ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ハプスブルグ家の皇位継承と男系断絶(1)〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-05 | 博物館・資料館・テーマパーク

 

ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しています。
前回のプリンツ・オイゲンのコーナーでは、そうと知っていたら、
オイゲンの着用していたという鎧などもちゃんと写真に撮ったのですが、
展示の説明がドイツ語の上、外国人には非常に読みにくいフラクトゥール
(亀の甲文字)であるため、概要すら理解しないまま見学し、
記憶の片隅にある知識を呼び起こしながら歩くという体たらくだったので、
写真を撮ったものもごくごく一部ということになります。

ちなみに展示写真は個人使用(ブログもOK)についてのみ許可されております。

その展示から、二回に分けてハプスブルグ家の皇統問題について語ってみます。

 

 ◼️マリア・テレジアが子供を多産した理由

プリンツ・オイゲンの時代(1700年)から進んで、次のホールは
オーストリアの偉大な女帝、マリア・テレジアの特集です。

女帝とその夫、フランツ・シュテファン、そして女帝の手を握っている
男の子が、のちの皇帝ヨーゼフ二世です。

マリア・テレジアについては、20代から40代にかけて、
とにかくお腹が空いている時期の方が少ないというくらい子供を産みまくり、
同時に執政を行なったと前回もここで述べたわけですが、彼女にとって
子作りとは、彼らをヨーロッパ中の王室と婚姻させることで縁戚関係を結び、
それをもって同盟を作り上げるという、「政治活動」だったのです。

この頃は子供を産んでも大人になるまで育つ確率が今より格段に低く、
無事に育ったとしてもいろんな理由でその目的に至らない可能性を鑑み、
いわば執政の一環として、自らの子を産めると言う機能を最大限に活かした、
というようにわたしは解釈していたわけですが、今回、また違う側面から
マリア・テレジアの戦略に止まらないある「願い」が見えてきた気がしました。

今日はそんなことをお話しします。

 

さて、このコーナーは三つのパートに分かれており、

カール6世

マリア・テレジア

ヨーゼフ2世

という三代に亘るハプスブルグ家の時代が俯瞰できます。

 

フランツ・シュテファンと結婚したマリア・テレジア(1708-1765)は、
偉大なる父親カール6世の死後、いわゆるオーストリア継承戦争(1740-1748)
ほとんどすべての隣国から国土を守るという重い任務を負うことになりました。

「マリア・テレジア」の画像検索結果

◼️初恋を実らせた奇跡的な結婚

サービス画像、マリア・テレジア芳紀16歳ごろ(想像)。
しかしのちの女帝は若い頃とんでもない美女ですなあ。
これがいわゆる「お見合い写真」に相当するものであり、肖像画家の
割り増しを差し引いたとしても、美しかったのは間違いありません。

ちなみに女帝の肖像画を見ると、彼女はこの肖像画のようなブルーグリーン、
深い緑がかった青のドレスを選んでいることが多かったようです。
上の家族肖像で着用しているのも、織りにブルーが入っています。

海外のドラマを見ていると、俳優たちが瞳と同じ色の服を着ていることが多く、
それがとてもお洒落に見えて羨ましいのですが、マリア女帝も
残された肖像画から察する限り、深いグリーンの瞳をしていたようです。
 

しかしここで改めて知って驚くのが、あのプリンツ・オイゲンが、
彼女とプロイセンのフリードリッヒ2世を結婚させようとした、という話です。
オイゲンは政治家として皇室の婚姻問題に積極的に関わっていたようですが、
この時の話はこのような理由で流れました。

まず、フリードリッヒ2世は、ハプスブルグ家と結婚するのに必要な
カトリックへの改宗ができなかったこと。

二つ目は「小さなレースル」ことのちのマリア・テレジア女帝は
6歳の時から婚約者となる9歳上のフランツに恋していたこと。

 

彼女の婚姻は当時の王族にはありえない奇跡的な「恋愛結婚」であり、
しかも相手は彼女の初恋の相手であったわけで稀少な例でした。

 

フランツ1世も彼女を憎からず思っている「相思相愛」でしたが、
その結婚生活は、次第に彼にとって面白くないものとなっていきます。

異国のフランスから嫁いで、じゃなくて婿入りしてきたがゆえに、
宮殿の人々にあからさまにバカにされ、無礼や嫌がらせを受けるなど。
公私にわたる屈辱を味わううち、彼はせっせと浮気に精をだすようになります。

女帝の夫としての「公務」である子作りの合間を縫って。

58歳で亡くなったときにもフランツ1世には愛人がいました。
当時のフランス宮廷などでは特に、恋愛というものは夫婦同士でするものではなく、
政略結婚をしておいて、他に愛人を作るのが「粋」という時代だったので、
誰が誰の愛人などという話は公然として皆の知るところとなっていました。

しかし倫理観というのが今日とは全く違うことをさておいても、愛人の正妻が
ハプスブルグ家の血の継承者で国のトップとなれば話はちょっと違ってきます。

案の定、葬式の席で、フランツの愛人であったその夫人は、周りが女帝に忖度して、
誰も近づかず遠巻きにされていたのですが、女帝は自ら近づいて彼女の手を取り、

「わたしたち二人は、お互いにとても大切な人を亡くしてしまいましたのね」

と声をかけました。

女性の施政者には、権力握ったらその力を利用してライバルを惨殺する
呂夫人や西太后みたいなのがいました(西洋にもいますよね)。
その相手が政敵や論敵ではなく「恋敵」であるあたりが権力の濫用です。

彼女はこのとき43歳、まだ若く、夫の浮気には心悩まされていたでしょうし、
相手の女性を憎む気持ちもきっとあったに違いないのですが、
女帝であるが故の誇りと抑制が、嫉妬を遥かに凌駕したのでしょう。

自分の言動がどんな小さなことも歴史に記されるものであることを、
何よりも自覚していなければできることではありません。

夫の亡き後、彼女はドレスを全て女官に与えて自分は死ぬまで喪服で過ごしました。

喪服のマリア・テレジア

◼️男系断絶したハプスブルグ家

ところで、ここからが本稿の本題です。

女帝とよく言われますが、マリア・テレジアは正式には女帝ではありません。
なぜなら当時女性が皇帝になることはできなかったからです。

 

これは今現在、我が国の皇室を巡って巻き起こっている議論と
まさに本質を同じくしている例なのですが、つまりこういうことです。

時の皇帝カール6世は男の子供をもうけることができませんでした。
そこで彼は、娘であるマリア・テレジアに皇位を継がせようと、
生存中に根回しをして、女子の相続を認める国事詔書を発布し、
フランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせようとしたのです。

しかし、やはりそれでも制度上女性が皇帝になることはできないので、
彼女が結婚したフランツ・シュテファンが即位する、ということにしたのでした。

つまり、夫を「お飾りの皇帝」に付け、娘であるマリアを
実質的な施政者にすえようとしたわけです。

これどういう意味かお分かりでしょうか。
カール6世の思惑によって、何が起こったか。

フランツ・シュテファンが皇帝になるということは、ハプスブルグ家は
カール6世が崩御した瞬間、

男系が断絶

して同時に王朝もそこで終了してしまうことを意味します。

 

◼️我が国の皇位継承問題について

ここで大変畏れ多いのですが、今我が日本国の皇室にこのことを置き換えて
ちょっと考えていただきたいと思います。

あくまでも仮定でありフィクションですが、今の日本で天皇陛下が
皇位継承に決定権を持っておられたとしましょう。

その陛下夫妻には皇位継承者の資格を持つ男児は生まれていません。
そこで、何が何でも自分の娘である親王殿下を時期天皇にしたい、
として、天皇陛下御自ら皇位継承の順位を変えてしまわれたとしたら?

カール6世がしようとしたことはそれと同じことでした。
自分の娘を、前例のない女性皇帝の地位に付けようとしたわけです。

カール6世にはカール1世である兄がいましたので、もし彼に男児がいたとしたら、
後継者は文句なくこの男児に決まっていました。

再び畏れながら現代の日本の皇統は幸運にも同じ形による継承者が決まっております。

しかしカール1世には男児は生まれず、自分の娘婿に皇位を継がせることを
「根拠がない」として退けましたから、こちらでも結果男系は断絶していました。

 

カール6世は自分にそのうち男の子ができるだろうと楽観していたそうですが、
年齢的にももうその可能性がないとわかった時、手立てを他に求めず、
安易に自分一人の判断で男系を終了させるという選択をしたことは、
なんというか、非常に見通しが甘かったという他ないでしょう。

現に、根回ししたにも関わらず、カール6世が急死した後、
ヨーロッパ諸国は女性が皇位を継ぐことに猛反対して、全土にわたる

オーストリア皇位継承戦争

が巻き起こる結果となったのですから。


ところで、余談のようですが、ついでにこの件についてもう少し言及すると、
昨今、我が国の皇統問題について、男系の保持を理由に女系天皇に反対する意見を、

「女性差別」

などという理由で「排除」しようとする

側から見ると革新的な自称保守

の方々がいます。
共産党や左派メディアなどがそれを後押ししているということで、
それだけでも「あ・・・察し」なのですが、それらを抜きにしても
どうもこの考えの人たちの言説は、

「男系カルト」「男系論者打倒」「議論を放棄するんじゃないよ」

などと、不必要にアグレッシブで挑発的なのがいただけません。
彼らの論理性にも言わせていただければちょっと問題があって、
あるジャーナリストを自称されている方などは、

「現在の皇位継承順位の変更を前提としなければ、
安定的な皇位継承など望めない」

などと主張しておられ、大変失礼ながらこれには呆れかえりました。

まず、なぜ「皇位継承順位の変更をしなければ皇位継承ができなくなる」のか、
そもそも現行の皇位継承順位に則ることの何が一体それほどの問題なのか、
わたしにはまずこの意味がさっぱりわかりません。

しかも、わたしに言わせればこの一行、前半と後半で見事に矛盾しています。
つまり、仮に彼らが望むような

「皇位継承順位の変更」

が実現すれば、その時点で現在の皇統は途絶え、

「安定的な皇位継承」

とやらは終わりを告げるのです。

女系天皇擁立論はその意味において一種の「革命思想」であり、
目的とするところは体制を打ち倒し、現在の皇室を実質消滅させるとイコールであると
気づいていないのか、それとも気づいた上でやっているのか・・・。



ところで、冒頭の「なぜマリアテレジアが子供をたくさん残したか」
ですが、これは政略結婚のためにその「胤」は多いほうがいいとする
この頃らしい戦略であったのは間違いないところですが、男系が断絶し、
彼女から新しい「王朝」が始まったと知ってこの件をあらためてみると、
こんな可能性もあるのではないかとわたしは思うようになりました。


つまり彼女は、祖となった自分とフランツの子孫、ロートリンゲン家を
せめて後世に末長く伝えるため、父の代で途絶えたハプスブルグ家の轍を踏まぬよう、
出来るだけ多くの命を世に送り出すことを決めたのではなかったでしょうか。

それはまさに、女性である彼女にしかできない方法で。



さて、次回はそのオーストリア皇位継承戦争と、彼女の息子である
ヨーゼフ二世についてお話ししてみたいと思います。
 
 
 
続く。


ウィーン発、ピッツバーグ着

2019-09-03 | アメリカ

ブログでオーストリア滞在中のことについてお話ししているうちに、
実際にはアメリカ国内を移動する時期がやってきて、
今これを製作しているのはサンフランシスコです。

今日はウィーンからアメリカに移動した日のことをお話ししたいと思います。

ウィーンでザルツブルグの3日を挟んで宿泊したヒルトンともお別れです。
目の前にスタッドパーク(市立公園)があり、交通も便利でした。
もしウィーン旅行を考えている方がおられたら、おすすめです。

 

ホテルから空港まではフラットレートのタクシーをホテルに頼んで
呼んでもらい、三人分の大荷物(トランク10個くらい)を積み込み、
さあ、出発、という時に、TOが運転手さんに向かって

「ウィーンエアポート・プリーズ」

そこまでは良かったのですが、どこの航空会社か聞かれて、

「オーストラリアン・エア」

「おい!」

わたしとMKが同時にツッコみ、運転手さんは苦笑していました。

「オーストリアにカンガルーはいません」

という自虐Tシャツが売られているほどに、オーストリア人にとって
この手の間違いをされるのは日常茶飯なのでしょうけど、
まあ本当にオーストラリアン・エアに乗る人もいるかもしれないし、
しっかり間違いはただしておきました。

というわけでオーストリア空港のオーストリアン・エアにチェックインします。
シンボルカラーは赤なので、ユニフォームは真っ赤なスーツに濃いブルーのスカーフ。

ウィーン空港は割と最近リノベーションしたらしく、とても今風です。

なかなか攻めているオーストリア航空のコーナー。

ラウンジに用意されている食べ物も果物多めでなかなかよし。

滑走路が二本だけということでそんなに大きな空港ではありませんが、
特に冷戦時代は中立国だったせいで、ハブ空港となっていました。

右側に見えているのは中国の海南航空機です。

滑走路の向こうに謎の建物発見。
空港周辺の草刈りをする道具でも置いてあるんでしょうか。

見たことのない塗装の飛行機を発見。
コレンドン航空はトルコの航空会社です。

オーストリア空港の利用は初めてです。
目の前のモニターでは、ウィーンの観光案内のイメージビデオ風が流れています。

インテリアは制服の色よりも随分落ち着いた感じの赤があしらわれ、
Cクラスの席は今時当たり前ですがフルフラットになります。
寝るとANAのシートのように両手が下に落ちてしまうこともありません。

ウィーン発の便では、特に視聴の需要が多いのでしょうか。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」を放映していたので、
ここでお話しする為に全編通して観ました。

これはザルツブルグ大聖堂。
映画の至る所で観光案内をしているのに今更気がつきます。

この登山電車が出ているのがザルツ・カンマーグートで、できれば
乗ってみたかったのですが、今回は時間がなく断念。

次いでお楽しみの機内食ですが、さすがというかなんというか。

これはアボカドやラディッシュのサラダなのですが、
土台?にお皿のように敷いてあるのはカテージチーズです。
シンプルにオリーブオイルとバルサミコ酢で味付けされていて、
この組み合わせは機内食と思えないくらいの完成度でした。

メインはチキンを選択しました。
外側をパリッと焼いた骨つきチキンはローズマリーと焼いたレモンをあしらい、
付け合わせの野菜もまるで一流レストランで出てくるようなあしらい方です。

パンは日本やアメリカの航空会社のようにレンチン()していないらしく、
パサパサになっておらず、それにバターとハムスのようなペーストが添えられて。

わたしが今まで乗った航空会社の食事の中で最高でしたし、もしかしたら
オーストリア滞在を通じて取った食事の中で、シュタイレレックに次ぐくらい
高級感がありかつ美味しかったと言っておきます。


ブレてしまいましたが、こんな本格的な格好をしたシェフみたいな人が乗っています。
とにかくオーストリア航空、食へのこだわりがこんな演出からも窺えます。

 

ところで、今回「世界一周周遊プラン」を選択した我が家は、

「地球を同じ向きに三大陸めぐり、各都市で24時間以上滞在」

という条件を満たすべく、大西洋からアメリカに渡りました。
もしこれを読んでいる方、近々例えばアメリカに行く予定がおありなら、
そして時間の余裕がちょっとだけあったら、

日本ーヨーロッパーアメリカー日本

と寄り道するだけで、航空運賃がアメリカと往復するより、下手すると
半額近く安くなるというこのプランをぜひ検討してみてください。

エコノミー、ビジネス、おそらくファーストクラスに関わりなく条件は同じです。

このプラン、知らない人が多く、こんなのがありますよと教えてあげると
皆一様に知らなかった、とえらく驚かれます。

わたしたちは全日空が直行便を飛ばしていたので今回ウィーンを選択しましたが、
別に他の大陸(アフリカとか)
でもいいんですよ。

さて、というわけで飛行機は大西洋を飛び越してダレス空港に到着。
ここで乗り換えです。

アメリカの空港はどこでも必ずといっていいほど、軍人を讃え、
その功績を紹介するコーナーをいろんな形で持っています。

日本は子供連れとハンディキャップのある人が優先搭乗させますが、
アメリカの空港では「ミリタリーサービス」が優先的にコールされます。

昔、海外から帰還してきた軍服の軍人の一団と一緒になったことがあり、
機長はどこそこで中流の任務を終わったなんとかキャプテンのグループ、
と彼感謝の言葉とともに彼らを紹介し、機内から拍手が起きたものです。

最近のアメリカの空港は、人手を減らし、効率的に注文を取るために
このようにタブレットで注文する形式が増えてきました。
外国人も多い空港では、言葉の問題もなく、双方ハッピーです。

ピッツバーグに到着し、レンタカーをピックアップします。

いつもわたしはフリークェントカスタマーの特権である「プレジデントサークル」、
つまりハーツ的には余って乗り手のない車、どれでも好きなのに乗っていってください、
というコーナーに案内されるので、今回もたかをくくってそうなると思いこんで、
フルサイズクラスのセダンを予約していたところ、なんとピッツバーグのハーツでは
なぜか普通のカスタマー扱いされ、律儀にセダンが割り当てられていました。

こちらは三人で、合計10以上のトランクがあるのにも関わらずです。

「あー、これじゃ全部荷物載らないね」

「プレジデントサークルで大きな車を選べると思っていたのに・・・」

仕方なくスウィッチ(車の交換の時にはチェンジではなくこう言います)
をお願いしたら、なんとこんな車が出てきました!

クライスラーの「ノーチラス」

ノーチラス、名前がまたいいじゃないですか(・∀・)!!
大きい割には燃費も良く、操作しやすくてアクセルのレスポンスも早く、

さすがはクライスラーと感心しました。

今回の滞在では巷で「エアビー」と呼ばれているところの民泊を予約しました。

MKが今回大学の研究室でインターンシップをすることになったため、
アメリカに戻ってきたのですが、アメリカの大学というのは、
夏の間寮を利用することができないため、民泊を借りて、ついでに
わたしも彼の生活の手助けをしつつ滞在を楽しんでしまおうという考えです。

後でわかったのですが、この辺りはユダヤ人街で、シナゴーグがあり、
周りの住人はほとんどがジューイッシュのようでした。

わたしたちの部屋のオーナーもユダヤ人で、彼女は昔、
小さいときに鎌倉に住んでいたことがある、といって、挨拶の時
携帯の白黒の写真を見せてくれました。

土曜になると、その辺を黒いスーツに帽子、丸いパンケーキを頭に乗せた
ユダヤ教徒の皆さんが歩く様子に最初は驚きました。

わたしたちの泊まった部屋は、向こうの棟の一階(地下付き)です。

軽く築100年くらいはいっているのではないかと思われます。
とにかく、アメリカの家は大きいのでその点は助かります。

最初の日は猛烈に暑く、次の日には大雨が降り洪水警報が出ました。
窓付け型のクーラーは、とりあえず掃除が必要だったのですが、
三日目から稼働してどうなることかと危ぶまれた生活がなんとかスタート。

わたしがうっかりしていてwi-fiがないのを見落として契約してしまったのですが、
こちらで携帯用wi-fiを買うことでこちらの問題も解決。

ありがたかったのがキッチンの広さと食器の多さです。
コンロ台が二つ、オーブンが二つとよくわからない品揃えですが、
これだけ余裕があり、鍋もお皿もいくらでも使えるので、滞在期間
工夫と手間をかけた料理を作ることができました。

料理を作るのが好きなMKがレシピを提案し、買い物をして
日本で使ったことがないような食材を使って作るのです。
他にもそうめんやラーメンなども、工夫して出汁から作ったり、
おかげで夏中思わぬ「お料理大会」が開催されることになりました。

キッチンの後ろには、アメリカの家にはよくあるように、バックヤードがあります。
バックヤードには仕切りがなく、基本的に集合住宅に住む人が誰でも通れるのですが、
暗黙の了解があって、人の家の前をウロウロつする人はいません。

しかし、朝、リスはもちろん、ウサギが来ていたこともあります。

MKのインターンシップが始まりました。
初日なので父兄参観を決め込み、中を見せてもらいました。

差し障りがあってはいけないので写真の紹介はこれだけにしますが、
工科大学の研究室というのは、とにかく機械類に囲まれていて、

分野違いの人をもワクワクさせる「何か面白いことが起こりそうな」
知的な空気に満ちていて、いつ見てもいいものです。

ところでこの紫の物体は、もしかしたら泊まり込むためのものの・・・・?

 

さあ、これからアメリカでの生活の始まりです。

 

続く。


オーストリアの英雄 プリンツ・オイゲン〜ウィーン軍事史博物館

2019-09-02 | 博物館・資料館・テーマパーク

ウィーン軍事史博物館の展示をご紹介しています。
展示は三十年戦争に始まり、テーマごとに部屋が分かれています。

次の戦争は「大トルコ戦争」。
全く聞き覚えがありませんが、オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアの
「神聖同盟」とオスマン帝国の間に起こった戦争で、この結果、
オスマン帝国が衰退していったというものだと理解しておきましょう。

ご覧の鎖帷子はかなり位の高い武人のものらしく、
いたるところに宝石まで飾りとして縫い付けられています。

帽子からオスマン帝国軍かなと思ったのですが、説明が読めません(T_T)

このトルコ戦争で神聖同盟のハプスブルグ帝国軍を率いたのが、かの

オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン

日本ではプリンツ・オイゲン(ちゃん)の名前で有名です。
この博物館の子供向けキャラクターが「オイゲンくん」であることからも、
この人物はオーストリアで最も有名な武人であることがわかります。

三番目の展示は、このプリンツ・オイゲンに関する資料です。

博物館はこの「高貴なシュバリエ」に敬意を評し、ホール全体を
プリンツ・オイゲンにまつわるもので埋め尽くしているのでした。

まず、プリンツ・オイゲンを描いた巨大な肖像画が現れました。

絵の右下にカツラが飾ってあるので、もしかしたらプリンツ・オイゲン着用の
カツラなのか?と思ったのですが、単に消火器カバーのようです(´・ω・`)

さて、ここでせっかくの機会ですので、なぜプリンツ・オイゲンが、
オーストリアならずヨーロッパ全土で英雄と呼ばれているのか、
どういう経緯でヨーロッパ史上最高の軍事司令官と讃えられるのか、
兼ねてから気になっていたところをちょっと調べてみることにしました。

 

日本の我々、特に艦これ関係の方は、プリンツ・オイゲンがドイツ人だから
その名前がドイツの巡洋艦に付されたのだと思っているかもしれませんが、
実は彼はフランス生まれで、19歳までフランスで育っています。

フランス語読みによる名前は

プランス・ウジェーヌ=フランソワ・ド・サヴォワ=カリニャン。

ウジェーヌ=オイゲン(ユージーン)は1663年、パリに生まれました。

貴族の生まれですが、一説にはルイ14世の落とし胤という噂もあるそうです。
ぜなら、彼の母オランプ・マンチーニはルイ14世の愛人という噂があったからです。
彼はルイ14世の宮殿で8人兄妹の末の男の子として育ちましたが、

その貧弱な体格と立ち振る舞いのせいで

小さい時は聖職者にでもなれれば儲けもの、といわれていたそうです。
当時の聖職者って、そういう職業だったんですかね。

彼の父親となったソワソン伯は「勇敢だが魅力のない男」だったそうですが、
落胤の噂が噂に過ぎなかったすれば、彼は父親似ということになるのでしょうか。

彼の容貌についてある夫人はこう評しました。

「彼は決して容姿が優れているとは言えませんでした。
眼は決して悪くありませんでしたが、鼻がそれを台無しにしていましたし、
大きな二本の前歯がいつも口から見えていました」

Savoy.PNGのPrinz Eugene

確かにわたしもプリンツ・オイゲンの肖像画を見て、ここだけの話、
勝手にがっかりしたことがあるのですが、大出世してからの、
フォトショ以上に修正の可能な肖像画でこれだとしたら、おそらく本物は、
不器量に加え、今でいう隠キャで坊主になるしかなさそうな()
冴えない少年期を過ごしたのでしょう。

ちなみにわたしが一番お気に入りのオイゲン像はこれ。
確かに本人ですが、随分とかっこいいではないですかー。

ちなみにこれが描かれたのは1700年のことで、おそらく
これはその三年前、ゼンタの戦いにおけるオイゲンだと思われます。

「Portrait of Prince Eugene of Savoy (1663–1736) c. 1700. Flemish School」の画像検索結果

もひとつついでに、これはカツラで顔を隠しすぎたで賞。

 

さて、19歳の時、彼は軍人を志すことを決めました。

ところが、ここに彼のお騒がせカーチャンが、ルイ14世の愛人、しかも
自分が紹介した愛人を毒殺しようとしたというスキャンダルが持ち上がったのです。

Olympia Mancini by Mignard.pngオランプ・マンチーニ

ルイ14世はそのスキャンダル以降、彼女や彼女の子供たちにも冷淡で、
ウジェーヌが直々にルイ14世にフランス軍に入隊したいと言いに来た時、
請願に来た時の態度が、

「請願の内容は控えめだったが、彼の態度は控えめではなかった。
誰もわたしに対して向けたことがないような無作法な目でわたしを見た」

というものであったこともあって、フランス軍への入隊を許可しませんでした。

 

しかし結果的にこの時の太陽王ルイ14世の判断は、20年後、彼とフランスに
しっぺ返しとなって返って来ることになります。

スペイン継承戦争におけるベレンハイムの戦いで圧倒的な軍事力と政治力により
フランス軍を打ち負かしたのは、彼が追い出したウジェーヌ=フランソワ改め、
ハプスブルグ帝国軍司令官オイゲン・フランツだったのですから。


フランス軍への入隊を王直々に拒否されたウジェーヌは、オーストリアに移り、
ハプスブルグ帝国の軍人となって忠誠を誓いました。

フランス人だった彼がある日突然オーストリアで名前の呼び方を変え、
言語を変えてかつての祖国と戦うという感覚は、現代に生きる人間、
ことに非ヨーロッパ人にはわかりにくいですが、そもそもヨーロッパは
ハプスブルグ家を中心に全土に血縁を築いてそういう意味では
国境というより血族、といった概念が成立しており、オイゲンの家、
サヴォイ家も、スペインやイギリス皇帝の孫の血が流れていたので、
自分が何人かということは問題にしていなかった可能性があります。

あと、気になるのは言語です。
彼はいきなり異国に行って、言葉は困らなかったのでしょうか。

実際に彼はマザータングであるフランス語を好んではいましたが、
レオポルド1世はフランス語を話すことができるのに決して話さなかったため、
なんとイタリア語でコミニュケーションしていたそうです。

そして、軍人としての彼は、全てをドイツ語で行いました。
機能的で軍隊の指揮には向いていると言われるドイツ語を習得するのは
彼にとって極めて簡単なことであったようです。

彼がオーストリア軍人になったのは1683年、二十歳の時でした。
初陣はトルコ戦争でしたが、すぐに軍人としてめきめき頭角を現し、
若くして隊長に任命されるや、その才能は開花しました。

彼がどんなに優れた軍人であったかは、

22歳で少将、24歳で中将に任命された

ことにも表れています。
ある軍人は、

「この若者は必ずいつか世界の偉大な軍人の列に名を残すだろう」

と称賛しました。

そしてその統率力が最大に発揮されたのは36歳の時。
同じトルコ戦争の1697年「ゼンタの戦い」で若き帝国軍司令となった彼は、
神聖同盟の総指揮官としてオスマントルコ軍に対し目の覚めるような勝利を挙げたのです。

ウィキはこの結果を「神聖同盟の圧勝」と記します。

レオポルド1世のもとで彼は重用されました。
オイゲンは生涯結婚せず子供も成しませんでしたが、その理由はともかく、
かつて隠キャ扱いされたその容貌は、レオポルド1世の「陰鬱な」宮殿では逆に
禁欲的で軍人らしいとむしろその評価を高めていたといいますから、
人生何が幸いするかわかりませんね。

オイゲンも、その新たな忠誠心をこのような言葉で誓いました。

「私は、全ての力、全ての勇気、そしてもし必要とあらば
最後の一滴の血に至るまでを皇帝陛下に捧げます」

彼は軍人として名誉の負傷もしています。
1688年、ベオグラードの包囲中、膝にマスケット銃の球を受け、
1年間戦線を離脱することになりました。

冒頭写真のような膝頭まで覆う鎧を着ていれば防げたかもしれません。

ゼンタの戦いは彼を英雄にし、有名にしました。

皇帝から与えられたハンガリーの土地は彼に多額の収入をもたらし、
彼はそれによって芸術と建築の趣味に磨きをかけることができました。

しかし、彼は裕福となっても家族とのつながりとは無縁でした。
彼の4人の兄弟は1702年までに全員早世していましたし、
3人の姉妹のうち生きていた二人も、オイゲンは全くつながりを持とうとせず、
結局悲惨な暮らしの中に死んだといいます。

 

1701年からオイゲンはスペイン継承戦争の指揮をとることになります。
スペイン継承戦争はその名の通り、スペインのハプスブルグ家が
断絶しそうになっているところにルイ14世が色気を出し、
権力争いにヨーロッパ中が巻き込まれたというもので(簡単すぎてすまん)
これも実に14年間も続いています。

ここでオイゲンはかつて自分が志望したフランス軍と戦うことになりました。
苦戦が続きましたが劣勢からトリノでの包囲を破ってフランス軍を倒し
彼はこの功績によってミラノ総督に任命されています。

その後も、彼はスペイン継承戦争の結果オーストリア領となった
ネーデルラントの総督となり、後にはイタリアにおけるオーストリア領の副王、
晩年までオーストリア軍の将軍として生き続け、その功績により
政治的にも大きな発言力を有していました。

彼が没したのは1736年、72歳というのは当時の政治家として長命でしょう。


彼のもう一つの顔は、芸術の庇護者となったことでしょう。
潤沢な資産をベルベデーレ宮殿などの建築に投じ、パトロンとして
学者を応援し、膨大な美術品をコレクションしていました。

オイゲンは相続人となる子をもうけなかったので、莫大な財産と
美術コレクション、建築物はすべてハプスブルク家の所有になったということです。

戦火に生き、いくさをその住処とし、生涯戦場に生きた男。
ヨーロッパ史上最高の名将とその名を謳われたプリンツ・オイゲンは、
血族を信じず、血縁を断ち切って、たった一人でこの世から去りました。

彼の唯一の愛は、彼をプリンツ・オイゲンたらしめたオーストリアと
その帝国、そして皇帝への忠誠の中にしかなかったということなのでしょうか。

そこで世間には当然、彼が同性愛者であったという噂も存在するわけです。

近年の歴史家には、パリ時代の彼が、まるで同世代の有名な女装の男、

フランソワ・ティモレオン・ド・ショワシー

Abbé de Choisy.jpg

のように少女の格好をしていたという説をあげていますし、
同年代の男性で有名人、超優秀な軍人、お金持ちでありながら、
女性との話が一切なかったというのは怪しいといえば怪しいかもしれません。

オルレアン公爵夫人という当時のウジェーヌを知る人の証言によると、

「他の不良王子、『マダム・シモーヌ』とか『マダム・ランシェンヌ』などと
あだ名のある若い人たちと女装をし、彼の役は『下品な売春婦』だった」

うーん・・・これは一体どういうことなんでしょうか。
女装趣味があったということですが、失礼ながらあまり似合っていたとは
お世辞にもいえなかったのでは・・ってそういう問題じゃない?

そして彼はどんな女の子よりも同性を好み、その不品行ゆえに
聖職者になることを拒まれていたというのです。

なんと。

フランス軍に入る以前に、聖職者もダメ出しされてたんじゃないですかー。

しかし、そんな彼が今やオーストリアで一番有名な武人なのですから、
むしろ同性愛はこの世界では歓迎される要素なのかなと(苦笑)

このホールにはプリンツ・オイゲンが実際に着用していた衣装が展示されています。
右のコートのようなガウンのような服は、下半分が欠損していたので
博物館の方で修復し展示しているものと思われます。

ナポレオンは彼を歴史の7人の最高司令官の一人と見なしました。
異論を唱える人もいるようですが、少なくとも彼は間違いなく
オーストリア史上最高の将軍でした。

 彼は、戦闘の優位性と、攻撃を成功させる適切な瞬間をつかむのに
天性のカンを持っており戦略家、および戦術家としては天才と言われました。

しかし、天才にありがちなこととして、彼は後継を育てるということに
一切興味がなかったらしく、これだけ長く軍のトップにいながら、
将校を育てる教育機関を作ろうとはしませんでしたし、軍隊そのものを
機能的に動かすためのシステムづくりにも不熱心でした。

つまり、全て自分がやればいいとでも思っていたのか、
自分なしで
機能する軍隊を残して行かなかったのです。

 

彼は戦場において無為な残虐行為は拒否しました。
戦場で部下に要求したことはただ勇気のみ、あとは彼ら自身の判断に任せました。

彼の下での昇進は社会的地位は全く関係なく、いかに彼らが
戦場で命令を遂行するのに勇敢だったかに尽きました。
評価してくれるカリスマ指揮官のもとで、彼の部下たちは
彼のためなら
死も惜しくはないという戦いぶりを見せたに違いありません。

ただし、帝国戦争評議会の大統領としての彼ははあまり評価されていません。
得意分野はあくまでも戦場での采配だったということでしょうか。

 

ウィーンでわたしが見たプリンツ・オイゲンの巨大な騎馬像には
彼の功績を記念して、こんな言葉が刻まれています。
一方の台座には三代にわたる皇帝に仕えた彼を称え、

「三人の皇帝の賢明な顧問へ」

もう一方には

「オーストリアの敵の栄光を征服したる者へ」

 

 

続く。