でるんですよ。あれが」
と思わせぶりに予告したのは、これを見ていっちょうエントリをでっちあげてやろう、
とそのときに思いついたからで、そのためにもホーネットの売店にあったこのDVDを
なんとしてでも手に入れる必要があったのです。

が。

たしか最初に訪れた時には三枚はあったと思うのですが、一週間後にTOと行くと、
それらは売り切れてしまったのか棚には無くなっていました。

ほかのまともな(?)ホーネットものや、ヒストリーチャンネルのDVDなどは全部そのままで
どうしてこんなものが(それを買おうとしていたわけですが)真っ先にに売れてしまうのか。

仕方なくアマゾンでホテルに配達させようと検索したら売り切れ。

しかも、その動画が観られるというサイトでダウンロードのクリックをした途端、
コンジットという「ブラウザハイジャッカー」にコンピュータを乗っ取られ。
グーグルを出そうとしたら変なコマーシャル付きの聞いたことのない検索エンジンが出てきて、
おまけにブラウザが異常に重くなり、字が打てなくなり・・・・・。

息子が「ヒットマン」と「アンチ・マルウェア」を入れて3時間かけて退治してくれましたが、
「これ有名なマルウェアだよ。なんでも気軽にダウンロードしちゃダメじゃない」と叱られ、
これが本当の負うた子に教えられってやつか?

それもこれもすべてホーネットの売店のDVDが売り切れていたのが悪い。

しかしこの「ホーネットの霊現象」。
観光客的には人気ありそうなネタですよね。
そのうちお話ししますがわたしも実際に少し「?」な体験をしたので、見てみたかったのに・・・。

さて、というわけで最初に見たときのトムキャット。



もいちど改装後。



黒のペイントだけ塗りなおしたみたいですね。

最初の時にボランティアの解説係のおじさんが話しかけてくれて、
「何か聞きたいことがあったら何でも聞いてね」

と言ってくれたのですが、専門用語の聞き取りに甚だ自信のないエリス中尉、
このトムキャットの稼働翼についてくらいしか質問できませんでした。
まあ、それも予備知識があって大体のことがわかっていたから聞けたんですけどね。

そのときに、「メンテナンスはどれくらいに行われるのですか」と聞くと、
「いつもどれかしら必ずメンテしています」という返事。

ついでにおじさんは戦争に行ったのか、つまり「ベテランですか」と聞いたのですが、
とてもきまり悪そうに「行ってません」と答えました。
艦橋ツァーの解説員はかつてホーネットに乗っていた元海軍さんだったので、
ベテランでないということはこのおじさんにとって引け目だったりするのかな、
とこの反応に少し驚き、聞かなきゃよかったと思ったものです。



それではお約束、トムキャットF14のエアー・インテイク。

トムキャットはエンジン二つ搭載した「双発エンジン」ですが、このエンジンが離れており、
エアーインテイクから取り入れた流入空気を整流するのが容易でした。



ご覧のとおりのTF-30エンジン。

また、エンジンが離れていると一方が欠損してももう一つが影響を受けにくい、
という物理的な利点もありますよね。

しかし、もし一発が停止したとしたら、推力軸線と機体軸線とのずれが大きくなるため、
それを操縦するのはより困難なことになってしまいます。

ETOPS 120と言って、一般に双発機はエンジン1基が停止すれば操縦ができなくなるので、
最寄の空港から120分以上離れたところ、ましてや大洋を飛ぶことは許されなかったくらいです。

F-14は二基のエンジンの場所を離して、この間にはミサイルの搭載場所を確保しています。



エンジンノズル。
TF-30は、故障や事故が多く10億ドルを超える損害被害が出るほどの気難しいエンジンで、
このためF401-PW-400が開発されましたが、こちらも開発中に技術的な問題が噴出。
おまけにこのF-14、機体が高価なので、そのせいでこのAに続くF-14Bの計画はお流れになってしまいました。

先日お話しした「サンダウナーズ」はVF‐111でしたね。
このVF-101Grim Reapers 
つまり「死神」というニックネームを持つ
朝鮮戦争から続く要撃航空隊の使用機です。

いや、読者のリュウTさんのお話にもありますが、アメリカの軍用機軍艦船のネーミングは、
こういう「中二病」、あるいはD.Q.N?なセンスのものが多いとは思っていましたが、
これもまた思いっきりですね(笑)

翻って我が日本軍は、たとえば同じ想像上の存在でも「鐘馗」ですものね。
格が違う。格が。

それはともかく、彼ら「死神部隊」がこのトムキャットを採用していたのは1976年からのことです。
この隊とトムキャットの相性はきわめてよく、機体の燃費を向上させ、
さらには事故を起こさなかったことで安全章という賞を表彰もされていたようです。 



ミサイルもちょっとだけ搭載して見せてくれています。
F-14は最大でAIM‐54を6発搭載できるということですが、この状態では離艦はできても着艦できません。

「離艦はできても着艦はできません!」

映画「連合艦隊」で瑞鶴から出撃する幼い搭乗員のセリフみたいですね。
・・・・というのはこのブログを長年読んでくださっている方にならわかる話ですがそれはともかく、
この場合は瑞鶴搭乗員の「着艦訓練していないから」という理由ではなく、着艦重量のオーバーです。



ははあ。

ミサイルに「レイセオン」とあるから、これは中距離空対空ミサイルである
AIM-7 スパローのようですね。
自衛隊でも使われていたミサイルです。

調べていたら、このF-14が機体試験中のことですが、スパローミサイルを発射した時に

自分に当たって墜落した

という話を知ってしまいました。
自分で自分を撃墜してしまったと。
サッカーでいうとオウンゴールだけど、戦闘機でこれははめったにないことなのでは・・・。

というか、これどういう状況だったのかご存知の方いますか?
ディズニーシーの「ストームライダー」のように発射したミサイルが途中で向きを変え、
「ウソだろ~!」(by キャプテン・デイビス)という間もなくヒットしてしまった、とか?


このミサイルはベトナム戦争、湾岸戦争にも使用されています。

ところで、これ見ていただけます?



修理中のトム猫さんですが、翼をたたんでいるので、
なんか肩をすぼめたみたいに見えますね。

このF-14の大きな特徴が可変翼といって翼の角度を変えられるのですが、



この写真の左上、スリットのところから、グローブベーンという小さな翼が、
どうやら速度にに呼応して出てくるそうなのです。

マッハ1.4以上になると自動的に主翼付け根前縁から出てきて、
超音速飛行で揚力中心が後退するのを打ち消す目的でつけられたのだとか。

マッハ1.0~1.4では手動で(ぐるぐるハンドルを回すのか?)出すことができ、
また、空戦モードにしておくと空戦フラップと連動して迎角とマッハ数に応じて作動、
つまり「出たり入ったり」?

それは面白い。

さらには後退角55度の爆撃モードでは全開。


まあ、いろいろ考えて付けたわけですが、このグローブベーン、

実はあまり意味がない

実は意味がない

意味がない

ことが

そのうちわかってきて、後続の飛行機からは廃止されています。

理論上役に立つはずだから良かれと思って形にしたけど、
実はあまり役に立たなかった、ってものは世の中にたくさんありますよね。


役に立ちそうにない20世紀始めのころの発明

射出装置付きヘリコプター(ロシア陸軍用)など

作ったけど実は意味なかった、つまり「蛇足」というやつです。
作るにも至らなかったものも多いですけどね。

ただまあ、

役に立たなかったということが分かったということが、

次の開発に役に立った

ということもできますからね。


人類の科学の進歩というのはグローブベーンのような蛇足の集合体の上に
成り立っているといっても過言ではないでしょう。(適当)





 


アメリカのデブ救済番組「エクストリーム・ウェイトロス」

2013-09-07 | アメリカ

アメリカ人にデブが多い理由はシンプルです。

白人種(ヒスパニックも)は体質的に太りやすい
食生活
車中心の生活

太りやすい体質の人間が、朝からパンケーキにシロップとクリーム(チューブのあれ)かけて、
昼はマクドナルドのハンバーガーにコカコーラ、夜は食後にアイスクリーム1パイント、
そして移動は車がないとどこにも行けないので朝から歩く距離はごくわずか。

むしろこれで太らない人はいったいどういう体質なのかと聞き質したくなるほどです。

ですからどの辺からデブという基準が非常に高く、多少太っているというくらいでは皆気にしません。
しかし、それを上回る巨大なデブが多数生存する、それがアメリカ。
テレビでは毎日のように

「10分だけ毎日運動すればこんなに!」とか、

「飲むだけで代謝を良くしてやせる!」

などと、劇的に変身を遂げた人が「これでわたしは人生変わりました」
とにっこり微笑んでポーズを取るというCMがしょっちゅう流されます。

しかしたかが一日10分の運動とはいえ、効果が出るまでそれを毎日欠かさずできるような人、
そこまで意志の強い人なら最初からそこまで太ってしまうわけがないのです。


「誰かトレーナーがついてくれて、ずっとダイエットを指導してくれれば、
意志の弱い私だって痩せられるのに・・・・・」

こんな大多数の人々の声を形にした番組があります。

「エクストリーム・ウェイトロス」(Extreme Weightloss)

これは、ある日突然、手の施しようもないほどのデブの前に、
あたかも天使が降臨するようにウェイトロス・トレーナーが現れ、手取り足取り叱咤激励し、
あるときは慰めあるときは一緒に喜び、時には一緒に泣いてくれながら、
何か月間かの間に目標とする体重までウェイトロスを手伝ってくれる、という

(デブにとっては)夢のような番組。


去年、そして今年と、この番組をウォッチしてきましたのでご紹介します。
去年の画像はブレが多く見辛いものとなっていますことをご了承ください。

 

彼女の名はアシュリー。
ご覧の通りの「百貫デブ」。





いかにデブの多いアメリカ人でも年頃の女の子(23歳)がこれでは、
悩ましいことと思われます。
しかも、



彼女の姉弟(4人)で太っているのは彼女だけ。
突然変異のように同じものを食べていたのに彼女だけが膨張してしまったのです。



そんな彼女の前に突然番組のトレーナーが降臨します。



「もしあなたがやる気なら、これから私と一緒に頑張って体重を減らしませんか?」



彼女が全くあずかり知らぬうちに、周りが応募したのでした。
そんな事とは知らない彼女、トレーナーが現れる直前にも、このように
パーティに出されたご馳走を大皿に取って食べまくっていたのです。



本人も驚きですが、お母さんもびっくり。
それにしても、ちゃんとそこを聞いていなかったので誰が応募したのかはわかりません。



少なくともこの金髪の妹でないことは確かです。
どういうわけか彼女は姉のためにチャンスが訪れたことを喜ぶどころか、
何か面白くなさそうな表情を隠しません。
内心馬鹿にしていた姉がどんな形でも脚光を浴びたのが面白くないのかもしれませんが、
なにしろこの娘だけは最後までこんな感じでした。



最初に現在の体重を量り、目標値を決めます。
ガウンを着てにこにこしている彼女ですが・・・



ガーン。

410パウンド。(185kg)

何を食べたらこんな体重になってしまうのだろうか。



貴方の年齢の健康な女性なら、もっと体重は少なくあるべきです。
って当たり前のことですね。



これだけの水(1ガロン)をいつも抱えて歩いているようなものですよ。



そして具体的なダイエットプログラムが提示されます。
カーディオ・トレーニングは持久力運動ですね。



思わず天を仰ぐアシュリー。
そんな生活がわたしにできるのかしら?



体重を測ったこともなかった彼女が突き付けられた数字は過酷でした。
絶望のあまりつい泣き出すアシュリー。



四の五の言わんとトレーニング開始じゃい!



いきなり坂道を走らされます。
いつもこの番組を見て思うのですが、こんなデブにいきなり走らせたら、
心臓に負担がかかって急死してしまうのではないかと・・・。
ウォーキングくらいから始めた方がいいのではないかと思うのですが、
必ず最初から走らせたりハードな運動をさせるんですよね。



ボクシングも定番。
これは、被験者が、トレーナーに向かっていきながら自分の心をさらけ出し、
「太るに至った原因」をここで突き止める、といういわばお約束の展開が待っています。
人によってはここで涙を流しながらトラウマになっていることなどを吐き出し始めたりします。



彼女の場合は、両親が離婚しており、ほとんど父親と会うことなく今日まで来た、
そのことが心にのしかかっている、というのですが・・・・


それとデブとは関係ないんじゃないかい?

まあ、太るというのは一種のメンタルの不健康というものですから、
こじつければどんなことも太る原因につながらなくはないわけですが、
これもきっとスタッフが彼女にいろいろ家庭環境などを聞き出すうち、

「小さい時に分かれた父の面影を求めて、彼女の満たされない心は
食べ物を摂取することでその欠損を埋めようとした」

みたいな定型にあてはめたのではないかな、とつい意地悪く考えてしまうのですが。



This abandonmenntというのが、「父に顧みられなかったこと」を意味します。
ボクシングの途中で感極まって泣き、トレーナーはこれを慰めるため
二人は抱き合います。

これもほとんど毎回のお約束です。



76日、つまり二か月半がたちました。
それなりに体重は減ってきています。

51IBS減らしたということは23キロ減量したということ。
23キロというとすごいですが、もともとのレベルがレベルなので、これくらいでは
全く見た目の変化はありません。

それでも、おなかの段が少し減っているようには思われます。



90日目。

243IBS、つまり110kgにまで体重は減りました。
「大台突破」まであと10キロです。

こういう体重の人がその気になったら、面白いくらい体重は減っていきます。



よく頑張ったね、と成果をねぎらうトレーナー。
しかし、これは単なる途中経過にすぎないのです。

本当の地獄はここからだあ!



今回の軽量で30キロ減量したアシュリーさん。
首が出現しましたね。

 

ここで自分から提案して、精神科医のセラピーを受けます。
アメリカ人は薬を飲むように精神科医の診察を受け、メンタルヘルスをケアしますが、
「悩みを聞いてもらう」ことを医療行為だとはっきりカテゴライズしてるんですね。

彼女はダイエットを進める段階で、父親のことを誰かに聞いてほしくなったようです。

 




しばらくトレーナーのもとを離れ、自主トレに励んでいたアシュリー。
久しぶりに会ったトレーナーは、すっかり成果の出た彼女に驚嘆し、抱き合います。





このクリスというトレーナーは、いつもこうやって被験者の「やる気のツボ」を心得た
アメとムチで、ダイエットを成功に導くのですが、毎回毎回、
大幅に体重を減らした被験者を見ては心から驚き、時には涙まで流し、
決してビジネスライクではない(テレビだから当たり前かもしれませんが)その接し方が
もはや「芸風」と言ってもいいくらいです。



アシュリーも、クリスが心から驚き感嘆してくれるので、実に幸せそう。



うん、これくらいの太った人なら、アメリカでは決して「太っている」とは言わない、
というレベルにまでなっていますね。



そしてまた体重を計測。


 
うれしさが隠せないアシュリー。
こうなると皆そうでしょうが、より一層弾みが付きますよね。

しかも、この後は自然の中でマンツーマンの訓練が待っています。

 

とりあえず目標に近づいているということで、今はそれを楽しんでください、と
気分をリラックスさせるように持っていくクリス。



ここで、回によっても違いますが、トレーナーは被験者に今までやったことのない、
少し人生観が変わるようなアスレチック体験をさせることがあります。

今回は、滑車で谷渡り。
これ、気持ちがよさそうだなあ。

でも、最初アシュリーは怖がって脚が離れません。
トレーナーに後押しされて、

 


ぎゃああああああああ。

 

でも、のど元過ぎれば「貴重な体験だったわ」。



さて、198日が経過。
ん?
なんとなく美人っぽい面影になってきたような・・・・。



しかし・・・



まだおなかはこんな感じ。

この辺でテレビ的には彼女のトラウマである父親との再会を計画します。



すっかりきれいになったわが娘に父親は驚愕。
「なんてきれいなんだ」

褒められて微笑むアシュリー。

この再会と、やせた自分を父に見てもらたことは、彼女の心を癒したのでしょうか。



というところで体重は、179lbs。
81キロです。
なんと、当初から100キロの体重を減らしたんですね。



しかし、こうなってくると一つ問題が。

左のダルダルの体の人が、右の体重に減らした場合、
それがたとえ9か月かけてであっても、「皮」が余ってきます。



そう、アシュリーさん、服を脱ぐとこの状態。



少しわかりにくいですが、二の腕もこの通り。

この番組の大きなイベントとして、整形外科でこの急激に余った皮膚を
切除してしまう、というのがあるのです。



マリナ・デル・レイは、カリフォルニアのハーバーで、意味は「王のマリーナ」。
その名の通り、リッチな人々がヨットを係留している港のある町です。
そういえばここのリッツカールトンに泊まったことがあります。

そういう町で、美容整形外科医としてやっているのですからおそらく腕もいいのでしょう。

 

しかし、手術ができるかどうかは、患者の状態によって医師がOKを出してからです。
中にはここで「できません」と断られることもあります。
脂肪の量によっては「もう少し痩せてから来なさい」ということになってしまうのです。

どちらにしても、日本ではあまりやる人もいなさそうな手術ですね。



「スキンサージェリー」と言っていますね。
これは、「脂肪切除」ではないのです。



そこでお母さんが登場して、なぜか懺悔めいたことを・・・。
彼女なりに娘にしてやれなかったことに思い至ったのかもしれません。
アシュリーが肥っていた時には、突き放すような言動をしていた母親、
こういう展開になってそれが後悔となってあふれ出てきたものと思われます。


「わたしはこの一年でうんと成長したのよ」



わたしは人生をあきらめないわ。



わたしは愛を感じたことも、自分が強いと感じたこともなかった。でも・・・。



わたしの最後の計量を見ていて頂戴。 



わたしはその時本当に変身するの。

さて、手術を終えたら、彼女のダイエットは「完成」です。
そのお披露目は、彼女の家族はもちろん友人知人を招き、盛大に行われます。



会場ではかつての彼女の姿を実物大のパネルにしたものが用意され、
そこに大変身した彼女がドレスアップして現れるという趣向。



クリスが皆に彼女の頑張った過程について総評を述べます。
そしてその頑張りに自分がどれだけ感動したか、などということを。



おおおお。きれいになったアシュリーさん、登場。



もうこんなになってますから。



驚く知人その1。



驚くガッツ石松その2。



高々とチャンピオンのように彼女の手を挙げるクリス。



どう?昔の君だよ?



そして、かつて自分が肥っているときのみじめさを回顧することから始めるアシュリー。



これ、どうやらお父さんですね。



そしてわたしは何も変えようとしなかった。





一年前は鏡を見るのも恥ずかしかったの。



二の腕の下に手術の縫い目が・・・・。

われわれなら少したじろいでしまいそうですが、そもそももとの大きさが大きさなので
それを減らすためならこれくらいの小さい傷などなんでもないといったところでしょうか。



すべてが終わっても決してやせているとは言い難いですが、
それでも一年前に比べたらものすごい変化です。



これが・・・



これですから。
164パウンドというのは74キロ。
背も高い人なので、(170センチはあると思われる)アメリカ人としては十分です。

それに、彼女はこれからも体重を減らすのではないかと思われます。



楽しくエアロビクス教室に通う彼女。
すっかり外交的な性格になり、外に出るのが大好きになったようです。
そして、町で男性に声をかけられるまでになりました。



この番組のスポンサーはウォルマート。
エクストリーム・ウェイトロスを達成した出演者には、ウォルマートのカード、
5000ドル入りがプレゼントされます。



ところで、わたしはこの一番左の妹が気になりました。
最初からそうですが、姉が大変身し、皆に賞賛されているこの会場で、
彼女はずっとこんな顔をしていたのです。
ちょっとしたショットですが、明らかに彼女が「面白くなさそう」にしている様子が
捉えられているのです。

嫉妬でしょうか。
こんな場合に姉を嫉妬する、というのも、他の家族が心底うれしそうにしているだけに
違和感を感じます。
なんか、姉妹同士、いろいろとあったのかもしれないですね。



とにかく、この番組によって人生が変わったアシュリーさん。
まだ若いのですから、これからいくらでも彼女の人生には楽しいことが増えていくのでしょう。

わたしたちは「変身」が大好きですが、ただ洋服やメイクを変えたり、ましてや
整形手術で顔を変える、というものではなく、このよう自分の今までの心の重りを
脂肪と一緒に脱ぎ捨てて生まれ変わる、このような変身ものは、実に後味のいい爽快さすら感じます。

この番組がアメリカ人に非常に人気のあるわけがわかるような気がしました。


 


ナヴォイ劇場のオペラ「夕鶴」

2013-09-06 | 日本のこと



小学生のころ、「ワシリイの息子」という題の子供向けの本を読みました。

ある日、少年の家にやってきたロシア人の少年。
少年たちの父親は、その昔シベリアで知り合いだった。
抑留されていた父と、コサック兵として囚人の見張りをしていたロシア人ワシリイ。
極寒のシベリアで重労働をする日本人に同情を寄せるワシリイは、
次第に少年の父と心を通わせていく。

戦争が終わり、日本に帰っていった亡き父の友人をはるばる日本に訪ね、
「ワシリイの息子」は、何を伝えようとしたのか―。

この童話によってわたしはシベリアに抑留されていた日本兵のことを知りました。
そこの受労働が過酷なもので、たくさんの日本人が劣悪な環境のもと、
二度と日本の土を踏むことができなかったことを。

この抑留による死者数は事実上34万人、名簿があるのはわずか数万人。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証した
ポツダム宣言に背くものでありました。
ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、

「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」

と表明しています。

その抑留中に日本人が造った建築物が話題になったことがありました。
中央アジアに位置するウズベキスタン。
8 月末に首都タシケントにある「ナヴォイ劇場」で、
團伊玖磨作曲の「夕鶴」が上演されたときです。
このときに、当時抑留者としてタシケントにいた元陸軍軍人が、
日経新聞に手記を寄せていますので、ご紹介します。


私は客席で感無量の気持ちを抑えきれずにいた。
ナボイ劇場は戦後、旧ソ連軍の日本人捕虜だった我々が
建設に従事したオペラ・バレエ劇場だ。
そこで日本人が作曲したオペラを聞ける時が
80 歳の今日になって来るとは、
信じられない思いだった。

ナボイ劇場は延べ床面積 15,000 平方メートル、
観客席 1,400 で煉瓦(れんが)造りのビザンチン建築物である。
1947 年に完成し、
同地の大震災の時もほとんど被害がなかったという。

 

航空修理厰(しょう)の陸軍技術大尉だった私が
約240人の仲間と第四ラーゲリ(収容所)についたのは45年10月。

まだ25 歳だったが少佐以上の将校が別の場所に送られたため、
私が「タシケント第四ラーゲリー」の隊長となった。

後に収容所の人数は増え450人を超えた。


ナボイ劇場は第二次世界大戦中、建設工事が中断していた。
戦後、現地のウズベク人、ロシア人などが劇場建設を再開し、
捕虜のドイツ人は所内で靴修理に従事していた。


劇場建設に関わった我々の作業は、土木、煉瓦積み、彫刻、鉄工、
配線、大工、
左官、電気溶接、測量など多岐にわたっていた。
朝六時に起き、八時から昼の十二時まで作業。
午後は一時から五時まで働き、夕食後から消灯の九時までは自由時間だった。


隊長としては皆が無事に帰国するまで絶望せず、
肉体的にも衰弱せずに過ごすよう気を配らねばならなかった。
将校は私も含め大学や専門学校卒業直後に入隊した20 歳代前半の者が多く、
労働や食事なども仲間と同じだった。


我々の隊は元来飛行機の修理が仕事である。
機械、電気、板金、エンジン、計量器、配管、溶接と専門家がそろっていた。
中でも若松律衛君という大卒の建築技術者がいろいろアドバイスし、
ソ連側も一目置いていたようだ。
私は仲間に以心伝心で疲れぬように働けと伝えたつもりだったが、
それでもソ連側の期待以上に作業は進んだ。


気晴らしの道具もすぐに見つかった。
作業上の床板などで麻雀(マージャン)牌、将棋の駒、碁石などを器用に作った。
麻雀のレートは千点で配給の砂糖小さじ一杯分だった。


さらに現場の資材の利用で舞台、幔幕(まんまく)、衣装、
バイオリンをはじめ楽器類なども作った。
本職の役者がいて演技指導し、「国定忠治」や「婦系図」などを上演した。
こうなるとソ連軍将校が関心を持ち「次は何をやるか」と聞いてくることもあった。


無論,不幸なことに変わりはない。
食事は常に不足して、私も栄養失調で歩くのがやっとの時期があった。
南京虫には悩まされ、月一回のシャワーは石けんを流し終える前に湯が切れた。
冬は建設現場の足場板を持ち帰って部屋の薪にしていたが、
後にばれて厳禁となった。
二人の仲間が事故で亡くなった。


それでもシベリア労働などに比べれば恵まれていた。
現地の人々と風ぼうが似通っていたこともあり、
作業現場では人種差別もなく片言で会話を交わし、良好な関係だった。

47年の完成間近に,バレエなどの練習を見せてもらった仲間もいたという。
ナボイが完成するとみな別々のラーゲリに分かれ、
やがて帰国した.私は 48年7月に舞鶴に到着した。


ウズベキスタンと日本の関係が近くなったのは同国が91年に独立してからである。
民間の日本ウズベキスタン協会が発足し、昨年(平成12年)は
羽田孜元首相とカリモフ大統領との会談がきっかけで夕鶴公演の話が進んだという。

今年(平成13年)5月になくなった團さんも,生前大いに乗り気だったという。
私もかつての収容所仲間とともにタシケントを訪れ、一週間滞在した。
演出家の鈴木敬介氏はナボイ劇場の歴史の重みを感じ、涙混じりでリハーサルをしたという。



当日は一、二階だけではなく普段は入らない三階席まですべて埋まる盛況ぶりだった。
鶴の恩返しをテーマにしたオペラだから、現地の人々にも理解しやすかったのだろう。
最初に10人近くのウズベキスタンの子供たちが日本語で歌を歌う場面があり、
強く心を揺さぶられた。

フィナーレでは観客が総立ちになって拍手していた。


戦争終了後異国で強制労働に従事させられ、
青春の数年間を抑留生活で失ったことは、取り返しのつかぬ損失と思っている。
しかし、今回戦友の墓参りが出来、またナボイ劇場で、
我々の建設当時とほとんど変わらぬ姿であることを確認できたのは大きな喜びだった。
完成時に劇場の庭に植えたポプラやプラタナスの若木が20メートル以上になっていた。
この木が枯れぬよう友好が続いてほしいと願っている。

 (元タシケント第四ラーゲリ日本軍隊長 永田行夫陸軍技術大尉)

 日本経済新聞,平成13 年9月26日版
 
 


タシケントは人口約250万人の大都市で、政治、経済、商工業の中心です。
1966年4月26日にここで大震災が起こりました。
この震災では町の建物のほとんどが瓦礫と化してしまいました。

ところが、ナボイのオペラ劇場など、
第2次世界大戦後シベリアに抑留されていた日本人が
強制労働で建設した建物だけが、この震災に耐え、びくともしませんでした。
 
この地には日本人の敷いた道路が何キロにもわたって町を走っています。
何キロにもわたって、舗装の下には煉瓦の敷き詰められた道路です。
それだけではありません。
未だに人々が使用している建物、学校だったりアパートだったり。
運河も日本人の手によるものです。

そしてこの地方のどこを訪れても、日本人が働いていた様子が語り継がれており、
日本人は勤勉で規律正しい人達だだった、嘘をつかない人々だったと
人々は口をそろえて言うのだそうです。

あるウズベキスタンで生まれ育った人の話です。

「子供の頃、日本人が入っていたラーゲリ(収容所)の近くに住んでいた。
日本人は毎朝、挨拶をし隊列を組んで仕事場に出かけていった。
夕方また隊列を組んで戻ってきた。
ある時お腹が空いていることだろうと思って、
友達とラーゲリの垣根の壊れたところからパンと果物を差し入れた。
そうしたら二、三日後に、手作りの木のおもちゃが置いてあった。

親から、『日本人は規律正しい人々だ。
勤勉で物を作ることがとても上手な人達だ。
そしてお返しを忘れない律儀な人々だ。
あなたも日本人を見習って大きくなりなさい』と言われて育てられた」



タシケントの日本人墓地には強制労働で亡くなった方のうち、
氏名が判明した79名が今も眠っています。

そして劇場敷地内にある記念碑には、
日本語で次のような言葉が刻まれているのです。

「1945年から1946年にかけて極東から強行移送された
数百名の日本兵士が、この
アリシェル・ナヴォイ劇場建設に参加し、その完成に貢献した」


苦しい抑留生活の中でも規律正しく、優しさと日本人としての誇りを失わず、
その高潔な振る舞いで現地の人々に尊敬された抑留兵の方々。

日本人として心から敬意を表し、感謝を捧げたいと思います。



 



 

空母ホーネット探訪~「怒りのフューリー」

2013-09-05 | 航空機

航空機に興味を持ち出したのがここ三年で、おそらくこれを見ておられる方々の誰より
航空機の知識にかけては未熟者であるエリス中尉ですが、
アメリカでこうやって歴史的な飛行機を生で見ることができる、という強みだけはございます。

自衛隊機についてはとりあえず一通りは実際に観たかな、というところでアメリカに来て、
いちどきに大量の米軍機、自衛隊で運用されているもの以外もかなりの数見ることができました。

自衛隊機はほとんどがアメリカ製なので知っている機体も多かったのですが、
日本では決して見ることのできない、かつて日本軍と戦った航空機などを見ると
ひとしおならぬ感慨を持ちます。

いや、本当に平和っていいですね。

さて、USS「ホーネット」には、空母ですから各種艦載機が展示されています。



U.S.S. ホーネット CVS-12 航空隊

これらの航空機は、かつてそれらが製造されたような方法で復元されているが、
それはパイロットがそれらを飛ばし、整備士がそれらを整備し、
かれらクルーがひび一つないまでにしており、
並はずれて優秀な作業であったとしかとしか言いようがない。
それはかつての乗員が残したままである。
純粋にこれは尊敬に値し、これらを顕彰するものである。

って感じでしょうかね。ちょっとこの翻訳自信ないんですけど。
まあ、意味は間違ってないと思うので細かいところは見逃してください。

母艦乗りの日高盛康少佐が戦後残した手記では、自分が事故を免れたり
戦後まで生き残ったことを幾度となく

「天佑神助と整備員のおかげ」

と言い切っていましたが、飛行機乗りは自分の命を乗せて飛ぶ飛行機を
整備してくれる整備員に常に感謝し、畏敬せずにはいられないものです。

整備員が自分の整備した飛行機にかなしいまでに責任を感じるのは今も昔も同じで、
たとえばその機が整備不良で事故を起こしパイロットが死亡した場合には、
自殺してしまう者すらいるものだそうです。

T-33の入間での墜落事故の際も、射出高度が足りないのにもかかわらず
乗員の二人が最後にベイルアウトしたのは、整備員に気を遣ってのことだったのではないか、
(故障で射出できなかったからではないかと彼らが気に病むから)という話もあるくらいです。

この大きな垂れ幕は、ここに展示するための飛行機を整備したクルーを
改めてねぎらっているのですね。



UH-34 SEA HORSE

おにぎりのようなシェイプがかわいらしいシーホースですが、
ベトナム戦争時代に活躍した飛行機です。
シコルスキーのS-8のアメリカでの運用名の一つで、もともと
「チョクトー」という名前だとか。
チョクトーはチヌークやアパッチ、シャイアン、イロコイと同じく、
ネイティブアメリカンの部族の名前です。

「菅直人」が「カンチョクト」と呼ばれていたのを思い出してしまいましたわ。
どうでもいい話ですが。

アメリカ軍がネイティブ・アメリカンにまつわる単語を機種や部隊名にするのは
かつて殺戮した種族でもこのころは彼らもアメリカ国民として戦争に貢献しており
また、航空機産業の発祥の地がたまたまネイティブアメリカンの居住地に囲まれていた、
という経緯も若干は関係しているようです。

「ブラックホーク」というのも実は有名なソーク族の酋長の名前だそうです。




ホーネットにエントランスから入っていくと、そこはハンガーデッキです。
かつてのように航空機が並べられて展示してあります。

展示飛行機はレストアされたり増えたりしていつも同じではない、ということでした。



管制室には黄色い制服を着た乗員のマネキン
がいます。

ホーネットでは乗員の持ち場に応じてユニフォームの色を変えていました。
赤、黄色、白、青、緑、茶色、紫で、黄色は「ハンドリング」つまり飛行機の誘導をする部門です。



これが全部ホーネットの搭載機?

あまりにも多くて驚いてしまうのですが、
左上から縦に(面倒なので愛称だけ)

ヘルダイバー、トムキャット、ドーントレス、ディバステイター、ミッチェル。

コルセア、ベアキャット、ヘルキャット、ヘルダイバー、アベンジャー、スカイレイダー。

スカイホーク、フューリー、バンシー、パンサー、サベージ。

トラッカー(E1B)、トラッカー(S2F)、シースプライト、シーキング、シーホース。

浜松の航空博物館などに比べると、実に素朴というか、プロにはない
この何とも言えない手作り感が微笑ましく感じます。
絵の得意な関係者がボランティアで描いたという感じですね。



米軍艦船のマークもこのように。
このドナルドダックはきっと軍需産業ウォルトディズニーの篤志でもらったデザインに違いない。
だからディズニー、てめーは(略)

レキシントンは、昔ボストンに住んでいた時に近かったので何度か立ち寄りました。
あ、レキシントンという町のことですね。
ここは独立戦争の時に大きな戦闘があったところなんですよ。
だからマークも、独立戦争時の兵士がモチーフでしょ?



いちばん右の「Bon Homme Richard」ですが、なぜかフランス語で、
ボノム・リシャール」と読みます。
直訳すれば「善人リシャール」ですが、実は「お人よしのリシャール」ってとこですかね。

超余談ですが大学時代音楽学(そんなもんがあるんですよ音大というところは)の授業で
フランスの古典の民族的歌謡の講義を受けたんですね。
その時に教授が使った資料に確か
「うちの亭主はお人よし」(Mon mari es bon homme)という戯れ歌がありましてね。
もちろんフランス語の歌詞なんですが、最後に
「うちのニワトリが鳴いている、コキュ、コキュ、コキュ(COCUE)」という一文。

そこで教授、
「フランス語専攻している学生、手を挙げて・・・はい君COCUEとは何か」 
「知りません」
「それでは君」(エリス中尉に)

「はい、それは妻を寝取られた夫のことです!」(きっぱり)

ええ、高校時代にフランソワーズ・サガンをとりあえず全部読んだわたしですもの、こんなの即答ですわ。

教室は静まりかえり、ややあって教授、(この教授の専攻はドイツ語だった)

「・・・・・・・・・・・よう知っとる・・・・・・・・・・」 

知っていると思って聞いたんじゃないのかよ。
ともかくこの「ボノミ」にはどちらかというと「お人良し・間抜け」という揶揄が含まれています。


閑話休題。

モットーの「I Have Not Yet To Fight」、これは単にわたしの想像ですが、
You ain't heard nothin' yet!」から来ているのではないかと思います。
つまり、「お楽しみはこれからだ」ならぬ、

「戦いはこれからだ!」

Don't Tread  On Me」は「私を踏みつけるな」ですから、おそらく

「わたしをあんまり怒らせない方がいい」(AA省略)

でしょうか。
艦名はお人よしだが、なめてもらっちゃ困るぜ!みたいな言い訳感満載のシンボルです。




下段真ん中の「キアサージ」にご注目。

もともと「キアサージ」だったCV-12を、日本に沈められた「ホーネット」の名に変え、
その後新しく生まれたCVS33を「キアサージ」にした、という話をしましたが、
そのキアサージの観光地の看板風の艦章があります。

IN OMNIBUS PINNACULUM

この意味はよくわかりませんでしたが、艦の後ろに三つそびえる「ピーク」が、
オムニバス、つまり連なっていて「連山」ということだと勝手に理解しました。
キアサージとはカリフォルニアのシエラネバダ山脈にある山の名前なので、
このように連なっているのでしょう。


上真ん中のWASPもこのHORNETと同じく、ハチさんですね。
ワスプはスズメバチで、ホーネットもなぜかスズメバチです。

よく見ると、ハチが敵艦船を刺している。
ハチは一刺しするとその後死んでしまうんだけどそれはいいんだろうか。



US-2B TRACKER

2000年からこのホーネットに展示されているトラッカーです。

うーん・・翼のたたみ方が、雑だ(笑)

 

トラッカーは読んで字の通り「追跡者」。

しかし、この「無理やり機体をたたんでいる感」はすさまじいですね。

と思ったら案の定、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
搭乗員たちからは不満続出だったということです。



ん?お尻に見えている突起はMADブームかな?
これが伸びるんだろうか・・・・・・。

そういえば、ニコラス・ケイジの映画に「コンエアー」ってありましたけど、
あれ、囚人が飛行機で搬送中反乱を起こして、って話でしたよね。
「コンエアー」って、もしかしてこの機種の派生型「コンエアー」のことだったんだろうか。


それにしても、作業が途中のような雑然とした感じでしょう。
これは、しょっちゅうどれかの飛行機に手を入れてメンテナンスを続けているからなんですよ。


 

こちらもメンテ中でございます。
航空博物館といっても裏手に持っていくわけでに行かないので、展示スペースで
すべてをやってしまおうとすると、どうしてもこういうお見苦しいところを
見学者に見せてしまうことになるのですねわかります。

こういうのも興味のある人間にはありがたい眺めなので歓迎ですが、
日本の施設ならもう少しこぎれいにして展示すると思うんですけどね。
いずれにしてもアメリカ人というのは良くも悪くも雑駁な国民性であるなあと思います。

このコブラさん、鼻の下にバンソウコウを貼っています。
あれ?もしかして、ローターありませんか?



FJ-2 FURY

この「フューリー」って、

激怒, 猛威, 激情, 憤激, 怒気, 鬱憤, 腹立ち, 加害, 立腹, 余憤, 欝憤

っていう意味なんですよね。
なんだってこんなネガティブな名前を付けたんだろうノースアメリカン、いやアメリカ海軍。
だから本日のタイトルは単に語呂がいいからちょっとやってみました。
意味はありません。反省してます。

同じフューリーでも、FJ-1とこのFJ-2は翼の角度からして全く別物で、
というのもこちらはF-86セイバーの派生形なんですね。
なんですかね、ご予算的に新型飛行機じゃなくて改良型ですよ、と言い訳する必要があったのかしら。

そしてこの製造の影にも実はアメリカ海軍の悪い癖、

「空軍が持ってるならおいらも」

があったのだった(笑)

実はこの前にF-86が空軍において素晴らしい性能を発揮したのを見て、
海軍も艦載機としてこれが欲しい!空軍が持ってるんだからうちも欲しい!
というわけでセイバーに改造を施しさらに機銃を搭載したものを採用したんですね。
後退翼になっていることからしてFJ-2とは全く別系統の飛行機を作らせたのです。

ところがこの型は離着艦性能に難があるということがわかってしまいました。

アメリカ海軍、人と同じものを欲しがる前にちゃんと自分とこで運用できるかどうか調べろよっていう。
それで海軍はこれを全て海兵隊で使用することに決めたというわけ。
この機体に「マリーンズ」と大きく書いてありますね。




インテークの穴は展示の時だけふさぐのだと思いますが、この「蓋」、
ちゃんとカラーコーディネートがされていておしゃれです。

このように翼をたたんだ状態で展示してくれる方が、特性がよくわかっていいですね。
さきほどのトラッカーの無理無理感とは違って、実にスマートに羽をたたんで(立てて)います。

このフューリーが海兵隊の所属でどのように実戦に投入されたのか、今回はわかりませんでした。


というわけで、またもや寄り道が多くて冒頭のトム猫さんの話にたどり着けませんでした。
次回に続く。






映画「海と毒薬」と九大「生体解剖」事件

2013-09-04 | 日本のこと

1987年作品です。
デイブ・スペクター氏が深夜再放送されていたこの映画を観て、
「日本はお金が無いときの方がいい映画を作っていたみたいだ」
書いているのを読んで、思わず
渡辺謙と奥田瑛二もわからんのかこの埼玉県出身のアメリカ人はっ!」
と突っ込んでしまったわけですが、デイブ・スペクターは、
この映画を戦後すぐの白黒作品だと思い込んでしまい、
日本人俳優を見分けられなかったのかもしれません。
お金がないどころか、日本がバブル経済に突入したころに
この映画は製作されたわけですが。


手術シーンにはスタッフの献血によって集められた血を実際に使い、
それだけではなく心マッサージのシーンに、
保険所から譲り受けた予定の犬を使い、それがため、
動物愛護団体その他から抗議が殺到したというこの映画。

アメリカであの写実医療ドラマ「ER」が撮られる前に、
医療シーンの映像リアリズムにおいてこ世界の先端をを行っていたわけですが、
つまりそのシーンがあるために、
カラー映像の生々しさを避けたのかとも思われます。


原作は遠藤周作の「海と毒薬」

ある男が自然気胸の治療のため寂れた医院を訪れる。
腕はいいが、なぜか虚無的な医師の様子に、男は興味を持つ。
ある日、男は、医師が街の紳士服店のウィンドウの前に佇んでいるのを見かける。

医師が凝視していたのは、外国人男性を模した、マネキンだった・・・・。


こんな出だしで始まる小説は、大戦中、本土を攻撃し撃墜されたB29の搭乗員が、
九州大学の医学部において「生体解剖」された、
という実際の事件をモチーフにしています。

東京裁判についての本を読んでいると
「巣鴨にはこの生体解剖の手術に立ち会った看護婦が、
唯一の女性戦犯として収監されており、戦犯たちは興味しんしんで、
中には塀越しにからかう者もあった」
などという記述があったりして、派生的にこの事件に興味を持ちました。
上坂冬子「生体解剖 九州大学医学部事件」を読んだのも、この流れです。

勿論、この映画は文学作品がベースになっていますから、
ノンフィクション的な手術の経過や
軍と大学の間にどのようなやり取りがあったかについては触れられません。

医学部の学生であった二人の青年が、この事件となる実験に立ち会い、
戦後、戦犯容疑でGHQの取調官から尋問を受ける過程で、生と死、
そして罪と罰について考える、
その煩悶のさまがストーリーの焦点となっている文学作品です。

今や世界のナイス・ガイ、ケン・ワタナベも、このころは神経質そうな優男。
奥田瑛二は、本人いわく
「遅れてきた新人といわれ、当時、女の子にキャーキャー言われていた僕の、
俳優としての転換点ともなる作品だった」
つまり、かれが今日第一線の俳優として活躍している原点がここにあったと。
確かにここでの奥田は、さらさらの長髪をしょっちゅうかきあげ
悩ましげに海を見たりする、
いかにも女の子受けしそうな甘いマスクの二枚目ですが、
この立場に慢心しなかったのが、この人の賢明さではなかったでしょうか。

ちなみにわたしは、俳優、奥田瑛二のファンです。


この事件が世間の耳目を集めたのは「生体解剖」という言葉の衝撃的な響きでしょう。
文字通りそれを解釈すれば
「人体を、その生命がまだあるうちに、つまり生きながら解剖した」
という、猟奇事件のようなまがまがしさを感じさせます。

世間には「生体解剖事件」として知られ、上坂氏の著書の題にもなっているのですが、
事件当時、医学生として九大におり、
手術を目撃していたためGHQの尋問を受けたという、
医師で作家の東野利夫氏は、
「汚名 九大生体解剖事件の真相」
という著書で、その「生体解剖」という言葉そのものに真っ向から異論を唱えています。

無差別攻撃を行い、軍事裁判にかければ死刑になるのが確実、
とされたB29の搭乗員
6人の捕虜は、陸軍の命を受けて九大に送られ、
実験的治療を施されて死亡に至った。


これが事件の概要です。
つまり、実際に行われたのは「生体解剖」(ヴィヴァセクション)ではなく
「人体実験」です。
実際には研究途中であった代用血液としての海水の注入、肺の切除、
心臓を停止させるなどの「生還の不可能と思われる治療」がなされ、
被験者は全員死亡したわけですが、
生身を切り刻んで「生体」解剖をした、という事実は全くありません。

東野氏は事の真相そのものを遥かに凌駕する誹謗や、
はては「捕虜の肝臓を食った」などという冤罪を投げかけられ、
戦後の長きに亘って着せられた彼らの「汚名」を濯ぐためにこの本を書いた、
とその前書きで語っています。


この件は「BC級戦犯裁判」でその罪が問われました。
つまり、裁いたのは戦勝国側です。
アメリカ人の捕虜が軍事裁判を受けずに実験的手術の末死亡した。
東京裁判そのものが「戦勝国側の報復」であったという定義の上で語れば、
この件は「報復に値する犯罪」でしょう。
しかしながら、その東京裁判の定義そのものに果たして「正義」はあったのか。

死亡した搭乗員たちが、その前に本土爆撃を何度も行い、
無辜の市民がそれによって何万人も死亡していたという事実をどう考えるのか。

正式な裁判を経ずに殺したのが犯罪なのだとしたら、裁判どころか、
無抵抗の日本兵を捕虜にもせずその場で殺戮した連合国の兵士の行為はどうなのか。

米軍飛行士たちの死体を、臓器の収集のために解剖したということが犯罪なのならば、
沖縄で日本人の頭部を切断し、釜でゆでて骸骨を作成し、
「記念」として自分の恋人に送ったアメリカ兵たちの行為は
なぜ人道的な犯罪として問われないのか。

同じ戦争を戦ったのですから、叩けば埃の出るのは自分たちも同じなのです。

そこでアメリカと言う国が日本の戦争行為を糾弾するときの常套手段ですが、
自分たちの戦争犯罪を僅少なものにし日本のそれの方が悪質であったと主張するために、
事件に色をつけたり、数を捏造したり、という脚色を行うわけです。

この事件におけるそれが
「被告たちは捕虜の肝臓を料理し、それを宴会で食べた」というものでした。

この手術に携わった大森卓という陸軍の見習軍医が、捕虜の血を持って帰り、
「シラミ退治の薬に混ぜる」と言ったこと、
そして遺体からなぜか肝臓を切り取って持ち帰ったこと。
大森軍医はその後無差別爆撃によって死亡するのですが、この行為からGHQが

「偕行社病院での宴会で皆が肝臓を食った」

という仮定を導き出し、尋問においてそれが厳しく各被告に問われたのです。

この検事の論告は「生体解剖」そして「人体嗜食」という、
まるで猟奇事件のようなイメージをマスコミに報道させることになり、
案の定世間はこの誘導にまんまと引っ掛かります。

「悪魔の科学者」

これは、この事件で裁かれた人々に向けられたものではありません。
松本サリン事件直後、確証もなくマスコミが一個人を犯人だと決めつけていた頃に
あるスポーツ紙の見出しになったアオリです。
ムードと状況で結論ありきのマスゴミのセンセーショナルな報道によって、
一つの事件は時として推定有罪となることがありますが、この事件がまさにそうでした。

独立国となった平成の世においてもそうなのですから、
進駐軍占領下のジャーナリズムにこの件を公平かつ冷静な「裁判」として
報じることなど全く不可能であったでしょう。
果たせるかな、占領軍が、自国の犯罪の数々は棚に上げて捏造したとも言える
この食肉事件を、その占領軍の意を受けた当時のマスコミは
大げさにリードしヒステリックに言い立てたのです。

この件で最初容疑をかけられた人々の供述書には、

「二つの皿があり、一つはご飯、一つには野菜、
そして人間の肝の入っている皿があった。
看護婦が人間の肝臓を回した。肝臓は薄く切って醤油で煮てあった」

などという、実に真に迫った描写ががなされています。

しかし、このGHQの尋問を受けた者の証言によると、このやり方とは、

「脅迫的な自白を強要され『人間の肝など食べさせられていたら吐き出していただろう』
と言ったことを、本当に食べたように調書を作成させられた」
「肝を食ったとしても大した罪にはならないが、偽証するともっと長い重労働の刑になる
といわれて家族のことを考え口述書に署名した」
「肉体的脅迫の結果、精神的苦痛に耐えかねて虚偽のことを述べた。
後から撤回しようとしても聞き入れられなかった」

精神的な拷問による自白の強要の末、その証言を都合良くつなぎ合わせて調書を作成し、
それに強制的にサインさせる、というものでした。

この訴えは弁護人によって裁判に提出され、
結局食肉事件の容疑者は全員無罪となったのです。
連合国による裁判がちゃんと法に則って機能していた、
というのが唯一の救いといえます。

しかし、センセーショナルに騒ぎたてられ、
世間に刷り込まれた猟奇事件としてのイメージはいつまでも消えることなく、
関係者はその残りの人生を懊悩と煩悶のうちにすごし、
人目を避け世間から身を隠すように生きなくてはいけませんでした。



この映画は、大学病院内の権力闘争を絡ませ、地位と今後の権力掌握を狙う教授が、
重要なオペに失敗した失点を挽回するために軍の要請を受ける、
という設定になっています。
ここで大学関係者の関心は権力闘争の一点にしかありません。
食肉に関しては陸軍の野卑な軍人たちが冗談で
「肝を食ってみようかい」
と手術前に笑ったのを、まるであてこするように、
医学生の渡辺謙が膿盆に乗せた肝臓を
「ご所望のものです」
と彼らの前に差し出し、軍人たちは鼻白む、という表現がされていました。


元をたどれば、この「生体解剖事件」は、陸軍軍令部の某が
「どうせ有罪で銃殺刑になる予定の捕虜たちだから、それなら、
戦時下に必要とされる研究の実験台にすれば、一挙両得、
捕虜にとっても銃殺されるより安楽な死に方ではないか」
と考えたことに端を発しています。

そうして陸軍がその話を大学病院に持ち込み、持ち込まれた医学者たちは
「どうせ処刑になるのだから」という言葉を免罪符に
かねがねやりたかった人体実験を行い、医学者なら普通にそうするように、
遺体から標本のための臓器等を切除したのでした。

当時のジャーナリズムが猟奇的、野蛮、非人道的、残虐非道といった、
非道徳性の弾劾の側に立ってそれを報じた事件の裏には、しかしながら、
今日、どこをどう見ても個人的に裁かれなければいけないほどの悪人は存在しません。

この事件においては、確かに当初から科学者の良心が厳しく問われました。
しかし、裁く側のアメリカはさておいて、彼ら関係者が
当時戦争の狂気のもとにあったことがまず、糾弾するジャーナリズムの論旨から
全く抜け落ちていたことを、我々は考慮するべきでしょう。

あの時代、あの切迫した状況で、
例えばあのB29の搭乗員の手によって日本人が毎日のように死んでいく中で
取捨選択の余地もなく、ただ目の前に突き付けられた出来事に対し、
それでも科学者としての良心そして倫理を屹立することは、果たして可能なのか。

そこにあるのは、ただ戦争の悲惨と、愚劣と、不条理。
そして、その不条理の中に在った者を、
そこに無かった者が断罪することの虚しさに尽きます。

このB29の搭乗員に、たった一人生存者がいます。
そのマービン・ワトキンス氏(B29機長)に、東野利夫氏がインタビューをしています。
ワトキンス氏が語った最後の言葉は次のようなものでした。

「この事件の関係者の中で、まだ胸を痛めている方がおられたら伝えてください。
わたしは決してその方たちに悪い感情など持っていないということを。
死んでいった部下は可哀そうだったが、ナチスがやったような残虐な殺され方でなく、
麻酔をかけられて分からないようになって死んでいったのがせめてもの私の救いです」


虚無的な医学生戸田(渡辺)が、勝呂(奥田)が親身になって診ている学用患者の
「おばはん」について、こんなことを言います。

「おばはんが空襲で死んでもせいぜい那珂川に骨なげこまれるだけやろ?
けど、オペで殺されるんなら本当に医学の生き柱や。
おばはんもいずれは仰山の両肺空洞患者を救う道と思えば以て瞑すべしや」

「新しい実験するのに猿や犬ばかり使うてられへんよ。
そういう世界をもうちょいおまえも眺めてみいや」

ここで戸田の言う

「どうせ死ぬ命なら、医学の礎として利用すべきである」

という論理は、ドストエフスキーが「罪と罰」で問うた
強者の倫理とも言うべき合理主義です。

生命をその手で扱う医師が、ともすればそれを無機的に見ることは
仕方の無いことかもしれません。
だからこそ医師とは、生命への畏れを人一倍持たずには
携わるべきでない職業であるとも言えます。
しかしひとたび戦争のような異常な世界に置かれたとき、
ただでさえ摩耗しがちなその畏れをそれでも堅持し続けることは
やはり誰にとっても容易なことではないでしょう。



ところで、この映画について調べてから、
わたしはあることがずっと気になっています。
この映画の手術シーンで、保険所から譲り受けた犬が解剖された、
という事実です。

映画の製作者は

「どうせ保険所で殺処分される犬だから」

という理由を言い訳にしたのでしょう。

「どうせ処刑される捕虜だから」

この事件の関係者たちの弁明と全く同じであることに、
スタッフの何人が気づいたでしょうか。




オークランド航空博物館~ドゥーリトル・ルーム「我が敵ドイツ」

2013-09-03 | 航空機

オークランド航空博物館の「ドゥーリトル・ルーム」について、続きです。

せっかくですからドゥーリトル空襲について少し補足しておきますと、
空母ホーネットから

横須賀・・・・・・7機、
東京・・・・・・・・3機
横浜・・・・・・・・3機 
名古屋・・・・・・2機
神戸・・・・・・・・1機

 計16機が爆撃に飛来しました。
このうち1機を除く15機が曲がりなりにも空襲に成功。
その1機は、陸軍の要撃機に多数取り囲まれ、爆弾を捨てて離脱しました。

この時の日本の被害はというと。

死者87名、重軽傷者466名、家屋消失262戸。

ドゥーリトル隊長機は陸軍造兵廠を目標にするも、攻撃場所を間違えて一般人を2名死亡させ、
学校屋上に設置されていた防空監視櫓を見て軍事施設と誤認し、
日本機だと勘違いして手を振った小学生に掃射を加えたり、あるいは
陸軍施設を狙ったつもりが隣の?病院に爆撃してしまった機もあります。

このことから日本側はこの攻撃を「悪逆非道の振る舞い」とし、中国大陸に逃げたものの
間違えて日本軍基地に降下してしまった機の搭乗員のうち三名は
「国際法違反」として処刑し、残りのメンバーは捕虜として収監しますが、彼らは獄死します。


しかし彼らを庇うわけではありませんが、民間人とわかって意図的に攻撃した機は16機のうち
16番機の一機だけであったようです。

生まれて初めて戦闘行動で上空を飛ぶ異国の、どれが軍事施設でどれが学校なのか、
はっきりいってテンパっている彼らにはわかりかねたのかもしれません。

このときに間違えて日本軍基地に降下し、捕虜になった爆撃手ジェイコブ・ディシェイザー
1945年8月20日に
解放されたあとキリスト教の伝道者となり、来日して布教活動を行っています

真珠湾攻撃の飛行隊総隊長を務めた淵田美津雄
中佐が、戦後キリスト教伝道者となったのは、
ディシェイザーの冊子を読んで、キリスト教に興味を持ったからだと淵田本人がその著書で述べています。




 ここに展示してあるので「む、これで東京空襲を行ったのか?」
と思ったのですが、惜しいところで違いました。

これはB‐24、コンソリデーテッドのリベレーター
後ろにあるのはパイロット用の無線マニュアルです。

光ってしまってちゃんと写っていませんが、左上はP‐51搭載の
マーリン・エンジンのなぜかバルブだけ。

で。それが何か、って感じの展示ですね。



すっかり退役軍人の趣味のプラモ発表の場となっているここドゥーリトル・ルームです。
飛行機が傾いているじゃないか!と思ったら、これは

「P‐47がクラッシュ・ランディングしたの図」

ほう、それで地面がえぐれてプロペラがねじ曲がっていると。
力作ですな。



このB‐17フライングフォートレスもクラッシュランディングして翼が曲がったんですねわかります。
・・・・・え?塗装の途中だって?

向こうにあるのは、ラッパの先です。(嘘)



P‐38ライトニング

日本軍の搭乗員からは「ぺロハチ」とか「メザシ」とか呼ばれていました。
ぺロハチは、「3」を「ろ」と読んで、また最初のころは海軍航空隊にとって
「ペロッと食える」というところからつけられたようです。

 

B‐26マローダーによる1944年3月3日のローマ空襲の様子。

この爆撃について調べましたがインターネットでは何もわかりませんでした。
しかし、この空襲でもたくさんのローマに住む民間人が亡くなり、たくさんの民間家屋が 
爆撃によって焼失倒壊したんですねわかります。

つまりここはドゥーリトルに限らず、アメリカが行った空爆の功績を称えるコーナーであると。

この一連の展示からそのように理解しました。



左上から

「ミッション・ブリーフィング」
「爆弾投棄用地」
「爆弾の積み込み」
「B‐24のターゲットに向けたフォーメーション」

左下から

「軍医とフライトメディックが負傷者救護のために待機」
「負傷した搭乗員が搬送される」
「敵機の20ミリ砲による被害」
「赤十字の看護婦が負傷者の手当てをする」

む、この、「20ミリ」とはまさしく零式戦闘機の弾痕?
ちょっとこの写真だけアップにしてみましょうか。



弾痕ではなく、破裂している感じですね。
20ミリは破孔が大きいので、いったん当たるとこのようになってしまうのです。

機体の下方にも弾痕があることから(こちらは小さい)、この機は
空中戦で零戦と会敵してこれだけ銃弾を受けたものと思われますが、
はたして搭乗員は無事だったのでしょうか。

ところで、前回エントリでも少し言ってみましたが、全体的にここはドイツ軍については
やたら細かくいろいろと資料を用意して説明するくせに、当初結構な脅威であったはずの
日本機については全く触れようとしないんですよ。
全く、ここの展示だけ見ていたら、あんたらいったいどこと戦争してたの?
と思わず聞きたくなるくらい見事に「スルー」なんですよ。

この弾痕の残る機体もどこにやられたとか全く書いていないんですが、
このスルーっぷりを見る限り、もしかしたらこれはフォッケウルフにやられた痕だったのかも。


まあ、戦争ですから相手のことまで言い出したら展示にもきりがないとは思いますが、
少なくともドイツ空軍くらいの扱いはあってもいいんじゃなーい?



ドゥーリトル中将からブロンズ・スター・メダルを受ける、
メアリー・ディクソン中佐

この名前を検索してみましたが全く見つかりませんでした。
ブロンズスターとはアメリカの戦功章で、

「英雄的あるいは価値のある功績をあげたもの」

に対して与えられる勲章です。 




メアリー・ディクソン中佐、すべての写真に登場しています。
真中はエリザベス女王をアテンドしているのがディクソン中佐。
どんな戦功を立てたのかはわかりませんが、たまたまそれが美人だったので
当時は陸軍の「顔」としてもてはやされていたようですね。

しかし、今日ではアメリカのインターネットサイトでも全く名前が上がらないという・・・。



アイゼンハワー・ジャケット、というやつですね。
陸軍戦闘服で、アイゼンハワーが着用したことからこの名が付きました。

しかし、これを日本語で画像検索すると、比較的、というかかなりもっさりした、
着こなしと着る人によっては。平日の昼間に馬券売り場にいるよな人種に見えてしまう、
非常に危険なデザインのジャケットが出てきました。

いわゆる「アイゼンハワージャケット」と、日本でそういわれているところの「ジャンパー」
にはずいぶんデザイン的に違いがあるような気がするのですが・・・。



P-38 設計図。

関係ないですが、わたしが所蔵している戦艦大和の設計図もこのように黒地に白抜きです。
もともと白地だったのを、印刷の時に逆にしていただいたのです。

この大和設計図、額装して部屋に飾るつもりだったのですが、あまりにも巨大で、
しかも俯瞰と側面の二枚があり、それを飾ろうと思ったら廊下の壁をくりぬかないといけない、
というくらいなので、いつかこれを飾る豪邸を建てたときのために大事に保存してあります。



双眼鏡は第二次大戦と朝鮮戦争でも使われたものだそうです。
奥にあるのが六分儀。
手前の帽子は、航空兵のキャップ。



BOMBS AWAYとあります。
といえば「爆弾投下」だと思うのですが・・・・。
この黒い部分には

「希釈型酸素調節器」

と書いてあります。
これが何をするものかはこれだけではわかりませんでした。



増槽ですが、グラファイト(黒鉛)がしみこませてあるので塗装しないように
と表面に書いてあります。

グラファイトは燃料パッキンに使われるくらいですから、もしかしたら
引火性を抑えた仕様なのかもしれません。



 右は無線のダイヤルセッティングの数値表。



ダイアルと周波数の早見表のようです。



ノルデン爆撃照準器

 映画「メンフィス・ベル」で、雲間から見える軍需工場をこれで覗きながら
That's it! That's it!」(あれだ!あれだ!)
とヴァルという名の爆撃手がつぶやくシーンがありました。
 

これは陸軍航空隊(USAAF)にて採用されていた当時の最高機密で、
爆撃機のの搭乗員が正確に爆弾を投下するために補助する照準器です。

本土を空襲したB‐29や広島、長崎に原子爆弾をを投下した「エノラ・ゲイ」「ボックスカー」には
もれなくこれが取り付けられていました。

爆撃照準器が無いそれ以前の高高度爆撃の目標物の破壊率はとても低く、
簡易爆撃照準器もまた同じだったのですが、問題のドゥーリトル隊の機には、
当初つける予定だったのが直前にはずされて簡易照準器に変えられてしまったそうです。

そうか・・・・それで、目標を外しまくったのか・・・・あいつらは。(嫌味)


それはともかくその理由とは、万が一同隊の飛行機が撃墜されたときに
この照準器が敵の手に渡ることを懸念したから、だったそうで・・・・・

うーん・・・。


これってさ。

つまり、わたしがかねがね言っているように、ドゥーリトル隊ってやっぱり、

あまり生還の見込みはないと見られていた

ってことでOK?

やっぱり「スケープゴート」だったのよね。
まあ、成果はともかく生きて帰ってきて一躍ヒーロー扱い、ご本人たちも
アメリカのために命を賭して任務を果たし自分を誇りに思ってるわけで、
誰もこの構図に疑問を感じていなかったからには、今更何をか言わんやですが。
 


それはともかく、このノルデン照準器。
機密を守るために、隊員は必ず秘密の守秘を宣誓させられ、さらには
いざという時に破壊するための特別の武器を持たされていましたし、
これを持って移動するときには、ご丁寧にもカギ付きの箱に入れ銃を携帯したそうです。


君ら、誰を相手に戦ってると思ってる?

この厳重な警戒にも関わらず、しっかり日本軍はB-25から現物回収し、同じものを作っていました。
全く同じ試作品も、昭和19年の2月には完成していたといいます。
さすがはコピーと改良にかけては世界一の国民、日本人。

だがしかし、技術はあってもお金がない、この悲しい事情のため、
量産できず、そうこうするうちに戦争は終わってしまいました。

とほほほ。




火を噴くMe262のコクピットからは搭乗員が脱出しようとしています。
横に貼られた絵の解説の写真を撮り忘れたので、詳細はわかりませんが、
有名な空戦だったのでしょうか。

そして、今回はどうしてもこのような考えに至ってしまうのですが、この脱出したドイツ人に対し、
この米軍機は機銃掃射などは加えなかったのではないだろうか、と、
何の根拠もなく思ってしまいました。


広島と長崎に二種類の原子爆弾を落とすことをためらわなかったアメリカが、
同じ対戦相手のドイツとイタリアにそれをすることを全く考えなかった、その同じ理由から。







オークランド航空博物館~ドゥーリトル・ルームのルフトバッフェ

2013-09-02 | 航空機

「ドゥーリトル」という名前の道がある、このオークランド航空博物館周辺。

アメリカ人にとってドゥーリトルはあの大戦での英雄である、ということを
前エントリでお話ししたわけですが、一体なぜこの人物がそれほど神格化されているのか。

それは何と言っても、緒戦敗退続きだったアメリカが巻き返しのために
中国本土から日本の本土を攻撃する「ドゥーリットル空襲」の指揮官であったからでしょう。




ここオークランド航空博物館には「ドゥーリトルルーム」がありました。
ジェームス・H・ドゥーリトル准将の偉業を讃えるコーナーです。

ここオークランドには名門大学UCバークレーがありますが、ドゥーリトルはここの卒業生。
MIT、マサチューセッツ工科大学で航空工学の博士号を取っていますから、
優秀な人物であったことには間違いないでしょう。



左はベルリン空爆を指揮したヘンリー・マムフォード少佐。
第二次大戦の空爆ブラザーズですね。

ところで。


日本ではとかく後半の旗色の悪くなってからの戦況だけが日米戦だと思われがちですが、
真珠湾に続きしばらくの間、日本は実は勝っていたのです。

伊潜を使った西海岸への本土空襲は、今まで自国を空襲されたことのないアメリカ政府と
国民にとって衝撃でした。

そこで、国民の士気を高め、流れを変えるための象徴的な「一発逆転」が必要になった政府は、
日本の本土、しかも首都東京を航空隊によって空爆することを計画します。

この計画は、空母から艦載機で東京を空襲し、その後は中国大陸まで逃げてくる、
という、非常に無茶な作戦でした。

これは成功すれば勿論その勇気を称え、たとえ失敗してもその犠牲を元に、
敵国への憎しみを煽り国民に闘争心を掻き立てることができる、
いわば「スケープゴート」のような作戦だったとわたしは思っています。



U.S.S ホーネット

1942年4月18日、
ジミー・ドゥーリトル少佐率いる80名の乗員を乗せた16機の陸軍機B‐25は

ここから飛び立った。

最初に成功した東京爆撃である。



先日アラメダの「ホーネット」を見学してきましたが、このアラメダは
偶然ですがドゥーリトルの出生地です。

ところでこのホーネットはドゥーリトル隊を輸送したということばかり語られますが、
どうもその後日本の手で沈められたということがほとんどクローズアップされません。

まあ、「ドゥーリトルの偉業を語るコーナー」なのでそれも致し方ありませんが、
そもそもアラメダに停泊している「8代目ホーネット」でも、7代目の最後については
ほとんど展示物では触れられていません。

アメリカ人は沈没したフネそのものをアツく語ったりはしないみたいです。
むしろ、あまり面白くないので必要でなければ触れずにおこうという感じ。

日本人が「大和」を伝説にし、神格化しているとすら思われるほどの
畏敬の念をもって今日も彼女のことを語り続けているのとはだいぶ違いますね。


冒頭写真は、由来はわかりませんが、ホーネットの模型の上の意味ありげな旭日旗。
どうやらこれを以て「ホーネットは海軍に轟沈された」と言いたいのか・・・。

しかしアメリカ人には全くわかっていないようですが、
これは海軍旗ではありません(爆)

いや、誤解のないように言っておくと、ここにあるのは確かに軍艦旗なんだと思いますよ。
しかし、十六条旭日旗と軍艦旗の違いなど、ドイツ軍のファッション程に気もとめないアメリカ人、
つまりこの「左右非対称」の軍艦旗を額に入れて展示するときに、
勝手に日の丸が中央に来るように「細工」しちゃったんですね。



この旭日旗の右上アップ。

ほら、折り畳んだ跡が見えるでしょ?
しかも、本来左端の部分を右に折り込んで、つまり上下逆なんですねこれ。


飾るならちゃんと飾れ(怒)







写真とドゥーリトルを扱ったテレビ番組のお知らせ。

 

左はそのものズバリ、「ドゥーリトル空襲」。
右は映画にもなった「東京上空30分前」。

そういえばあの映画で片足?だか両足を失って帰った主人公は
ローソン大尉といいましたっけね。

あれは生存者の書いた本をもとに作られていたのか。

道理で大甘だと思った(笑) 

昔「東京上空30秒前」の映画の感想をこのブログでお話したことがあります。

なにしろこの作戦、中華民国の国民革命軍の支援を受けましたから 、
露骨に中国人を称えあげ「それに比べて日本人は」といった調子の描写が続き、
戦争している当の相手である日本の印象を貶めるために、あえてこういう
対比するかのごとくあてつけがましい表現がされ、
われわれ日本人にとっては当然のことながら非常に不愉快な内容となっています。

 

アイラ・C・エーカー中将。

B-17編隊を率いてドイツ占領下にあったフランス・ルーアン爆撃を指揮しました。
ドイツ軍とルーアン市民にとっては日本人にとってのドゥーリトルのような軍人だと見た。



A-T6テキサン・トレーナー 。



おそらく隊員の持ち物。

映画でおなじみ陸軍の軍帽。
どういうわけかアメリカ軍人は軍帽を斜めにかぶりますね。
上のエーカー中将(退役後大将)くらいになるときっちりとまっすぐですが、
若い将校は間違いなく斜め被りです。

ああいう「はずし」「くずし」がアメリカの若者にはオシャレとか粋だったんですね。
わが日本軍においても、若者はそれなりに「いいかっこう」をしたがりますから、
たとえば軍帽のひさしを一生懸命山形にしたり、つぶしたりして、
決められたルールの中でも少しでも着崩してできるだけベテランに見せていました。

わたしは日本人であるせいか、やはり軍服はきっちり厳正に、が美しいと思ってしまうので、
軍帽を斜めにかぶっているアメリカ軍人を見ると

「真っ直ぐに被れ!真っ直ぐに!」

と言いたくなります。

帽子の前の小冊子は「スコアブック」。
ライフル(M1903とM1、そしてブローニング自動小銃M1918A2)の成績表です。



航空機種類の早覚え表。

窓のところには

翼の位置・・・・・・・・・・ミッドウィング
エンジンの数・・・・・・・2
翼の形・・・・・・・・・・・・後退翼、テーパード(だんだん狭くなる)丸型
ランディングギア・・・・引き込み式(retractable)
尾翼と方向舵・・・・・・方向舵2つ
機種のタイプ・・・・・・・ロングノーズ、テーパード


という情報がシルエットの下に書かれています。
おそらく、裏には正解が出てくる仕組みではないでしょうか。

ところで、この情報とシルエットで機種がわかる方は・・・・

まさかいませんよね?(挑戦的)



同じ敵として戦っていても日本軍の資料がほとんどないのにもかかわらず、
この充実したドイツ空軍関係の資料のコーナーを見よ。

なーにが「ざ・ルフトバッフェ(マーク)」だよっ。(笑)

まあ、ドゥーリトルは東京空襲の後二階級特進し、准将に昇進した後、
北アフリカ戦線の司令官に任ぜられていますから、もちろん関係はあるんですがね。



何の説明かと思ったら

「ドイツ空軍の士官の長上着である。
ブルーのウールは秋冬に使用された。
赤いパッチは階級と所属を表す。
左胸ポケットののバッジは鉄十字章、
シルバーのバッジ(パープルハートのような)、
対空砲撃部隊の印である。
右胸の鉤十字が金色なのは戦闘での功績があったことを表す」

だそうです。
やはりアメリカ人、ナチスの制服って実は美しいと思ってます?

 

 ドイツ空軍の軍帽鉄兜。
いちばん右、黄色いパイピングにも意味があるそうですが、
ちょうどガラスが光ってしまって、字が読めません。



ドイツ軍機。

どこかのブログで、プラモデルが趣味という方がここを訪れてその感想にいわく

「作りが雑だ」

どこで調べたのか、作っているのが退役した軍人さんで、趣味にしているらしい、
という話まで書いておられました。
素人のわたしにはこのモデルのどこがいけないのかあまりわかりません。
まあ、ときどき飛行機、傾いていたりするのは気づきましたが。

 

低速時のエンジン推進力が弱い、コクピットから着陸の際地面が見えない、
燃費が悪く旋回が機敏にできないのでドッグファイトに引き込まれると墜とされる。
そんな欠点満載にもかかわらず操縦するパイロットによっては最大限の武器となった

メッサーシュミットMe 262。

ミグ15について書いた時に、この機体の研究がミグに生かされた、という話をしましたが、
このことと、当初のベテラン搭乗員で十分に能力を引き出すことができたこの機体も大戦末期に
未熟なパイロットが乗って多くの命が失われたことなどと読むと、位置づけとしては

Me262はドイツ軍にとっての零式艦上戦闘機のようなものではないか

とふと思いました。



「空の騎士を名乗っていたドイツ空軍のパイロットはフリーガーブルーズと言い、
グレイの布を裏あてにしたシャープな皮ブルゾンを着用していた」

ドゥーリトルルームなのに気合を入れてドイツ軍ファッションの解説をする
オークランド航空博物館。
あんたらやっぱりドイツ軍の軍服に対して(略)

「襟章はなく、肩に航空隊所属搭乗員の黄色い認識章がある。
この星は「Oberleutnant」(中尉)である。

ドイツ軍では事情の許す限りネクタイを着用することが個人に要求された」

ほう、この辺がアメリカ軍の士官に求められたのと同じであると。
日本海軍だって第三種ではネクタイ着用だったんだぞ。
張り合ってどうするって話ですが。



 この小説は、

「インゲ・ベルガーの救難飛行報告書」

 ではないかと、大学時代3か月だけドイツ語をやったエリス中尉が翻訳してみる。 
ドイツ空軍の若き女性を主人公にした、当時のラノベではないかと思われます。
違っていたらすみません。

そして若き士官が母親の肩に手を置いている写真。
川のほとりの家は自分の生家でしょうか。

このようなものを空軍のパイロットは携えていた、ということです。

なんかね。
こういうのを見ても、戦争中在米ドイツ人には日系人のようにゲットーに入れたりされず、
さらにはドイツに原爆を落とすことは計画にもなかった、ということを見ても、
同じ白人種の国に対しては戦争をしても徹底的に相手に対する視線が違うんですよ。

一次大戦の時のように「敵ながらあっぱれ」的なスポーツのような、
敵として戦っても「殲滅」は思いもよらない、という「情け」が見えるというかね。

つまり有色人種として白人種にたてついた最初の人種である日本人は
こういった白色人種至上のそれまでの世界秩序を打ち壊したってことなんですよ。

そういうことを言うと「右翼」なんていう人もいるみたいですけど、これ事実でしょ。
アジアの多くの国が日本のそういう立ち位置を認めてくれているのに、
世界で最もそれを理解していない国が、日本を含む極東4か国だと思います。

異論は認めません。



というわけで、ドゥーリトルルームなのになぜかルフトバッフェのことばかり、
で始まってしまいましたが、この項後半に続きます。




 


「大空のSAMURAI!6」モーツァルトと月光

2013-09-01 | 海軍人物伝

実はこのシリーズを制作したのは一年以上前。
なんとなくシリーズゆえ出しそびれて今日に至るわけですが、
前回絵を描いてから今回までの間に
女優さんのイメージが「北川景子さん」に変わったので、
そこだけ配役を変更してポスターを制作してみました。
SAMOURAI!と表記しているのは、
こういうのもありかな、と思ったからで他意はありません。

煽り文句とか、すべてジョークですからね!
お断りしておきますけど。

と言いながらこの画像を保存するときに思わず
「映画」フォルダーに入れていたエリス中尉である。 




と言うわけで結婚した坂井とハツヨ。
この小説、「SAMURAI!」は、結婚式の後もう一度戦地に戻り、
終戦になって自宅に帰った坂井とハツヨの姿で終焉を迎えます。

「あなたは―もう二度と戦わなくていいのよ」

彼女はささやいた。

「終わったの。もう終わったのよ」

彼女は突然帯の下から短刀を引き抜き投げ捨てた。

「もう二度と、ごめんだわ!」

床の上でそれは火花を散らした。

短刀はカランカランと音を立てて部屋を横切り、部屋の隅で止まった。


さあ、これが世界中で読まれている
「SAMURAI!」のラストシーンなのです。

が・・・・・。

ちょっといいですかー?


坂井さんの留守を守っていたハツヨさんは、
いったいどんなうちに住んでいたのでしょう。
おそらく畳の部屋の、典型的な日本家屋ではないかと思います。
投げ捨てた短刀が火花を上げカランカランと鳴るような
床のあるような作りではないでしょう。
さらに、そこが玄関のたたきでもない限り、
投げ捨てたとたん部屋の隅ではなく、
タンスかちゃぶ台にそれは当たるのが普通ではないかとも思うのですが、
いかがでしょうか。

帰ってきた坂井三郎ではなく、ハツヨの
「戦争はもうごめん」という言葉で終わるあたりが、所詮?
世界基準の好みに合わせて書かれた小説であると思います。

当時の日本人はいきなり「戦争が終わってよかった」というよりは
ただ呆然としていた、というのが大半のところではなかったでしょうか。

勿論誰もが同じ考えであったわけではないでしょうが、
この無難な結論が、終戦に対するが日本人の総意であったかのような
「お手盛り的」なエンディングには、若干割り切れぬ思いが残ります。

それはともかく、いきなりですが、この一説をお読み下さい。



軽快に鳴りだしたピアノの音は明るく美しかった。

しかし、すぐに西澤はあることに気づいてはっ!とした。

「あの曲だ!あの曲と同じ曲だ!」

廣義がが小学校の講堂でたまたま耳にした、あの美しい先生が弾いていた
美しい音楽に間違いなかった。

なんという偶然だろう。
玉を転がすように、音階が重なって、
昇っていっては降りてきて、また昇っていく。

まるで真珠のネックレスのようだ。

武田信行著「最強撃墜王 零戦トップエース西澤廣義の生涯」
の一説です。

この「最強撃墜王」が聴いたこの曲、いったい何だと思います?

モーツァルトのピアノソナタ、ハ長調、K.545。

この曲ではないでしょうか。
わたしはこの曲を小学校三年の時発表会で弾いた記憶があります。

軽やかな音階の上下が印象的な、誰もが知るこの名曲を、
おそらく作者は、西澤廣義の物語の彩りとして採用したのでしょう。

実際に西澤の心を寄せた女性が本当にこの曲を弾いていたのか、
ことに、小学校の先生が本当にこの曲を弾いていたのかは、
限りなく可能性の低い話です。

昭和9年当時、田舎の国民小学校にピアノがあって、
さらにそれでモーツァルトを弾くような女教師がいたかどうか、
と言う意味で。


これは「最強撃墜王の恋」を、音楽という無条件に美しいもの
―しかも女性が奏でる―
その対比によっていっそうその儚さを強調するための演出です。

この手法が、この「SAMURAI!」にも取り入れられています。

マーティン・ケイディンの創作には汎世界的な価値観がちりばめられ、
それ故に世界から受け入れられた、ということを何度か語ってきましたが、
ラストシーンで投げた短刀が床でカランカランと鳴る、という表現のように、
やはり所詮はアメリカ人、日本と日本人について全く分かっとらんじゃないか、
と思うシーンはそれ以上にあったりするわけです。

坂井の叔父がピアノを自宅に持つほど裕福であったかどうかはともかく、
たとえば二人の披露宴シーンで、

ハツヨが弾くピアノに
坂井の部隊の隊員が即興で楽器を合わせてセッション三昧、

というようなことは、
戦時下のこの日本ではありえなかったという気もします。

しかし、登場人物に音楽を絡ませ、それを演奏する、あるいはこれを聴く、
といった表現の中に心情を込める、といういわばありふれた手法は、
だからこそ効果的で、作者が創作に当たってつい手を出してしまっても
これは仕方が無いことかもしれません。

さて、坂井がハツヨのピアノを最初に聴いたとき、
彼女はまだピアノを習い始めて三年目でした。
しかしそのとき彼女が弾いた

「モーツァルトのソナタ、緩徐楽章」は、

わたしには十分美しかった。

さて、この曲は何でしょうか。

ハツヨさんの進度はかなり早かったようです。
習い始めて三年くらいでは、せいぜいソナチネというのが一般的ですから。

ただし、撃墜王西澤が感激した、同じピアノソナタの二楽章であれば、
おそらく三年目の初心者でもでも弾くことはできると思われます。

モーツアルト ピアノソナタハ長調 K.545第二楽章

さて、皆で食事をし、花火をした夜、坂井がハツヨさんに

「モーツァルトを弾いてよ」

と頼みます。

返事の代わりに黙ってピアノに向かったハツヨ。
彼はそのとき千マイル離れた太平洋で行われている戦争について考えます。

目を閉じると、滑走路でタキシングする戦闘機や爆撃機から出るちかちかした排気、
ほこりや小石が後から舞い上がるのが見えた。
それは力を「クレッシェンド」しながら離陸し、夜のしじまに消えていき、
そうしてその多くが戻らなかった。

わたしはこうやって東京の郊外で息子のように愛してくれる人々の、
心づくしのもてなしを受け、胃の腑を暖かいごちそうで満たしている。
しかしあそこでは彼らは死んでいく。奇妙な世界だ。


音楽は止まった。
ハツヨはしばらくピアノの前に座ったまま奇妙な表情でこちらを見た。
その目はもの問いたげに開かれ、柔らかな声音でこういった。

「三郎さん、わたし、あなたのために弾いてあげたい曲があるの。
良く聴いて頂戴。
この曲にはわたしの言えない言葉が込められているのよ」

音楽はピアノを転がり落ち、次いで静かに持ち上げられて部屋を漂い、
かと思えばつぶされたり、舞い上がったりした。

わたしは彼女を見た。よく知っている少女だ。
しかしわたしは彼女のことを全く知らなかった。
こんなハツヨを今まで一度も見たことがなかった。


で、彼女が自分のことを愛している、と坂井は気づくわけですが、
では、この曲は何だったのでしょうか?

この答えは、坂井さんが自ら後ほど、敵機に立ち向かう寸前、
このように明かしてくれています。


私は頭を振り、頭から霧を振り払った。

音楽だ!聴くんだ!
ピアノ・・・ムーンライト・ソナタ・・・ハツヨが私のために弾いた・・

「ハツヨ、愛している!」
私が今まで言ったことのない言葉。
私は泣いた。
誰も知ることはない。
私たった一人だ。
そこには硫黄島と果てのない海があるばかりだった。

正解は月光ソナタ。
モーツァルトを多用していたこの「戦記物における音楽」界ですが、
ここに来ていきなりベートーヴェンが出てきました。

しかし、

転がり落ち、次いで静かに持ち上げられて部屋を漂い、
かと思えばつぶされたり、舞い上がったり

この部分に相当するのは、有名な一楽章

ではなく、どうやら三楽章ではないかと思われます。



しかし、この三楽章より、もっとこの表現に近い曲があると
エリス中尉は思います。

ベートーヴェンの、ピアノソナタ、「悲愴」の第一楽章



もしかしたら、こちらの曲をケイディンは「ムーンライトソナタ」
だと勘違いしていたのか、ふとそのように思ってしまいます。

有名な二楽章と共にお楽しみ下さい。



いろいろと文章からそこに流れる音楽を推察してみましたが、
文章から曲を想起し、それがどのように使用されているのか推測するのは、
なかなか味のある本の楽しみ方かもしれません。

皆様もよろしかったらどうぞ。

というわけで「大空のSAMURAI!」シリーズ、これをもって終了です。

お付き合いいただきありがとうございました。