プリマダムでちょっとだけバレエに見栄えがした(ちょっとだけね)高岡早紀が出ていてなんとなく見ちゃったつまらないテレビドラマ「愛の流刑地」。
ふつうなら黙殺するのが応分の通りすがりの駄作にすぎないが、以前バレエ話の中でちょっち書いた通り、セックスのことは大事だと思うので、ああいうおバカな作品が「愚作は黙殺」の空気の中で、一部の勘違いな人々が愚にもつかない考えを信じたりしたら気の毒な気もしたので、考えるヒントを2.3書く気になった。
里中満智子の漫画「天上の虹」の途中に、”愛することにも才能ってあるんじゃないか”と言う皇子が出てくる。偉大な父を超えられない悲劇の皇子の悲しい台詞だ。この話はこの話で、考えさせられるなかなかいい話なのだが、この政治にも敗北する皇子は愛にも敗北し、愛した美女は別の男性を愛したまま彼に嫁いで来る。
悲しくて可愛そうな話だが、実際、愛にもセックスにも、才能というのは、確かにあると思う。愛することに恵まれた資質を持って生まれてくる人はいる。官能性においても、生まれついての個人差は、幾つかの別の意味で厳然と存在する。
「愛の流刑地」の作者は、その厳然たる事実をずっと知らずに人生を送れる、きっとおめでたい人なのだ。それはそれで(自分が他の男より劣っているかもしれないとずっと気づかずにいられる)幸せなことかもしれないと思うけれど。
現実問題として、男性の中で、女を愛することに、恵まれた才能を持って生まれてきてる人たちはいる。
愛の流刑地の主人公の男の独善性より、「天上の虹」の悲劇の皇子の方が「無知の知」にも似た面があって、つまり自分は愛することがあんまりうまくないんじゃないかと自覚し悩むとこが魅力がある。悩んだ代償に、愛した女に自分なりの愛し方を示して自決してゆく最後は、泣けてくるようないい男になっていたりする。
「愛の流刑地」の方は、とにかくお互い子持ちなのに子供のことをあんまし考えてなかったり、人として問題外なのだが。
まあ、じっさいのセックスとかけ離れてつくり話的な話で、低視聴率も当然という感じ。
テレビでドキュメンタリーで、元やくざの親分が、ヤク中になり、その地位を失い全て失って、自殺を図った時、「もう一回ヤクをやっていい思いがしたいと思って死ねなかった」と告白していた。
人ってそんなもんだと思う。
普通のまともな状態の人なら、例えば大人の女性が官能性に溺れれば、死にたいどころか、もう一回いい思いがしたい、と思って、生きたいと思う方が一般的だ。
セックスとは全然別の、何か人生で巧くいってない要素があって「死にたい」というならわかるけど。
男のほうは、魅力のない男の典型のようだった。セックスが下手なんだよね。
娘がしらけるようなことを言うし。
セックスの才能には色々あるけど、もちろん精力盛んで、このひよわな中年男より元気一杯という才もあるけど、女性と、官能性を共有できる、という才もある。
「愛の流刑地」の主人公には、この手の才がないのは明白で、セックスして醒める男になんか、魅力があるはずもない。
寝たくない男、のつまらない物語。もてたい男性諸兄は間違っても参考にしないように、と思ってしまうような目も当てられない内容だった。
この男優さんって、昔清純派の女優さんと、メンタルな面の強い恋愛の話をやった時はそれなりによかったけど。台本がよかったのかもしれない。色気の強い役は荷が重いのは事実だ。
役者は上体はだける役は、それなりの容姿の人がやった方がいいと思う。
ついでながら、別のお笑いドラマに出ていた喜多嶋舞さんという女優さん、ベッドシーンの芝居がよかった。品もあって官能的で。ほんとっぽいとこがいい。女の喜びを知ってる感じ。高岡早紀は笑いをとりにきてるのかと思うくらい、ベッドシーンの芝居が大根で、いっそお笑いにすればよかった。官能の喜びもへったくれもない、うそっぽいお芝居だが、昔の黒木瞳はもっと酷かった気がする。
バレエがちょっとよかった高岡さんは、やっぱりプリマダムの方が良かった。(もちろん神田うのの方が、もっとバレリーナ役栄えがしたけど。プリマダムはおばさん黒木瞳なんかやめて神田うの主役でバレエドラマにしてほしかった)
一時の逢瀬すら、女と官能の悦びをうまく分かつことのできない未熟な男性が、まして「愛」ということ自体が不遜だ。いったい何を愛したと言うのか。
本当の愛とは、相手の全てをひっくるめて、愛していくことに他ならない。相手に家庭があれば、そういうことを含めて、もっと色々考えるもんだと思うけど。
ドラマの主人公たち、男も女もいい加減で、大した愛などないから、あんな台詞がいえるのだと思う。
ヒロインの夫も、これといって落ち度があるように見えないだけに気の毒だった。ヒロインは人生を手抜きして、いい男とつきあったことがないからあの年まで官能の悦びを知らなかっただけなんではないかと思うとかなり鼻白む。
ひとりよがりのご都合主義が、なんだかいかにも「作家が書きました」っぽい作品ではあった。
本当に人を狂わせる愛のドラマも、官能に溺れる世界も、もっと別のところにあるのだ。
セックスが下手な男の話。それが、「愛の流刑地」の感想である。
池田理代子の少女マンガ「オルフェウスの窓」に、革命家が貴族の奥さんとの恋に溺れ、ロシアの雪深い国境ぎわで、最後はピストル自殺、心中する話があったけど、あれこそ「愛の流刑地」みたいだった。
セックスシーンはないんだけど、若く健康な二人が、そういう世界に溺れたことは想像に難くなく、熱い血を持った男性が、わがままな美女のために仲間を裏切るはめになり、地の果てまで追い詰められて、でも性格の悪いこの女性への愛も捨てきれない、そんな想いは、実によくわかるのでした。
もう一つ挙げると、女優・荻野目慶子さんの手記で、自殺した映画監督氏との恋の顛末など読んでいると、実際の生は、作り話の「愛の流刑地」とは正反対の世界であることがよくわかる。
理想に生きながら映画製作の借金に追い詰められた監督氏が死を選ぼうとした時、連れていた女優さんを抱いて、一緒に死のうと思ったけど、抱いてみると、彼女の「生きたい!死にたくない!」という心の声が、監督氏には聞こえたのだと思う。
本当のセックスとはそういうものだ。それで、かれは恋人の女優さんを連れず、後日一人で死んだ。
作り事でない、実際の愛と死とは、えてしてそういうものだと思う。