ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

観閲行進〜自衛隊記念日 江田島オータムフェスタ

2019-11-06 | 自衛隊

観閲行進に先立ち、観閲官たる第一術科学校長、そして
幹部候補生学校長と江田島市長が観閲用の車に乗り込みました。

「先導いたします」

と指揮台前で宣言した観閲部隊指揮官は、先行の車両右側に着座して、
部隊の目の前を通過する際に部隊側を向くように座っています。

 

わたしが「お供いたします」といったように勘違いして覚えていたのは
同じ車に乗り込んで座る=お供と記憶が改変されたからに違いありません。

自衛隊法の細目によると、部隊指揮官は

執行者の目の前に進み、部隊指揮官の氏階級と人員等の報告後に
「ご案内します(どうぞ)」と右手を伸ばし誘導する

とされています。

音楽隊の演奏する「巡閲の譜」の調べがグラウンドに響く中、
全部隊を「閲兵」する観閲官。

練習艦隊などの場合は観閲官(防衛大臣か副大臣、政務官)が
儀仗隊の隊列を歩いて巡閲します。
巡閲を行う者を受礼者といい、このとき受礼者は隊員一人ひとりの
容儀、姿勢、眼光などに表れる気迫を通して、練度や士気を
確認するという意味があります。

これらの細目は全て自衛隊法の実施要項によって定められ、
指揮官は基本三尉から三佐まで、ということになっています。

幹部候補生はまだ任官しておらず海曹長という階級なので、
厳密にはこの基本から外れることになりますが、本式典は
あくまでも第一術科学校内での観閲行進なのでこれはありです。

海曹が指揮官になっていたことで前回unknownさんが
違和感を感じておられましたが、これが校内における行進で
さらに指揮官が海曹長であることを考えれば、
これもありなのではないか、と思われますがどうでしょうか。

いずれにしても旧海軍時代にはありえなかったリベラルさです。

巡閲終了。

「受礼者」に対し、この観閲部隊指揮官を「立会者」と称しますが、
立会者である部隊指揮官の

「巡閲終わります」

の報告で、巡閲は終了します。

ダビッドの前を普通に歩いている自衛官が気になる・・・。

部隊指揮官の

「観閲行進の態勢を取れ」

の号令により、各部隊が用意を行い、そののち
部隊指揮官が先頭となり観閲行進を指揮します。

しかし先頭を歩くのは実は行進曲「軍艦」を演奏する
音楽隊だったりします。

続いて幹部候補生隊(二大隊)、海曹部隊、海士部隊、
最後に喇叭隊が行進を開始します。

候補生部隊はもちろん全生徒が参加しているのでしょう。
隊列はグラウンドを右回りに行進し、芝生を取り囲む
観客の前を通過して術科学校の正面まで戻ってきます。

音楽隊が正面にさしかかりました。
部隊が通り過ぎるたびに盛大な拍手が観客席から起こります。

さすがはマーチングが本領の音楽隊、足の角度が皆ぴったり同じ。

音楽隊の先頭は全ての先頭ということになりますが、
このバトンを持った役目をドラムメジャーといいます。

ドラムメジャーは背の高い人しかなれませんが、それは
見栄えの問題というよりは背が高くないと、この
長いバトンを扱いにくいという実質的な理由があります。

海曹部隊の行進が始まりました。

そしてその頃観閲部隊指揮官を先頭とする指揮官部隊が通過。

続いてカラーガード部隊です。

「国旗が前方を通過するときにはご起立をお願いします」

というアナウンスがありました。
わたしの周りの来賓は当然皆立ち上がっていましたが、
昔防大の開校記念祭で、グラウンドを国旗が通過する際、
規律を促すアナウンスがあっても頑として立たない防大生の父兄らしい人や、

立ち上がったら後ろから

「(撮影の邪魔になるから)立つな!」

と怒鳴る連中がいて、茫然としたことがあります。

カメオタと呼ばれる中に得てしてとんでもない非常識さんがいるのは
あちこちのイベントで散見してよく知っていますが、
自分の子供が自衛官になるかもしれないのに国旗に敬意を払わない、
というのはいかがなものなんでしょうか。

候補生観閲部隊が観閲台前にさしかかりました。

こちらは候補生部隊の第二大隊。

部隊指揮官は、観閲台の手前(数十メーター)に隊列がさしかかると、

「頭(かしら)〜」

の号令を発すると同時に右手を伸ばします。

そして、その後、

「右!」

の号令で観閲台に向かって敬礼を行います。

旗を持って行進している旗手は「旗の敬礼」。

右手で旗ざおを垂直に上げ同時に左手で右脇で旗ざおを握り、
次に旗ざおを水平に前方に倒して行なう敬礼です。

このとき旗がちゃんと下に垂れるようにするのは難しそう。

銃を持って行進している部隊は、敬礼の代わりに、
「頭右」だけを行います。

ただし、一番観閲台寄りの列だけがまっすぐ向いたままです。
理由は知りませんが、多分全員で右を向いたら
列がまっすぐ進まないからじゃないでしょうか。

続いての海曹部隊旗手はすらりと背の高い女性隊員。

行進している海曹は、幹部候補生としてここ赤レンガで幹部を目指す、
「部内選抜一般幹部候補生」と言うことになろうかと思います。
このグループを「B幹部」といい、そのほかにも「C幹部」といって、
海曹長・准尉の中から試験で選抜された候補生もいますが、
履修期間は12週間だけですので行進に加わってはいない気がします。

防衛医大などの出身である医科歯科幹部候補生もいますが、
観閲行進にさんかしているかどうかについてはわかりませんでした。

最後に行進する海士の帽子には「第1術科学校」の金文字入り。
今見えている海士の全員が海士長(旧海軍の上等兵)です。

行進している海士のこちら側にも海士が立っていますが、
観閲行進が始まると同時に観閲台の両脇にたち、
いわば観閲官を「警護」しているという役割です。

この頃には音楽隊はグラウンドから建物の向こうに姿を消し、
音楽はまったくない状態がしばしあったわけですが、すぐに
最後尾の喇叭隊が「速足行進」の演奏を始めました。

このとき演奏されていたのは「速足行進その1」だと記憶します。

喇叭隊は二つに分かれ、メロディを交互に吹きます。
吹いていない時はこうやって右脇にラッパを抱え、
自分の吹く番になるとさっと構えるのです。

この行進&演奏を見ていて、わたしは最初に江田島にきた時を思い出しました。
毎日行われている第一術科学校の一般公開に参加したときです。

教育参考館の見学が終わり、ここにさしかかったとき、ちょうど
喇叭隊が行進していくところ(つまり行進部隊の最後)を目撃したのです。

そのときの見学グループを率いて説明してくれた
もと自衛官が、もうすぐ何々があるのでその練習です、といっていたのですが、
今にして思えばあれは自衛隊記念日の観閲行進の練習だったのですね。

同時に初めて見た自衛隊の行進に感激した気持ちまでもが蘇ってきました。

あれから幾星霜が流れました。

あの時行進していた自衛官のうち誰一人としておそらくここにおらず、
同じ制服を着ている自衛官もまずいないでしょう。

なによりも、いつの間にか同じ自分が、同じ場所で、その観閲行進を
観覧席に座って見ていることがなんだか不思議でした。

 

続く。

 

 


国旗国歌に対する儀礼〜自衛隊記念日式典 江田島オータムフェスタ

2019-11-04 | 自衛隊

オータムフェスタというのは直訳すれば秋祭り。

秋祭りだと神事のようなので日本語にしなかったわけはわかりますが、
第一術科学校とカ幹部候補生学校がある江田島で行われるのに
なぜ「学校祭」と銘打たないかというと、自衛隊の単独主宰ではなく、
江田島市の多大なる支援を受けているからではないかと思います。

江田島市が観光名所でもある第一術科学校を借りて地域を盛り上げ、
海上自衛隊はこの日だけは内部を開放する代わりに、行事を
一般に公開し、広報活動につなげるWin-Win✌️✌️というわけですね。

しかし、そのために、敷地内ににステージは立つわ屋台は出るわ、
芝生には皆がズカズカ入り放題、シートを引いて寝そべったり飲み食いするわで、
unknownさんもショックを受けておられたように、その日一日だけは、
もし海軍兵学校を知る人が見たらかつての聖地が卒倒しかねない有様になります。

地元の人々に親しみを持ってもらう試みそのものは大いに結構ですが、
わたしとしてはこういうのは年一回だけに留めて頂きたいという気もします。

さて、早く来過ぎてしまい、グラウンドを一周してから
江田島クラブにある自衛隊史料室を見学して時間潰しをしたわたしですが、
それでも控室となっている大講堂の応接室はまだこんな状態。

応接室には山本五十六の書の下に、聯合艦隊司令部が
岩国の海軍航空基地で真珠湾攻撃のための作戦説明会議を行った
昭和16年11月8日の集合写真が飾ってありました。

「凌雲気」の書は、山本長官が揮毫し、岩国の海軍旅館「久義萬」の主人に
贈呈されたのと同じ文字ですが、もしこれがレプリカでなければ、
旅館が廃業したあと、江田島に寄贈されたのでしょうか。

「凌雲気」は文字通り「雲を凌ぐほどの気」、つまり俗世の全てを超越した
覚悟や意気、というものを表していると思われます。

今度機会があったら、これが本物かどうか確かめてこようと思います。

 

さて、誰もいなかった控室も1時半にはすっかり人で埋まり、
隣の方と名刺交換をしたり、知り合いと挨拶したりしていると、
控室に集う人々に、バスに乗るようにという指示がありました。

こういうときに、さすが序列社会である海軍の末裔だと感心するのは、
海上自衛隊の式典ではこんなことまでというくらい、席次とか
順番とかが前もってきっちりと決まっていることです。

式典に到着すると、まずホッチキスで止めた分厚い紙束が配布されるのですが、
それはおどろくなかれ、本日行われる全ての場面別席次表なのです。

バスに乗る際も、前もって色のついたカードが紙束と別に渡されていて、
赤いカードをお持ちの方はこちらにお乗りください、といった具合。

日本(24)−布哇(ハワイ)作戦(4)

海軍では集合写真を撮る時も車に乗る時も、序列により場所がきまっています。
たとえばこの岩国の写真では、山本大将がきっちり真ん中に座り、
前列に座っている8名は全員が中将、後ろがが少将と大佐です。

(ところで、この前列一番右が井上成美中将ってご存知でした?)

というわけで、その伝統を引き継いでいるところの海自でも、
公式の写真は必ず椅子に名前が振ってあり、立食パーティのテーブルや
花火の見学まで席をきっちり決めないといけないようなのです。

この順番を考える係の自衛官には心からお疲れ様と申し上げたい。

ここで史料館の江田島ジオラマを活用させていただきます。

バスでの移動は、通常大講堂からだと赤煉瓦前を通り、グラウンドを
時計回りする青い線を通りますが、この日は青い線のところに
屋台が出ていて人がたくさんいるため、赤線コースを通ることになりました。

なんどもここには来ましたが、初めて通る道です。
古い建物は自衛官の官舎のようでしたので写真は控えました。

コース途中にはこのような廃墟マニア垂涎の年代物建築もあり。
スロープで車のついた用具を出し入れしていた倉庫かもしれません。

グランドが見えてくると、そこにはすでに観閲行進を行う部隊、
そして指揮官部隊が整列していて壮観です。

グラウンド内の出入りはとくに制限されていないらしく、
自衛官が持つ黄色いロープのぎりぎりで見学することができます。

乗っているバスが第一術科学校前の式典会場来賓席に到着しました。
さっそく小冊子?を頼りに自分の名前を探して席に着きます。

最前列は国会議員、市長、町長、県会議員など。

指揮台の前に並んでいるのは術科学校副校長始め、
指導官といった立場の幹部と海曹の一団です。

朝から立ち入りを禁止していただけあって、指揮台前は
まだ目立てがきれいに残っている状態でした。

広いグラウンドなので観覧席からはかなり遠くに見えます。
観閲行進の先頭部隊は呉音楽隊。

呉音楽隊といえば、呉地方総監部で行われた自衛隊記念日の演奏で
お伝えするのを忘れていたのですが、「海をゆく」に続く二曲目は、

「月月火水木金金」

でした。
作曲者江口夜詩の息子は海軍兵学校2年で終戦を迎えています。
この曲の演奏時も「海をゆく」と同じように

「うみーのおっとこのかんたいきんむ、げ(略)」

の部分ではやはり小さくメロディを歌う声が周りから聞こえてきました。

まず第一術科学校長、丸澤伸二海将補が壇上に上がり、挨拶と訓示。

公明党の幹事長、斉藤鉄夫氏が挨拶。

続いて挨拶した参議院議員の森本信治氏は、民主党から民進を経て国民民主、
それだけでもわたし的にはアウトで政治主張にも全く賛同しませんが、
祖父が海軍兵学校卒で南方にも出征したという話には思わず聞き入りました。

ただし、氏は護憲派の立場上そのことにはプロフィールでは一切触れていません。
つまり、ここに来たときだけ披露するとっておきのネタというわけですねわかります。

シニカルな言い方をすると政治家の挨拶なんてそんなもので、
たいていはその場にいる有権者にアピールする目的しかないですが、
そんな中で江田島市長明岳周作氏の挨拶だけは、

「江田島市はこれからも海上自衛隊とともに歩んでいきます」

など、いつもわりと真に迫っています。

呉市もそうですが、江田島にとって海軍遺跡とそれを継承する海自は
大事な観光資源でもあるのですから、真に迫るのも当然のかもしれません。

観閲部隊はこちらから見て左に音楽隊、そして幹部候補生隊が並びます。

海側に向かって海曹、つまり部内選抜の幹部候補生、
海士の部隊、そして一番右が喇叭隊です。

海士の行進部隊を率いる小隊長も海曹です。

学校長や来賓の挨拶のとき、最初に敬礼を行い、
しばらく気をつけの姿勢でいますが、壇上の訓示者が
「休め」「休んでください」というと、「整列休め」の号令が降り、
手を後ろに組み、銃を持つ者は地面に銃床を置いた姿勢で立ちます。

一連の式典開始に先立ち、幹部候補生から選抜された隊長と
女性候補生一人を含む5人が、指揮台前で報告を行います。

指揮官と部隊の間にも始まりの挨拶が交わされ・・。

観閲行進部隊は銃に着剣を行います。

これは何に対しての着剣かというと、国旗と自衛艦旗に
捧げ銃を行うための準備となります。

我々参列者も国旗と自衛艦旗に敬意を払って起立します。

このあと、国歌斉唱が行われました。

自衛官は国旗掲揚のとき敬礼をし、斉唱は気をつけで行います。

国旗と自衛隊旗を持つこの一団は、自衛隊ではなんと呼称するのか知りませんが、
一般的には「カラーガード」の範疇に入ります。

マーチングバンドでも旗、銃、サーベルを用いるパートを
「カラーガード」といいますが、この「カラー」にはまさに
国旗と軍旗(日の丸と自衛隊旗)を意味し、それをガード、
護衛するというのがこの名称の語源であり、旗の両脇、
そして後方を着剣した銃で守って歩くというわけです。

旗が移動中、壇上では第一術科学校長、幹部候補生学校長が敬礼を、
江田島市長が左胸に手を当てていました。

この左胸に手を当てる仕草は、サッカーの三浦カズ選手がやり出してから
(だと思います)特に最近日本でも同じようにする人が増えましたが、
もともとはアメリカの「忠誠の誓い」であって、日本の作法ではありません。
日本では国旗国歌の際直立不動というのが正しい姿です。

善意で解釈すれば、他の二人が敬礼しているのに、自分だけ空手で
ぼーっと立っているのもなんなのでやってみました的な?

厳しい言い方かもしれませんが、スポーツ選手ならノリで許されても、
この立場の人間がこれは物知らずという指摘は免れません。

仮にも日本国の自治体の長たる者、もうすこし勉強された上、
正しいプロトコルに則った所作で臨むべきではないでしょうか。

国旗・自衛隊旗は右回りに移動して指揮台に正対しました。
これから観閲官による巡閲が行われます。

ここで観閲部隊の総指揮を行う隊長が一人、進み出ました。
一挙手一投足をここにいる全ての人に注目される華々しい役目です。

指揮台前に到着した巡閲用のオープンカーの前に立った指揮官は、

「お供いたします!」

というようなことを力強く宣言し、それに促されて
前の車両に第一術科学校長、後ろの車両に幹候校長が乗り込み、
江田島市長は幹部候補生学校長と同じ車の後部座席に座りました。

広大なグラウンドなので、全部隊の巡閲は車で行われるようです。

 

続く。

 


自衛隊記念日・江田島オータムフェスタ〜自衛隊資料室

2019-11-03 | 自衛隊

さて、オータムフェスタに早く着きすぎてしまったわたし、
そのおかげでいつもはバスの車窓から見るだけのグラウンド南側を
歩いて(しかも芝生の上を)回ることができました。
しかしそれでも時間はまだたっぷり残っています。

となると、一階に売店のある江田島クラブに行くくらいしかありません。

普通の自衛隊ショップにもないようなグッズを探すのもまた楽しいものです。
幹部候補生学校では昔と同じく陸戦訓練も行いますが、それに必要な
陸自的装備もここで調達することができます。

足ゴムとか弾帯止め(100円って安っ)など、どう使うのか想像できないものも。

ちなみに幹部候補生学校の陸戦訓練は専用のフィールドで行うそうです。

江田島を訪れた時の故菅原文太、小西博之の写真あり。

この売店、模型も飾ってあります。
小型潜水艇を搭載している伊号16潜水艦出撃の図です。

前回、術科学校グラウンドに展示されているヘッジホッグの話が出ましたが、
伊16はまさに米海軍の駆逐艦「イングランド」から5回にわたって投下された
24発ずつのヘッジホッグによってソロモン諸島で戦没しています。

力作です。
坊ノ岬沖海戦、天一号作戦に出撃する「大和」艦隊。

輪形陣と呼ばれる艦隊配列ですが、若干駆逐艦の数が足りてません。

第一術科学校の見学コースは毎日3回(祝祭日は4回)
行われており、所要時間は1時間半。
大講堂、教育参考館だけでなく、不定期に今では
表桟橋と陸奥の砲塔を見せてくれる日もあるようですが、
一般コースでは見られない建物や施設、碑など、
写真が江田島クラブの一階に展示してあります。

「海軍兵学校の碑」

「赤城戦死者の碑」

「従道小学校記念碑」

はわたしもまだ見たことがありません。

「水交館」「高松記念館」は見学しましたが写真公開不可。
「理化学講堂」も向かいの学生舎から中を覗き込んだことはありますが、
まだ実際に中に入ったことはありません。

ところで理化学講堂には「出る」という噂が絶えず、ついにクレーム?が出たので
当時の幹候学校長が神職に御祓してもらって今はもう大丈夫なんだそうです。

しかし、これだけ色々と歴史を重ねた(しかも何かと出る要素が多そうな)
江田島のなかで、どうして理化学講堂だけが問題となったのか不思議。

 

さて、売店を見終わったあと、自衛隊資料室があるのに気がつきました。
いつの間にか江田島クラブ二階に開設されていたのです。

階段を上がっていくと、海上自衛隊出身の宇宙飛行士、
金井宣茂「軍医大尉」のポスターがありました。
潜水医官から宇宙飛行士を目指し、平成29年、ソユーズに乗り込み、
長期滞在を終えて昨年無事帰還してきたことが報じられましたね。

金井氏は医官として7年間務めてきましたが、自衛隊呉病院と、
ここ第一術科学校の衛生課での勤務の経験もあるということです。

ところでアメリカの場合、軍人が宇宙飛行士になっても軍籍はそのままですが、
自衛隊の場合それができないので、金井氏は宇宙飛行士採用と同時に退官しました。

しかし、NASAは金井飛行士をアメリカ人宇宙飛行士の例に倣い、公式にも
「大尉(Lieutenant)」の称号で呼び、軍人として扱っていたということです。

ポスターのISS 54/55は、国際宇宙ステーション第54次・55次滞在を意味します。

史料館には第一術科学校のジオラマが展示されていました。
江田内を大護衛艦隊が航行していますが練習艦隊にしては多すぎるような。

一般公開に来る人のために作られたジオラマなので、一般見学コースを
紅白のラインで示し、自分がどこを歩いてきたかわかりやすく示しています。

展示室入口には、昔当ブログで希望者に送らせていただいた、
兵学校と幹部候補生学校の今昔写真集

「伝統の継承」

のページが展示してあります。
兵学校の写真は1943年、カメラマンの真継不二夫氏が、
幹部候補生学校は真継氏の娘美沙さんが手掛けました。

起床、食事、教務、実習、点検、短艇、遠泳・・。

兵学校時代と幹部候補生学校、今昔の写真を見比べると、
海の武人としての教育は時が移り変わっても変わることがない、
ということをあらためて思います。

10分の1サイズのエアークッション艇模型です。
なんと第二代LCAC艇隊の隊長だった町田三佐が、隊員の教育用に

段ボールだけで

制作したという超力作です。
教育用って、これ絶対町田三佐の趣味だろっていう。

説明をそのまま書いておくと、

「輸送艦『おおすみ型』に搭載して運用する
ホバークラフト型の輸送艇。
通常は第一エアークッション艇隊に所属し、整備・訓練を実施、
輸送艦が運行する際に2隻搭載され任務にあたる。

輸送艦後部ランプを開いて発進、エアークッション艇なので上陸地の
地質などにあまり影響を受けずに揚陸できる。

最大速力40KT、陸自の90式戦車2両、人員約30名、
重量にして約50トンの積載能力がある」

90式が2両運べるって凄すぎない?
本当に訓練で戦車を載せたことはあるんでしょうか。

どちらも教練用の弾薬砲(3インチと5インチ)です。
中にカプセルみたいなものがぎっしりと詰まっています。

「対空戦コーナー」として、冷戦時、対艦ミサイルから身を守るため、
砲や対空ミサイルなどの武器をシステム化することにより、自動的に
迅速、かつ正確な防御がおこなえるようにした、という説明とともに、
シースパローミサイルが展示してあります。

 

こちらにあるのはM2444魚雷(展示用)。
哨戒機やヘリが行う対潜戦について、

捜索・探知 (ソナーなどによる)

攻撃(魚雷、ロケット型飛翔魚雷による

などの説明付き。

対潜戦で用いられるソノブイ。使い捨てです。
P-3Cなどから投下し、海中でマイク(左下の黒いの)から
潜水艦の音をとらえ存在を航空機に伝達します。

最深70mまで潜水可能な潜水服。
錘が入っているらしい靴が凄まじいですね。

ここで使われていたようなのですが、平成12年度教育終了、とあります。

右側にあるのは米軍の使用していた昔の潜水ヘッドです。
ヘッドギアの横と上部にどちらも視界を確保するための窓があります。

ペルシャ湾の掃海派遣で海上自衛隊の掃海部隊が破壊した機雷。
機雷の上に置かれたプレートには

「誇り高きペルシャ湾の勇者に

1991.6.5~9.11

掃海派遣部隊」

と刻まれています。

 モールス号表の下に置かれた練習用の電鍵。

この説明には

1985年にマルコーニが無線通信装置を実用化」

とありますが、これはもちろん1895年の間違いです。

ながらくモールス信号は無線通信の中心でしたが、昨今は通信衛星、
そしてデジタル技術の発達によってその座を退きました。

船舶における通信手段も通信衛星が登場したため、日本では1990年代に
モールス通信は廃止されています。

ただし、アマチュア無線、漁業無線、そして自衛隊では現在も
モールス符号を使った通信が行われています。

第一術科学校ではここにあるのと同じ電鍵を用いて
通信技術の研鑽が日々行われているということです(-人-)

アネロイド気圧計
電源を用いず、真空の容器が外気圧との差で伸縮する動きを
針に変換して気圧を表示します。

水銀(液体)を用いた気圧計に対し、こちらは
液体(ネロイド)がない(ア)というギリシャ語からきた名称です。

右は

「通信制限付き 船舶時計」

で、色がついている秒に針があるとき、特定の周波数の電波を
使ってはいけない、と規制する意味があります。

遭難信号が確実に受信されることを目的としています。

左はおなじみ信号ラッパ
ご存知とは思いますが、ドミソ三種類、ドソドミソ5音しか音が出ません。
この三音を組み合わせた曲で、自衛隊は号令を伝えます。

右は天測を行うために使う六分儀です。
天体の高さをはかることで現在位置を知ります。

操舵磁気羅針儀(マグネットコンパス)、操舵装置、テレグラフ
自衛艦の外に設置されている速力信号標、そして艦長席、司令官席。

このコーナーには「ゆき」型の艦橋が再現されていて、
今本艦が航行しているのは音戸の瀬戸だと思われます。

自衛艦見学で舷側を歩いているとよく目にするこの赤いパイプの
正式名称を初めて知りました。

アプリケーターといって、先端の孔から低速の霧が噴霧され、
消火活動時に人員を防護したり、甲板や外板の冷却をするとき、
ノズルの先に取り付けて使用します。

「たちかぜ」型の2番艦、「あさかぜ」の時鐘と艦名プレート。
「あしがら」の就役と同時に除籍され、2010年に廃艦になりました。

昭和30年度計画で建造された「あやなみ」型のネームシップです。
術科学校校庭に展示してあったヘッジホッグを搭載しています。

ヘッジホッグ。艦橋の前に設置されていたんですね。

昔の護衛艦は甲板の真ん中に魚雷を積んでいたと_φ(・_・

観艦式の訓練展示では必ずミサイル艇のIRデコイ発射を行います。
水の噴水みたいで今回これが見られなかったのも残念でしたが、
そのミサイル艇「はやぶさ」「おおたか」「くまたか」の先輩、
ミサイル艇1号「わかたか」の模型がありました。

ミサイル艇って、転倒防止に水中にこんな脚を伸ばしていたんですね。

 

ここの説明で初めて知ったのですが、ミサイル艇は、
北海道沿岸の対艦ミサイルを搭載する「外国艦」に対抗するため、
魚雷艇の後継として建造されたのだそうです。

そして驚いてはいけない、この30分の1模型を制作したのも、
あの町田三佐なのだそうです。

クッション艇を制作したのは「隊員の教育用」だったようですが、
この模型はもう退官されたらしい町田元三佐が、この展示室のために
「余暇を利用して」(←わざわざ書く必要あるかな)作製したものです。

しかし、これだけ力作を提供してくれたのだから、「町田三佐」の
フルネームをせめてちゃんと掲示すべきと思うのはわたしだけ?

今年の呉地方総監部における自衛隊記念日では、呉海自カレーが
感状を授与されていましたが、このアイデアは、海上自衛隊にとって
多大な広報効果があったことは間違いありません。

右下はいまでも自衛艦内の隊員食堂で使われている食器ですが、
初期のカレースタンプラリーでは全カレー制覇したらこのトレイを
プレゼントにもらえる、という企画でした。

わたしはゴルフ場の中や離島のレストランまでカレーを食べに行き、
見事これをゲットしたという奇特な方を知っています。

 

 

江田島クラブの入り口にあった自衛隊音楽まつりのポスターと、
てつのくじらをフューチャーした呉市観光ポスター。

音楽まつり、今年は武道館が工事中なので代々木体育館で行うんですね。


さて、というわけですっかり充実した時間潰しが終わったので、
まだ少し早いですが、控室に戻ることにします。

 

続く。


江田島散策〜第一術科学校-江田島市共催オータムフェスタ

2019-11-01 | 自衛隊

 令和元年度の自衛隊記念日に付随する呉地方隊の行事が終わりました。
いつもならそこでわたしの自衛隊記念日も終了なのですが、今年は

「まだだ、まだ終わらんよ」

第一術科学校の行事にお誘いをいただいたため、呉滞在3日目、
わたしはガンダムのクワトロ・バジーナのセリフを脳内に浮かべながら
江田島小用港行きのフェリー乗り場へと車を走らせました。

すると、乗り場には待っている車どころか人影もなし。
少し早めに来たからかな?と思いつつそこにいた係員に聞いてみると、
なんとたった今フェリーは出航したばかりというではありませんか。

「じゃ10時40分発というのは」

「それは小用発呉行きですね」

うーむ、我ながら時刻表もまともに読めない奴だったとは。

自分で自分に心底呆れながら、そこはそれ、こんなこともあろうかと
借りていた燃費の良いプリウスで地道コースをGo!

ちなみに今回借りたのはまだ納車されて6ヶ月の新車でしたが、
そのおかげで広島空港⇄呉⇆江田島と3泊4日運転しても、
最後までガソリン残量のケージは一コマも減らず。
最後に満タンまで給油して料金は600円で心底驚嘆しました。

前もって送っていただいた駐車カードを見せながら進むと、
一般公開出発コースになっている建物の裏に誘導されました。

 

テントの下の受付コーナーに受付票を見せると、ここではなく
大講堂の中で受付してくださいとのご指示が。

写真に見えている車寄せから一歩中に入ると、
制服と制服でない人がいっぱい待機していて、そこで受付をし、
懇親会の会費を支払い、代わりにリボンをつけてもらえます。

その後待合室となっている一階の応接室に通されたのですが、
誰もおらず、続いて誰かが来る様子もまったくありません。

ひっろーい応接室に、わたし一人です。

とりあえず現副校長と明日から任期交代する新副校長、他にも
顔見知りの自衛官のみなさまにご挨拶をすませましたが、
この辺でわたしは少々
早く着きすぎたのではないかと思い始めました。

今回の行事、初めてご招待いただいたので勝手がわからず、とりあえず
開始時間の11時に行けば良いだろうと車を走らせてきたのですが、
そもそもこの日のオータムフェスタは、地元と第一術科学校を繋ぐ
触れ合いの機会として設けられた、いわば文化祭とか普通大学なら
大学祭みたいなノリのお祭り。

それが開門になるのが11時であり、来賓客というのは2時から行われる
この日の目玉イベントである観閲行進に間に合うように、
鷹揚にご来臨するものであることに遅まきながら気づいたのでございます。

「うーん・・・・」

まさかここでお茶をすすりながら式典開始まで待てるか?いや待てない。
ちょうどご挨拶に来られた総務の一佐に外に出た方がいいですよねー?と伺うと、

「もちろんです。
構内はそのすっばらしいカメラで写真をお撮りになるべき
ポイントがたくさんありますし、今日は大講堂の前に特設ステージが設けられ、
そこでもうすぐミュウージックが披露されます」

「ミュウージック」にツッコむべきかどうか一瞬迷いましたが、そこはスルーして、
わたしは集合までの2時間半、江田島を散策することにしました。

一佐が始まるとおっしゃった「ミュウージック」はまだで、このとき
ステージ上ではこの日の司会進行のお二人がMCを行っていました。
この右手にある屋台は人がいっぱいでしたがステージ前はご覧の状況。

ちなみにこの日江田島のお天気は日差しの強い夏日で、湿度も高く、
秋らしくセーター・マフラーに帽子といういでたちでキメてきた女性司会者は、

「暑いですけどわたしこれ脱がずに頑張ります」

と宣言していたものの、かなり辛い状況だったんではないかと思われます。
彼女の装いはおそらくこの日の花火大会に照準を合わせたのでしょう。
この時期江田島は陽が沈むと海から吹く風で寒くなるのだそうです。

自衛官が自分の家族や彼女?を案内しているらしい光景も見ました。
防大開校記念日もそうですが、制服姿の恋人や婚約者にエスコートされると、
制服マジックもあって惚れ直してしまいそうですね。しらんけど。

それにしても暑いのう、と思いながら日陰で写真を撮っていると、
写真に写っている自衛官がわたしが暇を持て余しているのを見抜いたのか、
すたすたっと近づいてきてお話相手になってくれました。

この自衛官が江田島で何をしているかというと、「教官の教官」、
つまりここ術科学校で先生をする予定の自衛官に、

「教え方を教える」

という仕事です。
技術的なことは自分の専門についてよく知っていても、それを
他人に教えるというのはまた全然別のことなので、ということでした。

「どのくらいのタームで授業するんですか」

と聞くと、

「常時開講です。自動車学校みたいなもんですから」

授業をする方もしょっちゅう自らが講義を受けているってことね。

ちなみにこの日のオータムフェスタで海自迷彩を着て、
あちらこちらに立っている自衛官のほとんどがこの教官なんだとか。

「自衛官の仕事って本当にいろいろあるんですよ」

ええそれはよく知ってますともさ。
自己完結が自衛隊の本領ですからね。

ところで、この自衛官氏は学外の近場にお住まいということでしたが、
自転車で四国をほぼ一周したりはしょっちゅうなのだとか。
そのとき近くをたまたま通りかかったEODの先生を呼び寄せて、

「この人は毎日呉から自転車で通ってきてますからね」

「呉から橋を二つこえて?どれくらい時間かかるんですか」

「2時間です(`・ω・´)」

「てことは通勤時間に4時間・・・?」

「アホですよねー」

いやアホとは思いませんが、自衛官って皆こんなのなの?

「いや、さすがにそんなのはわたしたちくらいですが」

そうなのか?

ちなみにEODの教官に聞いたところによると、現在
EOD訓練を受けている女性隊員は3人もいるそうで、資格試験も
体力的な条件に全く男性と差をつけないで受けるのだとか。

岩国の第31航空隊には女性のUS-2パイロットが誕生しそうですし、
潜水艦乗員、掃海艇長と、今まで男性しかいなかった職場に
次々と女性が進出しており、海上自衛隊は政府の提唱する
女性参画推進計画のロールモデルにならんばかりの勢いです。

 

この光景を見ていつもとの違いに気づいたあなたは江田島通です。
江田島見学では、一般コースは徒歩、ちょっとディープになるとマイクロバス、
と移動の方法は違いますが、そのとき絶対に足を踏み入れないのが芝生。

この日は一般に解放されていて歩き放題どころか、夕刻に予定されている
花火大会ではここで完全に寝そべったりできるのです。

というわけで赤煉瓦の校舎も芝生の上から写真が撮れます。

第一術科学校の玄関前には指揮台が置かれ、その左右に
式典と観閲行進を展覧するための来賓席が並べられています。

迷彩の自衛官が立っていますが、芝生を歩く人たちに

「ここから向こう側には立ち入らないようにしてください」

と注意する係です。

なぜ向こうを歩いては行けないのか。

最初、砂地部分に目立てをしてあるからかと思いましたが、そうではなく、
政治家の来賓席にみだりに人を近づけないようにだったのでしょう。

表桟橋はついにリニューアルに踏み切ったらしく、工事中でした。

桟橋が工事中の関係で、陸奥の砲塔一帯もロープから向こうには行けません。

この時間すでに夜6時から始まる花火大会の場所取りをする人あり。
観閲行進があるのでまったく意味がないんですがそれは。

せっかく芝生を堂々と歩くことができる機会なので、
この旧校舎も姿を留めているあいだに全景を撮っておきましょう。

芝生を時計回りして古鷹山と校舎が皆収まる場所までやってきました。

いつもマイクロバスの中から見ていた「明石」のマストを間近で。

巡洋艦明石(3,000t)は明治32年に国産鋼鉄巡洋艦「すま」型の
二番艦として就役、日露戦争参戦後、大正時代には地中海方面で
駆逐艦の旗艦として活躍し昭和3年廃艦となった。

という説明の看板があるのを初めて見ました。

細かいことを言うようですが、まず、「すま」型というのは
旧軍艦の「須磨」型の間違いですよね。

そして、「大正時代に地中海方面で」とありますが、これ、

第一次世界大戦で青島攻略戦に参戦

となぜもうすこし正確に書かないんでしょうか。
何に、さらに何のために配慮しているのか全くわからん。

かつてはここで海軍兵学校の生徒が棒倒しをしたり、
何重もの大きな円を作って「軍歌演習」を行ったものですよ。

って、いろんな媒体で再現されたものや当時の写真を見ているうちに
すっかり見たことがある気になっているだけなんですけど。

こんなものが展示されていることも知りませんでした。
ボフォースの4連装対潜ロケット発射装置とその弾薬。

「たかつき」「やまぐも」「みねごも」「いすず」、そして
「ゆうばり」型に搭載されていたとありますが、恥ずかしながら
ニワカのわたしには実際に見た護衛艦はどれ一つとしてありません。

ここにあるランチャーは平成22年に除籍になった「ゆうばり」が
搭載していた、ということなので、かろうじてこのブログが
始まった頃にはまだ現役だったようですが・・。

後ろの建物は自衛官の宿舎だったりするんでしょうか。
建物に人が近づかないように警備している自衛官は、写真に写ってもいいように?
ばっちりマスクで顔も警備しています。(たぶんね)

写っている不思議な装備は、

54式爆雷投射機「K砲」

なるもので、対潜爆弾を艦体側方から飛ばして撃つ投射機です。
こっちから見たらわかりませんが、横から見ると「K」の字状なので
「K砲」、艦体の両側に同時に投射するのは「Y砲」だったそうです。

海上警備隊発足直後、米軍からの貸与艦に搭載されていました。

この形状をみればヘッジホッグであることは、アメリカで軍艦を
なんども見てきたわたしにはすぐにわかりました。(←自慢している)

これは自衛隊初、いや日本初の対潜ミサイル搭載型であり、後世の護衛艦の
艦体設計、機関設計に対して多大な影響を与えたといわれる、伝説の護衛艦

「あまつかぜ」

が搭載していたものです。

この54式対潜発射機で、一度に24発の対潜弾を発射すると、
対戦弾は潜水艦を取り囲むようにして落下していきます。

24発のうち一発でも命中、炸裂すれば、振動によって
全弾が連鎖的に炸裂して破壊力を増大させるという、
潜水艦にとっては実に嫌な仕組みの武器でした。

まあでも、これがなくなったということは、その後の対潜武器には
これを遥かに凌駕する確実性と破壊力があるってことなんですが。

グラウンドではサッカー教室が行われており、その横では
訓練支援艦「くろべ」が積んでいるチャカIIIが展示されていました。

このとき初めて知ったような気がするのですが、チャカって、
「CHUKAR」っていうスペルで鳥の「イワシャコ」のことなんですってね。

なぜ「チャカ」という名前になったかというと、(鳥の話ですよ)

「チャック・チャック・チャカー・チャカー」

という鳴き声だからということですが、

 

途中から「チャカ」っぽく鳴いています。
ペットにしている人もいるようですが、鳴き出したらなかなか煩そうです。

ちなみにノースロップ社がなぜ標的機に「チャカ」と名付けたかというと、
欧米では(今は知りませんが)ウズラの種類がかつてスポーツとしての
猟銃の射撃標的にされていたことから来ているようです。

柵の向こうはテニスコート。
コートハウスはどうみてもかなりの年代物です。
物置として現在も使用されているようです。

ちゃんと登録がされているらしく、種目は「事務所建」、
建物番号は257番と札が貼ってあります。

海上自衛隊創設期の国産護衛艦「いそなみ」主錨。

「教育資料として昭和63年に現在位置(旧海軍軍艦
千代田艦橋跡)に設置した」

とあるのですが、ということはかつてここに
千代田の艦橋があったこともある、ってことですね。

 

調べてみると、かつてここには、晩年に兵学校の練習艦を務めた
巡洋艦「千代田」の艦橋部分が置かれて、戦前戦後を通し
号令台となっていましたが、敗戦後撤去されたのだそうです。

千代田」が標的艦となった時の演習は、お召艦「山城」から昭和天皇が、
「長門」からは高松宮宣仁親王が少尉として天覧されるというもので、
「千代田」にとってはある意味名誉な、華々しい最後だったといえましょう。

グラウンドを一周して帰ってきても集合時間にはまだまだ間があります。
さて、このあとどうやって時間を潰しましょうか。

 

続く。