懐かしのバレエ

バレエ、パフォーミングアーツ等の感想、及び、日々雑感。バレエは、少し以前の回顧も。他、政治、社会、競馬、少女マンガ。

「マラーホフの贈り物」Bプロ

2008-02-24 02:13:27 | Weblog
仕事帰りのバレエで、そんなにきっちり見たわけではなくても、楽しめる公演でした。

トリのマラーホフのモダン新作ソロ「新生」は、圧巻!

音楽の、「80年代に活躍したクラウス・ノミ」は、私の知らないアーティストで、その音楽も、2回見てもなかなか覚えられず。最初が男性で、後が女性の声に聴こえて、ホモっぽいかと思ったけれど。やはり新作で、作品の全部を1回でわかるというわけにはいきませんね。

この企画ならではの、珍しいモダン作品上演も意義深くも楽しくもありました。

ロビンス版「牧神の午後」とか。あれを成功させられるのは、さすがの一言。
二人とも美しい肢体で、ああいう人がやらないとつまらない作品に見えるかもしれません。

日本だと、集客面の不安か、なかなか「受けるかどうか冒険」な演目はやるのが難しいのかとも、或いは権利を取るのが大変なのかとも(?)思うので、見慣れない演目を魅力的に上演してくれて、嬉しかったです。

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テレビ映画「シンドラーのリスト」

2008-02-24 01:49:47 | Weblog
途中から、分断してちょっと見ただけで、内容を全部見られなかったが、感動した。素晴らしい。涙なくしては見られない・・・。

映画を作った人を讃えたくなる映画。
過去は風化しやすいものだけど、それに抗う強い意志を感じる。
映画を見ながら、「忘れてはいけない過去があるのだ」と映画に言われているような気がした。淡々とした運び、端正な作り、映像の品のよさが、重いテーマを近しく感じさせていた。

女優さんが美人。音楽が格調高い。内容は社会派だが、映像は古き良き時代の名画系。(でも仕事疲れで見ると、疲れるかも。社会派系なので、考えさせられながら感動する映画なので。)逆に仕事や生活が大変な時見るとエネルギーを貰える人もいるかも。

ドストエフスキー「悪霊」の話を見た後に、前後してこういう善が生まれた話を見るのは感慨深かった。

善性は、はじめから英雄的行為をした人間の中にあったのではなく、現実の葛藤から生まれていた。

ところで、ユーロスペースでやってる映画「牡牛座」を見たいのだが、行かれないうちに上演終わってしまいそうな気がする・・・。今後あまりやらなさそうな映画(?)なので見忘れたら辛い・・・。映画館の映画は、こういうとき、やや不便だ。

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NHK教育 ドストエフスキー「悪霊」と 9.11

2008-02-19 02:24:36 | Weblog
例のアメリカの9.11のビル爆破のテレビ画面。

あれを見て、図らずも「道楽友達」のバレエファンの知人と意見が一致した。

事件直後も私らは、劇場に来ていたのだ。普段舞台の感想しか話さない間柄なのに、突然、相手が言った。

「あの、爆破事件の映像は、あれは、いかにアメリカが憎まれているか、再認識した」

「そう、そうなんだよね」と私は言った。「(私らによくわかってないことも含めて)、あそこまでやられてしまうほど憎まれることを、アメリカがやったってことだよね、」と。その衝撃を私らは共有した。

昨日の教育テレビで、「カラマーゾフ兄弟」新訳ヒットの亀山郁夫先生が、ドストエフスキー「悪霊」の講釈をやっていたのはいいのだけど、最後のオチが、ちょっと・・・。

突然話が、ドスト小説「悪霊」から、アメリカの9.11、ビル爆破のテレビ映像の話になってしまい、う~ん、・・。

亀山先生は、なんでもあの映像を、「「悪霊」のスタヴローギンのような意識で見ている自分に気づき、愕然とした」のだそうな。そして、「彼だけでなく、多くの人が、そういう意識で見たんじゃないか」との趣旨。

私から見れば、オプティミスティックだ。そんな意識で見られるほど、「ひとごと」なんですね・・。

亀山先生に限った話じゃないけど、学者とはそういうものなのか・・・?
「悪い本の読みすぎなんじゃないですか?」という気が・・・。テロで、被害にあわなかったかどうか、実際に心配する相手がいる場合の意識の持ち方は、それどころではない。

不肖、私などは、第一報では「知り合いがいないか」と案じて、ビル内の日本企業の避難状況報道を見て、知ってる会社の人は、無事に避難した階だったと知ってほっとしていた。(死んだ人もいるのに不謹慎だが)

そしてまた、あの、ビル爆破でもっての中東の人々の「意思表示」については、私には、立場の違う日本人として、複雑な思いでその負のメッセージを受け止めるしかなかった。

亀山先生の理解によるスタヴローギンの意識とは、「茫漠たるニヒリズムに帰結する」感情にしか、私には見えなかった。が、あの9.11の事件には、もっと「輪郭のはっきりした」憎悪を感じる。

批判と言うより別な意見として言いたいが、亀山先生の捉え方は、私にはひとくくりにはできない、ひとくくりにしてはいけないものを、ざっくりひとくくりにしてしまっているように思える。

(でも、あの9.11のニュースを見て、先生が、スタヴローギンのような目で見ている{つまり、テロで殺される人々を悼み、案じる感情ではなく、テレビ映像を見る傍観者のクールな目線で見ている意識、もっと言えば、悪を望む心とでもいったところか?}というのなら、ちょっとやばい精神状態かも、とも思う。

またマスメディアに対し、無防備すぎると言う点でも、問題あると思う。テレビ映像とは、「編集されたもの」だ。ストレートに現実とイコールというより「編集された現実」として見る目は、視聴者にとって基本だ。)

このNHKの番組を見たことで、逆に、こないだのベルリンの映画の賞取った映画についても、自分の中ではミソがついてしまった。「今更、連合赤軍事件だなんて」と。あの事件について、ある程度ものを考える人間は、とっくにそれぞれの結論を出して先に進んでいるのではないかと。

現実は、もっともっとよからぬ方向に、先へ進んでしまったのだ。

9.11の話は、アメリカは、イスラム圏に対し、相手の文化を尊重せず、アイデンティティを否定するようなことをやってるわけだから、自らの文化に誇りを持つ人間が、闘っても不思議ないと思う。

アメリカは性的にぶっ壊れた人間が大勢いる所だと知ったが、あのイラクでやってた語るに落ちる愚行については、弁明の余地ないし、イスラム圏で、自国に誇りを持つものは戦っても不思議ないと思う。テロが許されると思うと考えることとは別であるし、自分はテロに殺される市民の側に過ぎないが。

「罪もない人が殺される」のと、それなりに手を染めた人間が殺されるのとではわけが違う。アメリカがイラクへ出兵し、日本も加担してる。私だって日本国民で税金払ってるし、日本のやったことに全く責任ないわけじゃない。

9.11事件のようなことがあれば、例えば自分がそこらにいて、たまたま殺されちゃったら、それはそれだと思う。(例え日本が外国に恨まれることもして、外人に「テロの犠牲になっても仕方ない」と思われたとしても、それでもテロなんかで死にたくないエゴイズムの持ち合わせは、私にもあるが、自分は「何の罪もない」とまで思える傲岸さはない)そりゃ、自分以外が殺されたら、気の毒だと思うけど。自分だって死にたかないし、痛いのは嫌だけど。

「何の罪もない」と言える場合も、言えぬ場合もある。「何の罪もないひと」といってしまう傲岸。意識するとせざるに関わらず、現実の何かの罪に加担してることだってあるんだ。

話をNHKの「知るを楽しむ」に戻すと、亀山先生の講釈だけでは、見たいものは私には見えてこなかった。大した経験もない大学生が、「講義」として聞くならわかりやすくてよいのかもしれないが。若い頃政治に関わり、過去の体験を持つらしきドスト氏にだって、固有の体験からくる想いが色々あるんだと思う。それなりの負のエネルギーに突き動かされて、「悪霊」を書いた。

今時は、「わかりやすい」小奇麗でまとまった講釈で、大学生が納得するもんなのかもしれない。でも。「そんなに簡単にわからなくったっていいじゃないか」と思う。

亀山先生は自分と他者をひとくくりにして、「我々」といった。が、9・11については、「我々」とくくられるような意識は、私の側にはなかった。自分がそうだからと言って、他人がそうとは限らない、そう簡単に判られては困る。

でも、「カラマーゾフ兄弟」面白かったから、亀山先生の次なるチャレンジに期待しております。まー、「知るを楽しむ」という番組自体が、こんなに熱くなるような対象ではないのかもしれないが。

とりあえず、連合赤軍事件を題材とした映画が、ベルリンで賞とって日本でも賞とったので、つい、先日「悪霊」のことを書いてしまったが、今回のNHKの「知るを楽しむ」だったかそんな番組を見て、「悪霊」の話を見たことで、やっぱり、「連合赤軍」ものはもう古いんじゃないかと言う気がした。もちろん、本当の意味できちんと語られるならいいけれど。島田雅彦調は、かんべんしてほしい。前頭葉使ってもの考えろといいたい。

連合赤軍事件関連では、当事者の永田洋子死刑囚の手記以上に価値のあるものは、今の所、あまり出てないんじゃないかと個人的には思うし、私は彼女の著作も、先に出たものしか読んでない。本人でさえ、後年書いても、先に出したもの以上のものを書くのは、難しいと思う。あとは強いて言えば、事件直後に出た寺山修司の記述が、ユニークだったくらいだ。

他のものは事件を語れば語るほど、事件から遠ざかってフィクション化していくような気がする。今回の映画の中の「びっくりするほどかっこいい永田洋子」は、彼女を当時社会がどう扱ったかを思えば、価値の変換という意味はあったと思う。(事件とは関係なく、女性の永田さんの方が、男性のリーダーより悪し様に言われたり、容姿のこととか、あれは事件とは関係なく当時の、社会の女性への侮蔑の意識の象徴だったと私は思ってるので。)

いま学校でだって、職場の実体だって、陰湿ないじめくらいはいくらもある。(それに傍観者や加担者でいることしかできない、弱い人間もたくさんいる。)島田雅彦の以前の、事件に対する発言については、「うわべだけのきれいな建前」ほど時間の無駄もあるまい、と思う。(「狂気の集団がどうのこうの」とか、です。一番幼稚なレベルの捉え方。)

(亀山先生の、「自分がスタヴローギンのような目で見ている」という「悪霊」アプローチは、「悪」を自分の外に求める島田氏よりは、「悪」を自分の中に見る分、なんぼかましとも言えるが。)

現実は、連合赤軍事件が衝撃だった時代よりもはるかに(悪い意味で)前に進んでしまった。今は、物理的だけなら、もっと陰惨で衝撃的な事件は、いくらもある。

話は戻るが、「9.11」は、あのアメリカへの憎悪の裏側には、「正義感」「義心」が、おそらくいくばくかあるのだ。

怪獣映画と間違えたかと思うようなニュース映像。

9.11は、「正義感の怖さ」をも伝えた。(実は、「悪霊」ヒントになったという、ネチャーエフ事件だって、そもそも論でいえば、簡略すればそういうことだと思うけど)

大変辛口になってしまったが、亀山先生のテレビの仕事は続けて欲しいです、この方は、語りがテレビ向きだと思うので。

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「マラーホフの贈り物」Aプロ、サレンコ

2008-02-18 00:27:48 | Weblog
いまや五反田ゆうぽうとは、老舗の劇場になってしまった。足を運ぶと懐かしい気がした。バレエも新しい主催者が増えて、NBSも古参の部類になり、心得た接客にほっとする。

ベテランのマラーホフの暖かさが伝わるバレエ・コンサートだった。膝の怪我手術、カムバックすぐの公演。ファンでもないのに心配しながら見た。

そんないきさつがあって、感動したがメインの演目の話を書く気になれないので、周辺の、マイナーなダンサーの話を。

ベルリン国立歌劇場バレエ団の、サレンコさんという私の知らないプリマ。
さほど人気はなかったが、「エスメラルダ」では、巧すぎず決して下手ではないタンバリンさばきが可愛かった。

「ドン・キ」では、
バランスを複数決め、「やった~!」と思って居そうな所がやっぱり可愛かった。
フェッテもトリプルを入れ、アレクサンドロワより上の技術。
テクニシャンの素質はあるので、良いコーチに変われれば踊りももっと洗練されて、このテクが観客受けするように変わるだろう。マラーホフの力で良いコーチを入れられないのだろうか。

相手のドネツク・コンヴァリーナ(こんな名なのに男性だった)も、ハンサムのうちに入りそうだしプロポーションも最近のダンサーの中ではかなり良く、回転技ではちょっと見せ場もあったけど、サレンコと同じ理由で受けない。まあまあのテクはあるので、コーチ次第で垢抜ければ、見かけの良さがもっと生きるだろうに、もったいない気がした。

アメリカンバレエシアターのおしどり夫婦ペア、イリーナ・ドヴォロベンコとマクシム・ベロセルコフスキーは、夫婦愛のパートナーシップに端正な踊りで、安定した舞台を見せてくれた。が、この男性の側、ベロセルコフスキーも、ハンサムでプロポーションにも恵まれている割に、女性ファンにきゃーきゃーいわれそうな客席の反応ではない気がした。妻を立てているステージマナーのせいなのか。

マラーホフの新作「新生」。作品のテーマにはとっても感動した。良いアイデアを出せるスタッフに恵まれているのだろうか。ニュー・ボーンだなんて、「膝再建術で新しい膝を手に入れた」といっていたマラーホフにふさわしい、と言いたい所だが、早期舞台復帰。ここで踊って大丈夫かとの思いが脳裏をよぎる。

ポジティブなマラーホフだが、身体は資本。無理をせず無事に日本からドイツへ帰れるよう祈るばかりだ。

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不美人の思想?

2008-02-17 23:23:23 | Weblog
ベルリン国際映画祭の話から転じて、題材の連合赤軍事件の話になってしまったが、この映画の賞受賞のニュース映像を見た時、図らずも、役を演じる女優さんの「かっこよさ」が目に付いて、そこから忘れていた話を思い出していた。

その役の連合赤軍幹部の永田洋子さんと言う女性に、やけに同情めいた感情を禁じえないのは、その事件の後の言われようが、かなり「酷かった」ことのために尽きる。

今で言う、「セクハラ」。
つまり、美人ではない、まあ、不美人である、ということで、ここに書くには耐えないようなことを、マスコミに色々書かれていた。世の中そういうもんかもしれん、と納得してはいけない。世の中えてしてそういうもんだったとしても、それはちっとも正しくない。犯した犯罪と、美人とか不美人とかは、関係ない。

そんな彼女が、数十年たつと、映画の中で一種かっこいい女性に変貌している。
風化も、こういう風化ならたまにはいいもんだと思う。

「ブス」ということで、この数十年でもっとも印象的だったのは、作家の林真理子さんの発言だった。

彼女は若い頃、とにかく「ブス」だということで、作家になって有名になった後も、色々な思いをしたらしい。

なんでも、道を歩いていて、反対側からこちらへ歩いてくる見知らぬ若い男が、
「あっ、ハヤシマリコだ~!」とわかると、数十メートル先からでも、度し難い負の感情を、ぶつけてくるというのだ。

そんな悔しい思いをした林さんが決意したのは、作家として名を挙げ、偉くなってそんな理不尽な世間を見返してやる、ことだった。それはなるほどと思う。が、それだけでは足りず、「結婚」した。ステイタス重視の人なのだろう。世間がどうやったら自分を認めるか、を優先した人生選択の人なのだろう。

そんな林さんが、「やせてきれいになったハヤシマリコさん」とのコピーで雑誌「アンアン」に出たりするのは、ユーモラスでもある。個人的には自分なら、(たとえそれが逃げだろうと)めんどくさいから、さきに整形でもして美人になってから人生考え直すと思うけど。

たかがツラの皮一枚で、人生が変わってしまうのだ。それは神様がそれぞれにくれるものなので、当たり外れはルーレットのようなものだ。その与えられたものによって、世界の見え方が異なるとは。ハヤシマリコさんの書く、どんな小説よりも、自分にはその話の方が参考になるのだった。

林さんの描く男女関係が、どこか表面的で、(つまりお互い深く愛し合ってはいなくて)彼女の強烈な原体験の方が、根っこがあるからだ。彼女にしか語れない、真実を一番付いているように思うので。

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日本映画、ベルリン国際映画祭で受賞

2008-02-17 02:43:44 | Weblog
今年はなぜか映画の「日本アカデミー賞」発表を、テレビのゴールデンタイムで見てしまった。こんな番組あったっけ?自分が知らないだけか?

こんな番組があったなら、「パッチギ!」の沢尻エリカと井筒監督の時のを見たかった。(当時は、無かったのかも?)「虎ノ門」の毒舌・井筒監督に、オーディションの時「日本映画を変えたい」と言い放ったエリカ嬢。あのコンビもスパイス2乗で面白い。

さらにNHKで「ベルリン国際映画祭で日本映画2本が受賞」のニュースをやっていた。

で、も、・・。

そのひとつが、「連合赤軍のあさま山荘事件」を題材にした若松孝二監督のもの。つまり、今風では全然無い。映画監督自身のこだわりを追及した作品なのだろう。

今の時代が「創造性」の面ではいまいちな時代らしく、リバイバル物が多いと思う。日本の過去を振り返る作品が多い。

何でか知らないけど、昨年冬の長瀬智也主演のテレビドラマも、日本の戦後の復興期が舞台で、やけに「その時代の再現」に熱が入っていた。回顧したい人たちがいるんだろうか。

さて、若松監督の、その映画について。

たまたまドストエフスキーの小説がブームだそうで、つい本屋で立ち読みしたら、売れてる「カラマーゾフ兄弟」よりも、つい「悪霊」の方を見てしまった。

ネチャーエフ事件。そう、「悪霊」の題材となった、「大義のために同志を殺す」、という実在の事件。(私は詳しく知らない。亀山先生なら、当時の時代背景等、考証ばっちりだろうけど)

若松監督ら、「映画人」に、青春を過ごした「あの時代」への思い入れがあるのは、事実としては判る。でも。やっぱり、「連合赤軍」の事件は、せめてネチャーエフ事件との類似等とも比較対象して論じられる位の、透徹した見方が必要だと痛感する。

愚の骨頂だったのは、その事件に対する、作家・島田雅彦の「狂気」というコメント。そんなどうでもいい凡庸極まりない話を聞いてられるほど、私たちは暇ではない。

当時は皆を驚かせた事件でも、犯罪の手口の残酷さだけなら、今では「それ以上に驚愕させられる」事件を、テレビのワイドショーが視聴率ほしさに連日報じてる。「新潮」「文春」やそれに追随する週刊誌その他で、とにかく男女関係その他の、半分私にはどうでもいいかもしれない他人の、個人的な身の毛のよだつような「犯罪」の報道が後をたたない。

身の毛のよだつような「犯罪」の記事などは、ついうっかり読んでしまうと、後味が悪く後悔するものが多い。また、犯罪を犯した男女の個人関係について、どうでもいいくらい詳細に、あることないことかかれている。ああいうの、記者の人たちは、平気なんだ~、と思ってしまう。

ワイドショーやニュースのキャスターは、身の毛のよだつような犯罪や、気の毒な犠牲者の話を、なんでもない顔で話し、すぐ、次へいける。無神経と言うか、平気なんだ~と、思う。私にはそれが疲れるので、経済ニュース「ワールドビジネスサテライト」辺りに行ってしまう。

「連合赤軍事件」の時代と、今は違う。
昔は凄いことでも、今は凄くなくなってしまった。

やはり思想的に、或いは人間理解の深度を上げることでしか、連合赤軍事件へのアプローチはできない。作家、島田雅彦の発言の裏には、おそらく「自分は『事件』の人々のようなことはしない」という思い込みがあると思う。でも。

それは島田センセイの「世界の狭さ」でしかない。
連合赤軍事件を単体として扱えば、それは「狂気を持った、自分とは別の特殊な人々の事件」で終わると思う。しかし、そこに例えばネチャーエフ事件との相関を意識するだけでも、その辺が違ってくるのではあるまいか。

人間には、色々なことが起こり得る。つまり、状況いかんでは・・・。
世界の広さを知ることは、自分の狭さ、小ささを知ることだ。
自分の無力を知ることも、時として無意味ではないと、私は思っている。
限界を知ることは、危機を回避する可能性を見出すスタートにもなるから。

若松孝二監督の問題に戻ると、連合赤軍事件の映画を撮ることは、若松監督自身が問われることだと思う。過去の時代を撮った幾つかの作品に共通するが。

「パッチギ!」が優れていた点のひとつは、「あの時代を撮る」ことに、全然「負けていない」こと。監督自身が思い入れのある時代のはずなのに、そういう立脚点をもつものにありがちな、「ついノスタルジーにひきづられた」調が全く無い。回顧調、ノスタルジーでなく、「確かに『あの時代』が映ってるのに、視点が優れて現代的である」ことに感じ入った。また、普遍的な価値をストレートに表現していることも爽快だ。

連合赤軍事件の時代、時代の熱に浮かされて「俺たちもなにかやらなくちゃ」とおもっていた青年たちが大人になっての映画、ならば、青春の卒業のような映画になるのかなと。それはそれで価値が無いとはいわないが、私のような後の時代のものにとってそれは、その人たちの、個人的な思い入れの集積でしかない。

(ってばっさり切りすぎかしらん。その世代の人が思い入れがあるのは判ってるんだけど。古館一郎さんとかも)

「俺たちもなにかやらなくちゃ」ではなく、もっと上のことを考えてた人たちはいると思う。どっちかと言うと、私はそちらに興味がある。

「ネチャーエフ事件」では、判らない人向けに言えば、フランス革命のロベスピエールの粛清あたりにまで遡ればわかり易いかもしれない。

ようは、高潔な理想を持って立ったはずの人々が、気がつくとかなり極端な粛清などに走るのは「特殊な人の奇怪な行動」という理解よりは、人間はある一定の状況によって、こういうこともやるもんだ、と捉える方が上のレベルの人的理解だと思ってる。そして、「なぜそうなるのか」を解明するのが、論考の仕事だと思うから、島田発言を「時間の無駄」と思うのだった。

とりあえず、「連合赤軍事件」を語りたい人は、事件の首謀者の一人とされる永田洋子(ひろこ、と読むのに、知人の教授は、名を間違えて読んでいた。年配の先生なんだから間違えないで欲しい。最近、漢字を正しく読まない人が周囲にも増えて困る)死刑囚著の「十六の墓標」位は読まなきゃ、ダメ。これは読んでない人は論考者としては問題外。

著者は几帳面な性格なのか、事実をかなり正確に綴っている。読んでいても相当疲れる文だった。書いた方も疲れたと思う。これを書いて脳の癌になったんじゃないかと思った位。

ついでに、この本の解説を書いた瀬戸内寂聴の、傲岸な口調には呆れた。
文が事実を正確に記していることについて、淡々と冷静に語り、いまひとつ文学的に踏み込めてないようなことを言って、筆者を鞭打っていた。「寂聴何様のつもりか」と、後年、彼女がどういう人生を生きた女性かを知って、思った。

自分がつきあったあと自殺した男のことを、懺悔でもしてから言ってほしいというか。一人殺せば犯罪者で、多くを殺せば英雄だと、昔チャップリンが皮肉ったが。

永田洋子死刑囚は、彼女のやるべきことをやった。「事件の記録を残すこと」。
組織から、ありがちな「彼らにとって都合のいい作文」を総括として認めるよう要求され、拒否。永田死刑囚が、自分の利益のために「彼ら」の要求をのみ、「作文」を認め、本を出版しなければ、事実は藪の中だった。

拒否したことで、過酷な不利は受けている。用語忘れたが、刑務所での接見がなくなったんだったか。しかし、刑務所で過酷な生活の人間に、利益をえさに自分らの都合のいい要求をする組織も組織だが。どこの組織も(一般企業と会社員の関係だってそんなもんか)そんなものか・・・。

やるべきことはやった人間に、男にとって、どうやら褒められた女性とはおせじにも言いがたい寂聴センセイが、身の程知らずなお説教たれる。やっぱ、センセイとよばれ、出家もすれば、それなりにえらそうなお説教癖が常態化する、ということなのだろうか。(当時出家までしてたか知らないが)

十数人殺した永田死刑囚と、つきあった一人の男が自殺してるらしい寂聴センセイ。(ぜんぶ彼女のせいではないとか、関係ないとかはいえるけど、でもでも)

世間では、十数人殺した方が上の犯罪だけど、男を壊滅的に、性的なことも含め、傷つけるのは、個人的には、あまり好きになれない、評価もできない女ということになる。瀬戸内寂聴の本を読んでいて時々感じるのは、この書き手の女性は、男よりも性的充足の方が好きだということだ。男は、女がセックスするためだけに存在してるわけじゃない。或いは女が利用するためだけに存在してるわけじゃない。

寂聴の本からは、男の、向こう側にある、つまりセックスの向こう側にある、人間性が見えてこない。女が男を尊敬する念も見えてこない。愛というのは、性もあるけど、それだけではないと、私は思うのだけど。(換言すれば、性の中で相手の人間性も見えてくることもあるのだけど。)もちろん、溺れる生活の中で性がすべてな男女関係もあるのは、わかるけど。

脱線したが、寂聴さんは、やるべきことをやった人というのとは違う気がする。同じ所を堂々巡りな気がする。ま、まわりに害毒をまち散らしながら、本人はいたってお元気、ってやつ。

永田死刑囚は本を書き、力尽きた。人間のできることの限界を行ったと思う。脳の癌になっちゃったし。

ついでに「事件」に興味ある人は、このリアリストの永田死刑囚と、観念的なリーダーの森恒夫との、資質の違いも見逃せないと思うべき。森恒夫は、事件の最後に自決した。週刊誌ネタかもしれんが、逮捕後も身体を鍛えてたというから、永田死刑囚の理解のような「現実逃避の自殺」とは異なる。

指導者として権力に自分を裁かせずに、自分が、(集団の指導者として)自分を裁いた。
つまり映画「連合赤軍事件」のような「物語化」を、自らの死を持って拒否したわけなんだけど。

この森恒夫と、こういう観念的な物事の捉え方が全くできない永田死刑囚。
彼女が、事件から何年たっても、死ぬまでこのリーダーの考え方を理解できないのは、不幸で残念なことだ。リーダーを信じて行動したはずなのに、「彼は逃げて自殺した」と捉えるのと、是非はともかく、リーダーの自決の真意を理解することでは、「なぜあの事件は起こったのか」考えざるを得ない彼女の立場では、理解が大変違ってくるはずなのに。

連合赤軍には、もうひとり別の意味のリアリストがいた。他のメンバーは粛清にあたって、リーダーに何か言われると、悪い意味で「誠実に」受け答えしているけれど、一人だけ「自分がどう思うか」ではなく、リーダーは「なんと答えたら満足するか」という観点でものを見ていたメンバーがいた。(こんな事実も、克明な手記「十六の墓標」があるから、判るのだが)

今の若者なら、こういう観点を持つものは多い。

「空気を読め」と言う言い方からして、実はそうだ。

自分の意見や、思いを素直に述べるのではなく、「なんと言ったら周囲は満足するか」でものを言っている。いや、若者どころか、主婦の知り合いもよく考えて見ると、そんな感じだ。

脱線だらけだが。まとめ。

連合赤軍事件を語るなら。必見書籍。
1.永田洋子著「十六の墓標」
2.ドストエフスキー「悪霊」
3.寺山修司「自殺紳士録」(だったと思うが森恒夫の死について事件直後に書いてた。本のタイトルではない。それは失念)

(メンバーの坂口と言う人の手記も出ていたが、これは感情的で、とても読めたしろものではなかった。誰でも書けそうな文。事件からかなりたっての主観的なもので、参考にならない。)

参考書籍。

1.大江健三郎「河馬に噛まれる」(小説とはこういう視点をいうのだ、とわからせてくれる。事件の参考と言うよりは、事件を見るものの観点をリフレッシュ)

まあ、こんなところでしょうか。

NHKのニュースでの若松監督のこの映画の、映像。永田役らしき女性が、やけにかっこよく勇ましく映っていて、いいのかなあ~と、片腹痛い思いでした。やっぱり青春なのか、彼らにとっては?





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ワールドビジネスサテライト

2008-02-15 00:17:33 | Weblog
東京12チャンネルの夜11時の経済番組。

他のニュースがつまらないと見ている。

今日は、食品添加物についての特集。

卵の黄身が黄色よりオレンジ色に近いのは、一般的には、クチナシ色素だか天然の

色素を飼料に加えて養鶏に食べさせているため、赤くなるだけで、栄養価は黄色い

黄身と変わらないとか。

(きっと、昔のには自然に産んで、栄養の強いのが濃い色の黄身になったのではな

いかと、勝手に思い込んでいるが)

完全にダマされていた。黄身の色が濃いと、美味しそうだと、栄養価高そうだと、

誤解していた。

時々役にたつ(?)経済番組ではある。

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映画「バレエ・リュス」

2008-02-11 00:18:29 | Weblog
映画館、にまず驚いた。

簡素。コンクリート打ちっぱなし。壁に部分的に西洋風の絵がグー。

狭い空間。昔のアングラの劇場顔負け。

客席数少なそう。支配人さんの丁寧なご挨拶に感心。

「バレエ・リュス」とあり、勘違いしていたが、ニジンスキー、ディアギレフ時代

ではなく、その後のバレエリュス・モンテカルロの時代の話だった。

映画の中でもっとも優れていたのは、「音楽」だったが、映画「アマデウス」の音

楽の人だとかで、これは当たり前。

期待していったが、期待ほどではなく、「微笑ましい」クラスの内容だった。

歳を取ったダンサーたちが、皆笑顔でかわいらしい。

特に男性ダンサーが高齢なのにアスレチックでハードな運動をしていて、ひたすら

感心。

やっぱり、この時代より、ニジンスキー、ディアギレフの時代の方が見たかった。

でも、老人ダンサーたちの明るさには和んだ。みな楽天的で、この映画のそういう

ところは素敵だった。

バランシンものとしては、NHKで以前放映されたものの方が、よほど優れていると

思う。リファールや、日本であまり知られていないこの時代のバレリーナ、何人か

の紹介としてはよくできていた。

また、バレエ団の栄枯盛衰の流れがよくわかって感慨深かった。

老人のダンサーが多く写っているが、若い頃は美男美女だったんだろうな~と想像

した。その映像のダンスシーンの長いものがないので、それが伝わりづらかった。

昔のバレエ映画「赤い靴」はこのドキュメンタリーに比べても、映画としてつくず

く良くできていると思った。バレエはブームなのかもしれないが、ものは、昔の方

が良かったんじゃないかと思う。バレエ映画もしかり。


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バレエチケット

2008-02-02 15:51:30 | Weblog
世界の大バレエ団の公演がいくつか予定されていて、何をどう買うか、或いは買わないか、迷う日々が続く。

英国ロイヤルバレエ団、来日公演チケットは、あっけなく簡単に希望の席が取れた。人気ないんだろ~か、と考えてしまう。

パリ・オペラ座、プレルカージュ「ル・パルク」は、純クラじゃないのに、S席25000円で、法外に高い。切ることにした。

アメリカンバレエシアターと、ボリショイバレエ来日公演は、主催者同じなのに、なぜか一般前売り開始が2月17日で一緒。これは、買う側からすると買いづらい。

2月の「マラーホフの贈り物」公演は、演目変更。
でもロビンス作「牧神の午後」が目当てで買ったので、自分はいいんだけど。
やっぱり膝の怪我って大変なのね。

チケットを買った分、もうすぐ公演があることを忘れていた。



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