今年の4月8日島根の浄圓寺で
開基300年法要を勤める。
天真寺ではこの法要に団体参拝を
計画思案中
4月7日羽田→出雲
8日は午後から法要
9日出雲→羽田に帰着予定。
問題は観光で何処へ行くかだ?
足立美術館・石見銀山・妙好人…
どんな団参になるやら…楽しみ。
今年の4月8日島根の浄圓寺で
開基300年法要を勤める。
天真寺ではこの法要に団体参拝を
計画思案中
4月7日羽田→出雲
8日は午後から法要
9日出雲→羽田に帰着予定。
問題は観光で何処へ行くかだ?
足立美術館・石見銀山・妙好人…
どんな団参になるやら…楽しみ。
~こどもの詩~
「ごめんね」
けんかをしちゃった
ごめんねっていいたいのに
いえない
こころのもやもやが
ふくらんでくる
ごめんね やっと いえた
そしたら こころのもやもやが
ぱっときえた
(茨城県常陸大宮市 山方南小 2年 高村稜花)
「ごめんなさい」
「私が悪うございました」
「いたらない私で…」
そんな私が相手より下位、
さげすまれる位置に自分をもっていくのは難しいですね。
人は相手より同等もしくは上位にしたいものだ
これも我が煩悩!
【正像末和讃】
「是非しらず邪正もわかぬ このみなり
小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」
昨日は今年の初泳ぎして来ました
と、言っても2~3ヶ月ぶりだ
いやぁ~気持ちいい~
腹回りも締まった気がするし
腰の具合も良いみたい
良いことずくめだけど
なかなか行けないんですよね
今年はズボンのウエスト78㎝→73㎝目標
夏は緑に覆われていた木立も
冬は落葉し、丸裸
冬は木の葉で見えなかった向こうの景色がよく見える.
木の葉は私の煩悩みたいだなぁ…
木の葉という煩悩を身にまといっているから
向こう側の世界があいりのまま見えないんだよね。
葉っぱを落とせばいいんだけど
この葉っぱが捨てられないんだよね。
【一念多念文意】
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、
臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、…
正月に仙台の二男が孫を連れて来訪してくれた。
その折、何やら大事そうに日本酒を持参
銘柄は「獺祭(だっさい)磨き二割三分 遠心分離」
何でも戴いたお酒とか
それをわざわざ持参してくれたのだ
有難いやら申し訳ないやら…
ネットで調べると破格の値段でありましたが
確かに美味しい
有難い思い出になりました。
「一円玉の旅がらす」というい歌が流れていたのが
1990年…もう25年も前のことなんですね。
この歌を持ち歌にしていた人もいたけど…(笑)
消費税が5%になったり、8%になったりとすると
一円切手も大活躍。
しかし、うちなんか切手まとめ買いするから
手間が大変
80円切手に2円切手を貼ったり
50円切手に2円切手を貼ったりと…
全国規模で考えたらどれだけの手間をかけているんだろう。
と考えたりする。
キリのいい所で調整して欲しいもんだ。
新聞を見ていたら祝儀・不祝儀のことが載っていた。
ぎょ!そんなことまで言うのという感じ
これが暮らしのマナーだって
逆さ屏風でも、亡くなると枕元の屏風を逆さにしたり
まさに生きている人の方が
とらわれの身ですね。
そりゃ死にたくはないけど
何から何まで生前と逆のことをする。
死は穢れでもないし、
いつの日か人生には終わりがあるだろうけど
ありのまま生きたいですね。
光にあたらないと
病気になっちゃうよ
心にも光が
あたらないと
独りよがりという
病気になっちゃうよ
(恵)
(教行信証・信巻)
仏の光明はこれ智慧の相なり。
この光明、十方世界を照らすに障礙あることなし。
よく十方衆生の無明の黒闇を除く。
新聞で知ることだが
●10歳前後の女児を人間爆弾となりテロ行為をする。
●ある国の反政府軍が使った少年兵は7千人にのぼり、兵士の半分を占めていた。
●麻薬漬けにされた少年兵は、司令官の命令のままに殺害や略奪を繰り返す。
●世界中では12万人以上の少女が誘拐などにより兵士に仕立てられている。
●昨年4月にボコ・ハラムによって女子校から拉致された200人以上の少女たちは、今だ解放されず!
まさに末法の世と思い知らされます。
【教行信証】
〈わが末法の時のなかに、億々の衆生、
行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。
当今は末法なり。この五濁悪世には、
ただ浄土の一門ありて、通入すべき路なり」と。
法然聖人 伝記~つねに仰せられる御詞~
「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土へまいりなん。
とてもかくてもこの身には、思いわづらふことぞなきと、
思いねれば死生ともにわづらいなし」
何年生きられるか分からないけど、生きられるならば、
念仏の功が積もっていくから有難いことである。
これは念仏して功徳がポイントのように貯まりる。
と、言っているのではなく
お念仏によって少しづつ心が育てられる。と言われるのです。
ご恩尊や南無阿弥陀仏