ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

"Sic semper tyrannis" リンカーン暗殺〜ソルジャーズ&セイラーズメモリアルとミュージアム

2020-10-05 | 歴史

ピッツバーグの「兵士と水兵のための記念博物館」、
SSMMの南北戦争の展示には、冒頭写真のリンカーンのデスマスクがあります。

南北戦争の時代にだけ存在した「古残兵部隊」についてご紹介した時、
リンカーン大統領の暗殺者とされる女性を含む4名を処刑したときに
執行をおこなったのは傷病兵から成るこの部隊から派遣された4名だった、
という話をしましたが、今日はリンカーン暗殺そのものを取り上げます。

 

主犯・ジョン・ウィルクス・ブース

1865年4月14日の夕方、有名な俳優で南軍に共感するジョン・ウィルクス・ブースが
ワシントンDCのフォード劇場でエイブラハム・リンカーン大統領を暗殺しました。

ブースは有名な俳優の家に生まれ、自分自身もシェイクスピア作
「リチャード三世」などの舞台を経験しています。

南軍に共感していたにもかかわらず、ブースは南北戦争の間北にいて、
俳優としてのキャリアを追求しました。
そして戦争が最終段階に入ったとき、彼と数人の仲間は大統領を誘拐し、

南軍の首都リッチモンドに連れて行く計画を立てたのです。

しかし計画決行の日にリンカーンは待っていた場所に現れず失敗。
2週間後、リッチモンドは陥落し、ロバート・リー将軍は降伏しました。

ブースはこれに諦めがつかず、南軍を救うための「計画」を思いついたのです。

フォーズシアターのリンカーン

4月14日にワシントン DCのフォード劇場で行われる演劇「我がアメリカのいとこ」を
リンカーン大統領が観覧することを知ったブースは、暗殺計画を首謀しました。

彼と共謀者たちは、リンカーン、副大統領のアンドリュー・ジョンソン、
国務長官のウィリアム・スワード、つまり大統領と彼の後継者の2人を
同時に暗殺すれば米国政府を混乱に陥らせると考えたのです。

リンカーンは開始時刻に遅れてここにある写真のロッキングチェアに座って
途中から鑑賞しましたが、上機嫌で、このコメディ上演中に笑い、
心から楽しんでいるように見えました。

この椅子はリンカーンが暗殺された劇場の同型の別の椅子で、
本物は別の博物館に展示されていますが、よく見ると血痕が確認できるそうです。

リンカーンと一緒にステージの上のプライベートボックスで鑑賞していたのは
メアリー・トッド・リンカーンとヘンリー・ラスボーンという若き陸軍将校、
そしてラスボーンの婚約者で上院議員のイラ・ハリスの娘であるクララでした。

リンカーン暗殺

Lincoln's Assassination | Fords Theatre

10時15分、ブースはリンカーンのいるボックスに滑り込み、
44口径の単発デリンジャー銃をリンカーンの後頭部に発射しました。

同型の椅子の座部には、このときと同じ銃が置いてあります。

すぐに彼に向かって飛びかかろうとしたラスボーンの肩をナイフで突き、
ブースは観覧席からステージに飛び降りて、

「”Sic Semper tyrannis!」(シック・センパー・ティラニス)

と叫びました。
これはいかにも彼が現役の役者であることの「本領発揮」でした。

「ジュリアス・シーザー」にはブルータスのセリフとして
シーザーを倒した後、この言葉が使われました。

このラテン語は、英語ならば"thus always to tyrants "、
「暴君は常にこのようになる」という感じでしょうか。

この劇中写真でそのセリフを言われている左のシーザーを演じているのが
他ならないジョン・ウィルクス・ブースです。


いきなり舞台に飛び降りてきた男がラテン語を叫んだので、
当初、観客は展開中のドラマの一部と解釈していましたが、
バルコニーから響き渡るファーストレディーからの悲鳴から
確実に何か事件であることを皆が察した時には、
ブースは劇場を抜け出した後でした。

彼は舞台に飛び降りたとき足を骨折したのですが、なんとか
馬に乗ってワシントンから脱出していたのです。

観客の中にチャールズ・リールという23歳の医者がいて、発砲音と
リンカーン夫人の悲鳴を聞くやいなやボックスに駆けつけたところ、
大統領は椅子にぐったりとくずれおちて体を麻痺させ、
すでに呼吸困難の状態に陥っていました。

リンカーンの死と剖検

アンドリュー・ジョンソン副大統領と彼の親しい友人の何人かは、
下院の大統領のベッドサイドのそばで待機していました。
ファーストレディーは大統領の隣の部屋のベッドに横になり、
長男のロバート・トッド・リンカーンが付き添っていました。

銃撃事件の翌日の朝1865年4月15日午前7時22分、
リンカーン大統領は56歳で死んだと宣告されました。

大統領の遺体は一時的な棺桶に入れられ、旗が掛けられ、
武装した騎兵隊によってホワイトハウスまで護衛されて運ばれたのち、
外科医は徹底的な剖検を行いました。

検死の際、メアリー・リンカーンは外科医に、
夫の髪の毛の束を切り取ってもらうよう要求するメモを渡しています。

陸軍の外科医であるエドワード・カーティスは、検死の過程で
死体の脳を除去した際、脳を収める金属の皿に弾丸が
ガチャンと音を立てて落ちたと証言しました。

彼によると医療チームは一様に弾丸から目を逸らしたそうです。

国家による追悼

大統領の死のニュースはすぐに伝わり、その日のうちに
おそらくアメリカ全土が半旗を掲揚し、企業や店舗は閉鎖され、
南北戦争の終結に喜んでいた人々は衝撃と悲しみに見舞われました。

4月18日、リンカーンの遺体は国会議事堂に運ばれ、安置台に乗せられました。
3日後、遺体は彼が大統領になる前に住んでいた
イリノイ州の
スプリングフィールドに列車で運ばれています。

数万人のアメリカ人が鉄道の路線脇に並び、遺体を乗せた列車を見送って
倒れた指導者に敬意を払いました。

リンカーン大統領は、1862年に腸チフスのためホワイトハウスで亡くなった息子、
ウィリアム・ウォレス(「ウィリー」)とともに葬られました。

ちなみにリンカーンの嫁のメアリー・トッド・リンカーンは憔悴しきっており、
何週間も床から離れず、葬式に出ることもできませんでした。

 

ここで悲しみに暮れる残された妻を酷評するのもなんですが、このメアリーというのが
経済観念がないうえ嫉妬深く、ヒステリー持ちの結構な悪妻で、

「リンカーンにとって、暗殺より結婚生活の方がずっと悲劇だった」

と言い切る伝記作家もいるというレベルだったのです。
おそらく夫婦仲も冷えていたのではと思われます。

リンカーン夫妻には4人の息子がいましたが、長男を除く3人が若くして死んでおり、
元々精神的に不安定なところがあった彼女は、夫の暗殺を目撃し、
さらに末の息子であるタッドを18歳で無くすと、ますます異常をきたしたため、
長男のロバートにより精神病院に入れられ、息子を恨みながら亡くなりました。


犯人の捜索

This 'Wanted' poster for the Lincoln assassination goes on display at  Harvard - The Boston Globe

ジョン・ウィルクス・ブースの捜索と逮捕

国民が嘆き悲しむなか、北軍はジョン・ウィルクス・ブースの大々的な捜索を
軍を挙げて行いました。

首都から逃げ出した後、彼と共犯者のデビッド・ヘロルドは
アナコスティア川を渡り、メリーランド州南部に向かっています。

ブースの骨折した足を治療するため、まず彼らは医者のサミュエル・マッドの家に立ち寄りました。
(マッドはこのため終身刑となっている)
その後、南軍のエージェント、トーマス・ジョーンズに保護を求め、
その後、ポトマック川を渡ってヴァージニアに向かうボートを確保しました。

4月26日、北軍はついにブースとヘロルドが隠れていた
バージニアの納屋を取り囲み、発砲しました。
ヘロルドは降伏しましたが、ブースはそのまま火のついた小屋に残り、
炎が激しさを増す中、北軍の軍曹がブースの首を撃ち、
ブースは重傷を負った状態で建物から運び出されました。

そして3時間後に亡くなる前、自分の手を見つめ、最後の言葉

“Useless, useless.”(無駄だった)

を発しました。

 

裁判

Adjusting the Ropes: Execution of the Lincoln Conspirators... July 7, 1865:  Adjusting the ropes before hangi ...

 

このときブースと共謀し国務長官を同時に襲ったルイス・パウエル
ジョンソン大統領を襲撃をブースに命じられたジョージ・アツェロット
デイヴィッド・ヘロルド、そして彼らのアジトとされた下宿の女将である
メアリー・スラットの4名は暗殺の罪で有罪判決を受け、
1865年7月7日に絞首刑に処されました。

処刑されたうちの一人の女性、メアリー・スラットは、宿屋を経営していて、
そこがブースらの「溜まり場」になっており、彼女は計画を知っていて
幇助したという罪に問われたのです。

彼女はリンカーンの暗殺については全く知る由もなく、自分は無罪であると
最後まで訴えたにもかかわらず、死刑判決を受けることになりました。

ブースの骨折を治療した医師が終身刑だったにもかかわらず、彼女が死刑になったのは
彼女の宿の下宿人だったルイス・ウェイクマン(ヴァイヒマン)という男が

「医師は彼らとは面識がなかった」

「彼女が暗殺グループのために武器を用意していた」

と証言したのが決め手となったようです。

下宿には何度も南軍のエージェントが出入りしており、現に彼女の酒場には
銃や弾薬が隠してあったこともわかっているので、彼女が「何も知らなかった」
というのはおそらく嘘であろうと思われるのですが、それにしても
実行犯と一緒に絞首刑になるほどの罪でしょうか。

ウェイクマンはメアリーの息子のジョン・スラットの友人でもあったのですが、
この証言については、彼が南軍政府でいい仕事をもらうために
北軍側の証言者という立場から内部情報を流していたのではないか、
という疑惑が裁判中から起こっていました。

しかし、それを証明する手立てがないままにスラットは有罪判決を受けます。
9人の裁判官のうち5名が、彼女が高齢の女性であることを理由に
大統領令で寛大さを求める判決を出したのですが、
アンドリュー・ジョンソン大統領はそれを行いませんでした。

のちにジョンソンは減刑についての嘆願は受けていないと言っています。
これが本当か自分の身を守るための嘘かはわかりません。

なぜならこれは世間の意見が女性に対する死刑に対して厳しくなってからの発言で、
「確かに嘆願を大統領に伝えた」という人の証言も存在するらしいので、
かれがこの件が新大統領の地位に影響があると判断し、保身を行った可能性が大です。

処刑

 

7月6日、メアリー・スラットは翌日に絞首刑にされると通知され、号泣しました。
収監生活で彼女の体調は悪化し、苦しんでいましたが、二人の司祭と
娘に付き添われ処刑までの時間を過ごす間も、無実を訴え続けていました。

執行日の朝、娘は最後にホワイトハウスに行き助命嘆願しますが、拒否されます。

 

写真では何人もが傘をさしていますが、この日の処刑場の気温は33°を越す猛烈な暑さでした。

 
スラットと一緒に処刑台に上がったのはルイス・パウエルデビッド・ヘロルド
そしてジョージ・アッツェロド です。

処刑を見守っているのは政府高官、米軍のメンバー、被告人の友人や家族、
公式の目撃者、記者を含む1,000人以上でした。

執行前の判決を読む間、彼女は立っていることができず、
二人の兵士と司祭に体を支えられていました。

この場になって、パウエルが叫びました。

「スラットさんは無実です。彼女は私たちと一緒に死ぬに値しません」

パウエルは裁判でもスラットは無実であることを証言していました。

縄を首にかけている執行係に彼女が拘束具で腕が傷ついたというと、執行係は

 "Well, it won't hurt long." (まあ、もう少しで痛くなくなるよ)

と(実にアメリカ人らしい)軽口を叩きました。
彼女の最後の言葉は、

"Please don't let me fall." (突き落とさないで)

でした。

彼女は最後まで命乞いを続けていたのでしょうか。
それとも最後の瞬間くらい自分の意思で死への一歩を選択するという意味だったのでしょうか。

メアリー・スラットは連邦政府によって最初に処刑された女性になりました。

 

 

続く。

 

 


”配給食糧のための誓い” 戦後南北アメリカのジレンマ〜ソルジャーズ&セイラーズ記念博物館@ピッツバーグ

2020-10-03 | 歴史

面倒がってはいけないのですが、いちいち正式名称を書くのが面倒な
ソルジャーズ&セイラーズ・メモリアル&ミュージアム、
兵士と水兵のための記念博物館、略称SSMMは、もともと
南北戦争に参加した軍人たちの慰霊と記念のために設立されましたので、
それらの展示は、開館当時からそのつもりで作りつけにした
フランス窓式ガラスの展示ブースに納められています。

開館して100年以上の歴史では、何度もドアを取り替えたり、
ガラスを張り替えたりしているのだと思われますが、見たところ、
特に最近しつらえられた近代的な装備は、センサーとライティングです。

わたしが訪ねた時にも見学者はほぼわたしだけというような状態でしたが、
いつ来るかわからない見学者のために電気をつけておくのはエコではないので、
博物館ではケースの横にセンサーを取り付け、前に人が立ったら
電気がついてケースの中身が見やすくなるという仕掛けでした。

例によって画面左から進んでいくと、パッと電気がついて
明るくなったケース内の展示です。

展示テーマは「ピッツバーグ騎兵連隊」

そしてさらによく見ると、アラームシステムも装備されていました。
画面右側のシールはシステム装備のお知らせです。
見張りを置くための人件費を節約した結果でしょう。

クロスしている銃はジョスリンカービン銃52口径で、両脇にあるのが
レミントンのアーミーリボルバー44口径。
画面下はスペンサーカービンという7連装銃です。

ある南軍の兵士がこの銃についてこのように書き遺しています。

「7連装の悪魔の銃は朝から晩まで火を噴いて人を傷つけた」

銃の真ん中の写真の人物は、ペンシルバニア第4騎兵隊の

ジェームス・チャイルズ大佐 Colonel James H. Childs

1862年のアンティータムの戦いの際、部下と「気持ちよくおしゃべりをしている最中」、
彼の右腰から砲弾が命中し、彼は馬から投げ出されました。

自らの死を悟った彼は、苦しい息の下意識を失うまでの40分間で
最初に軍事任務を調整し、引き継ぎを行い、電話で家族に最後のメッセージを送り、
きっちり財産の処分まで指示し終わってからこと切れたということです。

大佐の亡骸はピッツバーグのアレゲニー墓地に埋葬されています。

ピッツバーグ騎兵隊の兵士。
銃を立てかけてサーベルを抜身で持っています。

中央の鞍は南北戦争前に騎兵隊の大尉が特注した
「通気孔付き」で、馬にも人にも快適なデザインだそうです。

このデザインはアメリカ陸軍の騎兵隊に採用されて、
1857年から1948年まで使われていましたが、
騎兵隊はその後廃止されて消滅しました。

手前の黄色い円にアレンジされているのは騎兵隊専用の鎧などです。

南北戦争の騎兵隊による突撃の様子。

次の展示コーナーは「南北戦争時代のピッツバーグ」
センサーはケース右側に写っています。

当時の女性が着ていたギンガムチェックのロングドレスが目を引きます。
この頃は既成服が手に入った時代ではないので、ドレスは
自分で縫うかテーラーに縫ってもらうかしていたはずです。

画面下のミニ大砲はロッドマン砲
今滞在している場所から歩いて10分のところにあった
フォートピット鋳鉄所で製造されていたタイプです。

ロッドマンガンは、南北戦争の少し前、火器士官であった

トーマス・ジェファーソン・ロッドマン (Thomas Jefferson Rodman)

がコロンビヤード砲を改良して作ったもので、大型の鋳造物としては
ひび割れその他の損傷を起こしにくいように、鉄を内外から均等に冷やして作り、
外形を滑らかな先細り("soda bottle"と呼ばれる形)に鋳造されました。

 

この風格のある犬は、「ドッグ・ジャック」Dog Jack。

ペンシルバニア第102砲兵隊のマスコットだった迷子のブルドッグです。
戦場で「一緒に戦い」、いつの間にかいなくなっていたそうですが、
このジャックが映画化されていました。

"Dog Jack" trailer

南部の綿花農場から逃げ出した奴隷の黒人少年が、北軍に加わり
かつての「マスター」に銃を向けて兵士となっていくBLMなストーリーをでっち上げ?
それにこじつけで犬を絡ませたという犬迷惑な話。(だと思います。観てませんが)

案の定映画サイトではこのように酷評されています。

あんまりに酷すぎて愛犬にはとても観せられません。
この映画にお金を払った人はみんな返してもらうべきです。
こんなものを観て時間とお金を無駄にしないでください。
第102ペンシルベニア連隊の犬の実話に基づいているといいつつ、
映画製作者は英雄としての彼(犬)の名誉に泥を塗っています。

そこまでいうか・・・。

1862年当時の「キャンプ・ハウ」(Howe)
現在ここはシェンリー・パークといって、わたしがピッツバーグ滞在時
毎日のように歩きにいく公園になっています。

ジョン・ロジャース作
「誓いを行い食糧の配給を受ける
"Taking Oath and Drawing Rations"

石膏で彫刻され、砂色に塗られたこれらの小像は、ロジャースの有名な
南北戦争シリーズからのもので、
「ロジャースグループ」として大量生産され、

通信販売で全国に販売されました。
 
この像が表しているのは、

「飢えに強いられた小さな男の子を持つ南部の女性が、
配給を受け取るために北軍将校に忠誠の誓いを行なっている」

そしてこのテーマとは、南軍が敗北したあとの南部人のジレンマに対する
同情、そして共感といったところでしょうか。

 

この「配給量食の誓い」についてまず説明しておきましょう。

南北戦争がコンフェデレート軍の敗北に終わり、南部が連邦軍の管轄下に入った後は、
南部に住む人々は、まず米国憲法と奴隷制度の廃止への忠誠を誓い、

初めて食糧配給を受ける資格を得ることができました。

つまり負けた側の人々は、民衆であっても北軍の軍門に降ると誓わされたわけで、
これを拒否すれば飢えて死ぬしかないという状態に置かれたのです。

かつて奴隷を持ち、裕福な暮らしをしていたこの南部の女性は、
敗戦後、食料を受け取るための誓いをいまや行わんとしています。

彼女の右手は北軍の将校が宣誓を行うために持った聖書に乗っていますが、
その視線は自分のドレスのスカートに隠れている男の子に向けられており、
彼女の決心が自分のためでなく我が子を飢えさせないためだったことを表しています。
 
宣誓を執行する将校の前の樽の隣に立って食料の入っているバスケットに
肘をついて女性を眺めている黒人少年は、かつての彼女の使用人でした。
 
正確には、黒人少年にとって彼女はかつての主人の愛人という設定です。
敗戦によって彼女は奴隷だけでなく、庇護してくれるパトロンも失ったのです。
 
製作者のロジャースは、南部の女性が彼女の飢えた家族の食糧を確保するために
かつての敵に忠誠の誓約をするときの様子を、
 
「まるで裁判にかけられたマリー・アントワネットのような」
 
と評しています。
 
しかしながら富から貧困へと転落するこの瞬間も彼女は決して卑屈ではなく、
北軍の将校はそんな彼女に敬意を払って帽子を脱いでいます。
 
 
南北戦争後、ユニオン(北)軍は援助と引き換えにこのように宣誓を求め、
同時に旅行、政治的役職、物品の購入、または私有財産を保証しました。
 
Random Thoughts on History:

バスケットの黒人少年はごく最近解放された奴隷で、裸足にボロボロの服、
肩から落ちそうなシャツは彼の貧困がずっと前に始まったことを示唆しています。
 
彼は不可解な表情で愛人をじっと見ています。
 
 
戦後、北軍だったアメリカ人は今まで戦っていた相手と再会するということになり、
かつての敵に対する罰や寛容性が国の進路をどのように導くかを踏まえつつ、
感情的な問題にいかに対処していくかという困難に直面することになりました。
 
アブラハム・リンカーンは、2回目の就任式で、
 
「悪意を持たず容認することがこれからの国家にとって何よりも肝要である」
 
と演説し、それをうけてロジャースは、
南部の尊厳をそのまま尊重する北部の寛大さをこの彫像に表したのです。
 
彼のこの彫刻は南北どちらの人々にも人気がありました。
 
多くの元北軍側の人々は、将校の騎士道的な女性への立ち居振る舞いを称賛し、
元南軍側の人々は、この場面を誇り高い南部の女性への賛辞と考えたからです。
 
黒人の少年については様々な解釈が生まれました。
ほとんどの人々は、彼が自分の目撃したものの重要性をまだ理解していない、
と感じ、ある執筆者は「少年は愛人の状況の変化に感謝している」と見ました。
 
もっとも皮肉な見方をする人によると、

「苦い薬を飲み込んでいる間、彼女がどんな顔をするか
真剣に見届けてやろうとしている」

ということになるのですが。
つまり、黒人少年の内心の復讐心をその表情に見たということでしょうか。
 

ジェームズ・シューメイカー大佐 
Colonel J.M. Schoomaker (1842- 1927)

南北戦争では連合軍の大佐を務めた人物ですが、戦後
ピッツバーグに最初に鉄道を敷いた会社の副社長となりました。

南北戦争が始まった時ペンシルベニア西部大学(現在のピッツバーグ大)
の学生だった
シューメイカーは、13カ月間指揮官として北軍を率い、
その間何度もめざましい戦果を挙げ、叙勲されています。

ピッツバーグに生まれ、ピッツバーグのために戦い、そして
ピッツバーグのために鉄道敷設に余生を費やし、そして
現在はピッツバーグのホームウッドにある墓地で永遠の眠りについています。

 

続く。

 

 


南北戦争の野営生活〜ソルジャーズ&セイラーズ記念博物@ピッツバーグ

2020-10-02 | 歴史

日本でだけ「南北戦争」といわれているところのCivil warですが、
その意味はずばり「内戦」です。

日本史上最大の内戦は戊辰戦争であり、最後の内戦は
1877年の西南戦争なので、日米はともにほとんど同じ頃まで
同じ民族同士で干戈を交えていたことになります。

世界が今ほど交流していなかった時代、戦争はおもに
人が歩きや船で移動できる範囲で行われるしかなかったので、
その結果、地続きのヨーロッパはともかくとして、アメリカも日本も、
南北とか藩とかいう枠組みで対立してドンパチやっていたのです。

このことからふと思うのですが、たとえばあの永遠のお花畑ソング、
ジョン・レノンの「イマジン」の通りに世界が「ノーカントリー」になって
「ビー・アズ・ワン」になったとしても、畢竟人類というのは
何かしらの理由を見つけて対立し、戦わずにはいられない動物なんじゃないかと。

つまり今大国同士が戦争せずにすんでいるのは、はっきりいって
核と同盟による抑止力にほかならないということもできるわけです。

 

閑話休題、ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館の展示から
南北戦争関係のものを粛々と今日もご紹介していきます。

ピッツバーグルームを出ると、The West Hall、西ホールです。
記念博物館はピッツバーグ市民にとって大切な遺産ですが、
ほとんどの軍事博物館に同じく、「人気のスポット」ではないため、
この日も見学者は実質私一人といってもいいような状態でした。

西ホールには同じ南北戦争関係の資料でも、地元ピッツバーグ出身の
兵士やその家族などにまつわるものが多い、と説明には書かれています。

このケースには1861年から1865年までの北軍の遺品が収められています。

JacobBrunnsPicture

ここアレゲニー郡でユダヤ人として史上初めて将校となった
ジェイコブ・ブラン大尉の大理石胸像です。

ドイツから移民してきたユダヤ人セールスマン、ブランは、
ピッツバーグ出身者の中で南北戦争で死んだ最初の将校となりました。

ユダヤ人に対する差別があった当時でしたが、ピッツバーグ市は
最初の犠牲者となった彼を称えるために宗教の別なく彼を顕彰しました。

軍服はペンシルバニア大77連隊のヘンリー・ケイレブスが着ていたもの。
彼は1863年、テネシー州の戦場で負傷しましたが、生還しました。

左側のサーベルは「ノンコミッションド・オフィサー」、日本軍だと特務士官用です。

同じくケイレブス軍曹の銃とホルダー、ベルト。
銃はM1860コルト製アーミーリボルバーです。

左:南北戦争時の雨具

1844年、起業家であったチャールズ・グッドイヤーがパテントをとった
ゴム引きの布は、たちまち雨天時の防水グッズに使用され広まりました。

アメリカ陸軍がグッドイヤーの発明を採用して何を作ったかというと
兵士たちに配るための「ゴム引きブランケット」でした。

このシートは軽くて薄く、従来のウールの毛布と一緒に畳んで
背嚢で持ち運びするのに大変便利でした。

ちなみにグッドイヤーというタイヤの会社名は彼の名前から取られましたが
会社と彼個人には何の関係もないそうです。

右:ハーバーサック(Haversack)

ハーバーサックは背中や肩にかけるキャンバスの鞄です。
フィールドで個人携帯品を持ち運ぶのに使われました。
こちらも防水布が使われていました。

ゴム引き製品は劣化しやすく、どちらの製品も
本物は現存しておらず、復元品が展示されています。

 

「銃弾が貫通した軍帽」

1863年5月3日、ペンシルバニアの志願歩兵連隊で戦闘に参加していた
ジェームズ・ハービソン大尉は、銃弾を額に受けて戦死しました。

この写真では残念ながら確認しにくいのですが、彼が被っていた帽子には
縦断の貫通した跡がはっきりと残っています。

偶然彼の兄が軍曹として同じ戦場で戦っており、弟の遺品を取得しました。

「ハードタック」

兵士たちの主食は『Hardtack』(堅パン)といわれるクラッカーでした。
呼び名の由来は文字通り硬いからです。

我が帝国海軍では乾パンという伝統の保存食があり、
現在でも海上自衛隊は昔と変わらない乾パンを糧食にしています。

実はわたくし、隊員用の乾パンを試食させていただいたことがあるのですが、
ちゅーるみたいなものから出して塗るジャムと一緒に食べると、
お腹が空いていさえすれば美味といってもいいくらいの味でした。

ただし猛烈に堅かったです(笑)

兵士はハードタックを湿らないようにハーバーサックに入れていました。
中にはベーコンの油でこのハードタックをフライして、さらに砕き、
パウダー状にしてパンケーキを焼くという「工夫」をする兵もいたそうです。

小麦粉が酸化しまくりであまり健康的な工夫とは思えませんが、
まあ戦場で栄養とか言っている場合ではないかもしれません。

写真のハードタックはもっともポピュラーな形です。
南北戦争の間の1861年から1865年まで作られていました。

ガラスのケースに入れられていてわかりにくいのですが、椅子です。

椅子に描かれている肖像はグラント将軍のもの。

南北戦争の北軍司令部でグラント将軍が使っていた椅子に
ハリウッドさんという人が将軍の似顔絵を描き、
それを手に入れて35年間愛用していた人がいたのですが、
彼が死んでから遺族が当記念博物館のオープンを知り、
寄付をしたという経緯でここにあります。

つまり、開館初日から展示されている椅子ということになります。

南北戦争の野営生活を再現したコーナーです。

床に敷かれているキャンバスの布はここが幕営内部であることを意味します。

当時の内戦であるところの南北戦争は、しょっちゅう戦闘が行われる、
というようなものではなく、兵士たちはいつ始まるかわからない戦闘を待つ間、
野営生活で延々と時間を潰さなくてはなりませんでした。

退屈(Boredom)はある意味兵士たちにとって最大の「敵」で、
彼らはそれを克服するためにいろんなやり方を編み出しました。

最もポピュラーだったのはカードゲームで、ドミノ、チェスなどは
自分たちで道具を作って(それだけ暇だったので)行いました。

その辺の木を取ってきて木彫作品を仕上げる兵士や、
日常生活、戦闘の様子をデッサンする「芸術家」もいました。

 

スポーツは気晴らしとしても最適で、その中でも野球は人気があり、
2ベース、3ベース、ときには4ベースでゲームが行われました。

兵士たちは時間があれば手紙を書き、故郷から受け取る手紙によって
彼らは故郷や家族に起こった出来事を知ることができました。
また、回覧される新聞によって最新のニュースを知りました。
彼らは時折カメラマンに写真を撮ってもらい、自分が写っていれば
それを故郷に送って自分の様子を伝えていました。

彼らのほとんどは故郷から持ってくる荷物の中に聖書を入れていたそうです。

バンジョーなどの小さな楽器をたずさえてくる兵士もいて、
伴奏付きで火を囲み皆で歌を歌うなどという夜もありました。

ドラムは軍隊生活の合図、そして戦闘時のほかに、このような
余暇の時間にも大活躍で、もしかしたら軍楽隊のドラマーは
南北戦争機関を通じて食事係とならんで一番仕事をした兵種かもしれません。

トーマス・モーガンさんが自分が新兵として入営するときに
どんなものを持っていったかを自画像とともに書いています。

ホームスパンの毛布
下着2セット
ウールの靴下4足
ハンカチ6枚
新しい靴、靴墨と靴ブラシ
家で作った石鹸2個(レンガくらいの大きさ)
シャツのカラー半ダース
ネクタイ
虫眼鏡
剃刀
シェービングブラシとマグ
ペン一箱
書類やマニュアルのための革製バインダー
ホームメイドのパイいくつか
小さな砂糖漬けハム
ボローニアソーセージ何連か
家族、友人などの写真を収めたアルバム
ピストル
大型ボウイ-ナイフ

この頃の軍隊では軍から支給されるものが限られていたようです。

聖書、手紙、トランプ、新聞の上のフォークやブリキのカップ、
コーヒーフィルター、コーンパイプ、そしてサイコロに当時のお札が並べてあります。

当時はクォーターがお札だったんですね。

喫煙の習慣は南北戦争の時代広がったといわれています。
普通の吸うタバコ以外に嗅ぎタバコや噛みタバコのニコチン製品が
兵士たちによって愛好され、これ以降喫煙人口が爆発的に増えました。

これらのパイプは兵士たちが時間潰しも兼ねて木を切って
それを彫刻して作り、写真のように輪になって喫煙しました。

写真のパイプは通信部隊の兵隊が月桂樹の木から作ったもので、
装飾と製作年月日である1862、9月17日という日付が彫り込まれています。

「サマーキャンプ・ウィンターキャンプ」

南北戦争時代の野営地は巨大なテントの街といった様相でしたが、
これは、テントが移動可能となる夏の間だけで、冬になると
部隊は一つの場所に留まり続ける傾向にありました。
そしてテントでは寒いのでログキャビンが建設され、
兵士たちのごく限られた期間だけの住居となりました。

この上の写真は冬に作られ、戦後放置されたかつての野営跡です。

もともと南北戦争の遺物を展示するための建物ですので、内部は
このように最初から廊下に展示ブースが設置されているという作りになっています。

最初の展示ブースは南北戦争時代の砲弾でした。

もちろんこの妙にグラフィカルなアレンジはごく最近
リノベーションされたものだと思います。

24lbのschenkl caseとあります。
この「シェンケル」または「シェンクル」は南北戦争時代使われた
砲弾の名前であるようです。

中に鉄の小球が収められていて、これが破裂すると飛び散って
人体やものに損害を与えるようなたぐいのものでしょう。

ゲッティスバーグの戦場から見つかったシェンクルケース

様々な大きさの砲弾、いずれも右写真の「アレゲニー・アーセナル」
(Arsenalは兵器廠のこと)の跡から発掘されたものです。

ピッツバーグにも「フォート・ピット・ファウンドリー」という
鋳鉄所があり、ここはアメリカにおける初期の大型兵器製造所でした。

ロッドマンと言われる大型武器もここで製造されています。

砲手象限(四分儀)

1545年に発明された照準装置は非常に基本的なため、その原理はまだ使用されています。

この指矩のようなもの象限、四分儀ともいい、ユークリッド理論によって定義されます。

45度の高さの大砲は、砲身が0度の高さで水平であった場合よりも
10倍遠くまで発砲するため、象限は10個の等しい部分にマークされていました。

したがって、射程が四分円の次のマークまで上がるたびに、射程は1/10になります。
高度0度の20ポンドの鉄球は、最初に200ヤードの範囲にあり、
45度の高度では、10倍または2000ヤードで発砲されます。
もちろん空気抵抗は砲弾に影響を及ぼします。

博物館開館の際、デュケイン陸軍砦に駐留していた部隊から
「チカマウガ Chiokamauga の戦い」のあった戦場の木が寄贈されました。

Chickamauga.jpg

チカマウガの戦いは1863年に行われ、北軍のかけた攻勢でも最後の戦闘でしたが、
北軍は西部戦線では最大の敗北を喫しています。

この絵の左側が北軍で、劣勢を表すようにたくさんの兵が傷つき倒れています。

この戦いでは両軍で34,624名の損失が出たとされています。
北軍16,170名で、勝ったとされる南軍の犠牲は、それよりも多い18,454名でした。

 

続く。