懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

スマップ コンサート

2006-09-30 23:59:58 | Weblog
少し前、職場の同僚が「スマップ」のコンサートチケットが手に入ったというので、行ってきた。

チケットのとりづらさを思えば凄い。

感想は、「とても楽しかった」と。ファン層はやや高め。同僚は特別彼らのファンではない。クールな目もある

「でも」
と同僚。
「皆、すご~いナルシストなの~!(草薙クンとかまで)

う~ん。

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浮気

2006-09-28 00:36:06 | Weblog
昨日は他ジャンルに浮気をしてしまいました。

今日も・・。

ツタヤで借りたビデオ・DVDシリーズでもやろうかな。

イザベル・アジャーニ主演「アジャーニの惑い」ちゅうのを借りてみたのですが・・。う~ん、動く油彩名画の如く女優が美しかったけど。彼女は「王妃マルゴ」のほうが、映画的にはよかったと思います。

時に昨日テレビでニュースつけたら新首相の話(どこの局も)と殺人事件の話だけ。

日本はこういう国になったのか~。

プリセツカヤの、闘うカルメンの話。

自分たちには遠いことと思ってたけど、だんだん近い世界になってたりして。

アジャーニの話は、気が向いたらやろうかな。

最近ツタヤ(でなくてもいいんだけど)で借りたビデオDVD,月並みですが「パッチ

ギ!」と、オペラ映画が良かったです。

道楽マンセー。


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また補足です~

2006-09-23 12:28:46 | バレエ
20日のブログに、「カルメンその3」、upしています。

思うに任せぬは恋人の心、

思うに任せぬは自分の心。

ドン・ホセの恋の物語。


ディープインパクト、一度も馬券を買ってなかった私は血液型A型。

洗濯日和!

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9月3日ブログに。

2006-09-21 22:21:15 | Weblog
9月3日のブログに、「カルメン その2」拙文upされています。

お手数ですがスクロールして下さいませ。

(ほんの手違いです)ところでディープインパクト凱旋門賞どうなるんでしょ~。


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チェルノブロフキナの「カルメン」 後半

2006-09-20 18:46:46 | バレエ
3. チェルノブロフキナのカルメン 後半
       ~美女とダメンズ二人の顛末

何だか、遠い昔の異国の話というより、”無為に生きる東京の若い女の子”みたいに見えてきた、
チェルノブロフキナのカルメンと、ダサいザバブーリンのホセ。

一瞬は愛し合ったように抱きあうシーン、のあと。

カルメンは、手のひら返すように、ホセからエスカミーリョに関心を移す。
なんでだろ~~~。

この、エスカミーリョ役、プリセツカヤとボリショイバレエ団では、例えばセルゲイ・ラドチェンコらがやっていた。ほんとは、イケメンの役。

(ラドチェンコは漫画家の山岸涼子さんが、一目観て夢中になり、主役プリセツカヤそっちのけで「ラッチェンコ~~!」と客席から叫んでいたというから、その当時客席から見てたら、役に合った色っぽい人だったんでしょうね。脇役も適役の舞台に憧れ。)

で、この日の舞台のエスカミーリョ役は、別にかっこよくもない(かっこ悪くもないけど)ゲオルギー・スミレンスキー。
(いや、友人で約一名カッコいいと言ってたのがいた。)

踊りも上手くも下手でもない。ほんとはここでもっと色男の闘牛士が出た方が、演出上好ましい。

が、しかし妙にこの日の組み合わせに馴染んだ。

今日の舞台は、”美女とダメンズ二人”。(男性キャストがもっとよければ、美女を取り合ういい男2人、ってなるのか?。もっとも原作のホセは、別にいい男には見えないが。)

ザバブーのホセが、イジイジしていて地味な男。対し、このエスカミーリョは、”大したことないのに勘違いしてる青年”に見えた。その分、明るい。

カルメンとエスカミーリョ、二人の踊りで、意味深に、脚と脚を絡ませる振り。
色っぽいカルメンの妖しい誘惑に、カッと体に心に火がつくエスカミーリョ。

「そっか~、やっぱり俺のこと好きなのか~。オレってホントにいい男だもんな!」ってな感じ。
エスカミーリョ、自信たっぷり。そして、単純!!!

いる、いる、こ~いうタイプ!。
カルメンだけでなく、この軽佻浮薄な闘牛士も、少し前、東京に時々いた男たちみたい。
これってほんとにロシア人がやってるの?

客席から見ていると、この美女カルメンと、どうでもい~よ~な闘牛士の男が、・・釣り合うようにはゴメン見えない。
だが男は、自分はかっこいい、と信じてる。(個人的には誰かを思い出す・・・って、え?)

虚構としてなら、ラドチェンコみたいのがキャストされた方が、見て楽しめると思う。
でも、今の東京に、この男女、こんな感じの人っているかも?!?、と思うと。

そんな、”イケメンというより勘違い加減が役に合ってた”エスカミーリョ。
そしてまた、イジイジしてカルメンの真意を図りかねてたザバブーリンのホセよりも、エスカミ-リョの方が、誘惑にカッと燃える所が、お年頃の青年らしさが滲んで納得。

「どこかにいそうな青年像」が、虚構をリアルに見せていた。


時に私は、なんでカルメンが心変わりしたのか、よく知らない。

(プリセツカヤの解釈では、「カルメンがエスカミーリョに関心を持つのは、最初、エスカミーリョがカルメンに興味を示さないからだ」と言っていた。しかし、このモスクワ組は、そんな細かいことは考えてなさそう。)

心変わりしたカルメンは、ホセには、手のひらを返すように冷たい。(よくわからん女だ。)

怒りのホセが、赤いシャツに黒タイツで大きくジャンプしてカルメンとエスカミーリョの踊りに割って入る、ホセ、前半の衣装は青の上着。青は青春や、ホセの真面目さの表象か。そして後半の衣装の赤は、怒りと嫉妬の炎か。

この後、この版は本当は、黒いタイツの「運命」役や、「隊長」らが、舞台全体を支配する重苦しい運命を表現したり、次場面の殺人の「予行演習(?)」のような、リアリスティックではない実験的な場面もある。

が、このモスクワ組の『カルメン』は、「運命」役の女性の個性が、硬質な役に合わず(優美なダンサーだった)、モスクワ・クラシックの群舞が不出来で、その為、総じて主要な3人の男女の恋愛劇が、際立った。

カルメンは、怒るホセに毅然と応じる。
二人が結ばれるシーンより、後半ホセをカルメンが疎ましく思うシーンの方が、観ていて説得力があった。

すがるホセは、カルメン視点で、確かにうざい男に見える。
振られたホセは、ふらふらと「運命」もしくは「牛」という名の役の黒子のような女性に操られるまま、カルメンを刺す。

このシーン、ナイフを使っていないのに、「ナイフが見えた!」と錯覚した。見事な演技。小道具がなくても芝居ができる。

そして、ホセに腹を刺されたカルメンが、驚いたようにホセを見、その顔を手で優しく撫でた一瞬の表情。

「ばかね、あんたったらあたしのこと、そんなに好きだったの?」
とでもいうように見えた。向こう見ずで何をも恐れないカルメンの、一瞬の優しさ。涙が出そうだった。

このカルメンは最後の最後まで、つっぱった女だった。最後に、腰に両手を当てて立ち見得を切るような、得意のかっこつけポーズを決め、そしてぐにゃりと体を折り、ホセの腕の中に倒れ地に伏した。最後まで自分を貫き、あっけなく死んだ。すべてを失い呆然と立ち尽くすホセこそが、哀れでならなかった。

若い女の子には、確かにこんな時期がある。
若くてきれいでなにもかも自分の思い通りになって、それで、さほど欲しいものもなく、命にもそんなに執着しない。誇りも高い。

けれどプリセツカヤのカルメンには、「自由の希求」、自由のためなら死も辞さないというテーマがあった。それに比べチェルノブロフキナのカルメンは、テーマの点でもう一つ突き抜けたものが見えてこない。プリセツカヤのカルメンを凌駕する魅力があるだけに惜しまれた。

もし、・・・例えば最後の瞬間、無軌道無目的に生きた愛を知らないカルメンが、ホセに刺され命を失う一瞬、つかのま真実の愛に目ざめる、そして命の火が消えるという表現にしたら・・・。ずっと味わい深く感動的なものになるのではないか?

2年前より時代の価値観はさらに混沌としているように私には見える。今思えば、あれはあれで現代的なのか・・・。

難癖つけてる割には、私もホセとともにこの魅惑的なカルメンに参ってしまい、2日目公演以下、全4公演、すべて行ってしまった。

ホセの心でカルメンを追った4公演!

手放しで絶賛する気はない。どこか中身が足りないと、美貌の無駄使いなカルメンに反発しながら、

それでも。今も心は魅了されて止まない。


4.補足
<カルメンの気に入らなかった所、気になった所>
・カルメンがホセを本当に好きなように見えない。なのに誘惑する。
・さらに、色っぽく迫る割りに、カルメンが性的充足を求めているようには見えない。
・カルメンが何を求めているのか
ただひたすら、男が自分の魅力に参るのを見、自分の魅力を証明するためだけに男を挑発しているように見える。倣岸ではないか。

チェルノブロフキナの解釈が、こうだというわけではないだろう。彼女はプリセツカヤに「アグレッシブに!攻撃的に」と指導され、強気なカルメンを演じた。ただ、「なぜカルメンが攻撃的なのか」までは考え抜かれていない。

しかしプリセツカヤのカルメンには、強くなる理由があった。闘っていたから。攻撃的なのは、敵がいるからだ。

元々プリセツカヤのためのバレエで、時代背景も違うので、仕方ないのだが。
チェルノブロフキナが、コピーでなく演じた点は、称賛以外ない。
ただ、・・欲を言えば、ですね、(こんなにも蠱惑なカルメンに称賛以外を言うのはあれだが。)

むやみにつっぱり、中身のない女のように見える所が、欲をいえば惜しい。なにかプリセツカヤのカルメンのテーマにとってかわる、彼女にあったテーマがあれば、さらに素晴らしくなるだろう。

ただ、彼女の意図とは離れた所で、たまたま、無為に生きる現代の都会の若い女の子に、彼女の形象が重なり、テーマ不在ないしは底が浅く見えることから救ったように見えた。

チェルノブロフキナはカルメンに近い視点で演じ、彼女に批判的な眼差しを持っているようには思えない。彼女はカルメンを丸ごと演じた。私の感想は、それに私が私の価値観を投影したに過ぎない。あの潔さ誇り高さにもっと肯定的な感想を持つ人もいるだろう。いい意味で、見るものの想像力を刺激する、器になってる、表現だった。

もう一つ。
チェルノブロフキナのカルメンを見て、気づかされた。

プリセツカヤのカルメンは強気で何者をも恐れない、と私は思いこんでいた。

でも本当は彼女は恐れていたのだ!
権力を。


チェルノブロフキナのカルメンを見るまで、私はそれをずっと気づかなかった。

何者をも恐れていないのは、チェルノブロフキナのカルメンの方だった。たぶん勝ち誇ってる彼女のカルメンに、大した中身などないのだ。未だ人生を知らず、そして怖いものも知らない。大切なものがないか、大切なものを失くした事がないか。

若い娘特有の怖いもの知らずの潔さ。仇花のカルメン。その小気味よさも一つの美か。

<その他の人物>
主要3人だけが目立ったが、例外は、隊長役イオン・クローシュ。
装置は、舞台全体が闘牛場を思わせる造りで、舞台下側は床が円形で闘牛場、その周りにぐるっと囲いがあり、闘牛場を見下ろす位置に観客席らしい場所がある。細長い椅子も安置してある。

カルメン、ホセ、エスカミーリョらが、下で絡み、争う時、それを見下ろす位置から不気味な音楽と共に、ゆっくりと姿を現すのが、この隊長である。存在感とキレのある踊り、プロポーションが印象的だった。

台本上の意味は詳しく知らないが、カルメンたちが、ただ3人の恋模様を繰り広げるのでなく、何か背後に操るものの存在や、運命の不気味さなど暗示していた。

括りに。
アロンソ版「カルメン」は、音楽がいい。
「カルメン」を語りつくしたビゼーの曲は、聴けば聴くほど心に響く。
シチェドリン編曲は、格調、硬質さ、透明感を与え、このバレエの芸術性に大きく貢献したと考えている。



追記:後年、色んな人の踊った『カルメン』を見てきて、チェルノブロブキナのカルメンがどれほど素晴らしかったか、改めて思い出しました。

昔はプリセツカヤをいいと思ったけれど、一時期以降は、逆転してしまい、どうしようもなく男の心を掻き立てる、唯一無二の形象として、心の宝箱にその残像を永くしまっておきたい、そんな絶対的な「カルメン」でした。
忘れえぬひと。今、皆が見られるような画像が、たぶん残ってないんですね。残念です。








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「学校へ行こう」にプリマ・セミオノワ出演

2006-09-14 18:17:17 | バレエ
9/12TBS夜の番組「学校へ行こうMAX]で、世界バレエフェスBプロの一部映像と、プリマ、ポリーナ・セミオノワとフリーデマン・フォーゲルの「黒鳥」GPDD、レッスン見学と本番映像が少し流れました。なお、この長い番組の最初の方で流れました。

V6の坂本、三宅と、今度ボリショイバレエアカデミーに奨学金入学が決まった日本人の少女の学生さんが、セミオノワたちとお話するコーナー、その学生さんにセミオノワたちがレッスンしてあげるコーナーもありました。


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新国立劇場、アレッサンドラ・フェリ「こうもり」

2006-09-06 16:48:06 | バレエ
いささか方向が迷走しております。

本日は今年6月の新国立劇場のバレエ公演、「こうもり」で、アレッサンドラ・フェリの表現で考えたことをちょっと。

その前に・・。

私は、この公演は、外国人ゲストの主役のフェリの日に見たわけではなく、日本人主役、真忠久美子さん、森田健太郎さんの日に見た。真忠さんはスタイルがきれいで赤ビスチェもよくにあうし、顔も目が大きく舞台栄えがする。脚も上がるし踊りも上手に見えた。

森田さんは、昔の王子役からイメチェン。渋い伊達男になっていて、踊りから情感がはっきりでるとこが精進を感じさせられ、感心した。二人は息が合ってアダージョはいい感じだった。

この日のコールドは踊りがいまいちだったが、衣装がおしゃれで、プティの演出力には唸らせられた。上演時間が短く、1時間半くらいでしょうか。3時間くらいの公演と値段が一緒って、何だなあ、と思った。

こうもりとは、男は背中にこうもりの翼を持っている、ということらしい。女房との関係に飽き足らず、夜、その翼をつけて素敵な女性を求めて飛んでいく、ということらしい。

えええええ~、そうなんですかあ~~~?

それを、「こうもり」っていうのが、ユーモラスで、軽妙洒脱、おしゃれなバレエ作品なのだとばかり思っていた。

プティはそういう個性の振付家だと思っている。この日の舞台も、踊りはそんなにすごくないんだけど、プティの演出力、洗練された舞台処理センスで、楽しく、深い考えもなく見た。そういう軽い舞台だと思っていた。

その時は、この主役たちでよかったと思っていた。

ところが、・・・。

後で「ダンスマガジン」誌のアレッサンドラ・フェリのインタビューを見たら、この考えが覆った。

インタビュアーが、「こうもり」について軽い作品のような言い方をすると、彼女は、「それでも心を打たれるような場面が幾つかある」と言った。たとえばヒロインのベラが夫(こうもりの翼をもつ男)と、ベッドでもう一度男と女として向き合えるか、二人が試す場面、という意味のことを。

3つくらいの意味ではっとさせられた。

私が、「夫が妻にもう飽きてしまって、女性としてもう興味が持てないので、夜遊びにでかけてゆく」というのをコミカルに(つまり他人事として)捕らえていたのに、そして見た日のプリマの解釈もたぶんそんな風だったのに、フェリの捕らえ方はもっと重くて真摯だ。

人生の時間。愛し合ってともに暮らし、時間を経て、男性側が(女性側でもいいけれど)相手を、もう、昔のようには、なんというか抱きたいとは思わない・・・。
言われてみれば、そうですね、大変なこと、なのかもしれない。

二人で、ではどうか、とベッドで試してみる。やっぱり、ダメ。何かそういう気持ちにならない。(気持ちっていうかフィジカルな面とタイアップして、ダメ、ということなんでしょう。)

そういう状況を、フェリは「心を打たれる瞬間」といったんですね。マイブームならぬマイヒットでごわした。いわれるまでそんなこと考えてみたこともなかった。

まず、バレエの表現、役の解釈としては、フェリって「軽くておしゃれ」なプティのお気に入りでもあるんでしょうけど、マクミランのミューズでもあるんですね。
マクミランは重くて陰鬱なくらいの振付家。

マクミランに指導され、物事を深く見るくせがついていたフェリならではの解釈だと思いました。フェリの表現のなかに、「軽い」プティと「重い」マクミランが交差している・・・。

バレエ表現としてはそこがとても興味深かったです。

それと、フェリ、なんでそんなこと思いついたのかっていうと、・・。
もしかしたら、フェリ自身が、長い人生の中でそんな思いをしたこともあったのかもしれないと思い、これは表現的には現実の問題提起にもなることだし、大変面白いと思いました。

フェリは共演ダンサーと華やかな噂があり、私生活上は夫と子供にも恵まれ、日本人女性から見ると、日本人よりはるかに色気の多そうなイタリア人女性らしく、実人物が昔はかなり官能的な女性に思える人でした。(実のところは知りませんが)

共演したスターさんも、彼女を特別なパートナーだと褒めていて、カーテンコールでも二人の世界、状態だった。おつきあいした男性から見て、官能的でいい女なのではないかと、漠然とそう思っておりました。

その、フェリが、今回のような発言をするので、改めて、男女の関係や、セックスのことって一筋縄ではいかないな、と思ったものです。というか、その手の問題って本当のところはなんら解明されてないというか、真理、メカニズムが注目もされてなければ言葉化されてない、という思いがします。

そういえば、「オーガズムライフ」の杉本彩さんも、前の彼氏について、自分をぜんぜん抱かなくなったという意味のことをいってたなあ・・。
小娘のころは単純だったから、ああいうナイスバディでムードのある女性に、そういうことがおこるとは、まったく理解していませんでした。

何割かの神経がまともな男性たちは、もっとデリケートで、イージーなことでは関係性って保てないんだなと、すこうし、お利口さんになった次第、です~。
(ほんまかいな)

お、今日の天気は、日記の内容にあっている。 

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ニコラ・ル・リッシュが芝居に出演

2006-09-05 16:24:26 | バレエ
パリ・オペラ座ダンサーのニコラ、表参道近くの能の研究所で、サルトル作の劇「出口なし」に出る、という・・。ニコラはフランスで俳優の経験なし。ううむ・・。ここが悩む所よね。今日テレビでちょこっと宣伝していた。

昨日この劇と、マリインスキーバレエのチケットの残席状況を、ちけっとぴあで確認してみた。マリインスキーは最低券種はちけぴにはなし。「出口なし」は残席あり。そんなに売れてるわけでもなさそう、かな。お能の研究所で、客席数そんなに多いとは思えないんだけど。

正直、一瞬、この芝居見に行きたくなってしまったが、残席状況見て、冷静になった。今、東京でパフォーミングアーツや、行きたくなるイベントはいくらでもある。お金も大事だが時間も大事だ。取捨選択にはいつも迷う。このところ、公演のチケットを買うか否かはいつも迷っている。

「出口なし」は、かつて、よく上演された演劇であり、別の演劇公演(小劇場)に行ったとき、「出口なし」というセリフで使われていたほど、聞いた名前だ。正直にいうと、あのての芝居は、自分の中では、手垢にまみれたものになってしまったといっても過言ではないのだが・・・。

すべてが俳優の力量によるようなタイプの劇だと思う。お能の空間での現代劇も過去に見たことがある。

上演されるものがどうかというだけでなく、見る側の見方によって面白くもつまらなくもなる劇だともいえる。フランスの人気ダンサーが日本の伝統芸能の中でセリフを使った表現をする。ユニークな企画だし、ダンサーの可能性を広げる企画でもあるのだろう。

インタビューで「日本は・・・よくわからない」等語っていたニコラ。能の空間で、「わからない」ものを感じ取っているだろうか。見にはいかないけど、検討を祈りたい。

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アロンソ版「カルメン」その2、チェルノブロフキナ

2006-09-03 20:35:41 | バレエ
2.チェルノブロフキナのカルメン 前半

2004年7月東京、当時プリセツカヤに、この役を踊ることを許された数少ないプリマの一人、タチアナ・チェルノブロフキナがモスクワ・クラシックバレエの群舞に客演の形で、この役を披露した。

宣伝ポスターは、カルメン姿の彼女が、不敵な笑みで挑発ポーズをとる魅力的なものだった。しかしあまり撒かれていなかった。宣伝費もかけていないためか、客席には空席エリアもあり、見ていない人も多いと思う。で、以下配役を記載。

ゴールデンバレエofロシア「カルメン組曲」公演(ほか併演あり)

振付:アルベルト・アロンソ
音楽:ビゼー、(編曲:ロディオン・シチェドリン)

カルメン:タチアナ・チェルノブロフキナ
ホセ:ドミトリー・ザバブーリン
エスカミーリョ:ゲオルギー・スミレンスキー
運命(牛):ナタリア・クラピーヴィナ
隊長:イオン・クローシュ(この人だけモスクワ・クラシックバレエ団、ほかの4人は、モスクワ音楽劇場バレエ団)

パルテノン多摩,公演初日。

幕開きは、舞台後方上に、牛の絵の大きな垂れ幕に真っ赤な照明。
舞台中央にカルメンが悠然と構え、客席を自信たっぷりに見ている。黒のレオタードの衣装。音楽前奏高まって、客席からの視線がカルメンに集中し、カルメンが艶然とねめ返し、その頂点でカルメンが片手を上にあげ、ポーズをバシーッとキメる。
途端に、ビゼー「カルメン」の音楽が高らかに鳴り渡り、プリマが自在に踊りだす。

この冒頭数秒だけで、カルメンは観客の心をわし掴みにしてしまった。

タチアナ・チェルノブロフキナ、セクシーダイナマイト!

まず、顔が美人でゴールデンプロポーション、手足や首の長さはバレリーナの美しさ。でも胴部分はグラビアアイドルのようなスタイルの良さ。こんな人が、サラサラ動くふち飾りのついたレースのスカーフを軽く腰に巻き、踊る度太腿をチラチラさせる黒のレオタード姿で出てくる・・。(これってほとんど反則じゃないでしょーか。)まさにカルメン!

この大輪の花ようなプリマが、トゥで立ち、片脚を高く上げ両手で持つポーズを、音に乗ってシャープに決めると、長い脚がまた美しいこと!踊りが巧い上に、ワンポーズ、ワンポーズを、これ以上ない位見事な位置に、美しくかっこよく決めてゆく。

プリセツカヤのアロンソ版カルメンには、重いテーマの他に、「スターのプリセツカヤを見せる」という特性がある。
冒頭の決めシーン、視線の集め方、ねめ返し方、最初の1ポーズの決め方、そのスターオーラの強烈さ、これだけは、プリセツカヤはチェルノブロフキナにはるかに勝っていた。プリセツカヤのための作品なので、彼女の得意な振付になるので、当然だが。

チェルノブロフキナも、冒頭のオーラは現役プリマでは最高。(プリセツカヤがコーチしてたし)
加えて容姿が役にあっている。ただ、欲を言えば、もっと冒頭のオーラはあっていい。プリセツカヤのが一回見ると忘れられない。

でも、そこから先は、チェルノブロフキナの独壇場だった。

美しくセクシーな容姿に加え、踊りの技術は、若いチェルノブロフキナがプリセツカヤより音もとりやすいし、自在に動ける。今日までに何人かがこの役を踊るのを見たが、舞踊技術、振り付けをシャープに決めるべきときは決め、自在に音をとって踊ること、各ポーズをもっとも美しい位置に決める、といった意味で、この版を技術的にもっとも巧く踊っているのは、チェルノブロフキナだと思う。

世界バレエフェスティバルのステパネンコは、悪くはないが、踊りが流れていた。

というわけで、この反則なまでの美女は、舞踊的には完璧なので、細かい振付の話は割愛する。後は表現のこと。このチェルノブロフキナは、演技力は女優バレリーナといわれていて申し分ない。ただ、役作りは・・。

見た目は堪らない美女・カルメン。でも性格はかなり悪い。中身だけなら酷い女に見える。対するホセ役のザバブーリンは、長身で脚は長いが、凡庸な青年に見える。女の子に騒がれそうな雰囲気もなく、どんくさく真面目そうで、まるでカルメンとは釣り合わない。

プリセツカヤの相手役ホセは、いつもいい男がやっていた。ザバブーリンの個性がこの日の「カルメン」の方向を決定づけた。「釣り合わない男と女」

とても性格が悪く、それでも男は惚れてしまう、という夢のような物語設定に、チェルノブロフキナのパーフェクトビューティーっぷりは、現実感を与えていた。

それにしてもカルメンが、勝ち誇ったような表情でホセを誘惑する動機が分からない。ホセに男性として惹かれているようにはまるで見えない。ホセが魅力に乏しいからだ。それで、カルメンはホセを好きでもないのに気を引いて、男が自分の魅力に参ってしまうのを、楽しんでるように見えた。ううむ、中身はかなりやな女に見える・・・。

現実的で堅実なザバブーリンのホセは、最初、カルメンの軽い誘惑を受け入れない。カルメンがにっこり笑って美脚を見せ付け、足先で投げキッスのようにふっとホセの方に秋波を送っても、自分の魅力に自信たっぷりな女が半分からかってるようにも、小ばかにしてるようにさえ見える。ホセは「そんなものは僕は欲しくないんだ」というように顔を背ける。ホセはカルメンが欲しいので、抱きたいので、からかって足先の投げキッスくらいでは、というわけだろうか。

では、とカルメンは、ホセに誘惑をしかける。

プリセツカヤは、カルメンをプリマに指導する際、衛星放送で放映された映像によると、「もっとアグレッシブに!攻撃的に!」と強く煽っていた。そのためチェルノブロフキナも登場からしばらくは、いつも不敵で勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。挑戦的で強い目線。

それが、中盤、ちょっと雰囲気が和らぎ、カルメンの誘惑に刺激されながら応じるのを迷うホセを誘う時。

「まあまあ、そんな難しく考えなさんなよ」とでもいうような、肩の力を抜いたムードになった一瞬、このプリマ本来の個性、甘さや愛嬌が際立った。椅子に座ったホセの背後から両手の人差し指で、「つん!」とホセの肩をつつくと、ドッキリしたホセの全身を貫く甘い痺れが、見る側にも伝わってくる。カルメンは時々、こんな風にちょっとホセの体をさわるところがあって・・・。そうかと思うと、笑顔。か~わいい顔して笑う、(笑顔がカワイイ)この女性。気まぐれなのか、本気なのか・・・。

堅実なホセは、彼女の本気度を測りつつも、段々にその気になってきて、ついに二人はホセがカルメンを高くリフトし、愛の高揚を高らかに歌い上げる「花の歌」曲のパートのアダージョ、ラスト音楽高まってホセがカルメンを抱き上げる。これで二人に一瞬愛が通ったのか?つい、気を許して感動してしまう。

ところで話は前後するが、カルメンの色仕掛け。

最初の方で、カルメンがホセの手をぐいっと掴んで、わざと自分の大きな胸をぐいぐいぐいっと触らせてウフフと笑い、中盤、闘牛士エスカミーリョの手をカルメンが掴んで、自分の太ももをズイズイズイッと触らせフフフと笑い、・・ってな調子。

これを初日見たときは私も驚き。え~っ、プリセツカヤのカルメンに、こんな振付あったっけ~!

あとで手持ちビデオで調べたら、あった、あった。胸触らせるシーンの方は。でもプリセツカヤの方はそのシーン全く印象に残らず、色気より「闘うカルメン」の鮮烈な生き様の勝ったカルメン。
(演技もタチアナさんと違って偶然を装って、あ、間違って胸に手がいっちゃった、ととぼけて誘惑してるような上手な演技。チェルノブロフキナのは、はっきりやってたから、よほどカルメンに魅力がないと、ホセから見てわざとらしくて気持ちが引けてしまう。)

舞台は広いので客席から見てこの演技、タチアナさん位胸の大きいプリマが望ましく、あんまりない人がやると、芝居として効かないでしょー。

特にこの日は、私が劇場行ったら、なんと席が最前列中央だった!あのレオタードのプリマが、この芝居を眼前で・・。

それで、
”え~、なにこれ、R指定?!”
みたいな気分に。チェルノブロフキナのカルメンが、平気な顔して確信犯のように、こ~ゆ~芝居をするので。

いや~、こ~れ~はっ、男に、こーゆーことしちゃ、いかんでしょう~。反則です、この誘惑行為はっ。

それで、あわれザバブーリンのホセは、最初抵抗したにもかかわらず、カルメンの意のままに。

このあたりから、見てるこっちはもう、カルメンよりホセがかわいそうで、タイトル「ホセ」に変更したいくらいだった。
こんな誘惑で恋してはいけない美女・カルメンに幻惑されてしまったホセの、切ないソロの踊りこそ、私的にはこの日の白眉。長く心に残った。

世界バレエフェスでよく踊られるプティ版「カルメン」の、今回もアレッサンドラ・フェリ、ロバート・テューズリー二人によって踊られたアダージョの曲の所が、アロンソ版ではホセのソロとして踊られる。

世界バレエフェスでアロンソ版を踊ったメルクリエフは代役。なのでこのパートの作品の印象が残った人はないと思う。ビデオのプリセツカヤのイケメン相手役ですら、ここの印象はそこそこ。かつてホセ役を踊ったガリムーリンも同様。

有名でもないザバブーリンが、私の見た中で一番見事にここを踊った。
「カルメンしか欲しくない」。
ビゼーの名曲の中、大きく広げられた両腕、長い脚のハーフトゥのアラベスクのポーズ。恋してはいけない美女をどうしようもなく愛してしまったホセの切ない想いが伝わってくる。3日目ゆうぽうと公演では見ていて泣けてしまった。

そう、結局感情移入できたのはホセ。主人公はホセのようだった。でも、このホセに矛盾に満ちた感情が引き起こるのは、カルメンが振るいつきたくなるような美女のせい。チェルノブロフキナのカルメンは究極のファムファタルだった。およそ舞台芸術で、私があれ以上のファムファタル役を見ることは二度とないだろう。

いわば、美貌の無駄使い、のようなカルメン。無軌道で無目的で、何のためにホセを、またエスカミーリョを誘惑するのかよく分らない。いつも人生の勝利者のように勝ち誇っていて、そのくせあっけなく殺されてしまう。

馥郁たるその美貌ゆえ、その無意味さが切ない。

でも何だかこのカルメン、ロシア人が演じているのに、まるで・・例えば少し前の東京の若い女の子の話のようだとも思った。そのリアルさゆえ、いっそう切なかった。
あの若い美女には、本当の愛がない。

東京で、キレイで、でもそれを道具に使い、セックスも男をいいように使う道具のようで、本当の快楽も知らない、そういう若い女の子と釣られるバブリーな男をイメージできる時代もあった。奔放もしくは自堕落に生き、無目的な生を生き、未だ人生の意味を知らずといったような・・・。若く怖いもの知らずで、死をも恐れない。

長くなったので一たん切ります。






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アロンソ版「カルメン」その1、プリセツカヤ

2006-09-03 16:46:27 | バレエ
やっと「懐かしの」というタイトルを裏切らない内容に。

遡る事2年前、2004年7月、美女カルメン、IN 東京のお話。
その前に。

1.プリセツカヤのカルメン
ここで言うアロンソ版「カルメン」は、元は、当時ソ連国立ボリショイバレエのプリマだったマイヤ・プリセツカヤのために振付られた。
彼女のカルメンは、私も昔ビデオで見て、その時は強烈な印象を受けた。

「カルメン」は、改めて原作を読むと、巷のカルメンのイメージと原作自体が、そもそもズレがあると気付く。時代の感性に制約された一人の作家の想像力の産物に過ぎなかったものが、時代を超え人々の集団的想像力の中で、より自由で魅惑的なものに、変貌を遂げたのではないかと、思っている。

今、「カルメン」の一般的なイメージといったらどうだろうか。おおざっぱには、
「自由で奔放なラテン系の女」「情熱的な恋をするジプシーのいい女」といったところだろうか。

プリセツカヤの「カルメン」は、このオーソドックスなカルメン像と異なり、彼女の個性を優先した独創的なものだ。両者に共通するのは、火のような激しい生き様である。舞台全体の印象も、炎が燃え盛っていたような、激しさと緊張感が残った。

両者の相違は、プリセツカヤのは「恋」よりも生の闘争に力点がシフトされているということだ。プリセツカヤには、この作品に限らず、自己表現の希求が常にあった。

アロンソ版プリセツカヤの「カルメン」は、色っぽいイイ女というよりも自由を希求する女闘士のイメージである。振付もプティ版に比べ、硬質で直線的。

今の時代にアナクロなソ連の体制批判をやるつもりは、毛頭ない。自分が闘ってもいない人間が、安全圏から過去の他国の批判をやるには、私は勉強不足である。10年以上前、感銘を受けたプリセツカヤについても、彼女が得た名声に上乗せする称賛をやるほど、私も暇ではない。

そうでなく客観的な話として、アロンソ版は、元々は「生の闘争」「自由の希求」という重いテーマを持ったものだという、作品理解は踏まえておきたい。今名声に包まれて、80歳を過ぎ手をふる踊りでルジマートフらのガラコンサートに出演していたプリセツカヤと、初演当時、亡命をせず、ソ連の体制の中で自分の表現を追及したプリセツカヤとでは、表現者として存在も立場も違う。

アロンソ版カルメンのテーマ、闘争と自由の希求とを、表層的に抽象的に捕らえるのもひとつの行き方だが、プリセツカヤが、作品の一部に暗にこめた意味は、彼女自身の生き様と重なって苛烈であり、それを知って鑑賞するのも芸術の本来の意義に通じると思う。

でもね、結構重くてシビアです。
たとえば、カルメンがぐるりと囲いのある闘牛場の中のイメージの装置の場所で、一部闘牛の振りも入る踊りの中で殺されるのは・・。
マイヤ談「愚かな群衆が、カルメンが殺されるのを喜んで見ている」というような理解になるらしいです。

それは、もちろん、権力との軋轢の中で、実のところ民衆はマイヤの味方ではなく、権力がマイヤの芸術を封じるのを拍手喝采し見世物のように眺めている、そんな風に彼女には感じられたのかもしれない。

でも、その民衆とは、私も入るんですよね。
たしかに、衆愚って言葉はあって、民衆とは権力にマニュピュレートされる存在っていえばいえるし、そういう現実は今でも自分のまわりにころがってるわけだけど。

でも、マイヤみたいに、「愚かな群衆」って、スパーッと切れないですね、私は。
もちろん闘っていたころの彼女を評価するにやぶさかでないけれども。

マイヤの現実の問題は、置くとして、初演者の役の解釈としては、このあたりは踏まえておきたいです。今回、堅い話で、つまんなかったらすいません、次回は色っぽくいきます。




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